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吟行「置賜の詩心を訪う」 [詩吟]

11月23日、宮内岳鷹会創立15周年を記念して、平岳謙先生、岳照先生とともに吟行してきました。

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宮内岳鷹会創立十五周年記念吟行

「置賜の詩心を訪う」

○上杉神社 

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 宮内岳鷹会創立十五周年記念吟行、スタートは藩祖上杉謙信公をお祀りする上杉神社です。
 明治に建てられたお社は大正8年の大火で消失し、このお社は大正12年、明治神宮や平安神宮を設計した米沢市出身の文化勲章受章者伊東忠太による設計です。
謙信公は戦国の武将であると同時に優れた詩人でした。能州七尾城を陥れ、意気揚々たる心情を歌い上げた陣中の作、「九月十三夜」を吟じます。

九月十三夜     上杉謙信

霜は軍営に満ちて秋気清し 数行の過雁月三更
越山併せ得たり能州の景 遮莫あれ家郷遠征を憶う
           

○松岬神社


 米沢藩中興の名君上杉鷹山公が、師細井平洲先生や直江兼続公をはじめとする上杉の重臣たちとともに祀られている松岬神社です。
 鷹山公は、破綻寸前の藩財政を、徹底した倹約と、武士までもつぎ込む農村振興、新たな産業の開発によって立て直しました。その根底にあったのが「なせばなる」の精神だったのです。 

なせばなる     上杉鷹山

なせばなる なさねばならぬ なにごとも
ならぬは ひとの なさぬなりけり

林泉寺 (兼続公墓前)
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 平成21年NHK大河ドラマ「天地人」によって、直江兼続公は「愛と義の人」として日本中に知られることになりました。生まれながらに上杉景勝の側にあって、上杉謙信、豊臣秀吉、徳川家康、あるいは伊達政宗、石田三成と深く関わりながら、戦国の時代から江戸の時代へ、日本の歴史のど真ん中を駆け抜けた直江兼続公。公は、米沢に移ってからは、そのすぐれた見識によって、その後の置賜の礎を築いたのです。

 公は元和5年(1619)、江戸の上杉屋敷でその生涯を終えたのですが、「洛中の作」は、生涯詩を愛し続けてやまなかった兼続公最後の作と言われます。公の墓前に捧げます。

 

   洛中の作      直江兼続

 

独り他郷に在って旧遊を憶う 琴に非ず瑟に非ずして自ずから風流なり

団々影は落つ湖辺の月 天上人間一様の秋 

 

 

常安寺 (雲井龍雄墓前)

 

 雲井龍雄は幕末の激動の中、義を貫いて生き、弱冠27歳で明治新政府によってさらし首にされました。その魂は、残された多くの漢詩によって時代を超えて生き続けます。

 小塚原の吉田松陰の隣にあった龍雄の遺骨は、変遷の末死後60年を経た昭和6年、龍雄を慕ってやまない人々によってこの地に遷されました。 

 「客舎の壁に題す」、この詩は慶応4年5月京都にあって、兵乱の関東を目指すにあたり、土佐・佐賀の同憂の士と別れの宴を張ったときの詩です。

 

   客舎の壁に題す   雲井龍雄  

 

斯の志を成さんと欲して豈に躬を思わんや 骨を埋む青山碧海の中
酔うて宝刀を撫し還(また)冷笑す 決然馬を躍らせて関東に向こう

 

 

上杉家御廟 

 

 元和9(1623)320日、上杉景勝公逝去に際し当地を廟所とし、以後、12代斉定公まで歴代藩主がこの地に埋葬されてきました。藩祖謙信公の遺骸のみは、米沢移封以来城本丸の御堂に奉安されていたのですが、明治新政府の「破城令」に伴い、この地に遷されました。

 不識庵こと上杉謙信、機山こと武田信玄、両雄激突、5回に及ぶ川中島決戦。頼山陽による「不識庵機山を撃つの図に題す」は、詩吟と言えば「鞭声粛々」と言われるほど有名です。

  

 

不識庵機山を撃つの図に題す  頼山陽

 

鞭声粛々夜河を渡る 暁に見る千兵の大牙を擁するを
遺恨十年一剣を磨き 流星光底長蛇を逸す

 

 

籍田の碑

 

 安永元(1772)年3月、上杉鷹山公は農耕の大切なことを教えるため、遠山に開作田を設け、中国周代の「籍田の礼」を行いました。「籍田」とは古代中国「周」で行われた儀式で、王が国内の農事を励ますため、自ら田を踏み耕し、収穫した米を祖先に備えたことをいい、この時も鷹山公自ら鍬をとって耕されました。この籍田の礼を記念するため、明治351902)年、「上杉鷹山公籍田之遺跡」石碑を建立しました。碑名は、当時の農商務大臣で米沢市出身の平田東助の書です。

 

館山城址 


 

  米沢市教育委員会による平成22年からの3カ年発掘調査によって、重臣以上の武将が使用したとみられる武家屋敷跡が見つかったことから、伊達氏の本拠は米沢城でなく、舘山城だった可能性が高まり注目が集まるようになっています。地形が仙台青葉城と似ており、政宗公はこの館山城を念頭にいて青葉城を築城したのかもしれません。「置賜地方最大の山城である館山城跡は、対豊臣戦争を意識した、伊達氏の力と築城技術を集めた、南出羽における伊達系城館の最後の城づくりをしめす城館として重要と思われる。」とする専門家の評価もあるようです。

 天正17年(1589)、 政宗公は会津の蘆名氏を「摺上原の戦い」で撃破しました。以後公は、南東北一帯を領する屈指の戦国大名になってゆきます。「さんさ時雨』は、伊達軍の将兵によって作られた戦勝を祝う歌と言われていますが、とすると「さんさ時雨」はこの地で生まれ、伊達藩が岩出山へ移封なるまでこの地で歌い継がれた歌だったのです。 

 

さんさ時雨

 

さんさ時雨は萱野の雨か 音もせできて濡れかゝる しょんがいなア

竹になりたや紫竹の竹に 本は尺八中は笛竹末は恵比寿の釣魚竹 末はそもじの筆の軸

 

 

白子神社

 

 白子神社は今からちょうど1300年前の和銅5年(712)創建と伝えられ、その名は、この地にが生じ桑林が雪のように白くなったことに由来します。古来置賜郡の総鎮守、そして産業の神様として広く信仰を集めてきました。米沢の町の商店街は、この門前での市から始まりました。

 鷹山公17歳の時、九州高鍋藩から養子として家督を継ぐことになった時、藩の立て直しのためには徹底的な倹約からとの決意をもって、先ず神様との間に誓いを立てました。血判が押されたその誓詞が今もこの神社に残り、市の重要文化財になっています。

 家督相続の覚悟を詠ったのが「受けつぎて」です。

 

   受けつぎて   上杉鷹山

 

ぎて国の司の身となれば

忘るまじきは民の父母

 

 

黒井堰 

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 置賜平野は古来米作りが盛んでしたが、保水力に乏しくいつも干ばつに悩まされてきました。その解決に立ち向かったのが鷹山公でした。公は勘定奉行黒井半四郎に調査と解決を委ねました。半四郎はすぐれた数学的頭脳を駆使、松川の水を堰上げ、糠野目には大樋を作って川を渡し、糠野目から梨郷に及ぶ北条郷30数か村700町歩に水を供給したのです。総延長は32キロに及びました。

 当時の苦労を偲ぶとともに、あらためて水のありがたさに思いを致しつつ、昭和天皇が皇太子時代、山形行幸のみぎり詠まれ、山形県人誇りの県民歌となった「最上川」を歌います。


 

   最上川     昭和天皇

 

広き野を流れゆけども最上川 

海に入るまで濁らざりけり 濁らざりけり


 

 

資福寺跡

 

 この真東には高畠の安久津八幡、真西には小松の諏訪神社、そして真北には宮内熊野大社、いずれも創建の時が定かではない古社です。さらに真南は置賜の最高地点、東吾妻山頂2013メートルが位置するという、ここはまさに置賜の中心、パワースポットです。

 伊達政宗公は幼少期を、資福寺住職虎哉和尚の薫陶を受けつつこの地で過ごしました。公25歳の時、秀吉の命により岩出山への移封を余儀なくされたのですが、それから二十三年を経た慶長十九年、再び訪れた置賜で故郷への深い愛着を込めた和歌数首を詠みました。その一つを吟じます。

 

故郷は   伊達政宗

 

故郷は夢にだにさえ疎からず

現になどかめぐり来にけん

 

 

宮内熊野大社

 

 多くの人に親しまれている童謡「ナイショ話」の作者結城よしをは宮内に生まれました。歌人結城健三の長男です。昭和十九年に二十四年の短い生涯を戦病死で終えるまで数多くのかわいらしい童話や童謡を書き続けました。

お父さんの健三は宮内に生まれ育ち、短歌界に優れた業績を残しました。昭和二十二年に創った金雀枝(えにしだ)短歌会は全国的な短歌結社に育ちました。

宮内に生まれ育つ子どもたちを見守り続けてきたおくまんさま、その石段の下に健三とよしを親子の二つの碑が立っています。

 

  宮柱の   結城健三

 

宮柱のかげよりわれの稚児舞を

みていたまいひし母が恋しき

       

ないしょ話  結城よしを

 

ないしょ ないしょ

いしょの話は あのねのね

にこにこ にっこり ね 母ちゃん

お耳へ こっそり あのねのね

坊やの おねがい きいてよね

 

ないしょ ないしょ

いしょの おねがい あのねのね

あしたの日曜 ね 母ちゃん

ほんとに いいでしょ あのねのね

坊やの おねがい きいてよね

 

 

長谷観音

 

 置賜三十三観音の三十番札所長谷観音。現在の御堂は、幾多の興亡を経て今から百八十年前、上杉藩の鬼門守護祈願所として再建されました。今から四百十二年前、東北の関が原とも言われる長谷堂の戦いで、直江軍が持ち帰った最上長谷堂の観音像が秘仏として祀られてあります。またここには結城哀草果の「置賜は国のまほろば」をはじめ、佐々木信綱の歌碑や高浜虚子の句碑等、多くの碑があります。

 吉野石膏株式会社を創業した須藤永次の内室るいは、佐佐木信綱に師事しました。須藤夫妻によって、宮内には4基の信綱歌碑が建てられています。夫妻は長谷観音を厚く信仰しました。「宮内戦没者供養塔」を見守るように「長谷のみ仏」の歌碑は建っています。

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長谷の御仏  佐佐木信綱


国のため 玉とくだけし ますらおを

      とはに守りませ 長谷の御仏

 

 

相生の松

 

 日本には男女和合のめでたい松としていくつかの「相生の松」がありますが、この相生の松は、姿においても大きさにおいても日本一と言っていいすばらしい松です。夫婦相生の松として「妹背の松」ともよばれ双松公園の名の由来となりました。

 五十年ほど前、当時東大名誉教授であった植物学の権威本田正次博士が枯れ死寸前のこの松を見て驚かれ、博士自らすぐ県に連絡して天然記念物に指定されたといわれます。その後婦人会や地元の方々の献身的な手入れによって今の姿に回復したのでした。

 この松にまつわる伝説もいくつか伝えられており、古来この松に願えば縁むすびに効験があると云われ、代々寺子屋を開き琴平神社の神主でもあった長部功が歌にしています。

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  結ばんと   長部 功

 

結ばんと思ふえにしはわが里の

妹背の松に祈れ諸びと

 

 

双松公園

 

 盆地を一望する双松公園は地域のオアシス、いこいの場です。ここに来ると心が和みいやされるのです。朝日に輝く朝の公園はまた格別です。公園の下に生まれ育った須藤るいさんにもきっとその体験があったのでしょう。師匠の作品からこの公園ぴったりの歌を選んで歌碑にしました。

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  山の上に   佐佐木信綱

 

山の上に朝の光の照りみちて

      金色の水かがよいにほふ

 

 直江兼続公の母親の実家尾崎家は上杉藩の国替えで信州からこの宮内に移り、公園の西、宮沢城の城主になりました。尾崎家はすぐ福島に移ったのですが、今の宮内の町は、尾崎の家臣たちによってその礎が築かれました。

 今年百周年を迎えた「南陽の菊まつり」の会場は、一昨年までこの双松公園でした。直江兼続公も菊の詩をつくっています。

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菊花  直江兼続

菊は秋日に逢うて露香奇なり 白々紅華枝に満つ

好し西施が旧脂粉を把って  淡粧濃抹して東に上さん

 

 

 宮内岳鷹会創立十五周年記念吟行「置賜の詩心を訪う」のしめくくりはやはりこの歌です。

 昭和二十三年春、結城哀草果が長井での講演の帰途、長井線の車中から見た置賜の美しさに感動してつくったといわれています。イザベラ・バードをして「東洋のアルカディア」と言わしめた置賜、そしてその要に位置するわが南陽、この地に暮らすことの幸せを思いつつ吟じます。

     

  置賜は  結城哀草果

 

置賜はくにのまほろば菜種咲き

      若葉茂りて雪山もみゆ


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