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講演録でたどる「週刊置賜」30年のあゆみ [メモがわり]

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「講演録でたどる『週刊置賜』30年のあゆみ」というDVDをつくって当日参会者への記念品とした。15分のダイジェスト版を開会に先立って会場で見てもらった。

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10周年のときはみんな若く燃えていた。その頃、衆議院議員になって一年、徳田虎雄理事長は政治的にも身体的にも苦しい時期だったと思う。講演活動などまったくない時期だった。そんな時期にたしか、高畠のNが理事長に会ったとき、「置賜に講演に行く」と言われて、われわれに伝えたのだった。「理事長が何か重大なことを言いたいらしい」という話だった。当時米沢で独自に理事長と交流のあったメンバーと合流することになったのがこの時だ。「南陽獅子の会」は「置賜獅子の会」になった。

講演は平成3年4月27日(土)午後6時から。会場はこの年、宮内高校と赤湯園芸高校が一緒になってできたばかりの南陽高校の体育館。体育館の柿(こけら)落としの触れ込みで、高校側も協力的だった。入場料1,000円。その時のパンフレットが残っている。「目醒めよ!置賜の地霊たち―21世紀は置賜から」と題してB5版27ページ。16ページは徳田語録などの理事長紹介。そのあとに「『世界の置賜』たらんとする根拠と徳田虎雄氏講演会の意味」と銘打つ文章を載せている。(このことについては、「徳友会新春交流会」で書いていた。)

その時の文章が元になって「美(うま)し国おいたま―21世紀、置賜は世界の中心になる」のテープができた。講演会で10万なにがしの収益金ができたので、5万円ぐらい払ってYBCかどこかのアナウンサーに吹き込みを頼んでできた、ほんとうに良くできたテープだった。それに写真を合わせて、10周年記念祝賀会でスライド上映しようという目論見だった。しかし、写真は手分けして取り集めた記憶はあるが、当日は間に合わず何か別のものでお茶を濁した。(今回、これを20年ぶりに完成させてDVDの中に入れることができた。何とか多くの人に見て欲しい。)

 という前史があって、今回の30周年。20周年の時は特に何の趣向の記憶もないのだが、私の中では20年前の思いがくすぶっていた。ただの飲んでペちゃペちゃしゃべるだけの祝賀会にはしたくない。何回目かの実行委員会で、「酔った勢いで言うけれど、『週刊置賜』の30年のあゆみのようなものをまとめてみたいと思っている」と口に出した。 

 199 24-F 3.11鳥居.jpgその時頭にあったのは、3月11日の夜、息子が停電で真っ暗な町にカメラを持って出て行って撮ってきた何枚かの写真を使って何かできるかもしれない、ということだけだった。それからどれだけたった頃か、ふと「週刊置賜」に掲載された講演録をたどることで一つの歴史の流れを見ることができるかもしれないことに思い至った。それからがたいへんだった。

創刊号から総てのページをめくることになった。しかしこれがほんとうに宝の山だった。それをまとめたのが、以下の文。

講演録でたどる「週刊置賜」30年のあゆみ 

1.
昭和56年、1981年4月11日、30年のあゆみのスタートの日でした。
創刊の言葉にこうあります。
「エネルギー危機、食糧危機に始まった1980年代は、ある意味においては、人類生存の可能性を求める時代でもある・・・・・現代こそは、多くの困難な環境を克服し、生きる道を探し求める、人類21世紀を前にしての時代である・・・。とするならば、われわれ地方者は今、何を成すべきか。この地に生き、この地を継承・発展させる者の一人として、われわれは何を考え、何を成せば良いのか。『週刊置賜』を発刊する理由はここにある。」


「われわれは何を考え、何を成せば良いのか。」こう問いつづける姿勢のひとつの形が、この地で行われた講演を紙上で広く紹介することでした。その数はちょうど60。これらの講演録を通して「週刊置賜」30年のあゆみを振り返ってみることにしましょう。 

2.
第一号は徳田虎雄徳洲会理事長の「月月火水木金金」。30年間、休むことなく走りつづけることになる『週刊置賜』を暗示するような題でした。
「生命だけは平等だ」の理念を掲げ「いつでも、どこでも、誰でもが最善の医療を受けられる社会」を目指してスタートしてまだ8年目、当時は9つの病院だけでしたが、今や66病院を含む280余の医療施設、2万3千人のスタッフをもつ一大グループとなって日本の医療を引っ張っています。

このたびの大震災では、理事長のリーダーシップの下、いち早く被災地に医療救援チームを派遣して目覚しい働きをしました。 

実は徳田理事長は、9年前から身体の筋肉が利かなくなる難病ALSに冒され、最後に残された運動機能である眼球を動かし、文字盤に視線を向けることでの自己表現しかできません。しかし頭脳は極めてめいせき明晰、限りなく強い意志のみの存在となって、なお現実変革の活動を休みなく続ける奇跡の人です。

 3.
昭和50年代の創刊当初、商工会青年部や青年会議所とリンクして「地域づくり」が主なテーマでした。後に法政大学の学長になられて大学経営の手腕を発揮された清成忠男先生、植林地への除草剤撒布に反対する草刈り十字軍を組織し、実践的環境保護運動を提唱、後に加藤剛主演の映画にもなった足立原貫先生。小さな町のバッハホールで名を挙げ、宮城県知事になった本間俊太郎中新田町長との出会いは、仙台での徳田理事長講演会でした。

 4.
昭和59年の水戸部知巳米沢日本電気社長による「21世紀の置賜展望―情報化時代をどう生き抜くか」は、その後の時代を予見する講演でした。山形新聞の「21世紀の山形を考える」論文募集で最高賞に選ばれ一躍県内に名が知られた水戸部社長、その論文は、浜田広介さんの「ほしいもの 冬の炉端の あたたかさ もうひとつ 人のこころの 温かさ」の引用で始まっています。この講演会では、当時まだ出始めのケーブルテレビについて、「これまでのテレビの『観る喜び』から、こんどは『テレビに出る喜び』があたりまえになる」と予言されました。そいういえば『週刊置賜』も「出る喜び」をあたりまえのことにしてくれました。

 5.
多くの教育に関する講演があります。その皮切りは「親業」の近藤千恵先生。南陽市内三つの商工会青年部と南陽青年会議所が、「よりよい地域はまず家庭から」をテーマに取り組んだ教育シンポジウムの基調講演。題して「新しい親子関係の創造」。「ただ愛情がある、というのではだめです。子どもの気持ちを理解してやった上での愛情でないと、子どもの気持ちはどんどん親から離れていってしまいます」と強く訴えられました。この講演がきっかけで「親業訓練」が南陽市で開かれることになりました。
講演録は「タイムス文庫」として一冊にまとめられています。

 6.
ベストセラー「積木くずし」の穂積隆信さんの「親と子200日戦争体験記」がありました。


「子どもの笑顔を消さないで」は、滋賀県で障害児教育に取り組む福井達雨先生。「目に見えるものより 目に見えないものを」と訴えられました。福井先生は知恵遅れの子ども達と一緒に楽しい絵本をたくさん作っています。

遊学館初代館長の打田早苗先生は「子育ては技術ではない」。

教育評論家の遠藤豊吉先生は「うろたえぬ親であるために」。

亀岡小学校の森谷和子校長や自閉症児の親の会の須田初枝さん、小滝山村留学の横浜事務局でご苦労された竹田登茂子さん、変わったところでは、アメリカ花王の社長や花王本社の副社長を務めた星野敏雄さんの出身校宮内中での講演、中学一年1学期の通知票、英語の成績は「1」だったそうです。

 7.
南陽高校の初代校長、のちに山形県教育長を務められた木村宰先生は東南置賜地区PTA連合会の研修会で「家庭教育の中のいのち・まなび・かかわり」と題して語られました。教育長時代、山形らしい教育を考えるにあたって大きなヒントになった言葉として、酒田出身の詩人吉野弘さんの「奈々子に」の中から「お父さんがお前にあげたいものは 健康と自分を愛する心だ」を引用しておられます。
「唐突だが 奈々子 お父さんは お前に 多くを期待しないだろう。 ひとが ほかからの期待に応えようとして どんなに 自分を駄目にしてしまうか お父さんは はっきり 知ってしまったから。」につづく言葉です。 

8.
吉野弘さんの講演もありました。宮内幼稚園を会場にした「詩人の会」にお出での折、幼稚園母の会のお母さん方に語られた「飾らない言葉の力―子どもの詩を語る」です。
「詩人の会」は、谷川俊太郎さんをトップバッターに、日本を代表するそうそう錚々たる現代詩人の方々をお招きして、ワイングラスを傾けながら一晩お話を伺うというなんともぜいたくな集いでした。昭和61年の作曲家團伊玖磨さん、62年の大岡信さんの講演が集録されています。


團さんは「言霊の幸はふ国日本―作曲家は心の音を発掘する」、大岡さんは「日本の詩歌を語る―人類の言語の神秘性」。


終わってからの懇談も集録されています。團さんは、「人の心というものが心に静かに語りかける、そしてそれがさざなみのように広がって行く静かな社会にならないか」とつぶやくように語られています。

 

大岡さんは、原子力発電技術者の良心の問題に踏み込んだ発言をされていました。「原発はたとえ悪であろうと、それがある有効性を持っているなら、それをやるって風に決めてしまえば、技術者はそれで精神的な安定感をある程度は得られる。しかしそれはある程度であってですね、絶対、全面的な安心感にはならないんですね。その人が良心的であればあるほど。」宮澤賢治の、うまくゆかなかった農業技師としての絶望について語られたときです。

 

9.
井上ひさしさんは二回の登場です。
最初は昭和58年で南陽ロータリークラブの20周年記念事業。題は「世界の中の置賜人―日本型軽量合理主義の中で」。前の年、小松での講演に次ぐ、置賜では2回目の講演ではなかったでしょうか。
「週刊置賜」では、その翌朝、葉山温泉古窯までおしかけてインタビュー、その中で井上さんはまだ形の見えていない「こまつ座構想」を熱く語っておられます。


2回目は昭和63年の遅筆堂文庫オープン記念シンポジウムでの「図書館を使いこなそう」。
「結局、いろいろあるけど、ここが実はいちばん良いとこなんだという地域にしていかないと、ここに住んでいる甲斐がないと思いますね。・・・ここはもう、食い物はうまいし、漬物はい良いし、酒もい良いし、とにかく、出てみてわかりましたけど、すごくいいところなんですね。・・・それで、こっからひとつ、日本の為になるというか、世界の人が好きそうなものをですね、これはもう何年かかってもいいからひとつ、発信して行けたらいい。」
井上さんの遅筆堂文庫に懸ける思いでもあり、また井上さんから置賜人へのメッセージです。

 

10.
自信を持て置賜人。
過去をふりかえれば、置賜の豊かな縄文文化再発見をと訴えられたうきたむ風土記の丘考古資料館の川崎利夫館長「古代、置賜は輝いていた」。
民話の武田正先生のお話は「伝わる民話は六百五十―誇っていい民話の県」。歴史や伝統を大切に守り育てる風土であればこそ、ここは民話の宝庫なのです。


未来に向けては、豊源太さんの、「ほんとうの日本は置賜から」。「何が正しく何が正しくないか、まっとうな日本の歴史を取りもどそう」と檄をとばされました。

 

11.
さらに視野は世界に広がります。
アメリカはアーカンソー州出身の国際交流員リニカ・バトラさんは「山形県の風土と文化」、何の知識もなく山形に来て5年目、山形にずっと住みたいほど好きになったそうです。
チェコから武道の修業に来たスターニャ・シュラムコヴァさん。「日本の心」にすっかり傾倒、日本の精神文化を故国の人づくりに活かそうと、ふるさとに「日本武道文化センター」をつくったそうです。「礼に始まり礼に終わる」。日本文化のすばらしさをかえって外国の方に教えてもらわねばならなくなっているわれわれ日本人です。
 12.
平成3年から毎年「南陽の食と農 自然を語るいきいき交流会」が開かれ、そこでの講演もいくつか集録されています。
「田舎のヒロイン わくわくネットワーク」という、全国農村女性のネットワークづくりを進める福井県の畜産農家山崎洋子さんの「田舎暮らしは夢がある」。


その3年後にはご主人の山﨑一之さんが「なぜ農業だったのか―大学を捨てて拓いた『おけら牧場』」。「子ども達にテレビをやめたことのすばらしさということを解らせる社会をつくっていかないと、いい社会はできません。」と断言されています。

 

13.
「元祖脱サラ百姓」を自称する石川県の宮本重吾さんは「私が百姓になった理由―本音でやらなくちゃ」。


長井のフォークグループ「影法師」の作詞担当者青木文雄さんは「大切なものを大切に」と題して歌が生れた背景を楽しく語られました。


当時まだ町会議員の原田俊二川西町長も登場しています。「内外の農民との交流」と題し、海外の農民との交流体験をもとに、「地域の健康、地域の安全は自分達で守っていく・・・
そのネットワークを置賜の中で作っていきたい」と語っています。

 

 14
健康や環境に関しては、昭和62年の健康まつり、孫、子供たちの次代に食と農の大切さを引き継ぐには、年寄りの経験、智恵が欠かせないと訴える熊本のお医者さん竹熊宣孝先生の「くまさんの養生訓―たべものと健康」。
 平成になって、「天童温泉滝の湯ホテルのささやかなとりくみ」と題して滝の湯社長の山口元さんがEMボカシを活用した環境を守る取組みについて語られました。

 15.
スポーツに関する講演録も多彩です。
まず、ソウルオリンピック柔道の金メダリスト斎藤仁さん。「不屈の精神を持て」。池黒青年会が十周年を記念して開いたものでした。 


順天堂大学で箱根駅伝に1年から出場して4連覇、平成7年世界陸上 マラソン日本代表の倉林俊彰さん、「私の競技人生」。

 

輝かしい戦績をもつ仙台大学柔道部女子監督の南條和恵さん、「少しの努力そして工夫」。


ジュビロ磐田フィジカル・コンディショニングコーチ、この分野では第一人者の菅野じゅん淳さん、「ジュビロのやり方は?―勝つためのフィジカル・コンディションづくり」。


左沢高の女子剣道部を13回全国優勝、準優勝に導いた齋藤学監督、「夢・日本一への挑戦」。齋藤監督は高畠生れ、興譲館高校卒です。
ロサンゼルス五輪の金メダリストで当時北京五輪男子強化本部長具志堅幸司さん、「限界への挑戦」もあります。


山銀女子バスケットボール部ヘッドコーチで兵庫国体優勝に導いた小嶋裕二三さんは「努力・気配り・思いやり―常日頃の努力で掴んだ国体優勝」。


全国高校駅伝最多優勝を誇り、「プロジェクトX」にも取上げられた兵庫県立西脇工業高校陸上部渡辺公二監督の「心と体力と技術」もありました。ここ数年、南陽・東置賜駅伝チームの実力向上につながっているにちがいありません。

 

16.
講演というよりスピーチ、せいぜい1回から2回掲載の短編もキラリと輝いています。


「ナイショ話」を作詞した兄を語る花柳衛優さんの「結城よしをの思い出」。身内の方のお話で結城よしをがぐんと身近になりました。


考古学が専門、定年まで文化財一筋の南陽市文化財係長吉野一郎さんは「宮内・宮沢城と文化財」について語られました。独自に調べられた熊野大社の獅子頭の貴重さなど専門家ならではのお話が詰まっています。


数々の写真集も出されている佐藤吉栄さんは「私とカメラと秋山先生のことなど」と題して、会社ができるまでのご苦労、その間ずっと離すことのなかったカメラのこと、そして秋山庄太郎さんとの出会いなど短い中に中味一杯です。

 

17.
宮内は、黒江太郎さんがおられたことで、齋藤茂吉の疎開先の候補のひとつでした。
宮内在住の歌人井上宏子さんは、まだ10代の昭和22年、斎藤茂吉が宮内蓬莱院での歌会に来られたときの思い出を語られました。


齋藤茂吉については、疎開先の大石田で茂吉の世話をされた板垣かねお家子夫さんの息子さん金子阿岐夫先生が「齋藤茂吉の思い出―日常接した茂吉を語る」を残されました。自ら茂吉の「語り部」を自認される金子先生、茂吉の肉声が聞こえてくるような貴重な記録です。

 

18.
置賜出身で全国レベルでその道の第一人者として活躍されていた方々も登場します。
赤湯出身で舞踊家の花輪洋治さん。赤湯中時代の恩師佐藤徳三郎先生から始まり、モダンダンスの第一人者になるまでの多くの先生との出会いが語られています。


白鷹鮎貝のお生まれで、湯川秀樹博士に惹かれて京都大学に進み、宇宙物理学の第一人者となった佐藤文隆京都大教授。南陽高校で高校生向けに語った「私の『宇宙への道』」と、南陽天文愛好会結成十周年記念講演会での「宇宙のはじまり」、2本連続の集録です。

 

19.

南陽市の名誉市民になられた工芸デザイン家芳武茂介さん、「絹とデザイン」と題する亡くなられる2ヶ月前の講演です。「デザイン」という考え方を日本に根付かせる草分け的存在であった芳武さんならではの、深く本質に迫る芸術論が展開されています。そして曰く、「日本人は、生活の中に芸術を取り入れていることでは世界一上手」「用から出発して出来たものに美を与えることが日本人の特性」「日本人は用の美に敏感である」。芳武さんからの最後のメッセージでした。

 

19.
もう一人の名誉市民川崎暢川﨑電気社長の「先代社長の事など」も貴重なお話満載です。お父さんである川崎勇初代社長からは、「自分がここで生れて育ってきたところだから、なんとしてもここに会社を置いて、みんなが幸せになってもらうことをいちばん願っているんだ」といつも聞かされていたとのこと。そして昭和40年代になって、「川﨑電気があることで、出稼ぎに行かなくて済むような村になった。自分の夢が果たせた。」と語り、そしてさらに「3年後に死ぬ」「助けてもらった恩義を忘れるな。だから山形県から本社を移すな。これは遺言のつもりで聞け」といってその通り3年後に亡くなられたのだそうです。
 

20.
吉野石膏株式会社2代目須藤恒雄会長からは、宮内菖蒲沢のご自宅と東京の本社でと2回に亘って話していただいています。


「処分に困っていた燐酸肥料生産の副産物である石膏を使ってのボード生産、持っていってもらっただけでありがたい原料代、ただでもいいと言われるのに、儲かりすぎて税金に取られるのがもったいないんで、最初は1トン二百円、それでも儲かりすぎるんで600円で計算することにした」
「ほんとは株式公開でもして皆さんから資本を集めればよかったんだけど、うちの提携企業はみな大会社なんで金を調達する必要がなかったわけだよ。サインすればどこの銀行でも何億でも出すところだから、金が要らなかったんだなあ。」


儲かった金は美術品の収集に向けられました。
いま山形美術館では、ゴッホの油絵「白い花瓶のバラ」が寄託されたお披露目をかねて「吉野石膏コレクションのすべて」展が開催されています。山形市美術館にはコロー、ミレー、シスレー、セザンヌ、モネ、ルノワール、ルソー、ユトリロ、シャガールなどのフランス近代絵画139点。さらにその他、天童市美術館には横山大観、上村松園、小倉遊亀、東山魁夷、加山又造、杉山寧、平山郁夫など約100点が寄託されています。なぜ南陽でなかったのか。そんな思いがよぎります。

 

21.
もうひとりの須藤さん、宮内に生れ山形の文化のために生涯を捧げた須藤克三さんです。


理論社を創業し多くの児童文学者を育てた、小宮山量平さんは、日本の戦後史の中に須藤克三を位置付け、今なおその役割は終わっていないと訴えておられます。演題は「児童文学に賭けた半生―須藤克三との出会い」。
ふたりを結びつけたのは無着先生の「やまびこ学校」でした。


「戦後すぐ、日本語がこの世から消滅するんではないかという風な時代が来ていたわけです。・・・日本人が、本当の意味の日本人の心を失ってはならない。・・・いちばん大事なことは日本語というものを大事にしなければならない、そのことに心をつな繋いだのが無着さんの仕事であり、それを大きく変えた須藤克三の仕事であった。」「根こそぎ日本は植民地化されるような状態がやってくるかもしれない。そのような事になる前になんとかしなくちゃならない。」そういう中で、「必死になって子どもたちの中でいい文章を守ろうとした。」それが「やまびこ学校」であり、真壁仁、国分一太郎、須藤克三だった。日本全体、分裂対立の風潮の中にあって、日本語を守ることを通して日本人がひとつになることを呼びかけたのが山形の須藤克三であった。


「日本はもう一度敗戦を迎える。それまでに日本語の大切さを守り育てておかなくちゃならない」切実な思いで克三さんと語り合ったという小宮山さん、いまあらためて須藤克三という人の業績を見つめなおす時代がきていると教えられます。


山形童話の会代表の鈴木実さんは宮内小学校の先生方を前に「郷土出身の先達に学ぼう―須藤克三を辿る」と題して話されました。昭和20年代から50年代の山形の文化運動の動きを、克三さんを生み出した宮内の文化を中心に解りやすく語られた講演です。

 

旧宮内高校吉野分校の廃校舎から偶然発見されたテープから須藤克三さんご自身の講演も集録されています。昭和46年10月、宮高定時制文化祭の「情報化時代に生きる」と題された講演です。「これまでの時代は敷かれたレールにどう自分を当てはめて走ってゆくかだった。でもこれからは自分でレールを敷かねばならない。あるいはジグザグなコースを満身創痍でやっていかねばならない、危険かもしれないが可能性にも満ちた時代だ」とこれからの若い人たちにエールを送っておられます。 

22.
平成12年、結城豊太郎先生50回忌の折編まれた冊子から、結城先生についての貴重なお話の数々が紹介されています。
昭和27年の銅像再建除幕式祝辞の中から澁澤敬三元日銀総裁・大蔵大臣、伍堂卓雄元商工大臣 。三十三回忌での追憶談として竹村吉右衛門元安田銀行副頭取。そして「知行合一」を説く陽明学の権威として日本の政治や実業界に大きな影響を与えつづけた安岡正篤先生の、昭和49年臨雲先生生誕祭での講演「臨雲先生の心事と経綸」。結城先生と共に関わった終戦時降伏の結論に至るまでの苦悩、その時のご苦労が結城先生の命を縮めたと語られています。

 23
小田仁二郎生誕百年を記念して開催されるはずだった瀬戸内寂聴さんの講演会がお体の都合でとりやめになったのはかえすがえすも残念なことでした。しかし、平成3年小田仁二郎文学碑除幕式の日の講演が、週刊置賜に16回にわたってしっかりと記録されています。


世界中の言語に精通したイスラム学者である井筒俊彦先生が、小田仁二郎の代表作「触手」について、「この文章は言語学的にほんとうに素晴らしい。これは誰にも書けないものだ。言語学的に素晴らしいということを証明できるのですよ」と言われた。「それを聞いて小田仁二郎は、私が一緒におりました歳月の中でいちばんうれしそうな顔をしたのをおぼえております」と語っておられます。


寂聴さんが密かに宮内をおとずれたときの、喜多屋のばあちゃんとの劇的な出会いをふりかえり、「小田さんがふるさとのシンボルとしてもっとも愛していた銀杏の木の下であったということは、もうこれがほんとうに仏の引き合わせとしか考えられません。」と語られました。

 

24.
平成23年3月11日、何度も何度も思い起こさせられる忘れられない日になりました。
真っ暗な夜、車のヘッドライトだけの夜。
どの家々も電気のない暗闇の中で、少しの暖房に家族みんなが寄り添って一晩を過ごしました。
でも私たちなどまだまだ良かったのです。その時もうすでに2万5千人に及ぶ人たちが命を失っていたのです。何万人もの人たちが、家を失い家族とはなればなれになった不安と絶望、そして恐怖のうちに寒さの中で震えていたのです。
 66年前、230万人の犠牲をもたらしたの日本の敗戦、目先の豊かさだけを見れば、負け戦などなかったように見事な変貌を成し遂げた日本でした。しかし、ひとりひとりの心の持ちよう様、精神のあり方にまで踏み込んだ時、ほんとうにそうだったのでしょうか。3.11、この日を境に戦後66年のあいだ間いい加減にしてきた付けが、まさに津波のように目の前におしよせてきたよう気がしてなりません。福島の原発がその象徴です。 須藤克三との出会い」の中で小宮山量平さんはこう語っておられました。
「日本はもう一度敗戦を迎えるだろう―1945年8月15日が日本の敗戦ではなくてね、あれから一世代経って、30年経つか、50年経つか、その時期に日本は、もう一度、第二の敗戦を迎えるだろう。その敗戦を迎えた時に、私達は後に継ぐ若い人達の中に、日本語の大切さを守り育てておかなくちゃならない・・・。」
 「週刊置賜」の講演録、できる限り語り手の言葉そのままを再現した、演者のいきづか息遣いも伝わってくる、この講演録を通して「週刊置賜」の歩みを振り返る時、「週刊置賜」が果たしてきた役割もまさに「後に継ぐ若い人達の中に、日本語の大切さを守り育ててゆく」ことだったのかもしれません。 敗戦後最大の試練に直面する日本、まずは自分の足元を見据え、しっかりできることをやってゆくこと、地域の力が試される時です。 その時、「週刊置賜」は、地域にとって大きな戦力です。
がんばれ!ニッポン、がんばれ!東北、がんばれ!おいたま、
そして、
がんばれ!「週刊置賜」。

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