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「南陽の菊まつり」百年(2) [菊まつり]

四、宮内が生んだ菊人形師 菊地熊吉

「南陽の菊まつり」百年.熊吉と忠男.jpg熊吉と息子忠男

 

 江戸から明治へ、菊人形はソメイヨシノのふるさと東京駒込染井の植木職人や庭師達によって創られ伝えられていた。江戸以来の技術を受け継ぐ腕のいい職人伊藤市太郎の弟子が吉田銀次郎だった。市太郎は墨田河畔藤堂伯爵邸の菊人形を任されていたと言われる。また銀次郎の息子正吾は茶庭作家として一家を成している。そしてこの銀次郎の後を引き継いだのが菊地熊吉だった。後年銀次郎は「山形の宮内の菊地という人にはわたしが人形づくりを教えてやったが、器用な人で、わたしより上手になっちゃいました。」と語っている。ただし、熊吉には「銀次郎に教えてもらった」の認識はあまりなく、持ち前の探究心で技術を盗みとったのが事実のようだ。

 熊吉は明治二十七年(一八九四)宮内の小作農家に生まれた。若い時から町の祭りの飾り付けやおもちゃの彫刻でみんなに喜ばれていた。宮内の旧家には、熊吉が彫った獅子頭が相当数今も大切に所蔵されている。


《「山形連隊にとられるまで農業をやっていた。小学校時代から絵は好きだったし、まあ得意なほうでもあったな。しかし人形師になるとは思わなかったよ、あっはっはあ」・・・「兵隊時代の軍旗祭でまわりの者におだてられて王道という人形を余興に出したんだ。これが大変評判になってしまった。大正四年秋除隊になってまた農業をやっていると、例の王道をつくったときの腕をいかし菊人形をつくらないかとすすめられた。ちょうど宮内で頼んだ東京の人形師が有利な米沢に逃げてしまったその穴埋めにな。そこで引き受け予想以上に評判だった。しかし次の年に断ったよ。なんだか責任が重いようだったし、それに人形師になっても一生メシが食える訳でなし、やはりどこまでも農業をするつもりだったから。ところがネバラレてまた引き受けてしまった。そんな具合で人形をつくっているうちこんどはおれが人形にほれはじめたんだ。しかもぞっこんという具合にな。」・・・「ほれた以上は真剣になったよ。毎年のように国技館と浅草花屋敷の菊人形、それに当時の帝展を欠かさず見に上京した。・・・」・・・「なにも自慢することはないが、ただ宮内の菊の飾り付けは咲いた菊をくっつけるのではなく、ツボミの菊をとりつけて咲かせるところに値打ちがあると思う。この技術だけはほかで真似られないと思っている」》(昭和三十六年十一月七日山形新聞「この道ひとすじ」)


 熊吉は菊作りから、電動仕掛けも含めた場面構成、人形づくり、菊つけ、小道具、そして背景まで一手に引き受けた。すべて自分流に考えたものだった。「独創だからこそ一生懸命続けられたもので、ふり返ってみると、思う存分に菊人形づくりができた。私はその点幸福者だと思っている」と後年述懐している。熊吉は昭和四十九年に亡くなり、現在の菊人形は熊吉の四男忠男によって担われている。忠男は熊吉の流儀に従い、人形頭部制作から菊の着付けはもとより、さらに場面作りの一切をも取り仕切る日本でも希有の菊人形師として全国を駆け回っている。忠男の息子たち三人も同じ仕事に従事しているので伝統継承の展望は決して暗いものではない。


 五、「菊の宮内」の定着

「南陽の菊まつり」百年.山正.jpg県下名所投票第一位の山正旅館(昭和2年) 

 

 山形新聞主催による県下の名所投票で山正旅館の菊人形が第一位を獲得したのが昭和二年(一九二七)。笠原、宮沢、山正の三料亭がそれぞれ競い合った時代だった。またその翌年の十一月には昭和天皇の即位の礼である昭和の御大典があり、これが契機となって「菊花熱狂の黄金時代」を醸成したとも言われ、まさにこの頃が菊まつりの絶頂期であった。

 昭和元年には憲政の神様」「議会政治の父」と言われた尾崎行雄を菊花品評会に招いている。この年、菊花の進歩改良を目的とする「淵明会」なる同好会が組織された。品評会顧問菅野慶堂(宮内郵便局長)による命名。中国四〜五世紀の「田園詩人」陶淵明に由来する。陶淵明は桃源郷の語源となった「桃花源記」の作者である。その後の「南陽」という市名、あるいは「東洋のアルカディア」に通底する。会長には当時の町長鈴木幸松が就任、代々町長が務めることになる。その後(昭和十一年)淵明会は、町有志者を名誉会員とし、毎年一円宛の会費を徴収して、菊苗四本ずつを分譲し、係が栽培法を指導して歩いた。会計をはじめ事務局的役割を担ったのが熊坂義太郎。熊坂家は先の長沢代吉家、中山源太郎家と粡町で三家軒を並べる。菊づくりを支えた地域的紐帯の強さがうかがえる。しかし戦火迫る昭和十五年、会は中止され、その後は菊づくり消滅を惜しむ鈴木文蔵、江口円太、板垣茂左衛門、竹田富之助、羽田和平により菊花同好会が結成され、戦時中も菊づくりは続行された。それが戦後他に先駆けたいち早い菊まつり復活へとつながってゆく。

 昭和四年からは料亭笠原が個人で負担していた菊花品評会の費用を宮内商工会も負担することになる。「菊まつり」のいわば公共化という意味で画期的なことであった。昭和六年の開催には、町から一〇〇円、商工会から二五〇円の補助金が充当されたとの記録がある。宮内町の製糸場の釜数も職工数も昭和三年をピークに減少に転じている。経済の翳りが料亭の景気に反映し始めていたこともその背景にはあったにちがいない。民間だけでは担いきれなくなっていたという事情もあったのだ。

 商工会が関わることになって、毎年十一月三日の明治節を以て熊野大社々前に献花するという他に例を見ない菊花祭が開催されることになった。「商工会の連合大売出し、小学校、女学校生徒児童の、学年栽培懸崖作りの陳列まで発展して真に挙町の一大行事化する殷賑ぶりを現出、『菊の宮内』の名声を博した。店頭数鉢の菊花、ささやかな軒下に丹精の菊の香をただよわせるのが宮内町民の誇りの域にまで達した。」(昭和二十三年度版「宮内町政要覧」)現在の「菊と市民のカーニバル」の先駆けをなす懸賞大仮装行列が始まったのもこの時であった。

 しかし、昭和十二年七月の盧溝橋事件に始まる支那事変以降は菊まつりにも戦争の暗い影を落としはじめ次第に勢いが衰えてゆく。十四年、山形陸軍病院に療養中の戦士を慰問するため「宮内銃後奉公会」から菊鉢八〇鉢を贈呈し、他に類例を見ぬ絶好の慰問品として病院長より多大な賞賛と謝意を受け、陸軍大臣から感謝状をいただいたこともあった。昭和十七年には、菊地熊吉が菊人形を作って陸軍病院を慰問している。三料亭の競い合いは昭和十一年を最後とし、十二年からは主催は商工会ということになった。料亭では笠原だけが十八年まで菊人形を続けている。昭和六年に善三郎は亡くなっているが、笠原には善三郎以来の矜持があったにちがいない。

 

六、戦後の復活から興隆の時代 

「南陽の菊まつり」百年.30年代の賑わい.jpg昭和30年代の賑わい


 昭和二十三年(一九四八)十月菊花栽培の組織化の必要性から「宮内園芸会」が設立され、翌二十四年戦後第一回の菊まつりが菊人形は鳥居の場、菊花展は宮内小校庭で開催された。菊人形は二場面だった。大賑わいになっていよいよ活況を呈するようになったのは昭和二十七年からである。二十八年八月に戦前の淵明会と戦後の園芸会が一本化、「宮内町菊花同好会」となり、曲折を経て現在の「南陽菊花会」になっている。二十九年には菊人形も六場面になり、三十一年には八場面、三十二年は九場面、三十四年には菊地熊吉担当八場面のほか、埼玉の菊人形師保坂秀孝担当四場面、計十二場面。三十六年は入場者四〇、七四七名、三十七年は五三、七五九名の記録がある。入場料大人五〇円の時代である。三十四年からは「東北一を誇る」と謳う。「南陽の菊まつり」百年.1960ポスター.jpg

 昭和三十年代は全国的に菊まつりの最盛期。菊人形展を開催した都市は全国で一三〇都市、一五〇会場にも及んだ。山形県では昭和三十八、九年、少なくとも宮内のほか、赤湯、上山、西川(間沢)、米沢、天童、寒河江、新庄の八会場で開催されている。この頃鳥居の場を会場にした宮内の菊人形は、東西広場を地上四メートルの渡り廊下で結ぶという実に壮観なものであった。菊人形師として一家を成した菊地熊吉も脂の乗り切った時期で多忙を極め、間沢、上山、米沢、寒河江等県内各地の菊人形も手がけている。そうしたことから関東の菊人形師にも依頼することになったのだろう。大胆で思いっきりのいい熊吉流に対して、小振りな顔で垢抜けした東京風も好評を博していたが、今になってみればやはり熊吉流が懐かしく愛着がある。熊吉は昭和三十四年に山形県観光協会長賞を受けている。 (つづく)


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