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斎藤茂吉と中林梧竹、そして副島蒼海(種臣) [神道天行居]

過去からみての偶然も未来からすれば必然。いわゆるシンクロニシティ(共時性)体験。「何もかもかむながら、ますみのむすび、どうすることもいらぬ」、神道天行居の基本感覚にも通ずる。

昨日、鴨居先生の文章を書き写してアップした。書き写しつつ、あちこち関心が広がり、知ることも多かった。そのひとつ、鴨居先生の遺作集の題字「清雲遺蹤」が日野俊顕氏によることを知り、そこから中林梧竹に至った。

そして今朝、図書館から借りてきていた黒江太郎著「窿應の生涯と茂吉」を手に取って驚いた。中林梧竹が窿應和尚にとって、茂吉にとっていかに重要な人物であったかが描かれていた。

隆應和尚.jpg
窿應和尚 大正10年3月19日 彦根にて

書聖中林梧竹と茂吉をむすびつけた人は、いふまでもなく寳泉寺の住職佐原窿應和尚である。刻字の名手と称された石匠宮龜年は、明治21年に金瓶村に出張して、石碑の刻字にしたがった。そのとき龜年は梧竹の拓本一葉を和尚に示したが、梧竹の書に即座に降服して、「予一見服之」と感慨を述べてる。ときに和尚は26歳の青年であった。

茂吉は「茂吉独語抄」に「宮龜年氏は梧竹の書の拓本を持ってゐた。和尚はそれを一見して、梧竹の尊敬者になった。それから和尚は生涯梧竹尊敬者としてとほした。村民は無論、私のごとき少年も『梧竹先生』の名が脳裏にこびりついたのは全く和尚の影響であった。」と書いてゐる。


明治29年の夏、茂吉は父につれられて上京したが、あたかも宗用で滞京してゐた和尚は、茂吉父子を東京でむかへた。その年の秋彼岸の中日に銀座の寓居に梧竹をたづね、和尚は茂吉のために揮毫を依頼した。香をたきこめて観音経一巻を誦した梧竹は、おもむろに筆をとって「大聖文殊菩薩」を拝毫した。かたはらに和尚はうやうやしく合掌して、茂吉の出世をひたすら念じた。まことに崇高な劇的な場面であった。


茂吉は「大聖文殊菩薩」の書をきはめて大切にされ、戦争中に金瓶に疎開したときも、肌身はなさず捧待した。70歳の齢をむかへた茂吉は、「大聖文殊菩薩中林梧竹拝書少年茂吉十五歳のため」、短歌一首をつくり、梧竹と窿應和尚の恩をしのんでゐる。》

(『窿應の生涯と茂吉』昭和47年 白玉書房)

梧竹は明治25年に金瓶寳泉寺を訪れており、なんと「赤湯、宮内、長井方面に遊んだ形跡」もあるという。金瓶には2度来ており、二度目の滞在は長かったとのことだがその時期がいつだったかは定かではない。研究者として日野俊顯氏の名も出てくる。


日野氏が梧竹を評して言うのを昨日読んだところだった。
《梧竹のキー・ワードは「百代の新風」、百代ののちまでも永遠にフレッシュな感動をよぶ書風を創造するという強烈なアピールです。「新」はマッサラ金ピカの新奇・風変わり・目立ちではありません。風変わりや目立ちには古臭いものが一杯あります。一方毎日身近にあって静かで穏やかなものにも新しい生命を失わぬものがあります。毎朝東から昇る太陽の光は、日々変ることのない新しい輝きを放って地球を照らします。伊勢神宮の神殿は「世界の建築の王座」といわれていますが、神様が20年ごとに新しい神殿にお移りになる遷宮の儀式があって、原初からの神殿のスタイルが変わることなく、永遠に新しく存在し続けています。「百代の新風」は、梧竹が明確な自覚のもとに独創した書芸術のキーワードとして、永く語り継がれていくに違いありません。》
さらに、
《「書を学ぶ者は、師匠や古人のまねをするのでなく、自己の性情をもって自己のオリジナルの宇を書かねばならない。鐘瑤や王羲之にそっくりの字を書くことができたとしても、そんなものは物まね上手に過ぎず、尊ぶにたりない」とあります。「物まねはだめ」というきびしい主張、今風にいえば「アイデンティティの確立」です。書の勉強は師匠や古人のまねをすることから始まり、一生懸命に師匠とそっくりに書く稽古をして、ついにはそっくりに書けるようになった。どんなもんだと恩ったら、梧竹先生に「ただの物まね上手」と一蹴されてしまいます。実はここが書のアイデンティティ確立への犬切なスタートライン、言い替えれば師匠離れ、お手本離れのチャンスだったのです。だがYesl l canといってChangeに踏み切る人は大変に少ないそうです。お弟子さんがただただ師匠のまねをやっているのでは、生涯師匠の上に出ることはありません。書はお弟子さんの世代で一段階レベルダウンすることになります。次にお弟子さんの弟子の時代がくると、当然またもう一段階のレペルダウンです。そして時代が進むほどに、書は衰弱退化の一途をたどるほかはありません。書に将来の明るいヴィジョンを期待するなら、弟子は師匠を乗り超えなければいけない、師匠は自分を乗り超える弟子を育てなければいけない。極めてわかりやすい理屈です。私は、書家を評価するとき師匠を超えたかどうか、師匠を評価するときは自分を超える弟子をどれほど育てたかをよく評価するように提案したいと考えています。それが書の危機の防止に有効な手段となるに違いないと思うのです。》http://www.shodo.co.jp/blog/gotiku/2010/04/2-2.html

果たして黒江は言う。
《言ふまでもなく窿應の書は梧竹の系列に位置するが、窿應独自の書風を拓いてゐる。このことは窿應にとって実に名誉なことである。あれほど梧竹を欽仰した窿應であったが、尊敬といひ欽仰といふのも、つまるところ梧竹の書をとほして、高古にして深遠な梧竹の人格に私淑したのであって、梧竹の書の模倣に終始しなかったのは窿應の偉さである。遺弟石川隆道は語ってゐる。「師僧窿應が中林梧竹に私淑したのは、一家の書家になるためではなく、書によって開眼することを第一義にした」と。至言といふべきである。》(『窿應の生涯と茂吉』)

隆應和尚と梧竹の書.jpg
右 佐原窿應書(大正10年59歳前後 号桑隠)
左 中林梧竹書(明治36年77歳前後)

今年度南陽市商店街まちづくり活性化推進事業費補助金を得て「よもやま宮内歴史絵巻」を更に10枚作成しなければならない。そのひとつに「茂吉と宮内」を考えている中での思いがけない出会いだった。

そうしているうちに、鴨居先生が紹介された蒼海の詩にうながされて注文した「墨」の副島蒼海特集号(1983.3月号)が届いてさらに驚かされる。中に「書友 蒼海と梧竹」という文章があったのだ。副題に「肝胆相照らし書論を交わす終生の友」とある。梧竹研究家佐々木盛行氏による。梧竹が上で一歳違い。蒼海は本藩、梧竹は支藩の共に鍋島藩士。蒼海が梧竹を詠んだ漢詩実に21首、一方梧竹には蒼海薨去を悼む漢詩一首が残っている。深く尊敬しあうその交友はただごとではなかったようだ。

実は副島蒼海は神道天行居にとっては、本田親徳との関係、『霊学筌蹄 』の「夢感」によって重要な人物。友清宅にはたしか蒼海書の額が掲げられていた。以下「霊学筌蹄 」より。(クリックで拡大)
夢感.jpg

というわけで、鴨居先生の遺文集の題字がなぜ日野俊顯氏だったかが図らずも見えてきた。そして思いがけなくもそのワールドの広がりは黒江太郎氏にも及んでいる。わが家とはすぐ近くの黒江太郎氏は私にとって最初の歯医者さんであり、今はその孫さんのお世話になっている。
蓮華寺和尚図.jpg
平福百穂「窿應上人画像」(齋藤茂太氏蔵)
茂吉は晩年この画像を枕元にかかげて恩師と対面されていたという。


【6月10日朝 追記】

いま、黒江太郎著「童馬先生随聞」(窿應の生涯と茂吉』所収)の中で次の文を読んだ。

 

《(昭和22年)五月二十日。六時ごろに目をさまし、しばらくのあひだ先生(茂吉)と床の中で話をした。中林梧竹の書の話であった。書聖とまで言はれた梧竹でも、見るに堪へない下手な書もあるが、あれなどはいやいやながら書いたものだろうし、専門の書家でも少しも気の乗らない時はあるだらう。歌でも同じことで、長いあひだにはどうしても作れない時はある。万葉集がどうのかうの言っても、自分の歌ほど面白いものはない。作れない時などは万葉などは見たくもない。梧竹の下手糞な字を見ると、俺はかへって奮起したもんだ。窪田空穂といふ歌人が居るが、あの人の歌はいったいどうなんだ。僕などがどうかなと思ふ歌を、歌壇では手を打って喝采するんだから、歌壇もまた妙なもんだ。歌壇などはまづお附合の程度にとどめて、眼中におくべきものではない云々。》


黒江太郎との縁で茂吉は2回宮内を訪れている。最初が昭和22517日。2晩を黒江宅に宿し、19日、太郎の弟で赤湯で歯科を営む黒江二郎の招待を受けて、赤湯温泉御殿守旅館に結城哀草果、板垣家子夫と共に泊まる。この時、茂吉と太郎の二人が同室するが、その朝の回想。茂吉、梧竹、黒江がリンクしている。しかも茂吉、宮内訪問の折り。その内容も茂吉の本音が伝わって興味深い。それにしても食糧厳しい時代、茂吉にとって黒江太郎がどんなにありがたい存在であったか、それゆえ茂吉が黒江にいかに心をゆるし自分をさらけ出していたか、「童馬先生随聞」のいたるところから伝わってくる。後記に《「童馬先生随聞」は孫たちが読めば、あるいは興味をひく程度のものであるが、記念に保存することにした。》とあるが、なんと貴重な記録が目一杯つまっている。つい先日、「叔母から受け継いだ茂吉の色紙がある。」という話を聞いて、「『茂吉と宮内』で紹介したいのでぜひ見せて欲しい。」と願い快諾を得ていたのだが、茂吉の接待にあたった宮内の女性歌人のひとりとしてその叔母さんの名前もあった。茂吉の日記にも「ソノ夜(5月17日)、女流ノ骨折ニテ鯉ヲ主二シタイロイロノ料理ガデタ、」とあるという。


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めい

梧竹、茂吉が思いがけなく斎藤喜博先生とリンクした。
http://homepage2.nifty.com/413/concept8.html
斎藤喜博先生についてはまだ書いたことがなかったようだ。私にとって大切だった、いつか書きたい先生です。

   *   *   *   *   *

 斎藤喜博の仏像観

斎藤の仏像否定の文章
 ▼「ぼくは日本の上代の仏像はもちろんすぐれているものと思う。しかしあれは結局貴族芸術にすぎない。今もなお仏頂面などという語が民衆の間に使われているのは、結局仏の顔が民衆の喜びを表現してなかったからである。」▲
 これは斎藤喜博が27歳の時、『ケノクニ』1948年8月号の「屋根裏独語」に載せ、後に全集15-1『表現と人生』(208頁)に転載された文章である。ここでは、この文章を検討してみたい。
 今年は戦後70年であるが、戦後3年目に発表されたこんな昔の文章を、なぜ今ごろ引き合いに出すかというと、斎藤は青年時代は活発な組合活動家で、校長になってからも組合員であり続けた人だから、斎藤喜博研究では、その組合活動とそれを支えた思想の解明が不可欠なはずである。しかし、こういう研究は極めて乏しい。ところが上記の文章は、この問題を解明するための1つの手がかりになると私には思われる。それが、この文章を引用した理由である。以下、実際に分析してみたい。

仏像の表情ーー3つの見方
 和辻哲郎は『古寺巡礼』で、薬師寺の聖観音の顔を「美しい荘厳な顔」と評したが、それはまた民衆を彼岸に導く慈悲の顔である。人々は仏像の顔をそのように見て、救いを願って合掌し、祈るのである。私も同じで、上代(飛鳥・奈良時代)の仏像の前に立つと自然に手を合わせて拝んできた。だから、仏像の顔が民衆の喜びを表現していないという理由で仏像の価値を否定する斎藤の文章を読んで、元々仏教には仏の顔に民衆の喜びを表現する思想はないのではないかと疑問に思ったのである。
 ところが、「東の斎藤、西の東井」と謳われた東井義雄は浄土真宗の貧乏寺の住職だったが、東井語録の中に「阿弥陀さまのほほえみはお母さんのほほえみ」という言葉がある(東井記念館作成のカレンダーから)。東井は、阿弥陀像は民衆(母親)の「ほほえみ」という喜びを表現していると見ているのである。
 また、斎藤茂吉記念文学館長の秋葉四郎は、「詩の仏(ほとけ)文殊菩薩のほほ笑みは梧竹書一幅の軸より届く」と詠んでいる(『短歌研究』14年8月号)。これもまた、仏像のほほ笑みが、民衆の喜びと結び付いていることをうかがわせる歌である。インターネットで調べると、梧竹(中村梧竹)は「明治の書聖」と謳われた書家で、その筆跡は書というよりは絵画の味わいがあるという。斎藤茂吉の郷里の寺の住職と懇意で、その縁で、茂吉は18歳で上京した時、梧竹から「大聖文殊菩薩」という書を書いてもらったという。秋葉の歌は、この梧竹の書の掛け軸が届き、そこにほほ笑みを浮かべている文殊菩薩が描かれているという意味であろう。
 また斎藤茂吉も、記念文学館のホームページによると、長岡市西福寺に「みほとけの大きなげきのきはまりをとはにつたへてひびきわたらむ」という歌碑が建っているという。茂吉は「喜び」とは対極であるが「大き嘆きの極まり」を仏像の顔に見て感動したのであろう。
 以上のことから、仏像の顔に対しては、①祈りの対象として見る、②「ほほ笑み」や「嘆き」を共感しながら見る、③民衆の喜びを表現していないと突き放して見る、という3つの見方があることがわかる。このうち最も多いのは①で、②は例外的、そして斎藤には恐縮なことだが、③は極めて例外的な見方であろう。

仏像を拝むか拝まないか
 では、なぜ斎藤は③のような仏像観を持ったのだろうか。斎藤は師範学校生時代に『マルクス・エンゲルス全集』を購入して読んだというが(『可能性に生きる』)、この仏像観を書いた当時は佐波郡内で日教組の活動家として活躍していた。この翌年には、推されて群馬県教組の文化部長に打って出ている。そこで私は、ある予測を抱いてネットで「仏教とマルクス主義」という座談会記事を検索し、読んでみた。すると、「仏教は拝む。マルクスは拝まない」と発言した人がいて、他の出席者もみな同意していた。これで私の予測は当たった。「東井義雄は拝む。斎藤喜博は拝まない」。
 組合活動家なら、マルクス主義者であって何も不思議はない。特に当時は、共産党が戦後民主主義の旗手として人気を集め、49年初頭の総選挙では議席を4から35に増やして大躍進した時代であった。進歩的知識人は相次いで共産党に入党し、斎藤の盟友・上野省策や杉浦明平、国分一太郎なども入党した。斎藤は教育者の矜持を守って入党しなかったが、マルクス主義を理解し共感していたことは確かであろう。

知識人の教養としてのマルクス主義
 ただ、誤解を生むといけないので付言しておくと、斎藤自身は自らがマルクス主義者であるとはどこにも書いていない。私が推測するだけである。
 しかし、斎藤が青年期を過ごした大正自由教育の時代は、貧富の格差をなくすというマルクス主義を知っていることが知識人の教養であるとされ、旧制高校生は、みなマルクスを読んだという。そういう風潮は戦時中は抑圧されたが、戦後にまた復活し、私なども大学生の時、マルクスの『共産党宣言』を原書で読む読書会を作ったものであった。もっともこれは、言葉も内容も難しくてすぐに挫折し、2回ほどで止めになってしまったが、斎藤は、師範学校生時代の独自学習が組合活動家としての実践につながったのである。
 冷戦が終結してソ連邦が崩壊し、マルクス主義が大きく後退した現在では、マルクス主義者と言うと何か危険人物に見えるかもしれないが、戦後民主主義の時代はそうではなかったことを理解していただきたい。

「民衆」という言葉
 斎藤の文章でもう1つ考察する必要があるのは、「民衆」という言葉である。文脈からは、この言葉が1つの思想性を持って使われているように察せられるので、広辞苑で引いてみると、「世間一般の人民。庶民。大衆」と出ている。そこで次に「人民」を引くと「国家・社会を構成する人。特に、国家の支配者に対して被支配者をいう」とある。このことから、組合活動家の斎藤が言う「民衆」とは、この「特に」以下の「国家の支配者に対する被支配者」であることは自ずから明らかである。
 共産党が45年の党大会で制定した行動綱領には、「日本民衆の解放と民主主義的自由獲得」など「民衆」という言葉が何度も出てくるが、これも「被支配者」を指していることは自明である。斎藤も、こういう時代状況の中で「民衆」という言葉を使ったと思われる。
 仏像観が発表された43年に斎藤は100首余りの短歌を詠んだが、その中の4首に初めて民衆という言葉が出てきている(『証』)。
  卑怯なる彼等が虚勢はりくるにたのみがたきかなわが民衆の
  己れを持たぬ民衆をあはれとも残念とも思ふこと多くあり
  なべての民衆があはれになりてくる曇りの下の今日の夕街
  白粉花雨にしだれて咲きをれば民衆をたのみ己れをたのむ
 斎藤が組合活動で味わった「民衆」への失望感と期待感が、これらの歌ではないまぜになって詠われている。このように民衆と共に闘う組合活動に身を置くと、聖武天皇や光明皇后などの貴族=支配者が作らせた仏像は、民衆と無縁の美術品だと見えたのは必然的なことであったと言えようか。

斎藤の仏像観は変わったか?
 斎藤の仏像観の話には続きがある。年譜によると、この仏像批判が書かれてから16年後の64年11月に、斎藤は奈良学芸大学(現奈良教育大)附属小学校に招かれて授業を指導し、翌年5月には同校の第1回教育研究発表会に講師として出席した。
 このうち1回目の訪問の際には、新薬師寺と唐招提寺を「見物」(年譜の言葉)し、2回目の時は、やはり講師として招かれていた美術教育者の箕田源二郎と同道して法華寺、秋篠寺、西大寺、新薬師寺を巡回し、さらにもう1日逗留して東大寺と春日神社を見物している。このように、多忙な日程の中で奈良の古寺を一巡していることから、16年前の仏像観に変化があったように見える。
 しかし、ふつう寺社を訪れる時は参詣とか参拝と書くが、斎藤の年譜では「見物」となっている。これは何を意味するのだろうか。
 斎藤は,自宅近くの玉村八幡宮本殿が「みごとな力と美しさ」を持ち,特に屋根が美しいと書いている(全集7、291頁)。また何度も勤務校に斎藤を招いて指導を受けた細田椙子は、「(斎藤は)研究会の後、よくお寺などへ連れていってくださって『その屋根のやわらかでいて張りつめている線、おおらかな線などをよく見て自分の中に入れておくのです。いつも一流のものやほんものを見ておくといいですね』と言われた」と書いている(「たくさんの映像を手がかりに」『総合教育技術』81年10月号)。 このことから、斎藤はこの奈良紀行でも、仏像よりは「天平の甍」の美しさを見て回ったと察せられる。仏像観は16年前と変わっていなかったのであろう。

現代の仏像展の盛況
 斎藤が仏像否定の文章を書いたのは戦後の窮乏期で、奈良の古寺は参詣者もまばらで荒廃していた。しかし、時代は今や大きく変わり、09年に東京と九州の国立博物館で開かれた「国宝 阿修羅展」には、参詣か見物かは別にして、165万人もの「民衆」が押し寄せた。このような現象を、斎藤はどう批評するだろうか。
                

by めい (2015-09-03 08:53) 

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