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幼稚園創立五十五周年にあたって [幼稚園]

園長に創立五十五周年にあたって30分ほど教職員に話してくれと言われて書いたメモ。

○初期の歴史
昭和26年(1951)10月  賀川豊彦先生講演会 
(熊野講堂が立錐の余地も無いほどの聴衆で埋まったという。そのとき集まった入場料8000円がそっくり幼稚園建設基金として託されたのがはじまり。その時残された色紙。)

   「幼児を我に来たらせよ 天国に入るもの かくの如し」

【賀川豊彦】
神戸市に、回漕業者・賀川純一と徳島の芸妓・菅生かめの子として生まれる。幼少期に相次いで父母と死別し、5歳の時姉とともに徳島の本家に引き取られるも、兄の放蕩により15歳の時賀川家は破産、叔父の森六兵衛の家に移る。旧制徳島中学校(現・徳島県立城南高等学校)に通っていた1904年、日本基督教会徳島教会の宣教師H・W・マヤスより受洗。この頃安部磯雄、木下尚江の著作を読み、キリスト教社会主義に共感を覚える。またトルストイの反戦思想にも影響を受け、軍事教練サボタージュ事件を起こす。伝道者を志し、1905年明治学院高等部神学予科に入学、卒業後の1907年、新設の神戸神学校に入学する。
 

結核に苦しみ、また信仰への懐疑に懊悩しながら、やがて「貧民問題を通じて、イエスの精神を発揮してみたい」と一念発起し、1909年神戸市新川のスラムに住み込み、路傍伝道を開始する。1911年に神戸神学校を卒業、1912年には一膳飯屋「天国屋」を開業した。1914年渡米し、プリンストン大学・プリンストン神学校に学び、1915年スラムでの経験を踏まえて『貧民心理之研究』を出版する。後に文中に差別思想があるとして部落解放運動関係者から批判された。1917年に帰国すると、神戸のスラムに戻り無料巡回診療を始めた。また、米国留学中の体験から貧困問題を解決する手段として労働組合運動を重要視した賀川は、鈴木文治率いる友愛会に接触し、1919年友愛会関西労働同盟会を結成、理事長となった。同年日本基督教会で牧師の資格を得る。1920年に自伝的小説『死線を越えて』を出版、一大ベストセラーとなり、賀川の名を世間に広めた。印税はほとんど関与した社会運動のために投じられた。また同年、労働者の生活安定を目的として神戸購買組合(灘神戸生協を経て現・コープこうべ=日本最大の生協)を設立、生活協同組合運動にも取り組んだ。

1921年、神戸の三菱造船所(現・三菱重工業)・川崎造船所(現・川崎重工業)における大争議を指導するも、会社側の強硬な対応により敗北を喫し、これを契機に関西の労働運動において急進的なサンディカリストの勢力が増していった。暴力を否定し、時には無抵抗主義を唱える賀川の人格主義的な主張は、次第に敬して遠ざけられるようになっていった。賀川はやがて農民運動に活躍の場を移すことになる。

1922年、協力者杉山元治郎とともに日本農民組合を設立し、本格的に農民運動に取り組んだ。組合は急速に発展し、3年後の1925年末には組合員数は7万人を超えた。この間、1923年関東大震災の罹災者救済活動を行う。また無産政党運動にも積極的に関与し、1926年労働農民党結成に当たっては執行委員に就任するが、同年末の左右分裂に際して党を脱退した。

1920年代後半以降は、社会運動から宗教活動へと比重を移していった。1929年、基督教連盟の特別協議会は賀川の主導により「神の国運動」を議決、賀川は「百万人の救霊」を目標として、1932年まで全国を伝道のため巡回した。また米国・中国・欧州等世界各国で講演活動を行う。戦時中は反戦思想の嫌疑によりたびたび憲兵隊に拘引された。

戦後は東久邇宮内閣参与や勅選貴族院議員を務め、日本社会党の結成にも参画した。マーク・ゲイン著「ニッポン日記」によると東久邇内閣の後任首相として有力であったらしいが、戦時中の翼賛的な活動が原因で実現しなかったとの事。同書には一般に知られる賀川の人物像とかなり食い違う姿が記されており、またそこで書かれている様な賀川への批判がGHQにより封じられていたともある。晩年は世界連邦運動に取り組み、1955年にはノーベル平和賞候補者として推薦された。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

昭和27年(1952)5月   開園  宍戸七弥園長
昭和30年(1955)4月   第2代 宮越文次郎園長 能子先生
昭和33年(1958)9月   第3代 塩谷隆園長

≪塩谷隆副牧師(越谷教会)
先生は1955年(昭和30年)5月21日副牧師として赴任された。青年会・高校生会(聖旨会)・伝道圏の担当をされながら、「『まきば』→『牧場』→『月報』の編集のアドバイスをしてくださった。静かな佇まいの先生の中にこめられた情熱が青年たちの心をひきつけた」(田中昌光談)1957年(昭和32年)6月2日甘楽教会の招聘を受け赴任された。2002年9月に召された。≫http://www5d.biglobe.ne.jp/~koshi-ch/syo/rekishi/ayu11/ayu11.htm#shioya

昭和34年(1959)4月  第4代 足立守園長 アヤコ先生

○ 宮内の「窓」としての役割

○ 祈り―無私

中学一年まで通った日曜学校。何が身についたかと今思い返せば「祈る」ということだった。最近いい本に出会った。

≪そうしたヒーラーたちが共通にもっているように思われたのは、我を通さず道をゆずっていることだった。

エリザベスからすれば、ほとんどのヒーラーは、それぞれの意思を表明した後で一歩身を引き、 なんらかのヒーリング力のはたらきに身をゆだねていると主張しているように感じられた。

それはあたかもドアを開き、何か偉大なものが入ってくるようにしてやるかのようだった。

高い成功を収めたヒーラーの多くは、心霊世界から、集合無意識から、さらに、イエスのような宗教上の人物から、助けを求めた人たちだった。

それは、自分の力を誇示するような自己中心的なヒーリングというより、「この人が癒されますようお願いします」という依頼というべきものだった。

こころに描かれたそのイメージの多くは、リラックスすることと関係があり、心霊や光や愛を導き入れるものだった。≫リン マクタガート『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』

○ 何か偉大なもの―ゼロ・ポイント・フィールド

≪◆天才と凡人の違い2~サヴァン症候群と固有性という視点 2004.1.2
 ある番組で、サヴァン症候群(Savant Syndrome)が取り上げられていた。サヴァン症候群とは、「知能障害をもちながらも、例えば音楽や目で見た風景を写真と同じくらいに見事に再現できるなど、突出した記憶力を持つ人々のこと」を云う。
 わずか3歳にして、サッカー選手の素早い動きを正確に捉え、遠近法を駆使して高度な線画で絵を描くことができたナディア。
 一瞬にして通りすぎる貨物列車を線路脇に立って眺めるだけで、有蓋貨車が何台あったかを即座に言い当てられたジェレミー。
 一度聞いただけで、どんな難しい曲でも、どんな長い曲でも演奏できたレスリー。 
 サヴァン症候群の人たちは、概念でものを見ていないという。概念でものを見るということは、言語能力を獲得するということである。そしてこの特殊な能力は、言語能力が獲得されるとと失われてしまうのだ。少し長くなるが、中澤宏光氏のサイトから引用しよう。
 《人間には「直観像」という能力がある。直観像は、言ってみれば写真のような記憶のことで、見たそのままを細部まで覚えており、それを頭の中に写真があるように思い出すことができる。
 ただこの能力は実際には子供の頃にはあっても、大人になるにしたがって消えてしまうという。
 物を見るとき、あるいはそれを記憶するとき、おそらくかなり言葉の影響をうけている。現代思想に大きな影響を与えた記号学の祖であるソシュールは、「ラング」によって、世界が分節化されているという(ここでいうラングは言葉と同じものと考えていい、厳密には違うが)。
 「ラングは、われわれと世界を媒介する関係の網目である。コップはコップという実体としてわれわれの眼に入ってくるのではなく、コップを他と区別し、理解するのである」
 ナディアは言語の発達が遅れていた。そのために彼女は上記のような言葉で世界を切って、見ることをせず、ありのままを受け取ることができたのだ。このありのままを受け取るのが「直観像」であり、言語の獲得と平行して失われる。ナディアの才能は、言葉を知らないから、花開いたといえなくもない》
 言葉を獲得していくということは、「あのコップ」と「このコップ」の固有差をないものとして、「コップ」という一般概念に括っていくということである。恐らく、それが完成するのは小学校の間なのだろう。小学校に上がる子供の場合、概念が育っていないことが多い。
 たとえば、以前、3歳ぐらいの子供が手にしていた風船が空へ飛んでいってしまったことがある。母親は別の風船をあてがったが、子供は首を振って譲らなかった。飛んで行ったあの風船がほしいと泣きわめいたのだ。
 普通に聞くと、聞き分けのない子供というふうに読んでしまうけれど、概念という視点を導入すると、事態は様変わりする。
 大人からすれば、「この風船」も「あの風船」も、同じ「風船」である。「風船」という概念を満たすものである。だがら、子供は概念で風船を見ていない。子供にとって、「この風船」と「あの風船」は違う。子供は、風船という「概念」で示されるものがほしかったのではなく、「あの風船」がほしかったのだ。そして、それは、恐らくサヴァンと同じ視点なのである。
 論旨は若干異なるが、柄谷行人が『探究Ⅱ』で<一般-特殊>という軸と、<普遍-固有>という軸を取り上げている。 <一般-特殊>というのは、あるひとつの個体が一般的か特殊かという軸で判定する視線である。ビスが数百本あるとして、1本だけ形が違うものがあれば、それは特殊、すなわち異常ということになる。対して、<普遍-固有>は、個体を、他のものと比べて一般的か特殊かという見方ではなく、「その個体」「あの個体」というように、固有性において見る視点である。ビスが100本並んでいるとしても、このビスとあのビスは違うという見方をする。 友達のA君を見る場合を例にとろう。 「A君はどんな人ですか?」と聞かれた場合、「変わった人です」とか「普通の人です」「目立たない人です」と答える人は、<一般-特殊>という視点でA君を見ていることになる。でも、「かけがえのない友達です」と答えた人は、<普遍-固有>という視点でA君を見ていることになる。 <一般-特殊>という視点は、言語的な、概念の軸である。それに対して、<普遍-固有>という視点は非言語的な、直観像の軸である。 大人は、通常、<一般-特殊>という視点でものを見ている。 5個そろっていたテニスボールが1個なくなってしまえば、またお店で1個買ってくればよい。なくなった「あのテニスボール」と新しく買い換えた「このテニスボール」は同じ「テニスボール」という概念に当てはまるものだからである。 だが、子供は、<普遍-特殊>という視点でものを見ている。 あのテニスボールとこのテニスボールは違う。5個そろっていたテニスボールが1個なくなってしまえば、なくなった「そのボール」は永遠に戻らない。別のテニスボールを買い換えたとしても、それは「あのテニスボール」ではないからだ(個人的な経験で申し訳ないが、小学校4年の時、友達の家に遊びに行ったことがある。その時、テニスの硬球を持っていったのだが、友人の兄がバットでかっ飛ばして用水路に落っことしてしまった。硬球は二度と帰らなかった。友人の兄は、仕方がないなあという様子で、頼んでもいないのに野球の軟球を数個とテニスの硬球をくれたが、複雑だった。誤魔化された気がした。両手いっぱいにボールを抱えながら、用水路に流されてしまった硬球はどうなったんだろうと考えた。今思えば、あの時の自分は、「あの硬球」がほしかったのだ。凄く気に入っていたボールだったのである)。 ところが、概念を通さずに見るのは、何も子供に限ったことではない。大人だって、恋愛の場合には、<一般-特殊>という「概念の視点」ではなく、<普遍-固有>という視点で異性を見ているのだ。 それが顕著に出るのは、彼女と別れてしまった時である。 友達から「女なんかいくらでもいるさ」と言っても慰めにはならないことの方が多い。別れてしまった「あの女」と目の前にいる「この女たち」は、同じ「女」という概念のものではある。だが、「あの女」は「この女」ではない。そしてあなたが求めている女は、「この女」でも、女という概念に当てはまる女一般でもなくて、「あの女」なのである。 <一般-特殊>という概念の視点と、<普遍-固有>という非概念の視点。 常識的な視点というのは、<一般-特殊>という概念の視点だろう。右脳とリンクできない人は、天才になれないという言い方をよくするけれど、概念という視点を通すか通さないかということが関係しているようだ。もう少しいえば、鈍感なセンサーは概念でものを見ているのであり、敏感なセンサーは概念によらずにものを見ているということになる。 たとえば、きわめて通俗的な、右脳・左脳という区別の仕方がある。 映像的なものや直観像を扱っているのは右脳であり、右脳主体でものを見ていると、「あの風船」と「この風船」を区別することができる。右脳は、<普遍-固有>の視点である。 言語的なものを扱っているのは左脳であり、左脳は言語の獲得や発達と関係している。左脳は概念の牙城であり、言い換えるなら、それは<一般-特殊>の視点ということである。そして、右脳主体でものを捉えているのか、左脳主体でものを捉えているかで、見え方が変わってくることになる。 いつでも左脳主体で見ている人は、概念でしかものを捉えていない。だから、リンゴが落ちても、<一般-特殊>という軸で片づけてしまう。 リンゴが今落ちた。 それは特殊か。 いな、特殊ではない。一般だ。ならば、記憶に留めるものでもない。 そうやって、なんの驚きもないままリンゴが落ちたという情報が片づけられてしまう。そこから万有引力の法則を思いつくことはできない。概念でものを見ている人は、発見が少ないのである。 だが、右脳を主体にしてものを見ることができる人は、<普遍-固有>という視点でものを見ることができる。目の前で起きたことが特殊でなくても、驚くことができる。だから、新しい発見ができる。そして、それが恐らく天才の所以なのだ。≫ http://www.onyx.dti.ne.jp/~sultan/colum110.html

≪量子物理学のいくつかの方程式で、つねに差し引きゼロとして無視されてきた項について、改めて考えた人たちもいた。それはゼロ・ポイント・フィールド――モノとモノのあいだの空間における微小な振動の海――を示していた。もし、物質のもっとも基本的な性質に、このゼロ・ポイント・フィールドを含めて考えるなら、私たちの宇宙の奥底に存在するのは、エネルギーに満ちた海――ひとつの巨大な量子場――だ、と彼らは理解した。もしこれが本当なら、あらゆるものは、目に見えないクモの巣のように、それ以外のあらゆるものと結びついていることになる。≫『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』

≪ゼロ・ポイント・フィールドの存在は宇宙のあらゆる物質が波動によって相互に結びついており、その波動は時間と空間を超えて無限の彼方にまで拡がり、宇宙のある部分をそれ以外のすべての部分と結びつけていることを暗に示していた。ゼロ・ポイント・フィールドはもしかすると、中国 の古代の書物のなかでエネルギー場に似たものとして記述されている生命の力、すなわち「気」という中国の考えなど、数多くの形而上学的概念を、科学的に説明しているだけなのかもしれない。あるいはまた、物質が創造される起点となった、旧約聖書にある「光あれ」という神の最初の言葉を反映している可能性もある。≫『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』

 ○ 『水からの伝言』

≪ 「水の結晶写真」

昨今、「水」を凍らせて、その結晶を写真に撮った本が静かなブームを呼んでいます。また、「テレビや雑誌」などでも紹介されて、人々の関心を集めるようになりました。言葉や文字には、それぞれ固有のエネルギーが宿っています。 水に、よい言葉や文字を見せたり、音楽を聴かせると、「水の結晶」は美しく変化するそうです。

★ 例えば、「愛や感謝」のような美しい言葉は、美しい結晶を作り、逆に、暴力的な言葉は、水の結晶が壊れてしまうのである。水には見えない世界のエネルギーを映す性質があるようです。 これまで長年、「意識や言葉」にはエネルギーがある、と言われてきました。しかし、いくらそうは言っても、見えないものは、容易に信じることができません。また、それを目で見えるような形で示すものもありませんでした。 ここにきて、ようやく、それを証明するようなものが現れてきました。 これを事実として見せてくれたのが、水の研究で有名な、I.H.M.総合研究所の「江本勝 氏」 である。目に見えぬ世界の一端を、事実として明らかにしたという点で画期的な出来事である。

 「ありがとう」の結晶 「ばかやろう」の結晶

● 常識では考えられないことですが・・・ ガラス瓶に水を入れて、一方には、「ありがとう」と書いた紙を貼り、もう一方には、「ばかやろう」と書いた紙を貼り、水の結晶を写真に撮ると、大きな違いが出てくるのである。 ここで言えることは、私たちが何気なく使っている言葉が、いかに大事なのかを教えてくれます。「よい言葉」を口にすれば、回りによいエネルギーを与え、逆に「悪い言葉」を口にすれば、破壊のエネルギーとなってしまうのである。文字や言葉にも固有の波動・エネルギーがあるのです 。 古来より、日本では「言霊」(ことだま)という言葉があり、「言葉には霊が宿っている」と信じて、言葉のもつ不思議な力に気づき、それを重要視してきました。 昔から「言葉を選びなさい」「言葉を大切にしなさい」などの教えがあるのはこのためです。

「しようね」の結晶  「しなさい」の結晶

● 同じように、「・・しようね」と書いた文字を貼った水は、キレイな結晶を作りますが、「・・・しなさい」と書いた水は、結晶を作りません。 「・・・しようね」は、”ひまわりの花”のような美しい結晶です。キレイですね。これに対して、「しなさい」は結晶を作りません。命令形は、心に伝わらないのです。ちょっとした言葉でも、こんなに大きな違いがでてきます。意味深いですね。 「愛・感謝」は、黄金の輝きです   「自己愛」の結晶 「ムカツク、殺す」の結晶、恐ろしい姿です。 言われた人より、言った人が影響を受けることになります。

● 最も美しい結晶をつくるのが「愛・感謝」という言葉であるという。 それは、最高の美、完璧な輝きの結晶である。やはり、この世の中で「愛と感謝」の気持ちに勝るものはない、ということでしょう。 無条件の愛、博愛という言葉に代表されるように、愛は崇高なエネルギーです。 そして、あらゆる宗教の根源もここにある。それは私たちへの「メッセージ」です。愛と感謝が最高のエネルギーならば、 今、私たちに最も必要とされるのは、「愛と感謝」になります。言葉で言うと 「ありがとう、愛してます!」。

 ● 若い人たちが言葉にする、「ムカツク、殺す」の結晶です。醜くゆがみ、すさまじいほど破壊的なエネルギーである。 人が言葉を発すれば、それを最初に受け取るのは「自分自身」です。それがいい言葉であれ、悪い言葉であれ、自分の発した言葉は、まずは耳に聞こえ、そして、全身に響き渡ります。人間の体の70パーセントは水です。言葉を発すれば、水の結晶みたいに、言葉のエネルギーが体に刻ままれることになるかもしれません。 よい言葉であれ、悪い言葉であれ、すべては自分に返ってくるのです。 他人には聞こえないような小声でも、自分の耳には確実に届きます。人の悪口を言う人の表情をよく見てください。どこか暗い表情をしていませんか。 人の悪口を言ったり、足を引っ張ったりすると、その人は嫌われます。自分に返ってきます。「うらみ」という悪いエネルギーを浴びて、その人はどんどん運が悪くなっていきます。そういう人は、人相・顔つきも悪くなっていくため、ますます人に嫌われてしまいます。最後には悪循環にはまってしまいます。だから他人の悪口は言わないことです。

 ● これは、小学生の実験です。 瓶に「ご飯」をつめて、片方には「ありがとう」と書いた文字を貼り、もう一方には、「ばかやろう」という文字を貼り、学校から帰るたびに、毎日、瓶に向かって、「ありがとう」、「ばかやろう」と、大きな声で叫んだ結果です。 1ヶ月後には、「ばかやろう」と言われた「ご飯」は、腐敗して「真っ黒」になり、「ありがとう」と声をかけた「ご飯」は、発酵して麹のような香りになったそうです。 いい言葉と悪い言葉には、これほどまでに差があり、大きな影響を与えてしまいます。少なくとも、食事をするときは、手を合わせて、「ありがとう」と感謝の気持ちをあらわし、「いただきます」、「ごちそうさま」と声をかけることが大切です。ご飯もおいしくなります。子供にはそのような教育が大切です。 不思議なもので、子供といえども、「ありがとう」と言うときは、自然に声も優しくなり、逆に、「ばかやろう」というときは、その雰囲気も厳しくなるそうです。子供は正直です。

 ● さらに、他の実験では、もう一つの瓶を用意して、その瓶にはラベルを貼らずに、声もかけないで放置した結果です。一番、最初に腐敗したのが「ばかやろう」の方ではなく、無視した方のご飯であったと言う。 無視する、声をかけないということが、これほどまでに大きなダメージを与えてしまいます。叱れられてでも、声をかけてもらいたい、子供の心理がこれでわかるような気がします。 声をかける、関心を示すというのは、生命エネルギーを与えるということを意味します。いちばん、生命を害するのは、無視をされることなのである。愛という言葉の反対です。部屋の中に花や植物を置いてあるなら、「おはよう、元気、キレイだね」と声をかけて、愛のエネルギーを送りましょう。愛と賞賛のエネルギーは植物の生育を助け、大きく成長するでしょう。もちろん、犬や猫、昆虫にもです。

 ● 祈り、意識の力! 思いのエネルギーは、”水を浄化”します。 「水への感謝・祈り」を行うと、結晶にも変化が現れ、荘厳な結晶を作ります。(1999年7月25日、朝4時30分、350名の人が集まって琵琶湖に向かって祈りをささげたと言われます) どんなに汚れた水、水道水でも、人の思いや祈りに応えてくれるというのは、神さまからのプレゼントかもしれません。いま地球規模での環境汚染が進んでいますが、私たちの努力しだいで、よくなるということが分かってきました。思いやり、祈りが純粋であれば、水は美しい結晶に変化してくれるのです。感謝、ありがたいことです。 意識には、このような力があるのです。私たちが思い考えることが、それが形(現実)となって現れてくるのです。だからこそ、いいことを望むなら、愛・感謝や前向きな気持ちが必要なのです。 書かれた文字や記号にも固有のエネルギーがあります。パワーのある人が、願いを込めて文字(呪文)を謹書すれば、文字には大きな力が宿ることになります。お守りや護符や霊符などがそうです。(テレビで拝見する「陰陽師」の祈祷・呪文には、このようなエネルギーが宿されています)。 ①琵琶湖、「祈りの前の結晶」     ②琵琶湖、「祈りの後の結晶」 合掌したときにできた「祈りの水の結晶」 群馬県の藤原ダムの水。 寺の住職が祈祷した後にできた結晶です。それは水の完璧な結晶です。このような水を飲んだら、心身ともに健康になるでしょうね。

 ● 阪神大震災では、地震のエネルギーが水の結晶にも大きな影響を与え、不気味な姿を映し出しました。それとともに、人々の悲しみ、恐怖・パニックが水の結晶にも影響を与えたと言われます。大勢の人がお亡くなりになりました、合掌。 しかし、三ヵ月後に調べてみると、水道水は、同じ水かと疑うほど美しい結晶になっていたと言う。人々の恐怖も減り、また全国各地から届いた支援や、善意の輪も広がり、そうした復興へ向けた動きが水の結晶に影響を与えたと言われる。(しかし、被害を受けた大勢の方々、心に受けた恐怖、悲しみ、その記憶は消えることはない)。 人は絶望すると、免疫力が落ちて、病気になったりします。水は言葉のエネルギーを映し出すから、「絶望」のという文字の結晶は、それを想像させるような結晶を作ると推定できます。しかし、実際には六角形になろうとする結晶を作るそうです。どんな絶望にも、「希望」があるということです。水の結晶は、私たちにそのことを教えてくれます。感激です!たとえどんなに辛くても、越えることができるのです。 昨今より、「水の安全」が問われています。 「塩素」が入った都会の水道水は、写真を見るかぎり、結晶が崩れて無残な姿になっています。これに対して、自然の湧き水の結晶はダイヤモンドのような輝きを見せてくれます。塩素を取り除いて、そして、水を飲むときは、「ありがとう」と一声かけて、感謝して飲むといいです。そうすれば、ミネラルウォータよりもおいしい水になるでしょう。 昨今、携帯電話や電子レンジ、テレビ、パソコンから出る「電磁波」の影響が問題になっています。電磁波の影響で、水の結晶は破壊されてしまいます。携帯電話から出る電磁波の影響については、その弊害を指摘する研究も出ており、特に、 子供は注意が必要です。

● 参考・推薦図書、著者 江本 勝 「水は答えを知っている」サンマーク出版、(分かりやすく解説してあります)。『写真集「水からの伝言」 vol.2』 波動教育社、(感動的な写真がいっぱいです)。ホームページ、http://www.thank-water.net/japanese/index.html

 ★現代科学の最先端をいく「量子力学」では、物質だけではなく、精神・意識も波動(エネルギー)と捉え、この世界は、すべて波動(エネルギー)で成り立っていることが分かってきました。今日の最先端の科学では、精神や意識といった目に見えない領域まで踏みこまないと解明できないところまで進んできているようです。≫ http://www.ne.jp/asahi/aquarius/messenger/books_002.htm

○ 心も風景としてみることができる。そしてその風景にとけこんでしまう。 ―「千の風になって」の世界

千の風になって

私のお墓の前で 泣かないでくださいそこに私はいません 眠ってなんかいません千の風に千の風になってあの大きな空を吹きわたっています 秋には光になって 畑にふりそそぐ冬はダイヤのように きらめく雪になる朝は鳥になって あなたを目覚めさせる夜は星になって あなたを見守る 私のお墓の前で 泣かないでくださいそこに私はいません 死んでなんかいません千の風に千の風になってあの大きな空を吹きわたっています 千の風に千の風になってあの大きな空を吹きわたっています あの大きな空を吹きわたっています


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