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宮内幼稚園60年のあゆみ [幼稚園]

「宮内幼稚園60年のあゆみ」のDVDをつくって式典の中で上映。参列していただいた方に記念品としてお渡ししました。
ナレーターのM先生、付き添いのI先生、編集してくれたT君、あわただしい中ほんとうにおつかれさまでした。

   *   *   *   *   *

宮内幼稚園

60年のあゆみ

あ タイトル.jpg

 

 昭和7515日、議会政治を重んじる内閣総理大臣犬養毅(つよし)が「問答無用」のテロの前に屈しました。五・一五事件です。以後日本は、軍人が大きな力を持つようになって敗戦までの道を歩むことになります。


 ちょうどこの事件の翌日か翌々日宮内を訪れ、当時の宮内がしのばれる歌を詠んだ人物がいました。


    花すぎて 緑の山に小鳥なく

       世のさわがしさ 気にとめぬごと


      (もう一度くりかえし)


 桜が散り終わって、緑がかがやき出した心地よい5月の半ば、田町の教会のあたりから山王山や熊野の森を望むゆったりとした宮内の風景が目に浮かびます。あるいは双松公園に上って詠まれたのかもしれません。この作者こそ賀川豊彦先生でした。

 

 賀川先生は、貧困からの解放、戦争のない平和な世の中を目指す社会運動に生涯を捧げたクリスチャンでした。若くして神戸の貧民街に暮らし、その体験から生まれた自伝小説「死線を越えて」は、大正時代、歴史的ベストセラーとなりました。その印税はすべて社会運動に注ぎ込まれたといいます。働く人の生活安定を目指す生活協同組合の運動を立ち上げたのも賀川先生でした。社会事業家として、政治家として活動の範囲は世界中に及びました。ノーベル文学賞の候補に2回、平和賞の候補に3回あげられています。


お 賀川先生色紙 .jpg

日本がまだ連合国軍による占領下にあった昭和26年の10月、宮内熊野講堂において、賀川先生の大講演会が開催されました。3度目の宮内です。入りきれないほどの聴衆でした。先生は、この時集まった八千円を、「50年後100年後の人材を育てるための幼稚園をつくりなさい」と、地元にそっくり残してゆかれたのです。

 

当時まだ東京の大学に在学中だったひとりの女性が、新庄教会で牧師を務める兄を通して呼ばれました。「宮内の地で幼稚園をはじめるように」。宮内幼稚園の初代教諭となる芦名能子先生です。賀川先生が、仙台の東北教区長に指示されていたのです。

 

 能子先生が宮内に来てみると、あったのはブランコと滑り台と砂場だけでした。机も椅子も作らねばなりません。地元の善意と熱意が集まりました。教会に通っていた20歳の地元の女性が片腕になってくれました。高岡よね先生です。地元を知るよね先生が園児募集に奔走しました。

 

 昭和275月、初代園長は米沢教会の宍戸七弥牧師、そして二人の先生と13人の園児で宮内幼稚園はスタートします。その年はじめてのクリスマスには23名になっていました。第一期の卒園生は7名でした。


 能子先生はかねて婚約中だった宮越文次郎牧師と結婚されます。宮越先生は2代目の園長となって、能子先生とともに宮内幼稚園の礎を築かれます。

き 初期の頃の先生がた .jpg

 

 能子先生の教育力は強烈でした。当時の宮内幼稚園児の記憶の底には、能子先生は忘れようにも忘れられない存在として生き続けています。何よりも子どもたちが大切で自分たちのことはすべて後回し。食べ物にまわす金がなくて、日々のおかずは園庭のそばの小川に生えた野芹だけだった、そんな話もありました。

 

スタートから7年がたって園児数も50名を超えるようになっていました。「このまま宮内にいたのでは命の保証はない」、お医者さんからそう告げられたそうです。宮越先生ご夫妻は暖かい湘南の海ぞいの小さな教会に移られて、そこでようやく男の子をもうけられます。その話を伝え聞いて、お二人を知る宮内の人達は、ほんとうにほっとしたものでした。今はそのお子さんと一緒にロサンゼルスで元気に暮らしておられます。

 

 宮越先生の後は塩谷隆先生でした。国鉄職員から牧師に転身された方で、穏やかな中に強い意志を秘められた園長先生でした。しかし、育ち盛りの子どもをかかえての生活は、この地ではまだまだ大変だったのだと思われます。1年足らずで次の赴任地に移られます。

 

 そして足立守先生、アヤコ先生の時代です。お二人は昭和34年から平成9年まで、40年にわたって園の中核を担い、地域のために力を尽くされました。

す 足立先生ご夫妻 .jpg

 

 守先生は島根県出雲でそろばんを全国に商う商家のお生まれでした。持ち前の経営手腕は幼稚園経営にもいかんなく発揮され、宮内幼稚園は大きく発展します。赴任されてすぐ、ピアノ購入のための募金活動、翌年の園地の拡張、さらに保育室の拡充と、園児数の増大にあわせて対応されます。 

 

 アヤコ先生は、あたたかく子どもたちに接する一方、しっかりとした幼児教育の理念をもって、先生方を育てられました。アヤコ先生の幼児教育に対する熱い思いは、今も宮内幼稚園の先生方の中に生き続けています。


 守先生、アヤコ先生を中心にした宮内幼稚園は、次第に地域に根を下ろし広がり地元からの厚い信頼を得るようになってゆきます。その結実が、昭和52年の学校法人南陽学園の認可とあわせた園舎全面改築の大事業でした。総事業費6000万円のうち2000万円は寄付によってまかなわれました。


 足立園長の時代は対外的活動にも積極的でした。今もつづく菊の音楽祭やいのちの電話は足立先生あっての事業でした。谷川俊太郎、大岡信氏といった当代一流の詩人を招いて、ホールを会場に数年にわたって開催した詩人の会は、今でも語りぐさです。


 園児数が最も多かったのは昭和61年と62年、208名でした。昭和59年から4年間、200名を超す園児数だったのです。今から約30年前のことでした。


 平成10年、足立先生のご退職に伴い、池田春善先生が第5代園長に就任されます。この頃から全国的にも地域的にも少子化の波が押し寄せてほんとうに厳しい園経営が迫られるようになってゆきます。宮内の前は保育園の園長先生であった池田先生は、時代の保育ニーズの高まりに機敏に対応されました。それまでの2時降園が3時降園になります。6時半までの延長あずかり保育に加え、7時半からの早朝保育も始まりました。


 その後、若い川上照雄園長、加藤園長代理と続いて平成15年、南陽市の教育委員長も務められた菅井敬一郎先生に園長をお願いすることになりました。3ヶ月だけのピンチヒッターのはずが、3年間がんばっていただきました。

 平成15年には、1年おくれになっていた創立50周年事業が菅井園長を中心に開催されました。市民会館大ホールを満員にした、宮内幼稚園同窓生ピアノコージさんのゴスペルコンサートが感動的でした。保護者会の力を結集した宮内幼稚園の看板は今も堂々の現役です。


 平成18年、近藤国親先生が就任されます。40年間カップラーメン日清食品の営業畑を歩んでこられ定年退職。その後神学大学で6年間の修士課程まで修められ、65歳にして園長職も牧師職もはじめてという異色の新人です。

な 近藤園長 .jpg


 宮内に来られてもう7年が経ちました。柔らかな心の園長先生は、小さな子どもたちと接する日々の中で、どんどん若返っておられるようです。少子化の中、厳しい経営環境に変りはありませんが、大変な中でも安定を取り戻すようになってきていました。


 平成233113時少し前、あのとき園にはまだたくさんの子どもたちが残っていました。子どもたちは、かつて経験したことのない大きな揺れの驚きもそのままに、ホールにかたまって家族の迎えを待ちました。


  真っ暗な夜、外は車のヘッドライトだけ。
どの家々も電気のない暗闇の中で、少しの暖房に家族みんなが寄り添って一夜を過ごしました。
でも私たちなどまだまだ良かったのです。その時もうすでに2万人に及ぶ人たちが命を失っていたのです。そして何十万人もの人たちが、家を失い家族とはなればなれになった不安と絶望、そして恐怖のうちに寒さの中で震えていたのです。だれにとっても忘れられない日になりました。

 幼稚園にはかねてから建物の耐震調査の要請が来ていました。大震災をきっかけに調査費の補助額が大幅アップになりました。ずっと先送りしてきた調査の実施に踏み切らざるをえません。案の定、「地震の震動及び衝撃に対して倒壊し、または崩壊する危険性がある」という調査結果。何より大切な子どもたちの安全を守るためにどうするか。厳しい問いをつきつけられたのです 

設立の歴史の違いもって、就学前の教育に重きを置く幼稚園は文部科学省の管轄、両親が安心して働けるようにするための保育園は厚生労働省の管轄と、就学前の子どもの保育は二つの違う流れに支えられてきました。幼保一元化はそのことによる不備を解消するためにここ10数年来、国が中心になって検討されてきたことです。

宮内幼稚園は、この大きな流れに乗ることになりました。その補助制度を活用して新園舎の建設に踏み切ることになりました。ゼロ歳児からの保育機能を備えた「認定こども園」への脱皮です。245月、新園舎建設委員会が発足し、具体的な歩みが始まりました。

 国、県、市からの大きな支援を仰がねばなりません。南陽市からは、現在地から約100メートル西の高庄工場跡地約1000坪を無償で貸していただけることになり、基本設計も固まってきました。

ふ 新園舎 .jpg

 順調に行けば、来年平成26年度早々、新たなスタートが切れそうです。多くの方々の暖かいご援助ご協力を得て、なんとかここまでこぎつけることができました。

 宮内幼稚園、還暦60年の歩み、振り返って思うのは、ほんとうに「みんなのようちえん」だったんだなあ、ということです。名前も変わってのスタートになるかもしれない、これから始まる新たな60年のあゆみも、地域になくてはならない、みんなに支えられた、「みんなのようちえん」でありますように。いつまでも。

       (園歌)おわり

ほ おわり .jpg


 

 


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