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井筒俊彦夫妻と小田仁二郎・瀬戸内寂聴さんとの交流 [小田仁二郎]

井筒俊彦全集4巻「イスラーム思想史」を入手。7,344円はきついが、このところ仕事がずっと忙しかったのでご褒美としてまあいいかと決断。というのも、この巻の月報に瀬戸内寂聴さんが書いておられることを聞いていた。小田仁二郎についての言及があるかどうか。なんとしても見ておかねばならない。しかし近所の図書館を検索してもどこにもない。先だって山形市内の書店数店を探しても見つからない。買うしかないかと思いつつ、その機をうかがっていた。それが一昨日届いたのだった。

 

案の定、「私たち」すなわち小田仁二郎と瀬戸内寂聴さん二人と井筒俊彦・豊子夫妻との交流の記憶が詳しく記された貴重な文章だった。


《(1956年頃、小田と一緒のとき)私の下宿に突然未知の女性が訪れた。上品な物静かな人は井筒豊子と名乗り、「Z」の同人になりたいと言う。華奢で消え入りそうな風情なのに、言葉ははきはきして、相手の目を真直見て、

「主人の井筒俊彦が、小田さんの『觸手』を拝見して、私に小説の御指導をしていただけと申します。」

 と言葉をつづける。めったにものに動じない無表情な小田仁二郎が驚愕したように背筋を正し、

「井筒俊彦さん・・・・・あの言語学の天才の・・・・・」

 豊子さんはそれを承認した微笑をたたえて、わずかに顎をひいた。

 その時から私たちと井筒夫妻との有縁の時間が始った。》


井筒夫妻.jpg井筒夫妻(月報より)

 

井筒夫妻は余計な人間関係を一切断って、ご自分の成すべきことのみに専念するくらしを送っておられる方だった。豊子夫人は買物に行っても店の人と必要以上の言葉を交わせない。《それでも私や小田仁二郎には学生のような親しげな口吻になっていた。》


寂聴さんがあるとき夕食に招かれて井筒先生と話す機会をもつ。


《人嫌いと何度も聞かされているので堅くなっていると、温顔にふさわしいおだやかな口調で話しかけてくださる。

 小田仁二郎の『觸手』を、言語学の立場から読んでも面白い小説で、文学史に残していいシュールな小説だとほめてくれる。》

 

その後小田と一緒に招かれたことがあった。そのとき、パソコンの原型のような新しい機械が届いたばかりの時だった。


《先生はその場で小田仁二郎と機械の上に頭を寄せあって、指でキイを押えながら試していた。人嫌いの二人の男が体を寄せて、子供が新しい玩具に熱中しているような風情を見て、豊子さんがす早くカメラに収めてくれた。》


その写真は残っているのだろうか。ある夏には二人で軽井沢の別荘に招かれて二泊してきたこともあったという。しかし井筒先生がイスラムの大学に招かれて日本を離れられ、幾度かの交信はあったものの、《いつとはなしに疎遠になり、帰られたと伺いながら気後れしているうちに井筒先生の訃報が伝えられた。》


寂聴さんのこの体験と記憶を語られたのが、小田仁二郎文学碑除幕式での講演だった。


《井筒さんは小田仁二郎の『触手』の文章を「これは言語学的にすばらしいものだ。」というふうにおっしゃいました。どこがどうすばらしいのかを聞いておけばよかったんですけども、私はただ言語学的にすばらしいということを、コーランを訳すえらい学者が言ってくれただけでうれしくって、あ、そうですか、そうですかと言ってしまって聞いておかなかった。・・・けれどもまだあの方は生きてらっしゃいますから聞いてみようと思いますが・・・そういうことがありました。(この講演は平成3年。井筒俊彦さんが亡くなったのは平成5年)そしてそれを聞いて小田仁二郎は、私が一緒におりました歳月の中でいちばんうれしそうな顔をしたのをおぼえております。井筒さんが「あなたのこの『触手』の文章は言語学的にほんとうにすばらしい。これはだれにも書けないものだ。言語学的にすばらしいということを証明できるのですよ。」と言った。それを聞きまして、非常にうれしそうな顔をしたのを覚えております。》



さらにつづけて寂聴さんは《そのいかにすばらしいかということを、私はこんど(文学碑のために)拾字いたしまして、はじめてほんとうに、なにかコトンと納得することができました。》と語られた。その納得の中味、その後寂聴さんはどこかで語られたのだろうか。それを知りたい。まだならぜひ語って欲しい。



【追記 26.8.27】


寂聴さんの小田を評価する言葉がありました。


《小田さんの『触手』は、当時としては世界の文学の新しい方向を指し示しているといわれたものです。だからこそ、当時の日本の文壇には受け入れられず孤立したのです。でもその後も、『触手』に触発されて文学に目を開かれた青年たちが何人もつづいています。小田さんの霊はそのことで以て瞑すべきでしょう。今の日本の新しい小説というものは『触手』の跡を追っているようなものですよ。》

寂聴さん 文学碑について.jpg

寂庵から発行された機関誌に掲載されたものです。小田仁二郎の従妹のご主人で文学碑を建設した南陽文化懇話会の会長であった菅野俊男さんが残されたファイルに入っていました。除幕式の貴重な写真もありました。(小田仁二郎のお宅にも何回かうかがって一緒に盃を交わしたこともあるという、御子息の菅野昭彦さんからお借りしました。)

除幕式写真.jpg

「除幕式のしおり」からです。

除幕式のしおり.jpg

菅野昭彦さんからお借りした「やまがた文学の流れを探る PART16 近代の作家たち2」(やまがた文学祭実行委員会 平成4年)からです。

(アルバムにある除幕式の写真と上の寂庵機関誌の写真は同じ時のものですが、機関誌の方は裏返しです。そのため写真説明の左右が逆です。印刷段階でのミスのようです。)

アルバム.jpg

佐々木悦.jpg

佐々木悦2.jpg

 

【27.9.17追記】

本日の山形新聞「文学碑のある風景」に取り上げられました。(クリック拡大)

文学碑のある風景 小田仁二郎.jpg

 


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コメント 4

井上達也

ここでは、はじめまして

「小田仁二郎」で検索していたところ、本ブログがヒットしました。
小田仁二郎の生家は、現宮内公民館の敷地の南側という思い込みがありますが(貯水池)、正確にはどうなんでしょうか?

結城まさをの父健三さんの生家は公民館の北側の空き地ということでよろしいのでしょうか?

文章が流麗で、楽しく読ませてもらっております。
by 井上達也 (2014-09-08 15:04) 

めい

ようこそおいでいただきました。
井上さんに発見していただいてうれしいです。

小田仁二郎の生家は、公民館の東に十字路がありますが、その西北角、川に沿った一角です。10年ぐらい前まで土蔵が残っていました。仁二郎のお母さんは、腰の曲がった小さい上品な顔立ちの方で、今でも思い浮かべることができます。今は施設に移られていますが、数年前亡くなられた小川孝市先生の奥さんが仁二郎の従妹で今もご健在です。上品な顔立ちが似ておられました。駅前の杵屋支店が実家で、たしか昭和2年のお生れ。大正7年生れのお姉さんが菅野俊男さんの奥さんです。お二人のお父さんと仁二郎のお母さんが兄弟です。間もなく(9/23?)の東京南陽会で実行委員長を務められる菅野昭彦さんが杵屋支店の次男で、仁二郎さん宅に何度かお伺いして一緒に酒を酌み交わされたそうです。

数年前から運営委員をしている関係で、今年の市民大学講座10月25日に「小田仁二郎と宮内」の題で話させていただくことになり、今いろいろ調べているところです。いろんな発見があります。昨日届いた髙橋和己の「戦後文学私論」に《戦後文学は、その端緒には目くるめくような幅をもった。作家の文壇的所属を無視して、その作品を作品のもつ意味からいえば、その幅の両極は、埴谷雄高の『死霊』と小田仁二郎の『触手』に代表された。》とありました。その意味するところをなんとか明らかにできればと考えています。なんといっても福田恆存による『触手』巻末解説のインパクトが大きかったのだと思います。井筒俊彦にせよ髙橋和己にせよ福田による解説が評価の決め手になっていると思います。種明かしをすると、浜崎洋介『福田恆存 思想の〈かたち〉』を読みつつそのことがわかってきました。10/25までにきちんとまとめます。市民大学講座は単発参加も可能ですのでぜひおいで下さい。励みになります。お母さんにもよろしくお伝え下さい。
by めい (2014-09-09 05:05) 

めい

結城健三さんのこと、書き忘れました。どこか調べるとはっきりしたことがわかると思いますが、私のイメージとしては今證誠殿が建っている場所のように思っています。以前あの場所は長屋のようになっていていろんな方が住んでいました。結城よしをが生まれて間もなく庄内に移られたとのことで、今もご健在の妹の花柳衛優さんのお生れは宮内ではないのでおわかりになるかどうか。こんど北野宮司にたしかめてみます。なにかわかるかもしれません。

by めい (2014-09-09 05:15) 

井上達也

即答して頂いて感謝します。
證誠殿のところだったとは、いまではまったく想像できません。
市民大学講座10月25日 出席できるように調整してみたいと思います。
by 井上達也 (2014-09-09 10:16) 

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