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宮内熊野大社の位置の不思議 [熊野大社]

熊野大社のことを書いたので、その関連で、昨年秋、特にこのことについて書いてくれと依頼されて書いた文章を転載しておきます。地元の芸術文化協会の年刊誌に掲載されたのですが、結構反響があるようです。

   *   *   *   *   *

IMGP5601熊野大社拝殿前神輿.jpg

●古代からのメッセージ
   ―宮内熊野大社の位置の不思議
     
 「米沢盆地」と言い、また「置賜盆地」とも言う。同じ盆地を指しつつそれぞれから浮ぶイメージは明らかに違う。「米沢盆地」は南を吾妻の連峰に遮られた米沢から見る盆地であるとすれば、「置賜盆地」は「北に丘陵、南に沃野、まことに住みよいところ」(山形県知事 安孫子藤吉「『南陽』の由来」昭和四十一年)であるわが南陽から見た盆地である。旧制興譲館中学校歌「盆地米沢狭けれど」の歌い出しには、卑屈にも通じかねないくぐもりがある。

 置賜に生まれ二十五歳までこの地を拠点として成長した伊達政宗は、秀吉により岩出山への移封を余儀なくされた。それから二十三年を経た慶長十九年(一九一四)、徳川幕府の命により越後高田城築城総裁として出向の帰途、故郷置賜の土を踏み、次の歌を残している。

 故郷は夢にだにさえ疎からず
     現になどかめぐり来にけん
 越方の思い旅寝のふるさとに
     露おきまさる草枕かな
 ある時はあるにまかせて疎けれど
     無きあとを訪う草枕かな

政宗が終生抱いていたであろう故郷置賜への深い愛着の表現である。

しかるにあろうことか、われわれが嫌悪を込めた意味で今も使う「ダテゴト」という言葉は「伊達事」であり、上杉がこの置賜を領有支配するにあたって、二一〇年に亘る伊達支配の遺風を一掃しようとした政策の名残りという(小川弘先生談)。たしかに、昭和六十二年、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」の放映によってはじめて、政宗が置賜で生まれ育ったことを知った置賜人は多かったはずである。上杉による伊達の遺風一掃政策は、斯様に徹底して現代にまで及んでいたのである。このことを知って以来、上杉がやむなく封じ込められた果ての「置賜」ではなく、政宗が生涯愛してやまなかった豊穣な「置賜」を取り戻さねばと思いつづけていた。

置賜盆地の美しさを実感するにもっともふさわしい場所はどこだろうか。

南陽市周辺でいえば、井上ひさし氏が南陽市での講演の折誇らしげに語ってくれたのだが、司馬遼太郎氏が盆地の風景が目に飛び込んだ瞬間「あっ」と声を上げたと言われる鳥上坂からの眺望をはじめ、十分一山、臨雲亭跡、秋葉山荘、笹子平、漆山の虚空蔵尊とついつい高い所を考えてしまいがちである。しかし、盆地の美しさがなによりもそこに住む人にとってのことであるとするならは、まずは盆地の内部で考えるべきである。それに高所から見下ろす風景は、時代と共に大きく変化するが、盆地の中から見回す四周の青山が織りなす一大パノラマは、古代置賜人にとってもわれわれにとっても、また未来の置賜人にとってもほとんど変わることのない永遠の置賜そのものである。

ならばそれを感得するに最適の場所はどこか。私にとってのそれは、伊達政宗が生涯の師となる虎哉和尚と共に過ごした高畠夏刈の資福寺跡周辺である。大河ドラマ放映以前にはほとんど顧みられることもなかったその場所に立って、置賜盆地の自然が古来育んできた置賜人の心映えがどのようであつたかを思いやってみるといい。そこから見る置賜は、「盆地米沢狭けれど」と歌う上杉的感覚とは無縁な、美しい周囲の山々の麓まで目一杯に広がる一大沃野である。結城哀草果が、

 置賜は国のまほろば菜種咲き
     若葉茂りて雪山も見ゆ

と詠い、浜田広介が、

 しら雪のふる国にして水無月の
     山ことごとく青の青山
と詠った置賜である。

しかもこの資福寺のあった位置には、置賜という土地のただならなさを証するかのような不思議な事実が秘されてもいるのである。

今から四半世紀をさかのぼる昭和五十五年、NHKで「知られざる古代」という番組が放映され大きな反響を呼んだことがある。奈良の写真家小川光三氏が、伊勢の斎宮から淡路島の伊勢の森に至る北緯三四度三二分の東西線上に、日の神である天照大神に関係する神社が建ち並ぶことを発見し、その線を「太陽の道」と名付けた。それに興味を持った当時NHKのチーフ・ディレクター水谷慶一氏によって番組化され広く一般に紹介されたのだ。以来山岳と神社配置の位置関係が注目されるようになっていた。そんな流れの中で、ふとこの置賜はどうなのだろうかと思い立ち、三角定規、コンパス、色鉛筆を持って五万分の一地形図に向かうことになった。

寝食を忘れるほどだった。時間を見つけては地図にのめり込まされることになった。というのも、宮内熊野大社を基点にした神社寺社山岳配置がなんともすごかったのだ。熊野大社を中心に地図は何色もの線で埋め尽くされていった。

主だった例を挙げてみよう。
熊野大社を含めた三点が一直線になるのは、水林熊野神社―大鷹山―熊野大社、吉野高倉山―熊野大社―矢の目羽黒神社、長谷観音―熊野大社―深沼八坂神社、熊野大社―椚塚羽黒神社―高畠根岸山、別所皇大神社―熊野大社―岩部山、スケールを広げて、飯豊山神社―熊野大社―山形神室岳、栂峰―熊野大社―黒森山、祝瓶山―若松山―熊野大社、山形瀧山―熊野大社―梨郷神社・・・これらの線上には必ずと言っていいほど、鳥居の記号や山の峯がある。

あるいは、熊野大社と屋代の竹森山(白髭神社)はちょうど二里(七八五〇米)、これと同距離なのがいくつもある。大鷹山と赤湯烏帽子山八幡宮、高畠大洞山と大橋畿内神社、椚塚羽黒神社と高山赤木八幡、吉野高倉山と金山龍の口明神、そして白龍湖と梨郷竜樹山も。その他限りない。

面白いのが「葉(羽)山」の位置関係。村山の葉山山頂と熊野大社を結ぶ線上に宮内長谷観音の奥のお羽山が位置し、この線を南に延長すると、旧米沢市内のどの南北道路から見ても正面に位置する兜山がある。そして熊野大社からみてこの線と西五九度に長井葉山神社が位置し、一度違いの東六〇度には上山葉山山頂がある。しかも長井葉山神社と上山葉山山頂、熊野大社からの距離がぴったり等しい。

もろもろの中でとりわけ大発見と思えたのが、夏刈資福寺跡を中心とする神社寺社山岳配置だった。

熊野まんだら図.jpg

今は千代田清掃事業所の南方、松川の東岸に位置した資福寺は、弘安七年(一二八四)長井時秀による創建で、開山は大休仏源禅師。大休禅師は、元寇に抗した執権北条時宗が中国から招いた時の名僧で鎌倉円覚寺二世、建長寺三世でもあった。関東十名刹の一つに数えられて鎌倉五山との交流も深く東北有数の寺院であった。二百メートル四方二重の土塁の中に僧坊が軒を連ね、学ぶ者数百人に及んだという。輝宗が嗣子政宗の師として招いた虎哉宗乙が中興した。輝宗と政宗の母義姫の墓所でもある。伊達藩に従い今は仙台北山に残る。

この資福寺跡から見て、ぴったり真東に位置するのが高畠安久津八幡、真西が小松諏訪神社、そして真北が宮内熊野大社なのである。三社とも高畠、小松、宮内を代表する古社。これだけではない。真南には、置賜から見ることのできる最高峰西吾妻山頂二〇三八メートルがある。さらに、安久津八幡と熊野大社を結ぶ線を延長すると朝日連峰の最高峰大朝日岳一八七〇メートルに至る。しかもその線上に赤湯烏帽子山八幡宮、二色根薬師寺がある。

この神社寺社山岳配置の妙、いったいこれはどういうことなのか。

熊野の森をもつ宮内の地が風水で言うところの四神相応の地であることはよく知られてきた。東に流水があるのを青龍、西に大道があるのを白虎、南に沃野があるのを朱雀、北に丘陵があるのを玄武として、古来その地を都に選ぶことで繁栄がもたらされるとした。

「南陽」の地名の由来でもある北に丘陵、南に沃野は言うまでもなく、東に清流吉野川、そして西には、大峠から会津、今市、日光を経て江戸、京へと通ずる奥州の正街道、そのルートに通ずる矢の目街道が走る。この地はまさに都の条件であるための教科書通りの地勢条件なのであり、熊野大社はその地を統括する位置にある。

ちなみに、四神相応の代表的例として、大和盆地の藤原京、京都の平安京があり、熊野大社的役割を果たすのが、藤原京にあっては耳成山、平安京にあっては船岡山。いずれも条里制町割の上辺ほぼ中央に位置し、周辺の山岳、神社仏閣の不思議な相互関連を介している。藤原京、平安京を五万分の一の地図で確かめてもみたが、盆地のスケールにおいても、線引きの結果得られる不思議さの度合いにしても、ひいき目ではなく熊野大社の方がすごい。

もうひとつの発見がある。
春の彼岸の中日、晴れ上がった気持ちのいい朝だった。熊野大社に参拝にでかけ、日の出を背に感じつつ石段を上りながら自分の影がまっすぐ石段に平行であることに気づいた。振り返ると太陽が正面に顔を出しつつある。登りきって見ると太陽が山の端から顔を出しおえたところ、時計を見るとちょうど六時を指していた。熊野大社の石段は彼岸の中日の日の出の方向ぴったりの向きに造られていたのである。

上杉的感覚からの解放、「辺鄙な」と思い込んでいた置賜の見直しが出発点だった。政宗が生涯忘れることができなかった置賜とは何なのか。その思いがはからずも熊野大社の位置の不思議さの発見へとつながった。平成18年の今年、千二百年祭を迎えようとしている熊野大社。大同元年(八〇六)の再建であって創建ではない。縄文のはるか昔からこの地は聖地、霊地であったのだろうと思う。そうとして、いったいこの配置は誰の仕業か。神なのか人なのか。その意味するところを賢しらな知識で無理に解こうとはしない方がいいという思いがある。古代の人々に比べて現代人の知恵が進歩したとは思えない。あるいは人間はどこかで道を踏み迷い、あらぬ方向へと向かって進んでいる、そんな気がしてならない。とするといずれ修正の時が来る。謎が解けるのはそれからなのかもしれない。今はその時まで、「現代人よ謙虚であれ」との古代からのメッセージとして受けとめておきたい。

 


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コメント 3

亀子

初めまして。私は鎌倉市に居ります。地図に三角定規を乗せながら眺めています。こちらも熊野神社は謎めいております。あと、神奈川県葉山町より南には上ノ山、長井などの地名があります。そちらの方にも立石という地名がありますか?羽山信仰のある場所で東国、東夷の地ということでしょうか。こちらの四神水明は真南ではなく30度傾いていて、夏至の日没の影が大路に直交します。姫路と同じタイプです。
by 亀子 (2007-07-10 15:08) 

瀬戸大同

 私は、来年は古事記にちなんだ神社をまわってパワーをもらおうかと思っています。そこで出雲の国あたりに行こうかなと思っているのですが、調べてみると島根県は出雲大社も有名ですがほかにも穴場があることが分かりました。たとえば安来市。ここは日本列島の生みの親であるイザナミの母神の神陵があってそこは比婆山久米神社と言うのだそうです。さらにはオオクニヌシへスサノオが試練を与えたという須賀の宮(富田八幡宮境内社;須賀神社)などがあると言います。
 さらに面白いのは、ここは考古学的にも興味深く、古墳時代以前の弥生時代に四隅突出墳丘墓という後の古墳にまけないくらいの精巧な土木技術で王の墓を作っていた、全国最多の集中地帯があって、それが古墳時代に入っても全国最大級の方墳をつくっておりそれが古代出雲王陵の丘となって整備されているようです。どのあたりで一番パワーをもらえるか楽しみです。
by 瀬戸大同 (2011-12-29 21:47) 

亀井静香ファン

 どうか日本の神道の混乱を立て直してください。
by 亀井静香ファン (2014-02-14 00:42) 

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