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髙橋和巳による小田仁二郎評価 [小田仁二郎]

自分なりの論理(スジ)を持つという姿勢の持ち様を教えてくれたのは、吉本隆明以前、髙橋和巳だった。大学2回生の頃だった。その夏休み、釜ヶ崎近くの新今宮で手配師に拾われ10日間ほど飯場暮らしをした。「堺市北瓦町大末組ニチイ堺工事現場」とメモしてある。ウィキペディア「過去に存在したニチイの店舗」の中に堺店(大阪府堺市(現・堺市堺区)北瓦町1-31968年(昭43年)1123日開店- ?閉店)ニチイ初のショッビングセンターの店舗で店舗面積4,500m²」とある。その基礎工事だった。肉体的にもきつかったと思うが、「自分はこの程度」と認識させられる得難い経験だった。大阪府立今宮中学出身の髙橋和巳を読み出したのがその前であったのか後であったのか定かではない。しかし飯場体験は髙橋和巳体験と分かちがたく私の中にある。吉本以前、私にとっていちばん大事な人の時期があった。


髙橋和巳の「戦後文学私論」に小田仁二郎についての言及があることは何かで知って、収録された『孤立無援の思想』はどこかにあるはずと思いつつそのままになっていた。探せないままこのたび『髙橋和己全集第14巻』を手に入れた。その中でなんと小田仁二郎の『触手』は、埴谷雄高の『死霊』と対をなす一方の極との評価が与えられている。驚いた。


《戦後文学は、その端緒には目くるめくような幅をもった。作家の文壇的所属を無視して、その作品を作品のもつ意味からいえば、その幅の両極は、埴谷雄高の『死霊』と小田仁二郎の『触手』に代表された。批評活動では、花田清輝の『復興期の精神』と福田恆存の『作家の態度』が印象あざやかに今後ありうべき精神活動の版図拡大を宣言したのである。とりわけ、創作面での、従来比類なき観念の極限化による形而上学小説『死霊』と、もっとも原始的な感覚まで後退して〈家〉の崩壊を息づまるように描いた『触手』は、ああ、この両極端の幅こそが、ひらかれゆくべき日本文学の原野を象徴するものだと夢想させたのだった。そして、それぞれの特異な文体は、構想を具体化する方法そのものであるという正当性をもっていた。戦後派が、国民の思考を支える水準的文脈からはみだしたことは事実であるが、それが各自の構想と相補関係にあったとき、一つの真実であった。書物が散佚していまは記憶にたよらざるをえないが、「指と、指との、指の、つけねの・・・」といった短く断続し、やがてオルガスムスのようにせりあげてゆく『触手』の文体は、家庭を規定し、またそれに規定される人間存在の性と死を少年の手さぐりのうちにあかしてゆく作品の意図と相補していた。それは確かな意味であり、それは確かな真実だった。・・・だがまもなく、その両極は、埴谷雄高の疾病による執筆の中絶と、小田仁二郎の自己のなしとげた仕事に対する自信のなさとによってついえ去った。》(「戦後文学私論」『文藝』昭和388月号)

 

この文章の前にはこうある。


《戦後文学は、最初、日本の中の異国の文学のような外観で登場した。文章の国民的水準は一たび破壊され、観念それ自体が一つの存在であるかのように生(なま)のまま作品の前面におしだされた。しかしそれは、華々しく主張し慷概するのではなく、忍苦の姿勢とでもよぶべき屈折した態度で呟かれ、その屈折の背後には、暗い政治の影がつきまとっていた。・・・既製文壇の反応は、まず、その文体と作品の観念性にたいする反撥として起ったと記憶する。・・・当時、食糧ばかりでなく、知的にも人々は一種の飢餓状態にあった。あまりに急速な社会全般の価値顛倒に舌の根が乾くような感じをおぼえながら、私は、およそ自分が文学への道を歩むなどという予想の片鱗もなく、うす汚いセンカ紙に活字がとびでるように印刷された雑誌類としばらく対面したものである。つづいて表紙に前衛画の刷りこまれた「アプレゲール・クレアトリス」が刊行されはじめた。野間宏『暗い絵』、中村真一郎『死の影の下に』、安部公房『終りし道の標べに』、小田仁二郎『触手』・・・。何だろう? しばらくの眩暈ののち、その意味を十全にくみとれぬまま、しかし、その屈折した苦渋の呟きに、ある真実を感じて、私はこの「内なる異国の文学」をクイークエグのように担いでゆく決心をしたのである。》

 

さらに先の小田評価の後には、埴谷・小田に代表される「戦後文学」について、こう言う。

 

《私が戦後派を認めるのは、僅かながら、たとえば埴谷雄高は埴谷雄高最高主義者であり、武田泰淳は武田泰淳主義者であるというかたちで、その態度が実現されつつあり、それをかつ慶賀するからである。我は我なり、そう言ったときにかかってくる重荷は想像するにあまりがある。彼はもはや何ものにも助けを求めることができない。問いつめられ、疲れはてても、みずからを鞭打って、みずから答えようとすることができるだけである。しかし、そうした精神態度が普遍化するとき、文学ははじめて自律への道を一歩ふみだす。そしてその端緒は、戦後文学の中にある。》

 

たしかに小田仁二郎は「小田仁二郎主義者」であったと思う。安保闘争騒ぎから3年しか経っていない昭和38年、まだまだ政治の季節の中にあって、中国文学史研究に身を置く髙橋和巳の視野はあくまで広く、その視点をもって「戦後文学」を救い上げようとしたのが「戦後文学私論」と読んだ。『触手』は、髙橋和巳にとって救いあげなければならない代表作品だったのだ。

 

なお、全集所収、次の「戦後派の方法的実験」にも小田への言及がある。

 

《戦後二十数年、多くの試みがなされ、多くの試みが失敗した。・・・古く敗戦直後には、小田仁二郎は『触手』において、日本語のフレーズの極端な細分、しかも日本語がもっている言語学的膠着性を利用して、一つ一つの判断が下されるまえの原始的な感覚、いわば触覚的な世界の構成を通じて、暗い日本の家庭と性を描き出そうとし、一部成功しながらも。初志を貫くことなく挫折した。》(『群像』昭和4310月号)

 

井筒俊彦による評価と噛み合わせることができそうだ。

 

さらになお、「掘出した本、探している本」に、

《『触手』真善美社刊、小田仁二郎。アプレゲールクレアトリスの一冊。もっていたのですが友人に貸してなくしてしまいました。》とあった。忘れてはならない一冊だったにちがいない。


触手.jpg



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めい

「人って、実際に見ていることでも、自分で判断できなくなっているんだな」。マドモアゼル愛さんのこの言葉が切実に響いてきました。そしてそこから、小田仁二郎評価の今日的意義を思いました。

   *   *   *   *   *

上空から御嶽山発見 New! 2014年09月27日(SAT)
http://www.love-ai.com/diary/diary.cgi

きょうは昼ごろに羽田を立って、一路福岡へ向かっていました。ちょうど私の席は窓際でした。

雲の合間にひときわ昇り立つように見えるおかしな雲が。そこから東の方向へ長く薄い雲が漂って長く続いている。

あれ、、爆発だ、、火山でしょ。おそらく浅間山、、、と思っていました。

ちょうど機内サービスが始まり、キャビンアテンダントさんに、今、火山ば爆発してますよ、、、と伝えるも、窓のほうを見て、ええ、でも立っているように見える雲も多いですから、、、と一蹴。

風になびいている長い煙が何よりの証拠だし、遠目にも下から黙々と湧き出ている黒い雲もあるのだから、誰がどういったって、あれは火山爆発以外にない。

しかし、飛行機の客の誰からも火山爆発の驚きは入らない。人って、実際に見ていることでも、自分で判断できなくなっているんだな、、、と、不思議な気持ちになりました。

マスコミが取り上げないことは世界に起きてない、、そう思わせるのだから、本当に現代人はマスコミにやられてしまった、、、そんな気持ちになりました。

山にまだ取り残されている人はいるのか、、全員救出されたのか心配です。無事を祈ります。

御嶽山はたしか、30年以上前に突然爆発した記憶がある。それまで気配すら見せない山が突然爆発したので驚いたが、それも今回と同じで頂上爆発ではなく、山の中腹からの爆発だったと記憶している。

でも、考えてみると、私の乗った飛行機も、もう少し時間がずれていたら、また、もう少し山に近かったら、もろ噴煙の中にいたのかと思いました。でも高度が違うか。

それにしてもこのところ多い火山爆発。地球が怒っているのかもしれません。

by めい (2014-09-29 06:29) 

めい

髙橋和巳と埴谷雄高の関連で。
http://6232.teacup.com/hakuhyodo2/bbs?page=2&

   *   *   *   *   *

埴谷雄高の「精神のリレー」 投稿者:太田代志朗 投稿日:2012年12月 3日(月)15時31分28秒 返信・引用
松本健一(聞き手)『埴谷雄高は最後にこう語った』
(毎日新聞社 1997年刊)より

■ぼくは精神のリレーということを言っていますが、高橋がぼくから受け取った精神は、ものの考え方ということであって(略)戦後文学を超える文章、文学を書いてくれていないですよ。

■ぼくは絶えず言った。こういう文章では」だめだと。

■高橋自身は学者になりたい気が強くあった。高橋の学者になりたいとう色気が文学を毒したわけです。

■文章はもう少しよい文章を書いてもらいたいと思って、これだけは何べんも言っても直らなかったですね。あれは不思議だった。
http://www.uranus.dti.ne.jp/~ohta/

by めい (2014-11-24 06:37) 

めい

阿修羅板に髙橋和己が出てきました。もう再読することはないとは思いますが、懐かしい人です。
http://www.asyura2.com/16/senkyo206/msg/586.html

   *   *   *   *   *

「高橋和巳『憂鬱なる党派』のどきっとした箇所を二箇所引用してみました:内田樹氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/20066.html
2016/5/25 晴耕雨読

https://twitter.com/levinassien

「心に傷と穢れを持つということは、その人間の精神の構成により豊富な支えが加わったということを意味する。内部により多くの矛盾をはらむ人間ほど、態度は微温であっても精神は強靱であり、行動は持続的である。」(『憂鬱なる党派』から)

「人間という奴はおかしなものでね、本当を言うとおれなどは少年時代、妙に徹底した個人主義者だった。自分さえ銀しゃりを食っておれば人のことなどどうでもよかったし、勉強の方では典型的ながりがり亡者だった。」

「ところが、戦局が不利になり、玉砕が相次ぎ、特攻機が飛び、しかも、待てど暮らせど軍艦マーチは鳴らず、日本の主要都市が次々と焼かれる頃になって、不意に日本は正しいと思いだした。いや、正しいのかどうかは知らんが、敗戦色が濃厚になってはじめて、この祖国を愛しはじめた。」

高橋和巳『憂鬱なる党派』のどきっとした箇所を二箇所引用してみました。

ここに出てくる青年たちは全員が高橋和巳の「分身」たちなんでしょうね。

僕は特攻崩れのインテリ遊び人である藤堂という人物の造形がみごとだなと思いました。

by めい (2016-05-25 04:39) 

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