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北条郷熊野の夏まつり [宮内よもやま歴史絵巻]

今日26日、朝6時からのの後片付けと慰労会とで、今年の夏まつり、獅子冠事務所全日程が終わった。夕食後一眠りしたのだがまだ身体にはアルコール分が残っている。とりあえずパソコンに向かうと、「『北条郷』熊野の夏まつり」の終了に合わせたかのように、今日届いていた■■ 国際派日本人養成講座 ■■が「北条氏の仁政」だった。この北条郷には、まさにその北条氏のミーム(文化遺伝子)が流れている。うれしくなって本気で読んだ。「宮内よもやま歴史絵巻」のひとつとして、「『北条郷』の由来」を今年つくったばかりだった。

1「北条郷」の由来.jpg 

 

「北条郷」の由来

 昭和42年、宮内町、赤湯町、和郷村が合併して南陽市になりました。南陽市の範囲は、時代によって多少の異同はあるものの、ほとんどそのままそっくり「北条郷」に重なります。

  北条郷の名は、十三世紀頃熊野信仰者の誰からともなく唱えられた呼び名であり、地方史文献にはしばしば登場しますが公的なものではありません。その少し前には、宮内は粟野郷とよばれていたこともありました。

 宮町佐野家に伝わる文書( 蓮蔵院由緒手控)や小松の「南善院由緒書 」には、北条時政〈保延元年1138ー建保三年1215〉の妾腹(沼田氏)の子北条相模坊臨空が、この地三十三ヵ村を四百人からの羽黒修験者の大先達として仕切るようになっていつしか時政の子であることが知られ、だれからともなくこの地を「北条郷」とよぶようになったと記されています。

 父北条時政は、平治の乱で敗れて伊豆に流された源頼朝を、平家の立場で監視する役でしたが、娘政子が頼朝と恋仲になったことから、以後頼朝の後援者として鎌倉幕府成立に尽力、頼朝の死後は初代執権として北条16代鎌倉幕府執権政治の緒(いとぐち)をつけた武将でした。

 相模坊臨空は武を好まなかったことから十三歳で僧門に入り、その後家老職佐野源右衛門と共に諸山巡拝、羽黒山を経て宮内にたどり着き、三十三郷の霞(なわばり)を支配するようになったのでした。その後時代を経た相模坊は、小松村館主原田氏の招きで小松南善院に入りますが、佐野家は代々宮内にあって連蔵院として修験道の立場から熊野宮を支えてきました。『蚕業示要』(国会図書館蔵 明治21年)の著もある佐野元貞は、明治二十二(1889)年三十二歳で宮内町初代町長となり宮内製糸業隆盛の基礎をつくりました。

 なお、能「鉢木」の主人公の名が佐野源左衛門であり、源右衛門とは兄弟であったとも言われます。(「鉢木」は、大雪の夜に宿を乞うた旅僧に、大切にしていた梅、松、桜の盆栽を火にくべて暖をとるという「もてなしの心」の極みが描かれた能の一曲です。)

 

さて、■■ 国際派日本人養成講座 ■■の「北条氏の仁政」の方は、《「社会が安定したため、農業生産が高まりました」という繁栄の基盤として、我が国の伝統精神に基づく、北条氏の見識ある政治があった》とある。能「鉢木」も登場する。長い文章なのでかいつまんでみた。


   *   *   *   *   *

 

源頼朝の直系が滅びた後、鎌倉幕府は北条氏が執権となって支えていく。その結果、社会は安定し、農業生産が高まった。いったい北条氏はどんな政治を行ったのか。鎌倉幕府と武士(御家人)は「御恩と奉公」の関係で結ばれていた。それを象徴する物語が5代執権時頼と佐野源左衛門の謡曲「鉢の木」である。ここには「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ズ」という武士の心構えがある。


北条氏の執権政治を確立したのは、源頼朝の妻・政子の甥である北条泰時(やすとき)である。かれは政治の根本を「撫民」ということにおいた。「撫民」とは、民衆に対する愛情にもとづく政治のことである。その基盤は、「道理」と「合議制」であった。「道理」を重んじて定められたのが「御成敗式目」である。それはその後の武士の法律の手本となった。


《鎌倉時代は「武士が主君から領地を与えられて所有する」という形での封建社会が発達した。「封建社会」というと、いかにも前近代的・非合理的に聞こえるが、土地の私有を制度化するには、所有権を守るための法と裁判の整備が必要であり、これらは近代社会発展のための不可欠の基盤なのである。/現代においても近代的な法治主義がきちんと定着しているのは、封建制度を経験した西洋と日本だけであることを考えれば、この事は明らかだろう。/8百年近くも前に、泰時が道理に基づく政治、法、裁判の仕組みを作った史実の重要性はここにある。》

(ここには明らかに「安保法制」への批判が読みとれる。■■ 国際派日本人養成講座 ■■の読者には安倍シンパが多いはずだが、このことに気づいてほしい。

 

一方「合議制」は、執権の独断に対するブレーキ役としての「連署」の地位と、執権・連署とともに政治や訴訟に関する評定を行う「評定衆」の任命があった。そして結論する。


《我が国には、神話時代の「神集ひ」から聖徳太子の十七条憲法の「上和らぎ、下睦びて事を論(あげつら)」と、衆議公論を尊ぶ伝統が根強いが、それを政治制度として定着させたのが泰時であった。この伝統があったればこそ、明治以降の議会制民主主義の導入もスムーズにいったのである。/『御成敗式目』の全51条は、憲法十七条を天・地・人で3倍した数字と言われている。泰時以下、鎌倉幕府の評定衆は、聖徳太子など日本古来からの伝統的思想を踏まえた見識を持っていたと思われる。とすれば、その「撫民」は、皇室の民の安寧を祈る伝統精神を現実政治に生かそうとしたものだろう。/「社会が安定したため、農業生産が高まりました」という繁栄の基盤として、我が国の伝統精神に基づく、北条氏の見識ある政治があったことを、我が国の中学生には知っておいて貰いたいものだ。》(つづく)


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