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宮内が主な舞台の『にせあぽりや』があってはじめて『触手』がある [小田仁二郎]

昨日(11/1)からもう始まったことになっている宮内公民館が会場の「南陽発信 世界に届け!鷹山公精神」展にどさくさ併催することにした「小田仁二郎と宮内」展へのデータ第二弾ができました。種村季弘さんからいただいた御教示をもとに、なんとか自分の言葉に消化して文をつくってみました。出来るだけ多くの人に理解していただき、小田仁二郎への関心が高まっていってほしいと切に思います。10月30日に「宮内歴史を語る会」があって、酒飲みながら11人出席のみんなにこのことをしゃべったのでしたが、製糸業華やかなりし頃の宮内の文化レベルには到底追いつかないけれども、方向としていい雰囲気になってきたなと思い、うれしくなったところでした。小田仁二郎のような人を輩出できた宮内という風土はほんとにすごいのかもしれない・・・と酒の勢いでそう思えたのでした。

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=『触手・にせあぽりや』解読のために=

 宮内が主な舞台の『にせあぽりや』があってはじめて『触手』がある

《情報があふれ、錯綜する現代で、忘れられているということは、その思想にアクチュアリティ(今日性)がないことを意味していません。むしろ、問うべきことを深みにおいて捉えた人物だったからこそ、浅瀬にいる者たちには見えなくなってしまったにすぎません。》 (若松英輔「吉満義彦とは誰か」 中島岳志×若松英輔『現代の超克』ミシマ社 平26.8)
 小田仁二郎は、昭和32(1957)年に『新潮』に書いた「文壇第二軍」というエッセーの中で《わからないとは何であるか。わかろうとしないことである。精神の怠惰にすぎないのではないか。》と言っていますが、小田仁二郎はまさに「問うべきことを深みにおいて捉えた人物」だったのです。時代がようやく小田仁二郎を理解できるようになってきた、そう思います。

 文学史に残る記念碑的作品といわれる小田の代表作『触手』は、アプレゲール(戦後)叢書の一冊として真善美社から昭和23(1948)年に発刊されました。この本は、先に「にせあぽりや」、後に「触手」の二つの小説が収められています。ともすると「にせあぽりや」の方はその題のわけのわからなさもあって、「触手」の添え物のように思われてしまいがちです。しかし、「にせあぽりや」という土台があって「触手」の作品世界が存在するのです。そのことを理解してはじめて、小田がいったい何を目指しているかが見えてくるようになります。
 『触手』発刊は戦後ですが、この二つの小説は戦時中から書き続けられたと考えられます。行く先の見えない戦争の真只中の根無し草のような都会暮らし、「生きている」というほんとうに確かな手応えは、小田にとっては幼い頃の宮内での記憶の中にしか見出せなかったかもしれません。小田の書いたものの中に宮内での情景は実に生々しく表現されています。「にせあぽりや」という小説はまずもって、小田にとっての「生きている」ということの確認にはじまります。その舞台が宮内なのです。
 しかし、「にせあぽりや」の主人公宗次郎は自殺します。小説の終章は宗次郎が残したノートです。ノートの最後にまた宮内が登場します。「にせあぽりや」の中でもっとも印象的な場面です。

 《私は、トビをよび、その背にのり、ひとつの小さい町へ、北の山にかこまれた盆地の、片すみに蟠踞(ばんきょ―根を張って動かないさま)する町へ、旅だった。トビの背に、いくたびか、日がくれ、夜があけたけれど、月のかげはささず、雲霧は、しだいに、濃く寒冷となり、やがて、トビの羽毛が凍結し、ぞくりと束になってぬけはじめた。トビは、ひと声もなかず、すでに赤裸となり、飛翔する力さえ失った。高度は下り、羽ばたきもしなくなったが、どこにも、求める町のかげはなく、灰黒色の寒雲が、とびすぎるだけである。ついに、トビは、力つき、廃墟の如く静まりかえる町の、四つ辻におりるとともに、息たえてしまった。私は、茫然と四つ辻にたち、身にせまりくる寂滅にふるえおののき、眼のすみで、あたりをみまわした。四つ辻の、家という家は、屋根がおち、柱はおれ、くもり空に、その骨をさらしているのだ。くずれのこる倉の白壁は、風雨にくろずみ、四つ辻におこる、ひそかな竜巻にも、もうもうたる煙りをまきあげた。けれど、その砂塵をとおし、くずれおちる白壁にも、おちかたむく屋根にも、瀕死の人の手のような家の骨にも、私の記憶は、戦慄をおぼえてくるのである。戦慄は、私のうちからそとへ、四つ辻いっぱいにひろがり、煙りをまく白壁に、灰黒色のそらにつきだす家の骨に、つきささっていった。これこそ、私がめざし、飛翔してきた町の、廃墟であった。私は、四つ辻にたち、北をむいた。四つ辻の、ひそかな竜巻もおち、あたりの静寂が、死の重さで、私を圧しつぶす。ただ私の眼のそこには、つまさきあがりの通りのはて、その梢に寒雲をつき、葉のおちつくした銀杏の大樹が、凝然とそびえたっているのである。町は廃墟となり銀杏の大樹に変じた。私の町は一樹の銀杏と化したのである。猛然と竜巻が砂塵をまきおこし、銀杏も廃墟も一瞬にしてその底に壊滅した。》

 小田に確かな「生」の手ごたえを感じさせてくれていたはずの宮内の町は「おくまんさまの大銀杏」と共に壊滅します。しかし、その「壊滅」は、小田にとって新たな旅立ちのための滅びでした。次の文章がつづいて小説は終ります。

 《それから私は、北むきの暗いまどの部屋にたちもどり、闇のなかに坐りつづけた。・・・その夜ふけ、私は北むきの部屋を闇にのこし、網の目のように都会にはりめぐらされる線路のうえに、自分の胸をおいた。重さもなく、軽さもない巨大な機関車が、私の胸のうえをよぎったせつな、鮮やかな紅の血潮がほとばしり、その血は、暗黒のなかにひかりかがやくばかり、そこに、私の姿をえがきだした。私の血潮でえがかれた私が、指のさきから、きらめく血をしたたらせながら、私の屍には一瞥もくれず、茫々たる闇のなかに、すたすた歩みさるのである。屍は水となって線路のうえに溶けた。

 にせあぽりや――。》

   アポリアとはそもそも「行き詰まり」の意で、哲学的には「問題解決能力を超えた難問」あるいは「困惑」の意味で使われます。「にせあぽりや」という言い方から、「難問めかしているが、わかっていないだけでちっとも難問なんかじゃあないよ」と言っているようにもみえます。
 これまで生きていた自分の肉体は機関車に轢き殺されて屍となり水となって溶けてゆく、たとえ解きがたいように思えた難問も肉体の滅びと共に消えてなくなってしまうのです。しかしほんとうに解決を迫られる難問はその先、その上にあるのです。小田仁二郎にとってのほんとうの歩みはここから始まります。身体からほとばしる血潮が「暗黒のなかにひかりかがや」いて新たな「私の姿」を現出させます。「きらめく血」によって描き出される「ほんとうの私」からみれば、「肉体を持って生きている私」がいかに難問(アポリア)をかかえているようにに見えようとも偽物に過ぎません。ほんとうの答えを求める私は、「指のさきから、きらめく血をしたたらせながら、私の屍には一瞥もくれず、茫々たる闇のなかに、すたすた歩みさるのである」―― そして見えてきたのが、小田仁二郎にとってのほんとうの文学世界だったのではないでしょうか。
 指の先からしたたるきらめく血。かくして第二段「触手」へとつながってゆきます。「触手」は、その指の先の描写から始まらなければならなかったのです。

私の、十本の指、どの指のはらにも、それぞれちがう紋々が、うずをまき、うずの中心に、はらは、ふっくりふくれている。それをみつめている私。うずの線は、みつめていると、うごかないままに、中心にはしり、また中心からながれでてくる。うごかない指のはらで、紋々がうずまきながらながれるのだ。めまいがする。私は掌をふせ、こっそり、おやゆびのはらと、ほかの指を、すりあわせてみる。うずとうずが、すれあう、かすかな、ほそい線と線とがふれる感覚。この線のふれるかすかなものに、私は、いつのまにか、身をしずめていた。せんさいな、めのくらむ、線の接触。(『触手』の書き出し。文学碑刻銘)


 以上は小田文学理解のほんの手がかりにすぎません。豊饒にして深淵な小田仁二郎文学世界の解明はまだまだこれからです。小田仁二郎は《わからないとは何であるか。わかろうとしないことである。精神の怠惰にすぎないのではないか》という言葉を私たちに残しました。アポリア的世界なればこそ精神をより活性化させ、なんとか行き詰まりを打開してゆかねばなりません。あるいは小田文学がその答えを用意してくれているかもしれないのです。

                 ※参考にした本 種村季弘 文芸評論集『器怪の祝祭日』(沖積舎 昭59 初出「週刊読書人」昭55年1月21日号)
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2-DSCF0850.JPG南陽市立図書館にある小田仁二郎関連蔵書です。

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