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宮内の歴史(6)直江兼続公と宮内 [宮内の歴史]

↓スライドのタイトルです。DVDになっています。

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平成21年のNHK大河ドラマが、直江兼続が主人公の「天地人」に決定したのは平成19年(2007)の春でした。その秋、新潟県の長岡市で印染の業者の会合があり、息子と一緒に参加してその足で上杉景勝・直江兼続の生地南魚沼市まで行ってきました。そのことがきっかけになって、それ以前からの飯山市との関わり、そして尾崎哲雄氏からの「直江兼続公の実母が尾崎氏の出であることを世の中にわかってもらえるように、なんとか手伝ってほしい」との強い願いもあって、思いがけず当時の歴史に深く関わるようになったのでした。「天地人」の幟の注文もあって、21年の放映が終わるまでとにかく忙しい2年間でした。当時の記憶と重なる宮内の歴史です。

 

   *   *   *   *   *

 

↓和光神社(本来尾崎家の氏神様。境内の東北にあり「虚空蔵様」とも言う)  ↓菅原神社(「お文殊様」で多くの絵馬が下がる)

41 和光神社.jpg41A  菅原神社.jpg

↓皇大神社(「東北の伊勢」の由来となる)          ↓蟻王山八幡神社(飯山では「有尾山八幡神社)

41B  皇大神社.jpg41C  蟻王山八幡神社DSCF1526.jpg

1598年(慶長3年)3月、上杉景勝会津転封に伴い宮内城に信州飯山より尾崎重誉入る。飯山より和光・菅原・皇大・八幡神社を勧請

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直江兼続の母の実家尾崎氏

 宮内にも縁深い直江兼続公は、平成21年の大河ドラマ「天地人」によって、名立たる戦国武将の一人として広く世に知られることになりました。

熊野大社から北へ約300メートル、左手の小高い丘に「宮沢城」とよばれる城がありました。その最後の城主は、尾崎三郎左衛門重誉という、徳川家康をうならせたほどの武勇が伝わる人物でした。慶長3年(1598)、豊臣秀吉の命による上杉藩の国替えで、直江兼続と共に信州飯山から置賜に入り宮内の城主となりました。この尾崎家こそ、直江兼続の実母「蘭子」の実家です。兼続の母すなわち樋口兼豊の妻・蘭子は、重誉の曾祖父・泉氏宗家尾崎弥七郎重歳の娘。慶長9年(1604)に没し、直江家の菩提寺・徳昌寺に葬られたとの記録が残っています。

また、熊野大社の末社の和光神社は尾崎家代々の氏神様です。尾崎氏は宮内から福島に移り、その地にも和光神社を建てたのですが、「天地人」放映の年の11月、飯山からの一行と福島からの一行が何の打合せもなしに和光神社の前でばったり遭遇するという、尾崎家先祖のお計らいとしか考えられない不思議な出会いがありました。(「宮内よもやま歴史絵巻」) 

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金山城主 色部氏

兼続の母の実家である尾崎家は、宮内に留まること約半年で福島城を守るために福島へと移り、以後宮沢城は廃城となります。そして慶長3年(1598)9月金山城主としてこの地を治めることになったのが、現在の村上市、越後平林城主だった色部光長です。

色部氏は上杉が台頭する以前から越後の北を守ってきた土豪揚北衆のひとつでした。光長の祖父勝長の時代になって謙信公の信を得ることとなり、川中島の合戦に際しては上杉軍の勇将として大奮戦し、その武功を称える謙信公直筆の「血染めの感状」や謙信公の血判が押された起請文が今でも残っています。光長の父長実は景勝の家臣として仕えました。長実が亡くなる二年前に書いた、直江兼続に色部の将来を託す必死の思いの書状が残っています。長実の死後、光長は兼続の妹を妻とすることになり、兼続の身内として、畑谷城攻め、長谷堂の戦い、さらには大阪の陣で活躍することになります。

 宮内から山形長谷堂へと向かう小滝街道の最初の集落の金山地区。かつては神山郷とよばれていたのですが、伊達の時代の金山開発に伴って金山というようになったと伝えられます。

置賜から村山へ通ずる交通の要衝であり、また鉱山守護の役割を担っていた金山城は、最上義光に対峙する最前線でもありました。直江兼続の義弟として色部光長は重要な役割を担わされたのです。光長は越後から宮内へ保呂羽神社を遷し、今も熊野大社の末社として祀られています。(「宮内よもやま歴史絵巻」)

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善光寺神輿

 熊野大社には善光寺の銘の入った華蔓とともに、善光寺銘の御輿が残されています。上杉謙信、武田信玄という戦国の両雄が戦った川中島合戦は、所領の奪い合いという側面とは別に、善光寺如来の争奪戦でもありました。阿弥陀三尊である善光寺如来は、そもそも欽明天皇13年(552)、百済の聖明王から送られてきた日本最初の仏像であると伝えられています。善光寺如来は古来秘仏とされ、白い布で厳重に巻かれ住職であってもこれを見ることは許されていません。このことから、ほんとうの善光寺如来の所在について諸説あるのですが、上杉と共に米沢に遷され今は米沢御廟の法音寺にあるとも言われ、今から六十数年前、米沢の館山に善光寺如来を祀る寺社建立の動きが起こったこともありました。

熊野大社には、上杉藩の国替えの折、尾崎重誉が信州飯山の旧領地からお遷しした神社が四社あります。八幡神社、菅原神社、皇大神社、和光神社です。信州飯山は善光寺如来争奪の最前線でした。熊野大社の善光寺御輿は、上杉の国替えの際善光寺如来をお乗せした御輿と考えられます。(「宮内よもやま歴史絵巻」)

1600年(慶長5年)関が原敗戦の報に上杉軍転戦に伴い、主に宮内衆からなる北条郷十八騎による小滝口防禦(「郡中免許記」)

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長谷堂の戦い

 「東北の関が原」ともいわれる上杉と最上の対決、その一連の舞台が南陽の北の地域、白鷹から山辺を経て山形市本沢長谷堂に至る一帯でした。

 この戦いで小滝口から攻め上り大奮戦したのが、北条十八騎とよばれる、兼続の徴募に応えて参戦した宮内を中心にした地侍たちでした。直江軍の退却後、北条十八騎は小滝村で最上軍侵攻を防ぐ役割を担いました。十八騎とは、鈴木孝七、青木安兵衛、羽田平兵衛、遠藤彦總、鈴木与十郎、嶋貫弥一郎、山口半七、竹田源次郎、山口勘七、渡辺忠兵衛、粕川十助、安部源太郎、星源太郎、漆山牛蔵、高橋七兵衛、戸田新兵衛、石岡丹右衛門、松木新右衛門です。その他、尾崎、色部の家臣として宮内に入っていた安部右馬助、板垣作右衛門、嵐田左近、高梨九郎左衛門、手塚新太郎、菅七兵衛らの働きも伝えられています。とりわけ安部右馬助の長谷堂における先陣ぶりは高名です。安部は後に北条郷宮内の代官となって宮内の町を整備し、熊野大社の再興にも力を尽くしました。(「宮内よもやま歴史絵巻」)つづく)

 


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