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小田仁二郎と宮内 (南陽市民大学講座資料) [小田仁二郎]

昨日、南陽市民大学講座で「小田仁二郎と宮内」について語ってきました。用意した資料が多くなったこともあって、1時半から始って2時間たっぷり、質問というより、小田仁二郎のすぐそばに家が在って仁二郎についてこどもの頃の記憶を書いておられる牧野房先生や小田家とは隣組だった大津敏子さんも来ておられてこちらがお聞きすることも多く、終ったのは4時近くでした。

 

とにかく「小田仁二郎評価の気運を!」とはりきって臨み、それなりの達成はあったのではないかとの手ごたえも感じています。以下資料です。

 

 小田仁二郎関連宮内写真.jpg

 小田仁二郎(1910-1979)と宮内  

寂聴さんの予言

《その一冊(『触手』)が、将来私も死に、あるいは遺族も死んで何十年かたった時に、日本だけではなく世界の文学として取り上げられ、翻訳され、日本の歴史の一つの文学の流れの中で、ある峯だとして見直される時が必ず来ると私は予言いたします。》(「週刊置賜」平成4.3.21


《小田さんの『触手』は、当時としては世界の文学の新しい方向を指し示しているといわれたものです。だからこそ、当時の日本の文壇には受け入れられず孤立したのです。でもその後も、『触手』に触発されて文学に目を開かれた青年たちが何人もつづいています。小田さんの霊はそのことで以て瞑すべきでしょう。今の日本の新しい小説というものは『触手』の跡を追っているようなものですよ。》(「寂庵だより」)

 

寂聴さん予言の根拠

《井筒俊彦さんが小田仁二郎の『触手』の文章を「これは言語学的にすばらしいものだ。」というふうにおっしゃいました。どこがどうすばらしいのかを聞いておけばよかったんですけども、私はただ言語学的にすばらしいということを、コーランを訳すえらい学者が言ってくれただけでうれしくって、あ、そうですか、そうですかと言ってしまって聞いておかなかった。・・・けれどもまだあの方は生きてらっしゃいますから聞いてみようと思いますが・・・そういうことがありました。(この講演は平成3年。井筒俊彦さんが亡くなったのは平成5年)そしてそれを聞いて小田仁二郎は、私が一緒におりました歳月の中でいちばんうれしそうな顔をしたのをおぼえております。井筒さんが「あなたのこの『触手』の文章は言語学的にほんとうにすばらしい。これはだれにも書けないものだ。言語学的にすばらしいということを証明できるのですよ。」と言った。それを聞きまして、非常にうれしそうな顔をしたのを覚えております。》(「週刊置賜」平成4.3.21

6-小田仁二郎.jpg 小田仁二郎文学碑(宮内公民館敷地内) 見える建物の後が生家跡。

1-寂聴.JPG上の写真にある文学碑前の案内。布に染めたもので今はない。菊まつりを民間主導で盛上げた平成18年につくった。

1-DSCF2335.JPG生家跡の現在。宮沢川も暗渠となり、塀のみがおもかげを残す。


井筒俊彦1914-1995――「生けるコトバの顕現者」

《井筒は、文字通りの意味で20世紀を代表する哲学者である。「日本の」という限定は彼の場合必要ない。井筒の評価は今でも国内より海外の方が評価が高くまた、研究者も多い。》

《「コトバ」と井筒が書く時、それはいつも言語の姿を超えている。コトバは「生きている」意味を指す術語であり、それは必ずしも言語に固定されない。・・・友人の間柄であればポンと肩をたたき、慰める行為は、千言を費やすよりも雄弁なコトバになるだろう。》

《現実はいつも、人間が定めた学問の専門領域を逸脱する。井筒は学問に現実を封じ込めようとすることを嫌った。・・・彼は専門家にむけて文章を書いていない。・・・この詩人哲学者を通じてあらわれるコトバは「専門家」にのみ理解されるよりも、市井の人々に感じられることを待っている。》(若松英輔「生けるコトバの顕現者」読売新聞25.10.1

 

《思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。》(小林秀雄『モオツァルト・無常という事』)

《プラトンは、真理や真の道を知ることは、発見ではなく、すべてを想い出す(想起する)ことである、と言いました。私たちは物事を新しく知ることなどない。すべてを想い出すことなのだというのです。想起の思想、もっというと想起の体験が古代ギリシャの根本をなしているといってよい。》( 若松英輔「『モオツァルト・無常という事』」 中島岳志×若松英輔『現代の超克』ミシマ社 平26.8

 

仁二郎・寂聴さんと井筒俊彦・豊子夫妻との交流

《(1956年頃、小田と一緒のとき)私の下宿に突然未知の女性が訪れた。上品な物静かな人は井筒豊子と名乗り、「Z」の同人になりたいと言う。華奢で消え入りそうな風情なのに、言葉ははきはきして、相手の目を真直見て、

「主人の井筒俊彦が、小田さんの『觸手』を拝見して、私に小説の御指導をしていただけと申します。」

 と言葉をつづける。めったにものに動じない無表情な小田仁二郎が驚愕したように背筋を正し、

「井筒俊彦さん・・・・・あの言語学の天才の・・・・・」

 豊子さんはそれを承認した微笑をたたえて、わずかに顎をひいた。

 その時から私たちと井筒夫妻との有縁の時間が始った。》

(井筒夫妻は余計な人間関係を一切断って、ご自分の成すべきことのみに専念するくらしを送っておられる方だった。豊子夫人は買物に行っても店の人と必要以上の言葉を交わせない。)

《それでも私や小田仁二郎には学生のような親しげな口吻になっていた。》

(寂聴さんがあるとき夕食に招かれて井筒先生と話す機会をもつ。)

《人嫌いと何度も聞かされているので堅くなっていると、温顔にふさわしいおだやかな口調で話しかけてくださる。

 小田仁二郎の『觸手』を、言語学の立場から読んでも面白い小説で、文学史に残していいシュールな小説だとほめてくれる。》 

(その後小田と一緒に招かれたことがあった。そのとき、パソコンの原型のような新しい機械が届いたばかりの時だった。)

《先生はその場で小田仁二郎と機械の上に頭を寄せあって、指でキイを押えながら試していた。人嫌いの二人の男が体を寄せて、子供が新しい玩具に熱中しているような風情を見て、豊子さんがす早くカメラに収めてくれた。》

(ある夏には二人で軽井沢の別荘に招かれて二泊してきたこともあったという。しかし井筒先生がイスラムの大学に招かれて日本を離れられ、幾度かの交信はあったものの、)

《いつとはなしに疎遠になり、帰られたと伺いながら気後れしているうちに井筒先生の訃報が伝えられた。》(井筒俊彦全集第4巻『イスラム哲学』月報 慶応義塾大学出版会 平26.3

 

『にせあぽりや』を読む

寂聴さんによる回顧

《生家が山形県宮内の開業医の家であったということもよく話に出た。彼の死後、本気で集めて見て、思っていた以上に書いたものが多く集められたが、若い書きはじめの頃に、「にせあぽりあ」の原型のような形の、幼児時代を書いたものが多いのに改めて、彼の文学の根を見せられたと思った。「魚ー五歳」(昭和5年「早稲田文学」)をはじめて読み、私はその中に出て来る情景を、彼の口から、とぎれ、とぎれに、けれども残すくまなく、すでに聞かされていたことに気づかされるのだった。・・・極端なほど無口だと人にも思われ、私も危く思いこみかけていた彼から、私はずいぶん多くの話を聞いていたことに気づいた。/そのひとつひとつを取りだし並べてみる時、私が聞かされたのは、ほとんどというより、すべてが、彼の幼児の思い出話であったことに思い当るのであった。/中学時代、大学時代、そして社会に出てからの話は、めったに聞かされていなかった。》(瀬戸内晴美「小田仁二郎の世界(一)」『JIN 創刊号』昭55

 

『にせあぽりや』に描かれた宮内

《うまれたとき、頭は茶のみちゃわんぐらいの大きさしかなく、十日あまりも、乳をすう気力さえなかった。骨と皮ばかりにやせほそり、頬がすきとおるようにあおざめ、いまにも死ぬかと思われたが、死にはしなかった。宗次郎と名ずけられた。池上宗次郎、一歳。

 一歳の秋、宗次郎はいっぴきのあかねこにおそわれ、気を失ったことがあった。その時の情景を、宗次郎は、まわらぬ舌で、母に話さうとした。うまくいかなかった。大人の言葉になおすと、次のようなものになった。》

仁二郎生家 門.jpg仁二郎生家東側.jpg仁二郎生家宮沢川rgb.jpg(いずれも「素晴しい山形」1992.8 小田仁二郎特集号より)

《ひろい庭のまんなかに、あおぐろい水をたたえた池が、じっと、さざなみもたてずに、うごきません。池をかこんで、いわのように大きい庭石と、うすやみに、ふといみきを、かすかに、そこびかりさしている松が、五六本あります。私のめになみだがたまり、風景がぼやけているあいだのことでしょうか。いつのまにか、池のむこうの松のみきとみきのあいだから、くろいけむりのような、やみが、こく、たちこめているのです。私は、そのこいやみが、ずんずん、こちらにせまってくるようで、めが、はなせなくなりました。》(あかねこに襲われたことの想起 4p

 

《宗次郎の家の玄関まえには、西がわに、北入口で、一戸がまえの便所がたっていた。入口は半間ほどで、ふたつにぶっさきになっている紺無地ののれんのようなものが、ぶらさがっていた。はいって左がわの、高い腰板壁のうえは、ほそい鉄格子をはめた窓になっており、がらす窓が、四枚はめてあった。その窓がらすは、すりがらすに、ふつうのがらすを浮きだたせ、鶴のむれ遊んでいる、模様ふうの風景が、えがいてあった。つきあたりのすみの、みかげ石の台におかれた手水鉢は、いつもきれいな水があふれていた。右がわのすぐは、朝顔がひとつ、それに続いて、東むきに、式台ようのせまい上り段があり、大便所が二つとってあった。大便所の戸は、かぎがなく、上三分の一が、細かい千本格子になっている板戸で、なかの床板と腰板が、あかうるしでぬってあり、掃除したあとなどは、うすい埃りもめだつほど、ぴかぴか赤びかりがした。》(便所についての想起 6p 秋:くつわむし 冬:ふぶきの夜)

 

《冬も、いよいよ、おわりちかくなります。いままで、きよらかな、もちのような雪のはだも、だんだん、あばたずらのように、きたなくなるのです。やねからおろした雪が、六七尺も、おかのようにたかく、かたくこおっているおもてどおりの道などには、ごごの日にとけて、馬ふんをうかべていた水たまりが、できるようになりました。いっこうへったと思えない、いわのような雪みちさえ、こどもたちの知らないまに、すこしずつ、うすくなっているのです。そして、ぽつぽつとあせがでるほど、あったかい日に、雪わりがはじまります。

 シャベルなんかの、ははたちません。けれど大人たちは、ツルハシ、オノ、マサカリなどをもちだし、みちの雪をたたきわります。わたいれのきものに、タツケをはいて、いっぱいにふくれたこどもたちは、雪べらをもって、大人たちのそばによっていくのです。いしきり山の、やわらかい石をわるときのような音をたて、雪が、ぎざぎざのかどをたててわれますと、そのしたから、いまうまれたばかりの、あざやかにぬれたいろで、土があらわれてくるのでした。あるところの土は、くろく、やわらかくぬれています。あるところの土は、こじゃりがまじり、さらさらとぬれています。ほうっとあまいにおいが、顔にかかるのですけれど、こどもたちは、めをぎらぎらかがやかせ、だまって、うまれたばかりの土をふんでみます。ふわりと、やわらかいかんじで、土が、あしのうらにさわるのです。わった雪は、そばのながれにながします。たかいほうのまちから、ながれていく、石のような雪は、だぶりだぶりと、ひくいほうのまちへ、くだっていきますけれど、そのうち、したのまちのかどでつかえ、つみかさなり、いま顔をだしたばかりの、あまい土のうえに、ながれが、もくもくあふれだすのです。こどもたちは、雪べらをもってはしっていき、つかえた雪を、おしながそうとするのですけれど、こどもたちが、なん人よってもできませんでした。

 二日も三日も、雪わりがつづきます。北のほうの、かげになっている、小さなみちには、まだ、おかのように、雪がつもっています。けれど、おもてどおりは、こどもたちのいうように、ぽんぽんかわきました

。こどもたちは、はなおのところに、こぶのついているわらぞうりをはき、おもてどおりを、とびまわります。》(雪割りの想起 9p

 

(ねえさんとにいさんのピンポン。便所のざら板の触感。男の子のくろいかげ―まっくろいきものに、身をくるんだ、わざわいのてさき。汚物の中の全身触覚。)

 大津家宮町通り図57-DSCF8687.jpg江戸期と思われる鳥居の場から鏡池までの図面。(大津家蔵

4-DSCF2338.JPG十文字(四つ辻)から北方向、熊野参道を望む。

1-05-DSCF0634.jpg鳥居の場。この写真に写るサイカチの木(仁二郎が「ねむの木」と言った木)は今はもうない。

5-DSCF2339.JPG参道の突き当りが大銀杏

《私は、とりいのひろばで、ひとりのおんなのひとに、であいました。町のいちばん北のはずれが、おくまんさまの、こだかい杉のもりです。はばひろい石だんをおり、右にまがると、そこに、いちょうの大きい木が、ぬっともりのようにたかく、うっそうと空をついています。いちょうの木から、だらだらの石だたみをおりていけば、左がわに、しゃむしょ、そのむかいがわに、とうきしょやくばが、ならんでいます。それからゆっくりあるいて二三分で、とりいのひろばです。やねよりも、ぐんとたかくぬけ、とりいがたっています。とりいの両がわには、一間半もある、常夜燈がふたつあります。とりいの東のほうは、西よりせまいのですけれど、そのひろばをかこむかぎのてに、げいしゃやと、おゆやと、こんもりはのしげるねむの木が三本、それからおゆやのはとが、十もいます。ねむの木のはは、やわらかい、こいみどりで、夕がたがちかずいてくると、ひとりで、ふたつにおれかさなってねむります。おゆやのはとは、とりいと、おゆやののきの、すばこのあいだを、くっくっと、のどをならしてとびまわっています。西のひろばは、おまつりのとき、きょくばだんやみせもののこやが、三つもかかるくらいひろいのです。さかやのくらの白かべが、ひろばのおくの、二方を、かこんでいます。》(「おんなのひと(乳母だった人)」の想起 19p

1-c1宮町.jpg参道を北から見下ろす。

《じんりきしゃは、ほろをはずしたまま、はしりだしました。・・・うちのよこをでると左にまがり、おくまんさまからの、だらだらのしき石みちをくだります。車のうえからみる、通りは、いつもとちがい、やねがひくく、おみせなどはずっとめのしたです。にかいの窓さえ、手をのばせば、すぐにもとどきそうであります。朝のしめりをおびたしき石みちが、ひろびろみおろされ、おみせのまえをはいているひとが、車のとおりすぎるのを、ながめあげます。とりいが、朝やけのそらをついて、たっています。おゆやのはとが、五つ六つ、とりいのてっぺんにならび、やわらかい毛を、日にきらきらさせ、のどをならしていました。ねむの木のはは、まだ、かげのなかでめをさましません。とりいのひろばをすぎると、しき石みちはおしまいになり、十文字の辻を、またまっすぐ南にくだります。大戸をおろしたままのごふくや、みせの戸を半ぶんあけてあるさかなや、ひくいやねを、おしつぶそうにしている工場のくらの白かべ、それもこれもみな、いきおいよくうしろにすぎ、もう町はずれの通りです。せまいみちには、すっぱだかのこどもが、はしりまわり、うすぎたないしらがのおじいさんが、うちのまえのほそいながれにしゃがみ、口をすすいでいます。しゃふが、かけごえかけ、はしります。うちとうちのあいだから、青々としたたんぼが、きらりとのぞきます。》(はじめての旅についての想起 23p

3-DSCF2337.JPG十文字の辻から南方角。「さかなや」は当時のまま 

5-IMGP7328.jpg「町はずれの通り」六角町にある六角地蔵


《十一歳の秋のことだ。小学校の庭で、宗次郎のからだは、ひとりの男のため、ほんの小さい汚点を印されたかと思うと、それはたちまち、奥深くつきささり、癌のようにかたくしこった。宗次郎は、口にだしては、たれにもうったえなかった。それだけいっそう、内の混乱は烈しくなり、渦を巻くながれのなかから、たえず、母の胸に、叫びつづけているようであった。

 お母さん

 夕ぐれちかい、学校のひろいにわは、すぐうえの、おくまんさまの杉のもりが、もうくろいかげになりかかり、あたりいちめん、青みをおびて静まっているのです。ただ、遊動円木の、てつわのきしりだけが、キイキイキイと、大ゆれのあいだをおき、このせいじゃくをやぶっています。遊動円木にのっているのは、かみゆいのせがれの、すこしたりない、らんぼうもののタロウなのです。私たち四五人が、のっていたのですけれど、タロウはみんなゆりおとし、じぶんひとり、大ゆりをはじめたのでした。・・・(タロウにはきつけられたたんが、宗次郎の左あしのおやゆびのつけねに、ねっとりと、なまあたたかく、はりつき、不快さにからだの自由がきかなくなりながら、なんとか、遊動円木のそばをはなれた)・・・私のうつろな眼は、ただあてもなく、杉のもりのあたりをさまようのです。もりは、いつかしらぬまに、こいやみをそのなかにたちこめ、もりのしたの、むこうの校舎は、もう、うすい夕やみに青くつつまれ、にかいの、ならんだまどが、うきだすように、白くみえているのです。私の眼は、遠くをさまようばかり、左あしのさきを、みようとはしないのでありました。左あしは、さきのほうから、しだいに、つめたくなるようでたまらないのです。そのくせ、おやゆびのつけねのところだけが、いつまでも、ねっとり、なまあったかいのです。私は、ぬげそうなわらぞうりを、ひっぱりながら、さくらの木の下をとおり、やくばのうらの、ながれにでていきます。一間もあるどてのしたの、ながれは、よいやみのそこで、さらさらと音たて、石にぶつかっては、みずいろにひかるのです。・・・私は眼をつぶり、思いきり、右足で、そこをこすります。なめくじを、はだしでふみつぶすかんじで、こんどは、右の足うらに、すいつくのです。川ぞこのすなにすりつけ、それをはがし、私は、ほうっと眼をひらくのでした。》(痰の想起 36p

7-_K503356鐘秀碑.jpg6-74-DSCF7513.jpg2-12-DSCF0689.jpg「熊野神社の森を負い置賜平野前にして・・・」(高野辰之作詞)と校歌にある宮内小学校校庭。私の子供の頃、この写真の正面突き当たり辺に遊動円木があったように思う。今はこの場所には校舎が建って桜の木もほとんどない。


熊野大銀杏 .jpg

《お母さん

 そのあさ、がっこうへいくとき、石だたみの大どおりにでると、まっすぐむこうの、おくまんさまの大いちょうのはが、すっかりちってしまったのが、みえるのであります。きのうまで、きいろい、いちょうのはが、まだだいぶあったのに、いまは、ごつごつしたふといみきと、ほそいえだが、あみのように、はれた青ぞらに、さむざむとひろがっているのです。えだのあみのてっぺんのほうが、あさ日をうけ、まだのこっているはが、きらりとうすきんいろにかがやくのです。私はいちょうのところに、いってみたくなるのでした。大いちょうを、あおぎながめながら、石だたみの、ゆるいさかをのぼります。やくばのまえあたりまでくると、もうくびがいたくなり、あおいでなどいられなく、いちょうのねもとに、きいろいはが、うずたかくつもっているのが、みえてきます。私はとうとうはしりだし、はあはあいきがきれるのもかまわず、かけのぼりました。私たちが、七八人も手をつながなければ、かかえられないほどふといみきを、ぐるりと、三四間ものはばでとりかこみ、いちょうのねかたには、まだしもでぬれている扇がたのはが、四五寸もつもり、まるで海のようなのです。そのきいろいはの、海のなかから、ところどころ、くろい波みたいに、まがりくねったねっこが、もりあがっています。どきどきするむねをおさえ、たっているうち、私は、きいろい海のなかへ、まっさかさまに、とびこみ、およぎたくなります。

 私は、となりのユキコたちと、このきいろい海で、まいにち、およぎまわったのでした。はらばいになると、いちょうのはの海は、ふとんのように、ふくふくあつぼったく、そのずっとしたのほうで、かたいつちのでこぼこや、石ころなどが、かんじられるのです。私たちは、はらばいのまま、およぐように手あしをうごかし、あたまをもぐらしたり、ごろごろころがったりするのです。うみのそこの、みえない土のでこぼこや、石ころが、かたくもりあがり、はらやせなかにあたり、はては、波のようにうねるねっこに、あたまをぶっつけます。きいろい波のしぶきが、顔いちめんにかかります。私は犬ころみたいに、わらのにおいのするユキコと、くみあい、もつれ、しぶきのなかで、こえもでないほどむせるのです。いつかユキコのすそがみだれ、すらりとしたほそいあしが、それだけが、べつのにひきの魚のように、波のあいだから、白くはねあがるのです。ちったばかりの、いちょうのはの、鮮明なうすきんいろの、こがたの扇、大いちょうのねかたには、いちょうのはのにおいが、たちこめられています。けれどそれも、いつかしら、しもにやぶれ、ほこりにまみれ、うすぐろく、においもなくなっていくのでありました。私にしても、きいろい海にとびこみたいといって、いまさら、いちょうのはに、もぐってはあそべないのです。私はもういちど、あきのすんだ青ぞらをつき、ぎぜん(巍然)とそびえたっている、大いちょうのこずえをあおぎ、がっこうへいきました。ことしのあきも、これでおしまい。あとはゆきにうずもれるのをまつだけです。

 いつか、びしょびしょと、つめたい雨が、ふりつづきます。たまに一日か半日、はれることがあっても、そらにはうすい青ぞらさえのぞかず、いんうつな、はいいろのおもいくもが、いくだんにもなってたれこめ、からだは、しんのほうまで、ひえびえしてくるのです。こんやあたり雪になるかもしれない、などとおじいさんが、はなしている夕ぐれ、みぞれがふりだし、くらくなるころは、もうぼたんゆきになるのでした。げんかんにでてのぞいてみると、そこしれないほどふかく、くらいそらの、どっかとちゅうから、ちらちら白いものが、うきだすようにあらわれ、いつまでもきりなくおちてきます。それは天のしろい虫のむれみたいです。じっとみつめているうちには、眼もあいていられなく、めまいがします。夕ごはんのあとは、こたつにもぐるのですけれど、せなかに、さむさがしみとおってくるのです。ぼたんゆきのまくで、ふりこめられるうちのなかは、耳のなかが、じんじん音たててなるほど、めいるような寂莫が、ふかくなり、あまどのかみに、雪のふれる、かるい音がします。

 つぎのあさは、しめったゆきが、二寸ばかりつもっています。にわの大きな松のえだには、かさをさしたように雪がたまり、そのさきのほうは、いまにもゆきがすべりおちそうに、たれているのです。いたべいぎわの、こうやまきなどは、おちのこった雪がまだらにつき、しらがまじりの、ざんばらがみです。にわの西がわの便所のやねも、もんのまえのうちの、わらやねも、まっしろにおちつき、わらやねのけむだしからは、うす青いけむりが、しずかにたちのぼります。やねのうえに、青ぞらが、すこしのぞきかけ、今日は、あたたかいてんきになるのがわかります。一時間めが、まだおわらないうち、もう日がさし、まどからみえる、はたけの雪に、きらきらてりかえし、めがいたくなるほどでありました。こんなあたたかい、よいてんきが、しばらくのあいだ、つづくのであります。

 そのまに、やりのこしているにわの松や、もみじに、ゆきがこいがかけられ、うちのまわりも、いたでかこい、たかいまどは、よしずだれでふさぎます。うちのなかは、てんきのよい日でもうすぐらく、さむざむとしてきます。そのうち、よいてんきもおしまいになり、そらが、はいいろにひくくくもると、ほほにつきささる風がふき、じめんが、でこぼこのままこおってくるのです。・・・》初雪の想起 47p

3-初雪の大銀杏.jpg初雪の大銀杏。北野猛宮司(現在の達宮司のおじいさん)の姿が写っている貴重な写真。遠藤博さん(まりや菓子店々主)の昭和50年代の作品で、県写真展で入選した。

 

(おじいさんの臨終)

 

《夏休みがおわってあくる日の、おひるに、この町ではめったにないほど、強めの地震がおそってきた。宗次郎は、この地震をしらずに、小学校からもどり、茶のまで、祖母と母が、地震の話しをしているのをきいた。》(地震の想起 65p

 

《宗次郎は兄といっしょに、小学校の南体操場で、あそんでいた。うちから電話がかかり、龍一郎だけ、さきに帰ったが、まもなく女中が迎えにきた。外にでると、宗次郎は、女中のふるえる口から、祖母の倒れたのをきき、一瞬、雪みちのうえにたちどまった。・・・いく層にもかさなった鉛いろの雪空が、宗次郎の頭のうえにひくくたれこめていた。大通りから、板塀つづきのろじをぬけ、女中よりひとあしさきに、宗次郎は、じぶんのうちの玄関まえにたち、かすかに頭をふると、しずかな足どりではいっていった。》(祖母の死の想起 66p

 

(乳母との邂逅、自殺予告、兄の訪問、遺書焼却)

 

《とりいのひろばに、秋の日が、あかるく、いっぱいにさし、あなたと私が、とおりをくだっていくのです。私は、あなたの顔をみあげながら、ほほにさす、ちょっとしたかげさえ、みのがそうとしません。すると、とおりのむこうの、四つつじあたりでも、ながめ歩いているあなたの眼が、ちらりと、とりのとぶようにかがやき、それは、すぐにきえるのですけれど、私のかたに、手をふれたりするのでした。どきりとし、あわてて四つつじのほうをさがすと、往診がえりらしいお父さんが、じてんしゃにのり、こちらへ、のぼってくるのがみえるのです。・・・お父さんはじてんしゃをおり、なにかしゃべりながら、あなたのそばによってきます。これでもう私たちはふたりだけでなくなります。》(母と父についての想起 85p

2-小田.jpg長井中学時代の仁二郎 

《宗次郎は、ズックの手さげ鞄を、ひとつもち、うちから逃亡した。・・・宗次郎は、隣り町まで歩き、おひるまえ、本線にのった。日のささない、窓ぎわの座席がすいていたので、そこに腰をおろすと、ひそかに、内ポケットにさわってみた。やがて、北にむかい、夏の日盛りを出発した。》(出奔の想起 88p

《いまの私にとり、にげることが、けっして、敗北をいみするのではありません。にぶい、いたみのような、おかんが、せすじをはしり、むねのなかを、かぎりなく、つきぬけていきます。》(車中の想起 90p

《私は、かおもむねも、潮のしぶきにべっとりぬれ、なおも、暗黒なもののまえにたちつくし、むねにうずく衝動を、おさえつけ、ふるえているのであります。けれど、私のこの身が、眼のまえの、黒、ひといろのせかいにくらべ、微量のいってんにすぎないと、おもっているのではないのです。私は、じぶんが、すべての中心であり、この中心といっしょに、世界を壊滅させようと、ふるえ、おののくのでした。すがたをくらますことが敗北ではありません。これが、遺書を、はいにさせられた私の、驕慢なふくしゅうなのです。私は、そらとうみの、あんこくの、ちゅうしんにたちながら、しおの突風が、やせたほほをうつにまかせ、まっくろなあぶらのうみが、ふたつにたちわれ、うつろな底のあらわれる、かいめつの情景を、えがきつづけるのです。》(青函連絡船中のことの想起 94p

《驕慢なこころが、私を、逃亡にかりたて、どこかしらぬ、北のおくへいこうとするにすぎず、それからどうなるかは、わからないのです。・・・私は、じぶんで、私のこころを、どこまでもちこたえられるのか、もしも、もちきれなかったらと、かんがえるきも、うせてしまいます。どっかそのへんに、極点が、あるのではないでしょうか。》(港の想起 95p

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《宗次郎が自殺したのは、それから五年目の、真夏であった。醜い顔の女がそばに死んでいた。東京の新市内のアパートであった。せまい室に、臭気がこもり、戸のすきからもれ、ようやく発見された。兄の龍一郎がかけつけたとき、すでに、屍体の臭気は、ひどかった。地方の、富裕な医師の息子、某大学文科生が、バアの女と、心中したにすぎなかった。遺書はなかった。書きかけのノートが机のなかに、あった。龍一郎はノートをよんだ。しかし、龍一郎には、弟がなんのため、死をえらんだのか、そのノートから、見いだすことができなかった。》(最後の頁 99p

 

宗次郎のノート

 

《この都会には、巨大な鉄道の網が、はりめぐらされ、行人は、あっというまもなく、轢殺される。けれどそれは、一秒のいく十億萬分の一の瞬間の一瞬であり、ほとんど行人は、自らが轢殺され終っているのに気ずきはしない。重さもなく、軽さもない、ガス体のような機関車は、都会を、縦横無尽に疾風とはせまわり、かぞえれば、一秒間に、いく萬人という行人を、休みなく轢殺するのである。・・・重さもなく、軽さもない機関車とは、不可思議な思想の重さであった。思想は、重さであり、重さは、行為である。行為のないところに重さはなく、重さのないところに、流動の思想はない。流動のない思想は、内部の腐蝕せる貝殻でしかないのである。流動のない思想は、この腐蝕せる貝殻を、生あるものと誤信し、これに重さの行為を要求する。貝殻は空中高くなげあげられ、または水中深く沈められるが、そこに発現するのは、腐敗の臭気にすぎない。あるいは、貝殻を、祭壇のおくふかく祭りこめ、これに不可能の祈りをささげる。堂内は、息がつまり、いつか、貝殻は、祭壇の奥で、どろどろにとけているのだけれど、祈りをささげるものは、誰一人、これを知らないのである。》(102p

《倫理とは、中心に、一条の焔をもやしつづける、水晶球だ。この水晶球をうち破り、うちの焔に身をやきつくすとき、倫理が私のものとなり、私が倫理となる。・・・倫理をもたぬ生は単なる流れである。流れるがため、わずかに、命を、たもってはいるけれど、つねに、ひとつの方向しか、さすことを知らないのだ。》(104p


《ふたたび、私は、トビをよび、その背にのり、ひとつの小さい町へ、北の山にかこまれた盆地の、片すみに蟠踞する町へ、旅だった。トビの背に、いくたびか、日がくれ、夜があけたけれど、月のかげはささず、雲霧は、しだいに、濃く寒冷となり、やがて、トビの羽毛が凍結し、ぞくりと束になってぬけはじめた。トビは、ひと声もなかず、すでに赤裸となり、飛翔する力さえ失った。高度は下り、羽ばたきもしなくなったが、どこにも、求める町のかげはなく、灰黒色の寒雲が、とびすぎるだけである。ついに、トビは、力つき、廃墟の如く静まりかえる町の、四つ辻におりるとともに、息たえてしまった。私は、茫然と四つ辻にたち、身にせまりくる寂滅にふるえおののき、眼のすみで、あたりをみまわした。四つ辻の、家という家は、屋根がおち、柱はおれ、くもり空に、その骨をさらしているのだ。くずれのこる倉の白壁は、風雨にくろずみ、四つ辻におこる、ひそかな竜巻にも、もうもうたる煙りをまきあげた。けれど、その砂塵をとおし、くずれおちる白壁にも、おちかたむく屋根にも、瀕死の人の手のような家の骨にも、私の記憶は、戦慄をおぼえてくるのである。戦慄は、私のうちからそとへ、四つ辻いっぱいにひろがり、煙りをまく白壁に、灰黒色のそらにつきだす家の骨に、つきささっていった。これこそ、私がめざし、飛翔してきた町の、廃墟であった。私は、四つ辻にたち、北をむいた。四つ辻の、ひそかな竜巻もおち、あたりの静寂が、死の重さで、私を圧しつぶす。ただ私の眼のそこには、つまさきあがりの通りのはて、その梢に寒雲をつき、葉のおちつくした銀杏の大樹が、凝然とそびえたっているのである。町は廃墟となり銀杏の大樹に変じた。私の町は一樹の銀杏と化したのである。猛然と竜巻が砂塵をまきおこし、銀杏も廃墟も一瞬にしてその底に壊滅した。》109p

《それから私は、北むきの暗いまどの部屋にたちもどり、闇のなかに坐りつづけた。・・・その夜ふけ、私は北むきの部屋を闇にのこし、網の目のように都会にはりめぐらされる線路のうえに、自分の胸をおいた。重さもなく、軽さもない巨大な機関車が、私の胸のうえをよぎったせつな、鮮やかな紅の血潮がほとばしり、その血は、暗黒のなかにひかりかがやくばかり、そこに、私の姿をえがきだした。私の血潮でえがかれた私が、指のさきから、きらめく血をしたたらせながら、私の屍には一瞥もくれず、茫々たる闇のなかに、すたすた歩みさるのである。屍は水となって線路のうえに溶けた。


 にせあぽりや――。》111p

 

『触手』

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《わからないとは何であるか。わかろうとしないことである。精神の怠惰にすぎないのではないか。》(小田仁二郎『文壇第二軍』)


《情報があふれ、錯綜する現代で、忘れられているということは、その思想にアクチュアリティ(今日性)がないことを意味していません。むしろ、問うべきことを深みにおいて捉えた人物だったからこそ、浅瀬にいる者たちには見えなくなってしまったにすぎません。》 (若松英輔「吉満義彦とは誰か」 中島岳志×若松英輔『現代の超克』ミシマ社 平26.8

 

福田恆存1912 - 1994による巻末解説

《戦後の非常に印象的な名作に、小田仁二郎の「触手」があります。福田恆存が興奮して有名な解説を書いた。ことし(昭和55年)復刊された深夜叢書社版の略年譜にも、その一節が引用されています。最初の真善美社版は、長い間、古書界に高値で君臨していました。これを読んでいなかったらバカにされた時代、というのが確かにありました。》(谷沢永一「エロチシズムの発掘ベスト95」『読書清談 谷沢永一対談集』潮出版社 昭59


東京女子大学在学中に結婚し、夫の任地北京に同行。1946年に帰国し、夫の教え子と恋に落ち、夫と長女を残し家を出て京都で生活。大翠書院などに勤めながら、初めて書いた小説「ピグマリオンの恋」を福田恆存に送る。》(瀬戸内寂聴略歴 http://ja.wikipedia.org/wiki/瀬戸内寂聴 /福田夫人は寂聴さんの大学時代、あこがれの演劇部先輩でラブレターを書いたほどの美少女。仁二郎と出会った寂聴さんが、縁浅からぬ福田が『触手』の解説を書いていたのを知って、仁二郎との縁のただならなさを思ったかもしれない。)

 

《すぐれた芸術作品は註釈や解説を必要としないといふのは半面の真理にすぎない。とはいへ、解説なくしては誤解や拒絶にあふといふのも、やはり作者の不幸であらう。小田仁二郎はさういふ不幸をまぬかれぬ作者のひとりとおもはれる。・・・「にせあぽりや」や「触手」はヨーロッパ文学の今日の水準に達してる作品であり、その土地に移し植ても依然として新しさを失わぬものであるにそういない。》

《(小田の)眼から見れば、ひとびとの性格とみづから見なしてるところのものは、すべてとらはれた固定観念やコムプレックスの、乱雑きはまる、偶然の集合体にすぎないのだ。ひとびとはこのでたらめの寄せ集めを性格と称し、これを聖化して自我と呼んでる。》

 

《個性などというものを信じてはいけない。もしそんなものがるとすれば、それは自分が演じたい役割ということにすぎぬ。他はいっさい生理的なものだ。右手が長いとか、腰の関節が発達しているとか、鼻がきくとか、そういうことである。》(福田恆存『人間・この劇的なるもの』昭和31

 

《作者はかなり意識的に―むしろ邪悪なまでの害意をもって―人間の自我意識に破壊的な工作をこころみてる》

《作者がこれらの作品のなかで描かうとこころみたものは、経験をかさね、歴史をもち、成長し変化する「私」ではなく、そのやうな「私」を極力排除し、その「私」によって見失はれ、無視され、もう存在しないとおもはれてしまってゐるやうな肉体である。いや、肉体といってはならぬ―小田仁二郎の見つめてゐるリアリティはそのさきにある。肉体は生を意欲し、行動し、闘争し、殺戮し、自己を他者に押しつける。が、「触手」はただ受容するだけである。死を強ひられても反発しはしない―触手はただあらんかぎりの力をめざまして死を感覚しようとするだけである。死の感度表を完璧に作製することこそ、もっとも正確に生のリアリティを把握したことになる―さう考へてみたうへでの肉体の、あるいは性欲の秘密に近づかうといふのが、作者の目的なのだ。》

《近代人の感覚は既成概念や意識の歪曲にあって、すっかり摩滅し、死にはてて居る。小田仁二郎はいま、なんら既成概念も先入観もなくはじめてこの世界にはいってきて、感覚以外のなにものも隔てずにぢかに現実に接触する嬰児の、あの原初的な一人称を回復せんとくはだてるのだ。》

《「にせあぽりや」では、その技法はいまだ一人称と三人称との交錯に終始してゐる。が、「触手」においては完全な一人称小説が―おそらく日本ではじめて―うちたてられたといへるであらう。・・・作者は、三人称の、すなはち他人の、あるひは他人に教へられた、レディ・メイドの見方を徹底的に排除してゐるのだ。》

《かれが新しいのは、(完全な受容としての)イムプレッショニズムの徹底のゆえにほかならない。能動性を欠いた性格の弱さを窮極にまで押しつめ、そこで負を正にかへた強さであり、新しさである。そとがはからいへば、自意識の充満した近代人の社会が、かれをそこまで追ひつめてしまったのにほかなるまい。》

《かれは他人の自我意識にはもちろん、自分の自我意識にもたたかひを挑んで居るわけではなく、自我意識そのものの無意味さから出発してる・・・・・(小田の作品には)本質的な、芸術と生活との、現代的なかかはり》が暗示されてる。(福田恆存「読者のために」 『触手』真善美社 昭23

 

髙橋和己による評価

《戦後文学は、その端緒には目くるめくような幅をもった。作家の文壇的所属を無視して、その作品を作品のもつ意味からいえば、その幅の両極は、埴谷雄高の『死霊』と小田仁二郎の『触手』に代表された。批評活動では、花田清輝の『復興期の精神』と福田恆存の『作家の態度』が印象あざやかに今後ありうべき精神活動の版図拡大を宣言したのである。とりわけ、創作面での、従来比類なき観念の極限化による形而上学小説『死霊』と、もっとも原始的な感覚まで後退して〈家〉の崩壊を息づまるように描いた『触手』は、ああ、この両極端の幅こそが、ひらかれゆくべき日本文学の原野を象徴するものだと夢想させたのだった。そして、それぞれの特異な文体は、構想を具体化する方法そのものであるという正当性をもっていた。戦後派が、国民の思考を支える水準的文脈からはみだしたことは事実であるが、それが各自の構想と相補関係にあったとき、一つの真実であった。書物が散佚していまは記憶にたよらざるをえないが、「指と、指との、指の、つけねの・・・」といった短く断続し、やがてオルガスムスのようにせりあげてゆく『触手』の文体は、家庭を規定し、またそれに規定される人間存在の性と死を少年の手さぐりのうちにあかしてゆく作品の意図と相補していた。それは確かな意味であり、それは確かな真実だった。・・・だがまもなく、その両極は、埴谷雄高の疾病による執筆の中絶と、小田仁二郎の自己のなしとげた仕事に対する自信のなさとによってついえ去った。》(「戦後文学私論」『文藝』昭和388月号)

 

小田仁二郎評価の現在的意味

「時代が小田仁二郎においついた」

・『触手』は近代における「自我」をめぐるいたちごっこからの脱出を果した記念碑的作品 

《(自我の真実性を持たぬ)この不安こそが近代の凡ゆる芸術家をして止みがたい創造へと駆り立てる。彼等は常に己れを己れの外部に感じて居る。芸術とは彼等にとってこの永遠に閉じられた自我を奪還すべき救ひであり、やがては再び自我から閉め出される呪ひでもあった。》(福田恆存「嘉村礒多」『作家精神』昭14 / 浜崎洋介『福田恆存 思想の〈かたち〉」平23 新曜社)

 

・資本主義終焉の予感ー「強欲」からの解放

《資本主義とは内在的に「過剰・飽満・過多」を有するシステムなのです。スーザン・ソンタグ(1933-2004)が『火山に恋して』でこのことを象徴的に描写しています。「偉大なコレクションとは膨大なということであって、完成しているということではない。(中略)蒐集家が必要とするのはまさしく過剰・飽満・過多なのだ。(中略)コレクションとはつねに必要を越えたものなのだ。》(水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』集英社新書 平26.3

 

・「わたし」とは何かー「自我」論の現在

《人間が言葉を所有していると思うことこそが、驕りなのですよね。ガンディーは「すべては神のものだ」と繰り返し主張しています。ガンディーのいう「無所有」というのは、所有できるのは神だけだということです。「わたしたち自身ですら神のもの」であり、わたしはわたしを所有していない。わたしは器であり、わたしが所有していると思い込んでいるものは、いのちも言葉も思考も「わたしという器」に宿っているものです。人間は「計らい」ももっていない。すべては「神の計らい」で、人間は「自分のあるべき位置がわかりさえすれば」いい。

 この「器としての自己」を受け入れると、「わたしであることの執着」から解き放たれます。わたしは一つの現象です。そして、わたしは常に可変的な存在です。

 わたしという存在にとって最大の欲望は「わたしであること」です。自分探しとは、肥大化した欲望なのです。そして、わたしがわたしを所有していると思っている。これが大きな間違いです。わたしが命を所有しているのではなくて、命がわたしを所有している。この関係を間違えてはいけません。》 (中島岳志「積極的な受け身」 中島岳志×若松英輔『現代の超克』ミシマ社 平26.8

 

・「世の中がやっと上杉鷹山に追いついた」と同一軌上にある!?

世の中がやっと上杉鷹山に追いついたのです。相手の心を読み取って、自分自身の思いを、自分のもっているいい個性を相手のために役立てましょう。そうすると贅沢しなければ食べてゆける。そういう時代にいま入っているのです。

鷹山公を美化してヒーローにしてはいけません。あの人は天才なんだ、神様みたいな人なんだと言っちゃうと、われわれは真似ができなくなってしまう。鷹山公は、今の高校生ぐらいで殿様になった。それから名君と呼ばれるようになるまで、どれだけの失敗と苦労があったことか。鷹山公をひとりの人間として追っかけてゆくと、失敗したり、あれこれ工夫したり、みんなで知恵を出し合ったりという実際いろんなことがある。それが全部われわれに役に立つ。われわれと同じような、その辺にいる普通の人ががんばったんだということで、われわれの手本になる。すばらしい人で、目標にすべき人ではあるんですけど、あまり棚の上に載せてしまわないで、丁寧に見ていただいて真似をしていきたいなと思うのです。」(遠藤 英「いま、なぜ鷹山公なのか?」上杉鷹山公「伝国の辞」碑建立報告書『世界に届け!鷹山公精神 』平26.5

 

・「伝国の辞」

1.家や国を子孫に伝えるための倹約令(第一条 )

  国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候

「今のままの暮らしを続けて見通しの立たぬままいずれ破綻の道を選ぶのか、それとも今の暮らしをがまんして子孫への存続を計るかの二者択一が迫られます。・・・鷹山公は「今か、子孫か」の二者択一を迫って、「子孫が大事」の大原則「を提示したのが第一条です。」ただし、倹約にとどまっては駄目。「鷹山公が名君といわれるわけは、単に赤字財政を立て直した、借金を返したから偉かったというのではありません。肝心なのは、人の心も含めて、たしかに社会が良くすることに成功したから名君と評価されたのです。鷹山公は十一代代将軍家斉からも名君と言われた唯一の君主でした。

2.西洋型ではない江戸期の民主主義(第二条)

  人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候

「商工業者が国家からしぼりとられるのを守るためのシステムが西洋における民主主義でした。まずもって私的利益の追求があるのです。・・・それに対して江戸時代でいう民主主義の根底は「仁政」です。思いやりの政治。他者優先。殿様は民衆のために、民衆は世の中のために。そこに争いは起こりません。・・・世界に比して進んでいた日本の中でも、この地域はさらに進んでいた。その根底をなすのが、公私のけじめを明確にした第二条の精神です。」

3.立場をわきまえること(第三条)

  国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候

「自分がどういう立場に立たされているかをいつも意識せよ。立場でものを考えることを忘れぬようにとの戒めです。・・・自分の立場、他人の立場をわきまえていれば、おのずと今自分が「どうすべきか」という発想が出てきます。」「息子だけの立場ではない。藩を預かる君主の立場を考えてください。」

 

・置賜自給圏構想

日本はこれまで外需中心の経済システムを貫いてきました。実際には内需は伸びているのですが、外需主体の経済のシステムとそれにまつわる政治は一貫して外需重視なのです。

 日本は加工貿易で生計を建ててきた歴史は、教科書でも学んだ通りですが、これは外需重視であり、それに伴う経済と政治のシステムにつながっていきました。

 外需と内需では、何がどう違うのでしょうか。私は外需は一般的に悪につながりやすく、内需は一般的に幸福につながる構造を持っていると思います。

 たとえば、メロンづくりに精を出す農家では、品質のよいメロンを子供が食べてしまったら、おそらく叱られると思います。

 何やってるの、、売りに出すメロンを食べてしまって、、、となるわけです。

 これが内需中心のメロン農家ならば、まず、一番おいしそうなメロンはおそらく仏様にお供えするでしょう。次は親しい人に届けてあげる、、、そのあとに、欲しいという方に売って差し上げる、、、順番がそうなっていきます。

 仏様に備えた一番おいしいメロンは、お供えのお下がりを家族皆でおいしくいただく、、、そこにはほほ笑みあり、賞賛ありの夕べになります。

 父ちゃん、うまいよ、、、凄いね、このメロン。

 一方はメロンを作っても、食べてしまったら、こっぴどく叱られ、る世界、、一方はお下がりをおいしくいただける世界、、、同じ生産をしていても、これほどの違いが出てきます。(「外需と内需」マドモアゼル愛『愛の日記』2014.8.16 http://www.love-ai.com/diary/diary.cgi?no=1499


※残した課題
・井筒俊彦による小田仁二郎評価

・「にせあぽりあ」の意味         


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