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雲井龍雄のこと [雲井龍雄]

激動の世の中を宮島誠一郎と共に生きながら、27歳で新政府によって斬首された雲井龍雄に関する記事(正気煥発板)を転載しておきます。

(転載はじめ)

●2005/03/29(Tue)

このところ私は、「明治以来の日本人の洗脳」に関心が移っています。雲井龍雄という人との出会いがきっかけでした。昨年暮、雲井龍雄の生地米沢市で、岡田幹彦先生に雲井龍雄について語っていただきました。地元紙に書いた報告記事を載せておきます。

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岡田幹彦先生講演会
 「詩魂、甦れ!―雲井龍雄伝」

 このほど米沢市の置賜総合文化センターで、米沢が生んだ幕末の志士雲井龍雄についての講演会が百名を越す聴衆を集めて開催された。主催したのは南陽市宮内の「置賜歴史を語る会」(会長斉藤喜一氏)。
「置賜歴史を語る会」は三年前に結成され、在野の歴史研究家岡田幹彦氏を招き、これまで上杉鷹山公、西郷隆盛についての講演会を南陽市宮内を会場に開催してきた。このたびの講演会は、二年前特に岡田氏に願って実現したもの。演題は「詩魂、甦れ!―雲井龍雄伝」
 主催事務局によると、今回雲井龍雄を取り上げた意図を「アメリカに付くが得策との判断からのなし崩し的自衛隊イラク派遣に象徴されるような、大義も何もない経済最優先の現代日本の淵源を探ると明治維新にたどりつく。近代日本の出発点である明治維新について再点検する時期に来ている。『義』を貫いたがゆえに明治政府によってさらし首にされた雲井龍雄を取り上げることで、明治維新が切り捨ててしまった大切なものに気づきたい。」と語る。

 

 


 講演は、岡田氏が用意した詳細なレジュメをもとに雲井龍雄の生涯について語られた。
龍雄は弘化元年(一八四四)米沢藩士中島摠右衛門の次男として袋町(現松が岬二丁目)に生れ、十八歳のとき小島家の養子となって小島龍三郎と名乗った。雲井龍雄の名は二十五歳頃からのもの。   
 生来正直で親思い、飾り気なく負けず嫌いでいつも群童を率いていた。眠くなると棍棒で頭を叩きながら勉強に励んだという。岡田氏は龍雄を、吉田松陰と高杉晋作と足して二で割ったような人物と評する。藩校興譲館の蔵書三千冊を読破したと伝えられるが、吉田松陰の生涯読書は六百冊と言われていることから見ても尋常ではない。ことに知行合一を説く陽明学に惹かれた。
 慶応元年(一八六五)江戸に出て安井息軒の三計塾に入門するやたちまち頭角を現し、塾頭となる。全国から優秀な人材が集まった三計塾での交友が生涯の行動の基盤となった。
 明治維新最大の鍵は、反目しあっていた薩長がなぜ同盟するに至ったかにある。通説として坂本竜馬が仲介したことになっているが、近年はその背景にグラバーら兵器導入を企図する外国勢力の暗躍があったことが指摘されるようになってきた。龍雄はその中にあって、吉田松陰以来の長州の良心に薩摩の不義を訴え、薩長離間を図ろうとした。長州軍先鋒を務める三計塾同門の親友時山直八宛てに送った、薩長西軍に抗する奥羽越列藩同盟の大義表明ともいえる龍雄の「討薩檄」は古今檄文中の白眉とされる。
「薩賊、多年譎詐万端、上は天幕を暴蔑し、下は列侯を欺罔し、内は百姓の怨嗟を致し、外は万国の笑侮を取る。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。・・・・・是に於て、敢て成敗利鈍を問わず、奮って此義挙を唱う。」
 しかし龍雄の意図に反して米沢藩は同盟を離脱、その後まもなく他の奥羽越列藩もことごとく降伏、奥羽戦争は終結することになる。
 龍雄は戦争責任者としてしばらく米沢で謹慎の身となるが、その人望と影響力の大きさから新政府の集議院寄宿生(議員)に登用される。しかし志に反する場に留まることを潔しとせず憤然辞職。
 その後新政府に不満を持ちかつ生活にも困窮するかつての同志、旧盟の者のための「帰順部局点検所」を設置。その下には八千人が集まったという。しかしこのことが反政府挙兵の企みと解されるところとなり、米沢へ護送蟄居。三ヵ月後には逮捕となって東京への檻送となる。そして明治三年十二月二十八日、明治政府によって斬首、首は小塚原に晒された。二十七歳だった。龍雄への厳しい処断には不満層に対する見せしめの意味もあったのである。
 講演終了後、講師と参加者間の意見交換が行われた。その中で、米沢には雲井龍雄をタブー視する風潮がいまだにあるのではとの指摘がなされた。しかしその指摘はむしろ日本全体の風潮と言った方が当たっているのかもしれない。今後雲井龍雄再評価から明治維新見直しにつなげることができるかどうか、明治以降「白河以北一山百文」と言われてきた東北復権への期待のかかる講演会となった。

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なお、藤沢周平さんが雲井龍雄について「雲奔る」という小説を書いておられます。文春文庫です。

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●2005年03月31日

雲井龍雄は弘化元年(1844)の生まれですので、松陰が米沢に立ち寄った嘉永5年(1852)はまだ8歳でした。いま気づいたのですが、松陰が米沢を訪れた3月25日はちょうど龍雄の誕生日です。http://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/u-zen/028/p_kazeni.html
(ついでに、http://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/u-zen/030/p_kazeni.htmlに龍雄と永倉新八との交友が記されています。)
龍雄がはじめて江戸に上ったのは元治2年(1865)、松陰はこの世には在りませんでした(安政6年1859刑死)。

薩摩を敵視した龍雄でしたが、長州人脈には最後まで望みをつないでいた龍雄でした。薩長離間を意図した「討薩檄」は時山直八(松陰門下 天保9年1838-明治元年1868)にも宛てられたものであり(そのとき直八すでに戦死)、広沢真臣(天保4年1833-明治4年1871)には、刑死に至るも最後まで信頼を寄せていたのではないかと思われます。

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●2005年04月03日 21時24分
投稿者 : めい
タイトル : 雲井龍雄という人

松五郎様

>雲井龍雄のこと初めて知りました。神風連、萩、佐賀、秋月、西南の役などの動きは高等学校までには教えますが、雲井龍雄は教えませんね。おっしゃるようにやっぱりタブーなんでしょうか。いわゆる「正史」の横行によって隠蔽されていた事実が、公平に陽を浴びるようになるということが尋常な世の中で、今、時の流れはその方向に向いつつあるのではないでしょうか。

だいぶ遅れたレスになってしまいましたが、雲井龍雄にご関心を持っていただきありがとうございます。

私の周囲、つくる会の運動を担ってきた仲間たちのほとんどがイラク戦争への自衛隊派遣に違和感を抱かない状況が、私には不可解でなりませんでした。そのとき頭に浮かんでいたのが『アメリカの鏡・日本』(ヘレン ミアーズ著 メディアファクトリー 平成7年)という本でした。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4889913505/qid=1112526073/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/249-7066238-9207563#product-details
「近代日本は西洋列強がつくり出した鏡であり、そこに映っているのは西洋自身の姿なのだ」ということを論証し、その結果マッカーサーによって出版停止になった本です。

われわれの運動は、東京裁判史観がまちがっているということは射程に入ってはいても、明治維新に始まる日本の近代がおかしいということは問題にはなってはいなかった。しかし、近代日本が西洋列強に伍するために日本人が切り捨ててきたものがあったはず。それはは一体なんだったのか・・・。そのことが頭を占めるようになった中で出会ったのが雲井龍雄という郷土の人でした。私の母親が米沢生まれで龍雄の生家もすぐ近く、身近かな人であるはずなのに、彼がどういう人だったのかそれまでいまいち掴めないままでいたのです。雲井龍雄といえば出てくる「討薩檄」についても、「西郷さんはすばらしい偉人」という先入観が邪魔して理解の外にあったようです。藤沢周平の「雲奔る―小説・雲井龍雄」(文春文庫)等も読んではいたのですが、まだぴったり自分のなかに入ってはきていませんでした。私にとっての雲井龍雄との出会いは、村上一郎氏の「雲井龍雄の詩魂と反骨」(『ドキュメント日本人 3 反逆者』村上一郎 他、学芸書林、昭和43年 所収)という文章によってでした。

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 雲井龍雄は、漢詩というものがもう日本の青少年教育から追放されてしまった今日の若者たちには、縁遠い人となっている。しかし、それが世の中の進歩、教育の発展であるとはわたしにはまったく考えられない。わたしは心から、この忘却、この抹殺を、雲井龍雄の渺たる一身をこの世から消し去った明治社会の酷薄以上に罪ふかいものと考える。これは日本の万世に伝うべき詩心を、残忍に葬ってしまう教育の頽廃、文化の堕落の一つのあらわれであると信ずるのだ。雲井龍雄は、藤田東湖や頼山陽とともに、今日日本の近代詩史の序曲の上に復活せねばならぬ大事な一人である。わたしはこれらの人によって日本の詩の近代は用意され開始されたのだと信じている。

 詩の詩たるゆえんは、期するところのない魂魄の躍動にある。その意味において、当今功利の文人が、ためにするところある文学のことごとくは、雲井龍雄の詩心の前に、ほとんど顔色ない。そしてその詩心は、反逆不屈の一生と一体である。ここに日本東国の志硬い青年のおぐらくも勁い情念の一典型が塑像のごとく立っている観がある。その沈冥鬱屈の情を、今日の青少年は知らねばならぬ。

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注目しておいてよいのは、龍雄が「討薩檄」で朝廷の「初政」の汚れることを慨嘆してはいても、けっして徳川封建の世に帰そうというような思想は抱いていない点である。世界に対しても、列国の「笑侮」をなげき、薩の尊壊派が欺瞞的転向をとげて英仏に「諂媚」しているありさまをいきどおっているのであって、いたずらに撃壊の挙に出ようとしているのではない。龍雄の生涯の思想をもって、或いはまた東北列藩の思想をもって、いたずらに封建反動の徒と目して来た世の「進歩的」歴史家は一考あって然るべきではあるまいか。

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 明治二年六月、龍雄は許されて藩校の教師に挙げられたが、いくばくもなく辞職して上京し、政府が新設した集議院に迎えられ、議員(正式名称は寄宿生)となる。かつての貢士の制度が変更され、太政官の下す議案を公議するところである。時の長官は公卿の大原重徳であるが、権判官にかつての友人、稲津渉と三好退蔵がおり、龍雄を推挙したのであった。同僚議員には森有礼、丸山作楽、加藤弘之、津田信道ら、後にそれぞれ明治初期を代表する名士がおり、もし龍雄が、権門と妥協できる性格であったならば、これを機にそれら将来の名士・高官の列に入ることも可能であったかもしれない。が、むろんそれはできぬことであった。居ることわずかに二カ月、龍雄をかつての叛賊として讒する者もあって、憤然辞職する。「集議院の障壁に題す」という有名な詩が成ったのはこの時であり、今日この一篇をわたしらが有していることは、彼がどんな名士に成り上るよりもうれしいことではあるまいか。
        
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 ついに七月十九日、大久保利通は、竜雄処断の決を下した。翌日、米沢藩は龍雄檻送の命を受け、龍雄は同じく逮捕された在米沢の同志ともども、厳重警戒のもとに東京に送られ、八月十四日東京米沢藩邸に着し、十六日小伝馬町の牢に幽せられた。途中、脱走をすすめる者もあり、平井襄之助もまた再挙をすすめたが、すでに肺患にかかっていた龍雄は自らの命運定まったことを知って好意を謝するのみであった。「わが命はわれ自ら知る、復た蒼旻に訴えんや。」あの、透谷が愛誦した「息軒先生に呈す」の結句である。

 一件に連坐するもの実に七十余名、龍雄の梟首の罪を筆頭に斬刑十三名(他に斬刑のところ牢死者二名、その他生存なら斬に当る者五名、計二十名)に及ぶ大獄であり、その断罪の根拠とする法律のないのに苦しんだ政府は、ついにいまだ公布していない仮刑律の謀反・大逆の罪を当てるという無理なものであった。いまだ三権分立以前のこととて、大久保以下政権の座にあった者の恣意が加わったことはいうまでもない。判決文にも自ずと現れているが「京摂以西騒然たる趣」に見合い、天下不平の徒の見せしめとした跡また歴然たるものがある。

 処刑は判決後二日の十二月二十八日。竜雄絶命詩に日く。

死不畏死 死して死を畏れず
生不偸生 生きて生を偸まず
男児大節 男児の大節
光與日争 光日と争う
道之苟直 道の苟直(正しさ)
不憚鼎烹 鼎烹を憚らず
眇然一身 眇然たる一身
万里長城 万里の長城

わたしは古今東西、最高の絶命詩の一つと信じている。斬首に当った八代目浅右衛門の談に、神色自若、まことに敬服に耐えなかったというのも誇張でなかろう。ちなみに、事件に関り深かった広沢参議は、竜雄の死後数日を出ない翌年正月、九段の新邸に妾と同床中、何者とも知れぬ者に斬殺され、今日なおその犯人は不明である。龍雄の一味が、広沢の陰謀を密訴したことを疑い報復したのではないかと言われ、平井嚢之助なども厳重に追求されたが、ついに何の根拠も挙らなかった。おそらく政敵木戸孝允が腹心の三浦梧棲らと計って陪殺したのであろうと見るのが、今日有力な説である。
(村上一郎『雲井龍雄の詩魂と反骨』)

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長々と引用してしまったついでに、「討薩檄」と「集議院の障壁に題す」も載せておきます。
お時間のある方はぜひお目通し下さい。

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 討薩檄

○初め、薩賊の幕府と相軋るや、頻に外国と和親開市するを以て其罪とし、己は専ら尊王攘夷の説を主張し、遂に之を仮て天眷を僥倖す。天幕の間、之が為に紛紜内訌、列藩動揺、兵乱相踵ぐ。然るに己れ朝政を専断するを得るに及んで、翻然局を変じ、百方外国に諂媚し、遂に英仏の公使をして紫宸に参朝せしむるに至る。先日は公使の江戸に入るを譏て幕府の大罪とし、今日は公使の禁闕に上るを悦んで盛典とす。何ぞ夫れ、前後相反するや。是に因りて、之を観る。其の十有余年、尊王攘夷を主張せし衷情は、唯幕府を傾けて、邪謀を済さんと欲するに在ること昭々知るべし。薩賊、多年譎詐万端、上は天幕を暴蔑し、下は列侯を欺罔し、内は百姓の怨嗟を致し、外は万国の笑侮を取る。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。

○皇朝陵夷極まると雖も、其制度典賞、斐然として是備はる。古今の沿革ありと雖も、其損益する処知るべきなり。然るを、薩賊専権以来、漫に大活眼、大活法と号して、列聖の徽猷嘉謨を任意廃絶し、朝変夕革、遂に皇国の制度文章をして、蕩然地を掃ふに至らしむ。其罪何ぞ問わざるを得んや。

○薩賊、擅に摂家華族を擯斥し、皇子公卿を奴僕視し、猥に諸州群不逞の徒、己阿附する者を抜いて、是をして青を紆ひ、紫を施かしむ、綱紀錯乱、下凌ぎ上替る今日より甚きはなし、其罪何ぞ問はざるを得んや。

○伏水の事、元暗昧、私斗と公戦と孰れが直、孰れが曲とを弁ず可らず、苟も王の師を興さんと欲せば、須らく天下と共に其公論を定め、罪案已に決して然る後徐に之を討すべし。然るを倉卒の際、俄に錦旗を動かし、遂に幕府を朝敵に陥れ、列藩を劫迫して征東の兵を調発す。是王命を矯めて私怨を報ずる所以の姦謀なり。其罪何ぞ問はざるを得んや。

○薩賊の兵東下以来、過ぐる所の地、侵掠せざることなく、見る所の財、剽竊せることなく、或は人の鶏牛を攘み、或は人の婦女を淫し、発掘殺戮残酷極まる。其の醜穢、狗鼠も其の余を食わず。猶且靦然として官軍の名号を仮り、太政官の規則を称す。是れ、今上陛下をして桀紂の名を負はしむる也。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。

○井伊、藤堂、榊原、本多等は徳川氏の勲臣なり。臣をして其君を伐しむ。尾張、越前は徳川の親族なり。族をして其宗を伐しむ。因州は前内府の兄なり。兄をして其の弟を伐しむ。備前は前内府の弟なり。弟をして其の兄を伐しむ。小笠原佐波守は壱岐守の父なり。父をして其の子を伐しむ。猶且つ、強いて名義を飾りて日く、普天の下、王土に非ざる莫く、率土の浜、王臣に非ざる莫しと。嗚呼、薩賊。五倫を滅し、三綱を破り、今上陛下の初政をして、保平(保元・平治の乱)の板蕩を超へしむ。其の罪何ぞ問わざるを得んや。

 右之諸件に因って之を観れば、薩賊の所為、幼帝を刧制して其の邪を済し、以て天下を欺くは奔・操・卓・懿(何れも支那の叛臣不義の徒)に勝り、貪残厭くこと無し。至る所残暴を極むるは、黄巾・赤眉(何れも支那の暴徒)に過ぎ、天倫を破壊し旧章を滅絶するは、秦政・宋偃を超ゆ。我が列藩の之を坐視するに忍びず。再三再四京師に上奏して、万民愁苦、列藩誣冤せるの状を曲陳すと雖も、雲霧擁蔽、遂に天闕に達するに由なし。若し、唾手以て之を誅鋤せずんば、天下何に因ってか、再び青天白日を見ることを得んや。是に於て、敢て成敗利鈍を問わず、奮って此義挙を唱う。凡そ、四方の諸藩、貫日の忠、回天の誠を同じうする者あらば、庶幾くは、我が列藩の逮ばざるを助け、皇国の為に共に誓って此の賊を屠り、以て既に滅するの五倫を興し、既に歝るるの三綱を振ひ、上は汚朝を一洗し、下は頽俗を一新し、内は百姓の塗炭を救ひ、外は万国の笑侮を絶ち、以て列聖在天の霊を慰め奉るべし。若し尚、賊の篭絡の中に在て、名分大義を弁ずる能わず、或は首鼠の両端を抱き、或は助姦党邪の徒あるに於ては、軍に定律あり、敢て赦さず、凡そ天下の諸藩、庶幾は、臨時勇断する処を知るべし。

慶応四年戊辰夏六月
                奥羽越同盟軍総督府 

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  集議院の障壁に題す  

天門之窄窄於甕 天門の窄きは甕よりも窄し
不容射鈎一管仲 容れず 射鈎の一管仲
蹭蹬無恙旧麟騏 蹭蹬、恙なく 旧麟騏
生還江湖真一夢 生きて 江湖に還る まことに一夢
自笑豪気猶未摧 自笑 豪気 なおいまだ摧けず
毎経一艱艱倍来 一艱を経るごとに 一倍して来る
睥睨蜻蜓州首尾 睥睨す 蜻蜓州の首尾
将向何処議我才 まさに 何処に向ってか わが才を試みん
溝壑平生決此志 溝壑 平生 この志を決す
道窮命乖何足異 道窮まり 命乖くも 何ぞ異しむに足りんや
唯須痛飲酔自寛 ただすべからく痛飲 酔うて自らを寛うすべし 
埋骨之山到処翠 骨を埋むるの山は いたる処翠なり

〈大意〉新政府の狭量なことは、つぼまった甕の口より狭い。かつて立場を異にして争った、斉の管仲のようなじぶんを、いささかも容認することができないのだ。しかし、むかし麒麟のごとく天下を駆けめぐつたわたしは、これしきのことでよろめいたりはしない。だいたい生きてこの世に戻ってきたことさえ、夢のようなのだ。それにしても、わたしの豪気はまだくじけていないことよ。うれしいことではないか。艱難のごとに、勇気が増してくる。さて、日本のどこで、わたしの才を試そうか。いずれの地に屍を曝そうとも構わない。道が窮まり不運に遇おうとも、いまさら驚くことではない。ただ痛飲し、心をゆったりと持とう。わたしは遠くの山にむかって登りつづけるだろう。そして、山で死ぬ。その骨を埋める山は、きっと何処でもみどりだろう。
(松本健一『遠山みどり伝―革命的ロマン主義者・雲井龍雄』)

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そんなわけで、ここのところすっかり雲井龍雄にはまりこんでいます。そしてそこから、わが米沢藩も当事者であった戊辰戦争へと関心が及んでいるところです。

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●2005年04月06日 00時32分

雲井龍雄について知るほどに辛いのは、彼が決して明治政府に楯突いたがゆえに処せられたのではなく、龍雄を慕って集まってくる不平不満の徒輩を、なんとかまっとうな職に就かせるべく必死の思いで新政府にかけあったにもかかわらず、その努力がかえって仇となって新政府に謀殺されたと思われることなのです。「いったいなぜ雲井龍雄に惹かれるのか」について、20日ほど前、ある掲示板に書いた文章を転載してみます。

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ここ2ヶ月ほど、ネットで知り合った雲井ファンの女性とメールのやりとりをしています。彼女がつぎのように書いてきました。

>西郷や大久保といった薩長の主たる者達にとって戊辰の戦争で最も手に入れた
>かったものが「正義」だったのではないでしょうか。
>彼らにとって「正義」、それは誰にも文句が言えないという事。
>そして彼らのまやかしの「正義」を早くから見抜いていたのが雲井さんを初め、
>三計塾の方達だったと思います。

安井一門の人たちがいちばん拠り所にしていたのはなんだったのか。安井息軒の肖像画から伝わってくる彼の人柄を思うと、雲井龍雄が「この人にならとことんついていってもいい」と思ったであろうその思いがよくわかる気がするのです。その安井息軒という人を介してかもし出されていた共感の世界、それこそがかけがえのない、いわば「真実」というにふさわしいものだったのではなかろうか。それを完膚なきまでにずたずたにしてしまったのが、戊辰の激動、そしてそれ以後の明治政府確立のプロセスだった。雲井龍雄にひかれるのは、決して「正義漢」としての彼というようなものではなく、安井息軒という師を通してつくられていた共感の体系の中でとことんそれを信じて生き貫いていたところにあるように思えてくるようになっています。とすると、明治政府がふみにじったのはそこのところということになりそうです。日本の近代はそうして出発したのです。そして今の日本です。

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雲井龍雄という人物を中心にできあがっていた共感の世界、彼が処刑される年、弱冠27歳の彼の周りにはなぜか1万人にも及ぶ人たちが集まっていたとも言われます。龍雄の意図がどうあれ、新政府にとっては脅威であったにはちがいない。しかしだからといって、「雲井竜雄について云えば、彼は、その詩人的直観力でもって初期明治政権の無批判な欧米文明追随政策と、強権にもとづく武断政策等々の『否』なることを批判し、『道義立国』を主張してこのくにの近代国家としてのスタートと同時に斃された。それは十九世紀の半ばに欧米列強の強請によって門戸を開かねばならなかった多忙な明治政権にとって、静かに耳を傾ける余裕などなかった」(判沢弘『宮島誠一郎と雲井龍雄』)とはどうしても片付けることができない重さをもって、雲井龍雄という人物は迫ってくるのです。おそらく今にもつながる切実な問題をわれわれに突きつけているせいなのかもしれません。うまく言葉を紡ぎ出せないもどかしさを感じながら書いてみたところです。言わんとするところ、お汲みとりいただければありがたいです。

(転載おわり)


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コメント 7

森 國明

先日、米沢・常安寺の雲井龍雄の墓に参ってきました。小雨の中、傘をさして墓の周りを観察しておりましたら、住職夫人と思われますが、「寺の中に雲井に関係する書などがあるが、よかったらどうぞ」と声を掛けていただき拝見してきました。維新後の藩閥政治を先見の明をもって批判した雲井に関心を持っていましたので、さらなる自分なりの研究(?)を深めるきっかけとなりそうです。
by 森 國明 (2006-04-27 23:04) 

umino

初めまして。こちらのブログを読ませてもらいながら、去年、米沢を旅した事を思い出しています。
最近また雲井龍雄さんのご本を読み返しています。
今、高島真先生の「謀殺された志士・雲井龍雄 また蒼昊に訴えず」を読み返していて思うのですが
薩摩が主となって無理に築いた新しい政府は常に何かにおびえるような不安があったのでしょう。「謀略と武力で作った政府は謀略と武力で倒される・・・。」
そんな不安が付きまとっていたのではないでしょうか。それは自分達が実際に行い、一応、成功を収めてきたのですからね。
巧妙に密偵を使ってまで帰順部局を内部から崩そうとするやり方に新政府側の冷徹さを感じるとともに、彼らの焦りと恐れも感じられます。
by umino (2006-04-30 21:46) 

めい

レスがすっかりおそくなってしまいました。

森さんとここでお会いするとは思いませんでした。お久しぶりです。いつかまた置賜で龍雄復権のイベントをやりたいと思っています。そのときにはあらためてご協力お願いします。

ようこそuminoさん。
駐車規制の問題http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/20060427/20060427_058.shtmlにしろ、共謀罪の問題http://blog.livedoor.jp/monster_00/にしろ、人権擁護法案http://blog.livedoor.jp/no_gestapo/にしろ、その気になれば誰をでも罪にできる世の中が足元に迫ってきているような気がしてなりません。龍雄さんを葬った延長上がいまの日本です。しかし、「陰極まれば陽に転ず」ともいいます。先日毎年一度お会いする仙台青葉神社の宮司さん(伊達政宗の家臣片倉小十郎直系の御子孫です)が、「光が差してくるとこれまで隠れて見えなかったものが見えてくるものです。悪がはびこるように見えるのは世の中が明るくなりつつあるからです。」と言われたのを聞いて納得してきたところでした。
by めい (2006-05-07 21:26) 

めい

雲井龍雄について多く語っておられるうれしいブログを見つけました。
30代の方ですが、その志のありよう、たいへん刺激になります。
多くの龍雄の詩が紹介されています。

あつし@草莽 日記
http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/searchdiary?word=%2A%5B%B1%C0%B0%E6%CE%B6%CD%BA%5D

以下は「魂が潰されることを拒否するということ」からの転載です。
http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/20101219/1292732694

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これは私の主観も入っているけれど、日本の歴史上、もっとも悲劇的なのは、幕末の会津だと思う。

孝明天皇の勅命に忠実に、ひたすら愚直に義を守って誠実に生きていたら、いつの間にやら同盟国だったはずの薩摩に裏切られ、逆賊の身にさせられ、

それでも恭順をしようとしたのに、薩長に無理やり戦争に追い込まれ、一藩をあげて滅亡に追い込まれたその有り様は、

なんというか、キリストの受難というのがオーバーであるとしても、旧約聖書のヨブを彷彿とさせるものはあると思う。

落ち度のない義人の受難、としか言いようがないと思えるのである。

いろんな見方があって、志半ばで会津や新撰組に殺された尊皇攘夷の志士たちから見れば、会津は恨んでも余りある人々だったろうし、大局を知らず、時勢をあまりにも知らなかったというのは、それはそのとおりだろう。

だが、天皇の勅命に忠実に、そして薩会同盟にあくまで忠実だった会津が、逆賊の身にさせられ、いつの間にやら薩長同盟の敵にさせられ、恭順降伏しようとしたのに受け付けられず、殲滅させられた、というのは、「受難」としか言いようがないと思う。

そして、日本の大半は、会津の受難に見てみぬふりをしたのだと思う。

大半の藩は、薩長に味方した。

東北や北陸の諸藩だけは、一時期は奥羽越列藩同盟を結成して、会津に味方するように動いたけれど、長岡や南部や二本松を除けば、仙台や米沢などろくに戦いもせずに会津を見捨てている。

それに、闘った諸藩は、それぞれの事情であって、べつに会津への義侠心からでもなかったろう。

というわけで、なんというか、痛痒を感じなかったか、あるいは痛痒を感じながらも黙って見てみぬふりをしたか、そんな人々しか、幕末にはいないと思っていた。

「義を見てせざるは勇なきなり」

というのが武士道の精神だとしたら、大半の日本人は、その精神からは程遠かったのだと思う。

で、私が今年、一番ヒットしたというか、ホームランだったというか、こんな人間がいたのか~っと、感嘆したのは、雲井龍雄だった。

本来ならば、王政復古に尽力した経歴もあり、後藤象二郎や広沢真臣ら維新の顕官と深いパイプを持っていたし、要領よく生きれば十分に新政府でそれなりにおいしいポジションにつけたにもかかわらず、会津の受難を座視することを拒んで、奥羽列藩同盟に飛び込んで、薩摩と闘い、戊辰戦争が敗戦に終わったあとは、集議院において堂々と言論で薩長藩閥政治を批判し、没落した士族の救済に奔走した。

つまり、へらへらにやにやと、人の受難を他人事として傍観することを、断固として拒む生き方を貫いた。

そのために、でっちあげの陰謀事件で死刑にさせられたけれど、最後まで節義を屈することなく、堂々と従容として死に臨んだ。

こんな人間がいたんだ~っと、とても感動した。

で、そののこした詩も、すばらしいものばかり。

今もって、あんまり有名じゃないし、理解されることもあんまりないし、よくわからん人物ぐらいにしか扱われてないけれど、私は幕末で最も「義人」の名にふさわしい人だったのではないかと思う。

単なるロマンチストだと、あるいは、生き方が不器用な、幻想にのみ生きた人間と、そう思う人も多いかもしれないけれど、私は、この短い人生を、束の間うまく生きて、魂が潰れた人間よりは、たとえその人生では必ずしもうまく生きれず不器用であったとしても、魂が潰されることを断固として拒否した人間こそ、本当の義人や義士の名に値するし、千年ののちに語り継がれるべき人物と思う。
by めい (2013-10-15 05:14) 

めい

雲井龍雄が大河ドラマに取り上げられた「獅子の時代」についての記事を見つけました。

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獅子の時代 第22回 雲井龍雄襲撃
http://goodbye-taiga.seesaa.net/article/216516847.html

幕末、明治を描きながら、雲井龍雄というほとんど誰も知らないような人物をしっかりと描いてくれるのがうれしい。
銑次と嘉顕ともしっかりと絡んで不自然さがない。
(雲井龍雄は「翔ぶが如く」にも出ていたようだけど)

ナレーション
芝二本榎の寺に米沢藩の雲井龍雄が点検所という看板を掲げて旧士族の救済を始めていた。

雲井の説によれば多くの武士を路頭に迷わせたのは薩摩のせいであった。
そのような荒療治をしなくても日本は近代国家に移行できたはずを天下欲しさに薩摩が戦争にもちこんだというのである。
そのような雲井の所へあつまる武士はただ生活の救済を求めるだけではないはずであった。

しかし、政府を呪う者をたちまち捕らえて制裁するのでは徳川幕府と少しも変わらない。
このような存在にどう対処するか。
これも新政府に突きつけられた大きな課題であった。

前回出てきた長岡藩士橋川信造が銑次を雲井の元へ連れて行く。

「米沢藩の雲井龍雄です」
「会津藩の平沼です」
「そうですか、会津ですか」
「米沢にお味方を得られなかった、会津です」
そりゃー命がけで城を脱出して米沢に援軍を頼みに行こうとした銑次にしてみれば、いやみのひとつも言いたくなるだろう。
雲井は政府に反省を求めるには力が必要で、力のある仲間がほしいと銑次に仲間に加わるように誘うが、金を稼ぐのに忙しい銑次は断る。
銑次は大久保の屋敷を焼き討ちするのなら手伝ってもいいとは言うが、雲井はそんなことをしても政府はよくならないと答える。

後、第38回「大久保暗殺」で不平士族、浦川譲助(アカレンジャー誠直也)に世の中を変えるために大久保暗殺に誘われるが、大久保暗殺では世の中は変わらん、と仲間には加わらず。
雲井に誘われたときから7年、銑次は雲井と同じ考えに至る。
それまで苦労してきたからねぇ。この後も苦労するけど。

雲井が銑次の腕を見込んで仕事を持ってくる。
古武術勝抜試合で勝てば十両がもらえる。
なんやかんやで7両を手にした銑次。

嘉顕の理想とするポリス3000名をすべて身分、出身を問わず採用する計画は大久保によって2000名を薩摩から、残り1000名を嘉顕が集めるということになり、雲井龍雄をどのように扱うかを嘉顕の裁量に任されることになった。

しかし、大槻には優柔不断と言われ、雲井のところに自ら乗り込んでみたものの、痺れを切らした大久保は雲井を捕縛させる。
そして正当な裁きが受けられるよう尽力する嘉顕だが、雲井は斬首される。
嘉顕も自らの理想を追い求めすぎて頑固だ。
総長にも
「おはんの振る舞いこのごろ少々目に余る。自重されいと大久保どんからも言うように言われちょる。」と言われる。

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雲井龍雄役は風間杜夫です。下記の記事も見つけました。
http://kazenomura.jp/diary/2012/08/24/post_191/

「獅子の時代」のこの回、ネットで見れるようになっていることを知りました。時間をつくって早くみたい。http://www.mp3you.eu/watch_Qbdt8Q42WnA

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「嘉顕の道」と「銑次の道」

 友人に薦められて「新しい左翼入門  相克の運動史は超えられるか」(講談社現代新書 松尾匡著)を読み始めています。いまさら「左翼」でもあるまいと、タイトルに違和感を持っていましたが、これがすこぶる面白い。

 彼は、日本の左翼運動の歴史を、「嘉顕の道」と「銑次の道」という対比で表現しています。これが、実に面白いので、少し長いですが引用しながら紹介します。嘉顕と銑次のことをどうしても紹介したいのには、実は訳があるのですが、それは最後に話します。引用が長いので覚悟して読んで下さい。

 ずいぶん前になりますが、NHKの大河ドラマで「獅子の時代」というのがあったことを覚えていますか。「幕末から明治初期にかけてが舞台のドラマなんですが、ここでも、遅れた体制を倒して新しい近代国家をつくろうとしてできた明治維新政府が、結局あちこちの場末に生きる人々を理不尽にふみにじっていってしまう様が描かれていました。」主人公は架空の人物で「加藤剛さん扮する薩摩藩出身の官吏、苅谷嘉顕と、菅原文太さん扮する下級会津藩士、平沼銑次の二人が主人公です。この二人が対立しつつ友情を抱き、それぞれの道を貫いていく話です。この二人の道が、世の中を変えようとする時の、典型的な二つの道を代表しているように思えるのです。」

 「嘉顕は、薩摩藩からイギリス留学に派遣され、西洋的な自由、平等、人権、国民主権といった理想に染まって帰国しました。そしてその目で日本の現状を見て、これでは駄目だと世の中を変えようとするタイプです。それで、戊辰戦争に加わり、新政府の官吏となって、封建時代に代わる新しい世の中を作るために奮闘するのですが、その正義感と理想主義のために周囲の官吏たちとの軋轢が絶えず、とうとう最後には事実上失脚して下野します。

 それに対して銑次は、会津戦争下の会津若松、箱舘戦争下の五稜郭、極寒不毛の下北半島斗南に追われた旧会津藩士、極北の樺戸監獄等々、その行く所行く所、常に理不尽に虐げられる人々の中にいっしょにいて、その抑圧に対して「このやろー!」と立ち上がるタイプです。そして最後には、困窮する秩父の農民の中にいて、農民の武装蜂起に加わります。

 日本における世の中を変えようとする運動の歴史において、この2つの道ー理想や理論を抱いて、それに合わない現状を変えようとする道と、抑圧された民衆の中に身をおいて、「このやろー!」と立ち上がる道とーは、常に両方存在し、決して相容れることなく対立し、そしてその対立はたいていは運動の自滅という形で、共倒れを持って終ってきたのです。

 「獅子の時代」では、嘉顕は、自分が新しい世の中のためというつもりで参加した会津戦争や西南戦争で、自分たちの側による犠牲者に直面して心を痛めます。そして最後は、憲法私案を書いた際に残した書き付けの一節「憲法は国民の自由自治を根本とし」が、官憲による横死後、縁者の手をたどって秩父の銑次のもとに流れ着き、武装蜂起のスローガン「自由自治元年」となって、銑次の手によって旗に書かれて大衆の前に立つというーまこと青年マルクスが「ヘーゲル法哲学批判序説」の最後に書いた、「思想の稲妻がこの素朴な国民土壌のなかまで底ぶかくはしったとき」との一節を彷彿とさせる、幸福なフィナーレとなりました。」

 そして著者はさらに以下のように続けます。「私は自分がここで言う、「嘉顕型」の性格であることを自覚しながら、そのことがもたらしかねない新たな抑圧におののき、「銑次型」にあこがれて、そうならなければならないとじたばたする青年時代を過ごしていたのでした。このドラマのフィナーレのような「総合」ができたら、自分はどんなに救われるだろうかーそう思っていました。」(引用終わり、ふう、透析中、引用本をめくりながら片手でパソコンを打つのはかなりしんどい)

 私は「獅子の時代」は視ていませんでした。すごいフィナーレですよね。ちょーかっこいい!

 実は、ほんの少し前、私は、生き残ったほうが葬儀委員長を務めようと約束している友人と、この、「嘉顕型」と「銑次型」についてメール交換していたのでした。もちろん、この本を読む前でしたから、嘉顕と銑次という具体的な例で話したわけではありません。

 私は、間違いなく嘉顕型であることを自覚しており、若い頃からコンプレックスを抱き続けてきました。彼は典型的な銑次型で生き続けてきた人で、だから私はずっと憧れてきました。しかし彼は彼で、嘉顕型である私の存在価値をずっと認めて、頼りにしてきてくれました。でも、「銑次」へのコンプレックスは今も消えることはありません。

 もう60を越えて老い先短いのですから、いまさら「銑次」を目指すことは無理だし、あきらめます。コンプレックスを抱えたまま一生を終えることになるでしょう。しかし、「嘉顕型」と「銑次型」が非和解的な対立になって運動を消滅させる時代はさすがに終わったと思います。どちらが先に死ぬことになるかは神のみぞ知るところですが、その時に、「嘉顕」と「銑次」を「総合」できたと2人で実感できることを目標に、明日からも頑張ろうと思います。

by めい (2015-08-13 04:37) 

めい

思わず明治政府に殺された雲井龍雄を思い起こしました。あいば達也さんの「世相を斬る」です。

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●突飛もない話だが 明治維新の偉業が「日本病」の元凶 
http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/f29d875c888a0ca8777154985100d94b

以下の山田厚史氏のコラムを読んで、本日の見出しのような時点に行きつく変人的思考経路を持っているのは筆者くらいだろうが、一介の個人ブロガーに過ぎないのだから、筆者の勝手だ。ただ、筆者の歴史観においては、殆どアジア人、黄色人である日本人で構成されている日本と云う国が、欧米文明に追いつき追い越せと云う「国是」を決定した時に、いま目の前に見ている「日本病」は運命づけられていた、そのように思う。立場を失うと云うのも悪くはない。

山田氏のコラムは、明治維新による日本の文化的齟齬については言及していない。それは、山田氏の立ち位置から考えて当然だ。民主主義と資本主義の世界においてであればと云う前提が、約束事としてあるからだ。筆者の場合は、立場と云うものがない。所謂、風来坊なのだから、現状がどれ程壊れて混乱しても、痛痒がない。しかし、思想とか哲学などは、そう云う時点に立脚しないと、生まれてこないものでもある。

明治以降、日本は何度となく、この「日本病」から逃れるチャンスはあった。しかし、そのチャンスを、目先の問題解決能力の困った有能さと、弥縫策ではあるが、切り抜けたように見える処理で切り抜ける。例示すれば、「総動員体制」であり、「官民一体」「護送船団方式」「忖度社会」色んな言葉が生まれたが、その中核に常に存在していたのが官僚組織である。廃藩置県と云う、トテツモナイ日本文化の破壊が、欧米文明至上主義を生み、いびつな「日本病」のウィルスを体内に取り込んでしまった。

ウィルスチェックすれば、常に陽性が出る。ただ、発病することは滅多にない。発病する時は、欧米性ウィルスなので、多くの場合、欧米発の菌の増殖ににより「日本病」も発症する。ここで、注意しておく必要があるのは、このウィルスに、欧米人は免疫力を持っている。残念ながら、異なる人種のウィルスなので、日本人に、その免疫力はない。なにせ、悪事を考える連中が判例主義的発想の持ち主としてキャリアを積んだ官僚たちなのだから、記録の見当たらない症状や現象に対応する能力は、極めて低い。

だから、何ごとか一大事が起きると「未曾有」「想定外」「青天霹靂」等の言葉が、マスメディアを賑わす。山田氏のコラムで取り上げられている東芝と言えば、筆者が社会人としてスタートした会社なので、まったくの部外者と云うわけでもない。7年ほどで、退屈な組織に飽き足らずに辞めてしまったが、今でも同期は会社に5人残っている。その内、原子力関係が2名だ。国策会社そのもので、上司に逆らうことが許されない文化があった。忖度に縁のない筆者が、7年間も給料が貰えたのは不思議だが、当時は余裕があったのだろう(笑)。

いずれにせよ、日本人の体質に合わない、合理性、効率性、謀略性、暴力性、そして100年計画を抱えることが出来る欧米人種の考えに、日本人と云う人種が馴染もうとすること自体に無理がある。極論になるが、日本の文化を否定することからスタートした明治維新なのだから、パラドックスを無理やり起こしたわけで(革命)、八百万の神を信じて、理念と関係なく何千年も生きてきた日本人に、自然からの隔絶を要求したのだから、常に、その世界は齟齬だらけだ。

この脈絡から考えてみると、民主主義も資本主義も、実は日本人的ではないものなのだから、芯から馴染むと云うのは結構難しい。一件暴論のように聞こえるだろうが、個人的には、そのように思っている。それでは、民主主義に代わって、どのような国家体制が良いのかと聞かれると、これが想像以上に難しい。簡単に答えを語るのは無責任すぎる。ただ、ぼんやりと浮かんでくるのは、「天皇」の地位の扱いだ。欧米の国家や人種と異なる点で一番目立つのは、この「天皇」の存在だ。

日本会議も、幾分似たような考えを持っているが、決定的違いは、彼らの中心に「国家神道」があることだ。その枠内で「天皇」を飼い馴らすと云う思考が見え隠れしている。ここが違いであり、彼らのヤバイ問題点だ。「神道」を否定する積りはないが、日本人全体から見れば、信心の一つに過ぎない。仏も信心の一つだし、万物が八百万の神なのである。信心、言い換えれば宗教など、そう云う存在であるべきだ。神主、宮司と云う職業があるが、彼らの多くは世襲的だ。難行苦行で神主、宮司になったと云う話は聞かない。迫害にあったと云う話も聞かない。何処か政治家の世襲制に似ている。権力に親和性があるのだろう。

神道を国家の宗教にするなど、日本においては言語道断な話で、単なる政治的利用に過ぎないと受けとめて問題はない。この国家主義と親和性を持つ宗教が「天皇」を担ぎ出す陰謀には、酷く注意が必要だ。神仏習合と云う日本人の知恵が、明治政府により神仏分離させられたことの歪みは、何ごとも一本化と云う垂直統合を目指し、国家主義の抬頭、中央官僚組織に繋がると云うことだ。この辺をバラバラにすることから、何かが見えてくるだろう。現に、多くの日本人は、神社と寺を、生活の中で有効に共存させて生きている。権力が何かをしようとする度に、国民は塗炭の苦しみに出遭う。こんなことなら、政治家も官僚もいらない。「廃県置藩」を導入しよう。そして、各藩の藩主と藩の小役人で藩政に精を出して貰おう。税金も半分で充分だ。暴論のようだが、正論なのだ。理論づけはあるが、話すのはモッタイナイ(笑)。


≪ 三菱自と東芝、名門企業を蝕んだ「日本病」の正体
 ゼロ戦の血統にある三菱自動車、からくり儀右衛門の流れを汲む東芝。「技術と信頼」を看板にした名門企業が存亡の危機に立っている。粉飾決算やデータ偽装という信じがたい不正はなぜ起きたのか。
 トップの責任は言うまでもないが、手を染めたのは優秀とされる社員たちだ。東芝では経理・財務の専門家、三菱自動車では開発・検査に関わる技術者。なぜ彼らは不正に走ったのか。
 背後には日本の大企業が突き当たった壁がある。手厚い行政、官民癒着、キャッチアップ型経営、従順な社員。高度成長を支えた日本の美風がいまや災いに転じ、企業を迷走させている。

■「性能実験部長が指示」は本当か?
 三菱自動車、燃費偽装の深い闇
「ウチは大丈夫かね」。社員やOBが集まるとそんな話が必ず出る、と自動車メーカーの元役員はいう。三菱自動車で発覚した燃費偽装は、他人事ではないらしい。
 リッター〇〇kmと記載される「カタログ燃費」を良く見せるため、自動車メーカーがあの手この手を使ってきた。語り草は1000ccカーでN社がやった燃費対策車。宣伝文句に高燃費を謳うため、馬力は出ないが燃費だけいいエンジンを積んだ車種を特別に作った。業界で問題になり運輸省(当時)の行政指導で燃費対策車は禁止された。
 三菱で偽装が発覚した軽自動車は5度も目標燃費が社内で引き上げられた。ダイハツ「ムーブ」やスズキ「ワゴンR」に見劣りする燃費では市場に出せない、という判断だ。
 三菱重工の自動車部が独立した同社は、スズキやダイハツに負けるはずはないという自負心に満ちた経営者が「最高の燃費」を技術者に求めた。
 昨年11月、毎日新聞に「三菱自新SUVの開発遅れ」(11月12日)という小さな記事が載った。軽量化が予定通り進まず2016年に予定した発売が延期された、と指摘し、車両重量が目標に達していないことを役員らに報告しなかった担当部長2人を11月1日付で諭旨退職処分したことを報じた。
 すでに軽自動車の燃費偽装が社内で調査されていたころである。主力車種であるSUV(スポーツタイプの多目的車)でも問題が発生していたというこ とだ。車両重量は燃費を左右する重要な要素。軽量化が開発目標に達していないことを担当者は隠し、そのことで新車開発が遅れ、責任を取らされた。諭旨退職とは「クビだが退職金は出る」という処分である。
 三菱自動車の広報は、処分があったことは認めたが、根拠となる事実は「社内人事なので開示できない」と拒んだ。ユーザーや投資家にとって商品や経営を判断する大事な事実だが「お答えできない」の一点張りだ。
 同社では、軽自動車の燃費検査は「性能実験部」が担当する。開発本部に所属するが開発チームとは離れ、車両の出来上がりをチェックする部署。目標未達に責任を問われる立場にはない。「このクルマは不合格」と指摘するのが仕事である。
 データ偽装は当時の性能実験部長が、開発本部長の聴取に対し「私が指示した」と言ったという。本当だろうか。
 燃費の基礎データとなる「走行抵抗値」は91年から不正測定が続いていた、と相川社長は会見で認めた。多くの技術者が関与していたはずだ。見て見 ないふりをしていたのだろうか。技術畑の相川社長は初代ekワゴン(01年発売)の開発責任者だった。不正測定を知らなかったのだろうか。 「燃費の差は技術の差」(1980年)という宣伝文句を三菱自動車は使っていた。ギャラン、ランサー、ミラージュなど個性的なクルマを世に送り出し、「経営者は頭が固いが、技術は確か」と業界で評価されていた。三菱のスリーダイヤを誇りに思う技術者たちが、与えらえた目標に届かず、データ偽装や情 報隠しに追い込まれていたのなら、悲劇としか言いようがない。

■高度成長期にはうまく機能していた
「空気を読む」が長期停滞で「日本病」に
 日本車が小型車で世界をリードしたのは、品質管理とコストカットに心血を注いだひた向きな技術者を抱えていたからだ。日本社会が分厚い中間層に支えられたように、生産現場は勤勉な中間管理職と真面目な労働者が担ってきた。今はどうだろう。
 三菱では技術の中核・開発部門でモラルの崩壊が起きている。三菱自動車だけのことだろうか。シャープが台湾企業に身売りした電機電子産業もかつて のような元気はない。ソニーの衰退は目を覆うばかりで、パナソニックも韓国のサムスンに太刀打ちできない。家電は世界市場で中国・韓国勢に圧倒されている。成長市場である電機通信では魅力的な新商品はアップルやマイクロソフトにお株を奪われ、日本は部品のサプライヤーとして生き残ろうとしている。
 品質・コストは「改善」で達成できるが、ビックリする新商品を創り出すパワーは「勤勉・真面目」だけでは出てこない。
 明治以来、お手本は欧米にあった。戦争に負け、無一文からやり直した日本が、民生品でもう一度「追いつけ追い越せ」を成し遂げたのが高度成長だった。坂の上の雲を見上げながら、一本道を官民一体で歩み、雲を掴んだものの、五里霧中で道が分からなくなった。それが今の日本ではないのか。 「勤勉・真面目」は日本だけではない。韓国も中国も、日本のお家芸だった「安くて良いもの」をつくるようになった。
 我々は「日本病」になっているのではないか。産業革命を起こし世界の工場といわれた英国が衰退して、英国病と言われた時期があったように。
 全社一体となって奮励することで今日に至った大企業ほど、まじめな社員は上司の意向を忖度する。係長は課長になったつもりで、課長は部長、部長は役員のつもりで。言われる前に空気を読むことが有能な管理職とされた。
 欧米を追っている時はそれでよかった。追い越し、お手本を失い、最後の花火大会となったバブルにまみれると、何をしていいか分からなくなった。とりあえず皆がやっているリストラに励む。ヒトと設備を切り、縮小均衡に走った。
 日本は立派な経営者が産業を牽引していたわけではない。焼け跡から企業を起こしたころは本田宗一郎や井深大などベンチャー精神に富む経営者が少な からずいたが、高度成長が終わった80年代になると、大手企業では企画や人事畑など社の中枢を歩んだ優等生が社長に選ばれるようになる。社内の空気が読めて、上司に覚えがいい「お利口さん」がトップに目立つようになった。
 お利口さんの弱点は独創性に乏しいことだ。日本経済が長期停滞に陥ると、判で押したようなリストラが横行する。犠牲になったのは中間管理職と労働 者だ。現場は人手不足になったが仕事は多く、多くの職場は、かつてのように「わいわいガヤガヤ」でアイディアを出し合う、という雰囲気ではなくなった。
 「会社に居れば人生設計ができる」という安心のシステムは崩壊し、社員は臆病になった。情報隠し、データ偽装は、空気を読むことを得意とする企業戦士の悲しき不正ではないのか。性能実験部長は開発本部長を忖度したのか、指示を受けたか、どちらかだろう。

■道を誤った経営者が
東芝を「粉飾のデパート」にした
 東芝の粉飾決算も同様である。粉飾のデパートといえるほどあの手この手を考えて、利益を水増しした。西田厚聰元会長、佐々木則夫元社長、田中久雄前社長らの責任は免れないが、粉飾に手を染めた経理の担当者らは、トップの意向を受けて行動したのである。
 具体的な指示がなくても、意が伝わるのが日本の大企業だ。上司が「チャレンジ」と一声言えば、「方法は自分で考えろ」と言われたに等しい部下たちは粉飾の手口を編み出した。
 東芝の場合、誤りの始まりは原発事業で米国のウエスチングハウス(WH)を買収したことだ。法外な値段で買い取り、最終買収額は6000億円に膨らんだ。資産価値を4000億円も上回る買収額は「のれん代」として誤魔化した。「ウエスチングハウスの買収に伴い当社のバランスシートには3507億円ののれん代と502億円のブランド料が計上されている」(東芝広報)。
 のれん代やブランド料は「捕らぬタヌキの皮算用」の資産だ。温暖化対策の切り札は原発という経産省の「原子力ルネッサンス」に乗り、途上国に原発 を売るインフラ輸出に活路を求めた東芝は「WHのカンバンがあれば5~6年で原発三十数基は受注できる」と見ていた。これが外れた。
 WHの失敗が経営を圧迫し、「お家の一大事」が優秀な社員を暴走させた。巨額な投資が空けた穴を他部門の利益で埋めなければならない。経理と事業部門の合作で不正会計が日常化した。
 坂の上の雲をめざす一本道なら同調圧力は効果的かもしれないが、道を誤った経営者を忖度し、皆が同調すればどんなことになるか。東芝は身をもって示した。

■三菱自と東芝を甘やかした
「官民一体」がモラル崩壊の温床
 日本病の症状の一つは官民癒着である。東芝も三菱自動車も失敗のタネは政府との関係にあった。  三菱の燃費データ偽装は国土交通省の緩い監視があって成り立った。国交省は自動車会社が提出するデータを丸呑みする。型式認定を与えているなら市 場に出ている車両を買い上げて調べれば分かる。カタログ燃費が実態といかにかけ離れているか。癒着・天下り・緩い監視がメーカーの緊張感を弛緩させ、モラル崩壊の温床となった。
 経産省も同様だ。エコカー減税と称して販売が振るわないメーカーに補助金を注入してきた。省エネ効果があるのかは調べず、メーカーの販売戦略にそって車種ごとの減税を決める。「役所のいうことを聞くかがさじ加減に影響する」といわれている。天下りの受け入れと無関係ではないだろう。
 東芝の不祥事をかばうのも役所だ。WHの買収で原発ビジネスが盛況になるなら「のれん代」も正当化されただろう。3.11の事故を受けて期待した成果が上がっていないなら「のれん代」は減損処理するのが会計原則だ。にもかかわらず東芝は「のれん代の減損は必要ない」と突っぱねてきた。
 踏み切れば、損失に耐えられず経営危機に陥るからか。経産省も金融庁も東京証券取引所も、腫れ物に触るように不明朗な会計処理を黙認してきた。
 さすがの東芝も今度の決算で2600億円の減損処理に踏み切った。グループの宝ともいえる医療機器大手・東芝メディカルを手放し、売却益の一部を当てたものだが、決して十分な処理にはなっていない。  シャープについで東芝まで窮地に陥ればアベノミクスに亀裂が走ることになる。役所は官邸の意向を忖度しているように見える。
 この国に充満する濃厚な空気を読みあい。不利な役回りを避けようと身を固くする官民のもたれ合い。身に災いが降りかかることだけは避けようと、見て見ないふりが横行する中で、日本全体が沈没していく。
 ≫(ダイアモンドONLINE:山田厚史の「世界かわら版」)

by めい (2016-05-02 06:40) 

めい

新生活を始める若者へ、失敗するのは今だ!
ハワイ王国の滅亡史に学べた日本がなぜ敗戦を迎えたのか
2017.4.3(月) 伊東 乾
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/49604

伊東乾→(曾祖父)藤田敏郎→安藤太郎→安井息軒→雲井龍雄 で辿り着いたブログ。
http://blog.goo.ne.jp/hg2ajun8/e/4e29900c1ffd5e20b009e9fbbb042e21

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エッセイ散歩 旅窓の夢 ~遙かなるコミューン~(三)
2016年02月03日 | エッセイ
   
 栗原郡の村々で卓三郎は熱心な布教活動を続けた。親戚などにも入信を勧め、彼らを受洗させた。やがて、いささか度が過ぎるまでの布教活動は、親戚の広田家や菊池家などから批判もされ、絶縁もされた。
 卓三郎は矯激な行動に出た。「神棚ニ置キ奉ラレシ伊勢太神宮ノ御玉串ヲ一束ニ纏メ屋敷ノ裏ニ投棄テ」「祖先ヨリ雙親ノ位牌迄墓所ヘ捨テ去リ」、水沢県に訴えられてしまい、彼は不敬罪で登米県の獄に百日間投獄されたのである。何しろ維新政府にとって神道は「国教」なのである。
 その時彼はキリシタンという理由だけで、片眉と片鬢を剃り落とされ、作務に就くときは鉄鎖に繋がれた。それでも卓三郎は同房の死刑囚に入信を勧め、獄内で受洗させた。卓三郎は密かに飯粒を固めて十字架を作り、獄衣から抜いた糸を通した。処刑の朝、卓三郎はその十字架を彼の首に掛けて送り出した。
 維新政府は浦上のキリシタン信徒をはじめ、各地のキリシタンを過酷に弾圧した。そのため各国から厳しい批判を浴び、それが不平等条約改正の大きな障害となったのである。しかたなく政府はキリシタン禁令の高札を下ろしたが、全国に密偵を配して、キリシタン信徒の情報を集め、外国政府の目の届かぬところで弾圧を続けていたのである。
 この入獄の体験は、卓三郎に反権力と人権意識を醸成させた。この年、板垣退助らが「民選議院設立建白書」を左院に出し、これが自由民権運動が湧き起こるきっかけとなっていった。

 出獄後も卓三郎は熱心な布教活動を続けていたが、心中に出郷の意思を固めていた。東京でニコライ司教から直接指導を受けたい。大槻盤渓先生も、石川桜所先生も出獄し東京にいる。先生にもお会いしたい。明治八年の春、卓三郎は三町四反の地券(明治四年暮れから発行)を懐に故郷を出た。
 大槻盤渓は終身禁固刑であったが、彼の人物に感銘を受けた獄吏や獄医師が謀って重病の届けを出し、明治三年に仮出獄・謹慎となった。実は盤渓先生、至って元気だった。その翌年謹慎も解かれた。彼は文明開化の世相に強い関心を払いながら、東京で余生を送っていた。陸軍軍医監出仕の話も寄せられたが、「亡国の臣、何の面目あって朝班に就くべき」と言ってその話を蹴っている。酔うと、かつて鎖国攘夷を唱えた政府枢要の地位にある者たちを「あの大たわけ者ども」と罵っていたという。
 一方の石川桜所は、陸軍軍医総監の松本良順(※1)に招かれて兵部省軍医寮次官、陸軍軍医監に就いていた。松本良順は徳川家茂の侍医であり、桜所の先輩であった。

 (※1)松本良順は佐倉藩の藩医で江戸で順天堂を創始した蘭医の佐藤泰然の子に生まれた。幕医の松本良甫の養子となり、オランダ医のポンペに学び、奥医師となった。維新後に山県有朋に招かれて陸軍軍医監となり、当時は初代軍医総監を務めていた。
 ちなみに、老中を務めた下総佐倉藩主の堀田正睦は、藩士たちに蘭学を奨励し、優秀な藩士たちを幕臣として登用した。津田仙もその一人である。津田は外国奉行通訳に登用され、福沢諭吉らと共にアメリカに派遣された。津田は後に未だ七歳の娘の梅を、岩倉使節団と共にアメリカに送り出している。津田梅子である。堀田は外国事務取扱老中として日米修好条約締結に奔走したが、孝明天皇の勅許が得られず失敗に終わった。彼は井伊直弼が大老に就任すると失脚し蟄居した。

 卓三郎が上京した一月後、福沢諭吉が三田に演説館を開いた。これも自由民権運動に強い影響を与えたのである。政府は讒謗(ざんぼう)律と新聞条例を発布して、言論弾圧を強化しはじめた。
 明治七年、ニコライ司教は駿河台にギリシャ正教の教師を育成する伝道学校を開いた。卓三郎はその宿舎には入っていない。彼は盤渓先生や、駿河台に寓する桜所先生の所に居候し、そこから伝道学校のニコライの下に通っていたものと思われる。やがて卓三郎は尾張町の渡辺宗伯薬店に下宿した。
 このニコライ司教の所で、卓三郎は永沼織之丞に出会っている。
 この卓三郎より十五歳年長の永沼織之丞は元仙台藩士であり、大槻盤渓の愛弟子の一人だった。卓三郎の大先輩の兄弟子であり、養賢堂の教師でもあった。永沼も戊辰戦争では一隊を率いて転戦した歴戦の強者である。
 戊辰戦争後に上京し、明治四年に安藤太郎(※2)や林董(ただす)(※3)の下で英学を学び、ジョン・バラの下で英語を学んでいる。また永沼は敬虔なギリシャ正教会の信徒でもあった。
 彼は明治八年九月から西多摩郡五日市町に住み、五日市町の学校掛となり、勧能学校の初代校長を務めていたのである。卓三郎は兄弟子の永沼が、同じギリシャ正教の熱心な信徒であることを聞き知っていたであろう。
 その頃から卓三郎は永沼に勧められて、しばしば五日市に足を運んだ。永沼と話すほどに、卓三郎は彼を尊敬し感化されていった。そして卓三郎は永沼から、安藤太郎やその師の安井息軒(※4)の話を聞いた。卓三郎が尊敬する米沢藩出身の雲井龍雄(※5)は、この安井息軒の弟子であった。卓三郎は永沼からギリシャ正教の教義や信仰の話を聞くより、安藤太郎や安井息軒の話や、五日市の人々の話を好んだ。

 (※2)安藤太郎は幕臣で、姉が嫁いでいた海軍奉行・荒井郁之助から英学や数学を学び、大村益次郎から蘭学を、安井息軒から漢学を学んだ。彼は幕府海軍の見習士官として開陽丸に乗船し、榎本武揚と共に函館に向かった。榎本の下、五稜郭で闘かい、戦後獄に入った。出獄後は開拓使に出仕し、開拓使学校を創立している。この学校から内村鑑三や新渡戸稲造が出た。大蔵省や外務省に出仕し、岩倉使節団に加わって渡欧した。後に外交官時代のハワイでクリスチャンになり、麻布の自邸に教会を建てている。
 余談であるが、五稜郭の敗戦で捕らえられた榎本武揚、荒井郁之助、大鳥圭介ら幹部を、西郷隆盛は即刻打ち首にすべしと主張した。黒田清隆らは「彼らは新政府にとって有用な人物であり、その能力を生かすべきだ」と、西郷に猛反対した。西郷は、あくまで「賊軍を作らねばならず、その血が必要なのだ」と強硬に主張したという。「御用盗」の謀略といい、西郷は後世のイメージとは大きく異なる一面を持っていた。西郷の密命を受けた益満(ますみつ)休之助と伊牟田尚平らは、江戸で約五百名の浪人と盗人で御用盗を組織した。彼らは江戸城から大量の武器を盗み出し、江戸市中を昼日中から跋扈して富裕な商家を襲った。御用盗は恐喝、強姦、辻斬り、火付けと悪逆の限りを尽くしている。無論、西郷の狙いは「治安を乱す」ことで江戸市民人心の幕府不信、幕府離れを促し、幕臣や江戸警備に当たっていた諸藩を挑発し、江戸に戦乱を起こすことであった。また挑発に乗った幕臣たちを討って、「目に見える賊軍」を作ることだったのである。さらに西郷の狙いは、御用盗の「荒働き」によって、新政府の賊軍討伐資金と運営資金を得ることであった。西郷が益満らに商家から盗ませた金子は、総額で五十万両を超えた。御用盗の御用とは、官軍御用のことであった。益満は庄内藩士に捕らえられたが、勝海舟が身請け人となって釈放され、後に彰義隊との戦いの最中に、流れ弾に当たって亡くなったと伝えられたが、その死体を確認した者はいない。

 (※3)林董も幕臣である。順天堂の佐藤泰然の次男で、松本良順の実弟である。幕医の林洞海の養子となって、横浜のヘボン熟で学んだ後、慶応二年に幕命でイギリスに留学した。帰国後は幕府海軍の開陽丸の乗組見習いとして函館五稜郭に赴き、戦いに敗れて捕虜となった。後に横浜で維新政府の地方官僚として神奈川県への出仕を経て、岩倉遣欧使節団に加わった。帰国後は外務省に勤め、途中、工部省、宮内省、逓信省、香川県知事、兵庫県知事を経て、外務次官、清国や露国、英国特命全権公使等を歴任した。西園寺政権では外務大臣、逓信大臣を務めている。
(※4)安井息軒は儒学者、漢学者である。江戸期儒学の集大成と評価され、彼の下から雲井龍雄、谷干城や陸奥宗光など二千名の俊秀が輩出されている。
(※5)雲井龍雄は米沢藩士だが、幕末の京都で志士として活動し、維新政府に仕えた。しかし維新政府が奥羽越列藩同盟を討つと知るや、列藩同盟の兵士として抵抗する決意を固めて帰藩し、「討薩檄」を著して薩摩藩の罪を糾弾した。戦後再び維新政府に出仕するが、薩長専制に抗議して職を辞し、旧幕府方諸藩の藩士たちを糾合した。これが政府高官暗殺と政府転覆の陰謀罪に問われて、明治三年「首斬り浅」こと八代・山田浅右衛門によって斬首されている。

 さて、永沼織之丞はどこでギリシャ正教に出会い、受洗したのだろうか。おそらく東京に来てからであろう。やはり養賢堂でロシア語に触れ、盤渓の親ロシア政策の影響で、ロシア人のニコライ司教に親近感を抱いたこともあったのだろう。
 彼は生涯をギリシャ正教会の敬虔な信徒として、その節を曲げることなく、信仰に揺らぎを感ずることもなかった。ところが千葉卓三郎の信仰は、大きく揺らぎ、やがてギリシャ正教から離反していくのである。彼は実に悩める求道者だったのだ。

 卓三郎は安井息軒に異様な関心を寄せた。その関心は、息軒が単に尊敬する雲井龍雄の師であるというだけではない。当代一流の漢学者、漢詩人という理由だけでもない。卓三郎らの故郷の惨状を詩にした「田間(でんかん)慟哭の声」の作者だったからだろうか。あるいは、息軒が当時最も苛烈なキリスト教批判の書「弁妄」の著者だったからか。無論、卓三郎も息軒が反キリスト者であることを知っていたはずである。
 卓三郎はその息軒先生にお会いしたい、できれば漢詩などを学びたいと言い出し、永沼織之丞に安藤太郎先生から息軒先生への紹介状を書いてもらえないかと頼み込んだ。
 永沼は安井息軒を直接知らない。無論、息軒が「弁妄」の著者でキリスト教批判者であることも知っている。安藤太郎から聞き及ぶ息軒の学問の高さや、人となりや、その漢詩の見事さも知っている。かつて仙台藩領で栗駒山から流れる迫川のあたりを旅した息軒が、重税で苦しむ民の悲惨な暮らしぶりと、施政者の非道ぶりを痛憤し「田間慟哭の声」という詩を作ったことも知っている。永沼も雲井龍雄を尊敬している。だから卓三郎が息軒先生に会いたい、できれば教えを請いたいという気持ちも理解した。
 彼は卓三郎の敬虔な信仰が揺らぐとも思わなかった。しかし卓三郎の中には、もっとキリスト教の教義を極めたいという気持ちがあり、そのために反キリスト者の話に耳を傾けたいと思ったであろうことは否めない。
 永沼は卓三郎の好学の情熱を愛した。
 彼は安藤太郎を訪ね、同郷の後輩の話をし、安井息軒先生への紹介を頼み込んだ。安藤は危ぶんだ。息軒先生が高齢であり、ほとんど失明状態で、しかも身体も不自由になったと聞き及んでいたからだ。
 先生はもう新しい門人はお取りになるまいと言った。しかし、永沼の熱意(卓三郎の)を汲んで、息軒先生への紹介状を書いてくれた。

 卓三郎は安藤太郎の紹介状を持って、市ヶ谷に寓する安井息軒先生の下を訪ねた。息軒は幼年の時に天然痘を患い、酷い痘痕痕で片目が潰れていた。残る片目も七十六歳という高齢のため失明状態にあった。四肢も不自由となり、家人や住み込みの門人の手を借りねば起居も室内の移動も出来なかった。声音も弱まり、口ももつれていた。しかし、この高名な学者の頭脳は全く衰えを見せていなかった。
 安藤の紹介状を弟子が耳元で代読すると、息軒は卓三郎に、大槻盤渓や養賢堂のこと、石川桜所のこと、戊辰戦争のことなどを尋ねて、その応えにしきりに頷いた。そして青年が、かの「田間慟哭の声」の地に生まれたことを知った。彼は卓三郎の弟子入りを許した。
 これまで息軒は、故郷の清武郷(宮崎県)の郷校・明教堂で教鞭を取ったのをはじめ、飫肥(おび)藩の藩校・振徳堂、江戸の三計塾や、飫肥藩江戸屋敷の塾、戊辰戦争の疎開先の領家村(埼玉県川口市)等で、数千人の弟子を教えてきた。おそらく、安井息軒最後の弟子が千葉卓三郎だろう。
ちなみに森鴎外に、息軒の妻佐代を描いた「安井夫人」という作品がある。

 卓三郎が「弁妄」の安井息軒の門人になったことは、栗原郡の信徒、同志に強い衝撃をもって迎えられた。加茂川佐助や半田盛保らは、ギリシャ正教の熱心な信徒として、共に布教に歩いた同志である。彼らは卓三郎に「…涕泣以テ爾(なんじ)ニ忠告ス 爾夫レ之ヲ察セヨ 半ニ望ンテ悵然タリ 阿民(アーメン)」と手紙で訴えた。
 ギリシャ正教では選挙が行われ、沢辺琢磨が司祭に、酒井篤礼が輔祭になった。ロシアからパウエル主教も来日し、函館で神品機密という聖職者を叙する儀式が執り行われた。そのとき卓三郎の心は、すでにギリシャ正教から離れていたようである。彼は息軒の下で漢学と漢詩を学びつつ、さらに「弁妄」の論を聞いたに違いない。
 やがて息軒が病に臥せると、その門を辞した。息軒はその約半年後に七十七歳七ヶ月の生涯を閉じた。卓三郎が息軒の下で学んだ期間はわずか九ヶ月余に過ぎなかったが、卓三郎の辞世の詩を読めば、石川桜所、安井息軒から得たものは実に歴然である。

 安井息軒の下から離れても、卓三郎はギリシャ正教会に戻らなかった。彼のギリシャ正教への信仰は五年で終わったのである。永沼織之丞はあえて彼を糺さなかった。一時的な信仰の動揺と見たのかも知れない。卓三郎は永沼に誘われるまま、五日市の名士の家に遊びに行ったり、その学習会を覗いたり、永沼が校長を務める勧能学校の教師たちと交わり、助教として子どもたちの学習も見た。彼は五日市の人々と深く交わるようになり、土地の人々も卓三郎の識見を認めた。
 この五日市の勧能学校や、八王子、多摩周辺の学校には、何故か旧仙台藩士たちが多く助教や教師を務めていた。永沼の推薦による者が多かったのだろう。五日市の勧能学校はやがて自由民権の梁山泊のごとき様を呈するようになる。

 明治九年の春、卓三郎はフランス人のウィグロー神父の下でローマ・カトリック教会に入信した。ギリシャ正教とローマ・カトリックは千年に及ぶ対立と抗争の関係にあり、不倶戴天の敵である。ここに卓三郎の精神的な迷いと動揺の大きさや、矯激さ、一途さ、純粋さが見て取れる。
 その純粋さは、実に感化を受けやすいところに表れ、その一途さは過激な行動に奔りやすい。軽佻浮薄にも見える。このような人物の代表例を、我々は歴史教科書で学んでいる。吉田松陰(※1)である。

 (※1)松陰は幼くして「論語」等を丸暗記して神童と呼ばれた。彼は尊皇主義の狂信者である。松陰はアメリカに密航したいと狩野良知に相談した。狩野良知は安藤昌益を発掘した狩野亨吉の父である。
 やがて松陰は夜陰に紛れてペリーの黒船に乗り込んだが、疥癬を理由に拒否・下船させられている。もし渡米が実現していたら、いとも簡単に攘夷思想を捨て、エキセントリックな脱亜入欧主義者になっていただろう。
 松陰は軽薄なほど純粋で(単純で)激情家だったから、それだけ他人の影響を受けやすい性癖であった。彼の行動はいつも無計画で子供じみていた。
 嘉永年間、彼は何度か水戸に会澤正志斎を訪ね、その謦咳に接している。水戸の「尊皇攘夷」は当然倒幕とは正反対の論理である。幕府が尊皇なのだから、各藩もそれに倣って尊皇であるべきで、尊皇すなわち幕藩体制への忠順なのだ。
 当時、松陰は会澤正志斎のこの論理を信奉していた。つまり「尊皇攘夷の佐幕派」だったのだ。やがて松陰は一向宗の旅の僧侶・黙霖に手紙で議論をふっかけられ、完膚無きまで議論に負けた。やがて黙霖の思想に完全に染まってしまう。それは「尊皇攘夷の倒幕派」の論理である。松陰は正志斎と決別する。
 この一向宗の坊主黙霖の影響を受けて後、松陰は死を賭けて長州藩を倒幕に立たせようとした。京から公卿の大原重徳を招き藩主と倒幕挙兵の合議を画策し、京の伏見の獄を襲って囚われの身の梅田雲浜を救出するよう門人たちに命令を出し、同志を募り京にいる老中・間部詮勝の暗殺を謀り、藩主が参勤交代で江戸に行くことを止めようとした。
 松陰が再び萩の牢に閉じこめられたのは、老中暗殺計画の支援を家老に求めたためである。驚いた家老や藩主は、この危険極まりない気違いを、獄に入れておくことにした。
 松陰の軽薄極まりない行動は、門人の高杉晋作や久坂玄瑞らにもたしなめられた。「義旗一挙、実に容易ならざる事にて、却って社稷(しゃしょく)の害を生ること必然の儀に御座候」…先生の軽挙妄動はかえって国家や朝廷の害になってしまいますのでお慎み下さい、と言われたのだ。
 松陰には人を惹きつけてやまぬ純粋性があったのだろう。松陰の発したカリスマ性を考えれば、彼が全く発展性のない朱子学と偏見に満ちた国学で、世界的視野を欠いた時代錯誤にのめり込んだことは、実に近代日本の不幸であったというべきだろう。

 卓三郎のことである。彼がウィグローの下でローマ・カトリックの宗理を学んだのは、わずか十ヶ月に満たない。彼の関心は信仰より、その教理・教義を極めることだったのかも知れない。明治十年二月から、彼は福田理軒(※2)の下で数学を学んでいるが、これもわずか五ヶ月で終わった。

(※2)福田理軒は大坂で和算と天文暦学、測量技術を教える順天堂塾を開いていた。この塾は土御門家と関係深く、維新後は政府に出仕して暦の編纂に携わった。維新政府が太陽暦に改暦すると職を辞し、順天求合社という塾を経営し、ここで数学と測量技術を教えていた。

 卓三郎は福田理軒の順天求合社を去って後、横浜山手でプロテスタント派メソジストのアメリカ人マクレーの下で、プロテスタントの教義を学び始めた。かつての信仰の同志であった加茂川佐助や半田盛保が上京し、信者仲間の百々順治を訪ねると、そこに卓三郎がいた。二人はきつく彼の変節を詰問したが、卓三郎は「尚異説を主張」したと言う。この後彼らは絶交している。
 卓三郎はローマ・カトリックのウィグローや福田理軒、プロテスタントのマクレーの下に通いながら、西多摩郡日の出町の大久野東学校、秋川の開明学舎や、小田原の学校で助教をしていたようである。小田原暮らしは半年くらいだったようだ。また永沼織之丞から紹介されたジョン・バラに漢学や漢詩を教授し、彼はジョン・バラから英語を学んでいる。

by めい (2017-04-08 07:27) 

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