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徳洲会事件の「国際謀略的背景」(飯山一郎)! [徳田虎雄]

「徳洲会の選挙違反事件」に関して、飯山一郎の見解 2013/09/18

飯山一郎でございます。
皆様には常日頃『文殊菩薩』を御愛読賜りまして、厚く御礼を申しあげます。
さて本日は…、
『徳洲会選挙違反事件』に関し、飯山一郎個人の意見を述べさせていただきます。
私の見解は、本ブログの編集長「明るく憂える者」氏の見解とは多少異なります…。

私、飯山一郎は次のように考えております。

「徳洲会選挙違反事件」は、TPPの先駆け作戦である! と。
TPPの狙いは、日本の資産を奪い尽くすことです。

その一つが、医療産業を支配することです。
医療産業が支配できれば、医療を表看板にして、日本最大の資産家層=老人層から莫大な資産を奪い取ることができる!というわけです。

さらに、癌や免疫不全など放射能障害の巨大な「治療市場」が生まれ始まっていますし、世界中に販売できる被曝データの収集だけでも世界一の市場が誕生しようとしています…。

そのために、先ずは、巨大病院チェーン・徳洲会を強奪しておく!
この手羽先として東京地検を使う! 東京地検は、徳洲会資産の強奪部隊なのです。
マスコミが東京地検を援護射撃! ミエミエです。
以上が、徳洲会事件の「国際謀略的背景」です。

もうひとつ。
小沢一郎の事件で明確になったように…、
東京地検は決して正義の見方ではありません。破邪顕正の機関ではありません。
このことは、警察国家の様相を日々深めている日本国にあっては忘れてはならない視点だと思います。

以上、『徳洲会事件』に関して私見を述べさせていただきました。
ご清読ありがとうございました。

       2013年9月18日  
           
                       飯山一郎拝


     *     *     *     *     *

徳洲会はあらためて原点を見つめ直すべきです。損得の視点に曇らされることなく。
そこにあるのは、家族を思うことから出発して、ふるさとを思い、日本を思い、そして人類全てを思うに至る愚直なまでの徳田虎雄の熱い魂です。掛け値無し、まちがいなくそうです。あくまでそこを拠点に闘うべきです。


【追記 25.9.22】

以下、飯山氏と共通する発言です。
http://blog.livedoor.jp/yoshiharu333/archives/32207042.html


徳洲会事件:何のために?

 

昨年12月の衆院選で、自民党の徳田毅(たけし)衆院議員(42)の選挙運動に医療法人「徳洲会」グループの多数の職員らが従事し、報酬を受け取っていた疑いが強まったとして、東京地検特捜部は17日、徳洲会東京本部などを公職選挙法違反(運動員買収)容疑で家宅捜索した。

 

 徳洲会グループの中には、特定医療法人「沖縄徳洲会」や社会医療法人「木下会」のように高い公益性が認められて税制上の優遇措置を受けている法人もある。公選法違反容疑で捜索を受けたことで、認定見直しなどの議論に発展する可能性もある。
 特定医療法人は、公益に著しく寄与していることを条件に国税庁が承認し、法人税が6%以上軽減される。法令・公益に反する事実がない▽設立者や役員、その親族に特別の利益を与えない--ことなどが必要とされる。
 社会医療法人は救急医療態勢が確保されていることなどを条件に都道府県が認定し、法人税や固定資産税が非課税になる。厚生労働省の担当者は「病院経営の余剰金が選挙資金になっていたとすれば問題だ」と指摘する。【島田信幸、桐野耕一】毎日新聞 918()06分配信

 

<ひとことコラム>

確かに、違法かもしれないが、徳洲会の経営が危なくなるというのが最大の問題である。有力な国内の医療グループがダメージを受けると、その次のシナリオは、医療グループの再編や外資の参入(法律的には資本だけ)である。

違法という犯罪は、法律に触れるということであって、「人間としての根本的完全悪」というものではない。あくまで人が作った法律の範囲を超えたということである。

極端な話、戦争で人を殺しても殺人犯にはならない。法律と根本的実質的悪とは異なるのである。

法律自体の問題もあるが、

法律をどこまで警察、検察が順守させるかは、産業、文化などのいろいろな要素もあり、必ずしも正義とか、純粋なのもではない、たとえば、法定速度を超えた車の運転手を全員逮捕したら、車離れが確実に起こり、日本の国の車産業が破たんする。だから、ある割合、ある時期にしか取り締まらないことでこの国が成り立っているのである。

法律があったとしても、厳しく取り締まるか、あまくするかによって、その後の国の運命も変わることは事実である。今回、厳しく捜査することが、その後、どのようなことに発展するのかが見ものである。今後、徳洲会以外の医療グループの動きと外資の動きには注視すべきである。気が付いたら、日本の病院の資本の出資すべて外国資本という状況もありうるのである。


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めい

徳田夫人が理事長とのなれそめの頃を語っておられる記事を見つけました。バッシングの最中にあるお二人ですが、この記事を読むことで救われます。
http://www.tokushukai.or.jp/media/dnet/d-net16_rijicyouwife.html

   *   *   *   *   *

~私ひとりの徳田ではなく~

医療法人徳洲会
理事長徳田虎雄夫人 徳田 秀子

 現在、私は雑誌の新刊発行準備に追われております。
 ひょんなことから出版に携わっている方と懇意になり、私が以前から漠然と思っていたことが、ひとつひとつ現実味を帯びてきています。
 今の時点では、販売形式などの詳細は決定していませんが(この冊子が皆様のお目に触れるころ、ハッキリしているかもしれません)、雑誌のコアとなるテーマは具体的になりつつあるといってよいでしょう。
 最新医療、青少年問題、虐待、離島問題、政治について。これらの問題は、徳田の選挙関係の仕事やそれに伴う諸々のお付合いを重ねる中で、自然発生的に私の中に生まれ、色々なことを学びながら更には意識的に育てていったものです。
 徳田は徳洲会という医療の現場で、また政治の表舞台で、それらの問題にも取り組んできました。私は微力ながらも裏方で、そのときの自分ができ得る限りのことをやってきたつもりです。でも、いつかは私なりの形で取り組めないものだろうかと長いこと考えてきました。このたび、雑誌という媒体で取り組むことになりました。念願だった「主婦の立場」という方向性を強く意識してやってみたいと思っております。
 このような公の場での活動など、徳田と供にやってこなければ-徳田はよくパートナーという言い方をします-無縁の世界の出来事だったに違いありません。

徳之島の幼馴染

 ご存知の方も多いかと思いますが、私たちは、奄美群島区の徳之島で生まれ育ちました。
 同じ学校に通い、主人は1年上級でしたが、同級生が二十名程度の規模の学校なので、もちろん互いの存在は自然に知っていました。当時のことを思い出すと、私のほうが勉強もできて優等生だったように思います。これには徳田も異存がないのではないでしょうか。
 家は近所ではありませんでしたが、それぞれ実家の畑が隣同士でしたので、ちょっとしたことでふれあいがありました。たとえば、徳田の母に頼まれて私が徳田家の田植えを手伝ったことがありました。また、薪を牛に積んで運んでいると、徳田が牛を牛小屋に連れて行くのを手伝ってくれたこともありました。
 今にして思うと、どうも徳田の母は、私を気に入ってくれていたようです。将来は息子の嫁に、とまで思っていたかどうかまではわかりませんが、なにかと義母が私と徳田を結び付けようと思案していたように思えてなりません。
 義母が日頃から私のことを話題にしたり、褒めたりするものだから、その印象が自然と徳田に刷り込まれていったのではないでしょうか。そうだとすると、義母に感謝しなくてはなりませんね。

思いがけない一言

 単なる幼馴染に過ぎなかった徳田が、私にとって特別の存在になる事件という程ではない、きっかけについてお話したいと思います。
 徳田が中学3年、私が2年のときでした。夏休みでしたが、どういう経緯でか友人たちとトランプ大会をやることになったのです。2人1組のペアを作ることになりました。ところが、ジャンケンだったかくじ引きだったか、記憶が定かではありませんが、私は決められた自分の相手が気に入らなくて、すっかりやる気が失せてしまいました。そこで、私やらない、と臍を曲げてしまったのです。少女特有の気まぐれと残酷さとでもいうのでしょうか。
 そのとき徳田が、とても強い調子で「やれよ!」と一言いったのです。いつもは声を荒げることもない穏やかな人だったので、私はとても驚きました。普通なら自分のわがままを指摘されたバツの悪さから、更に強行に拒否しそうなものですが、その時の徳田の声にはそれをも許さない、有無を言わせない強い響きがあったのです。
 何なのよ、この人…、と内心反発と驚きを覚えながらも、私はそれに何故か従わざるを得なかったのです。手痛い印象を残した出来事でした。
 徳田の真剣な気持ちが-公平さとか思いやりとか、色々な要素があったような気がします-他人に及ぼす影響力の大きさを実感した初めての経験といってよいかもしれません。

高校進学

 我が家は女4人男1人の5人きょうだいでした。当時としては特に多いわけでもなかったのですが、2番目の妹が気管支拡張という持病を持っていることもあり、生家は経済的に決して楽ではありませんでした。厳しかったと言ってもよいでしょう。
 中学3年になると、高校進学を希望する生徒は、夏休みに学校の講習会に参加する決まりでした。私も当然、高校進学を望んでいましたが、高校に入学してからの両親の負担を考えると、言い出しかねていました。両親も進学は考えていなかったと思います。何しろ中学の同級生20名中、高校に進学したのは5名程度という時代でしたし、特に女子の教育には否定的な考えが主流でしたから。
 ところが、担任の先生がわざわざ家まで足を運んできてくれて、両親に強く高校受験を勧めてくれました。はじめはなかなか首を縦に振らなかった両親も、先生の熱意に最初に父親が動かされ、次の母親が折れた形で受験することを許してもらえたのです。先生の助言により、当時の金額で700円の奨学金を受けることができたことも大きな助けになり、私は晴れて高校に入学することができました。

初心貫徹

 徳田は高校3年のとき、大阪の今宮高校の2学年に転校しています。大阪大学の医学部に入学して医者になる、というとてもはっきりとした強い希望がありましたので、地元の高校では無理と判断して大阪に出て行き、大阪府立今官高校に編入しました。
 今宮高校卒業時に高校の担任が徳田の進路希望を聞き、2浪くらいしないと阪大の医学部は無理だな、とおっしゃったそうです。先生としてはあきらめさせるつもりでそうおっしゃったのでしょうが、徳田はそれを「2浪したら合格する」と理解したというのです。まさにポジティプシンキングですね。当時から、夢を夢のままでは終わらせないという主人の人生哲学が現れているように思えてなりません。
 中学の夏休みの「やれよ!」の件以来、徳田は私にとって無視できない存在であり、今でいうところの「つきあっている」間柄であったわけですから、主人の大阪行きはそれなりにさびしかったと思います。
 やはり先生の予言どおり(?)徳田が大阪で2浪していたとき、私は徳田に宛てて手紙を書いたことがあります。当時、私はすでに高校を卒業し、鹿児島銀行徳之島支店に勤務していました。
 手紙の内容は別に医者になるのだけがすべてではない、言外に私は医者でなくてもかまわないのよ、という気持ちを込めた内容でした。私としては精一杯徳田を励ますつもりでしたし、そこまで医者にこだわる徳田の気持ちを理解しきってはいなかったのです。
 それに対する主人の返事は「医者にならなければ君と結婚できない、医者をあきらめろなんて手紙は二度と出すな、いやもう手紙を出すな、絶交だ」という、とても真剣な、怒りといってよい激しい調子のものでした。私は何と言っていいかわからず、とりあえず徳田の手紙に素直に従い、音信不通の数ヶ月が過ぎました。
 その年が明けた春休み、いつものように銀行の窓口にいた私は、外に徳田の姿を見いだしました。驚いて裸足で飛び出した私に徳田は、合格したことを告げたのでした。
 その瞬間の気持ちを今でも鮮明に覚えています。ああ、この人はすごい人だ、この人についていくためには、私はもっともっと自分を高めなければならない、そう思ったとき、思わず口から「私も大学にいきたい」という自分でも思いがけない言葉が出てしまったのです。

薬学部受験

 徳田は事も無げに、自分がアルバイトするから是非行くようにと言ってくれましたが、高校を卒業して勉強から離れて数年経っていましたし、冷静に考えると相当無謀なことに違いありません。しかし徳田を見ていると、不安はありましたが、この今の気持ちに賭けてみよう、しない前から諦めたら一生後悔する、という心境になるから不思議なものです。
 その日からすぐに受験勉強というより、とにかく高校卒業以来の勉強を再開しました。7月には徳田が迎えにきてくれ、私も大阪に向かったのです。
 受験する大学は徳田のアドバイスもあり、近畿大学の薬学部に狙いを定めました。おじの家に間借りし、近くの中ノ島図書館に通ってひたすら勉強に明け暮れる毎日です。徳田も授業や自分自身の勉強と忙しい日々を送りながら、私の勉強もみてくれました。
 さすがに翌春の受験は無理でしたが、そのさらに翌年、晴れて私も大学生になることができたのです。大学の父兄面接では、徳田が保護者としてきてくれたことを正直に告白いたします。
 大学に入学してからも決して平坦な道とは言えませんでした。何しろ大学在学中に長女、長男、次女と3人の子供を出産していますから。休学し、結局卒業まで6年かかりました。卒業後もさらに女の子3人、男の子1人に恵まれ、6年間は家庭に入って子育ての毎日でした。
 しかし、当然のように徳田と歩む人生がそれだけで終わるはずもありません。昭和48年の徳洲会設立に向け、46年からは銀行回りといった経済的な動きは、私の仕事として大きなウエイトを占めるようになりました。
 まさに仕事が何より優先される別居結婚を何十年も続けてきましたが、もちろん後悔はありません。特別老人のためのケアハウスや低年金の人々のための医療介護など、やらなければならないことがたくさんあるからです。
 かつてバルセロナオリンピックに徳田と出かけたとき、日本は世界から尊敬されていない、と強く感じました。
 世界から尊敬される日本国になるためには、日本は世界の厚生労働省の役目を果たさなければならないと常々徳田は申しています。約20年前に徳田が書きました「生命だけは平等だ」という著書の最後の方の180ページに「私は日本の医療改革の目標が達成できる見通しがつけば、更に世界の医療過疎地の病院づくりを手がけたいと考えている。」と記しています。
 その海外医療の足掛かりが今やっと始まり、具現化されたわけです。こうしてみますと、徳田の数十年先を見こしての行動と、どんなに大きな困難でも、決してあきらめることなく延々と努力を続ける根気強さには今更ながら頭が下がり、畏敬の念すら覚えます。

 最後にタイトルの言葉の続きを申し上げて、私の拙文を終わらせていただきたいと思います。
 “私ひとりの夫ではなく、多くの人のためにお役に立てる徳田であって欲しい。頑張っている徳田の姿が、何よりも私の喜びです。”

by めい (2013-09-22 09:50) 

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