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「憲法第九条(戦争放棄)は日本人の発案」 [日本の独立]

昨日の参院平和安全法制特別委員会の質疑を聴いていた。民主党の桜井充議員が、安倍首相が首相就任前の2000年5月の衆院憲法調査会での発言を取り上げ、現行憲法について「日本人の精神に悪い影響を及ぼしている」と発言していることを問題にした。あらためてその2000安倍発言を読んだ。


要旨

制定過程は(日本が)占領下にある。誰が考えても、大きな強制の中で憲法が制定された。これは日本人の精神に悪い影響を及ぼしていると思う。私たちの手で新しい憲法をつくることが極めて重要だ。
 憲法の前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。国連の常任理事国は、(第2次世界大)戦後に全て戦争をしている。しらじらしい文だと言わざるを得ない。この前文によって、私どもの中から安全保障という観念がすっぽりと抜け落ちている。まず前文から全面的に見直していく必要がある。
 国連憲章の中に9条に似た条文がある。しかし同時に、集団的自衛権と個別的自衛権が明記してある。日米安全保障条約でも、両国に個別的自衛権と集団的自衛権が存在することを確認している。その中での安保条約であって、国連の中での活動である。集団的自衛権を、権利はあるが行使できないというのは、極めて無理がある。
 集団的自衛権は自然権だ。憲法をつくる前からある権利と考えるべきではないか。権利はあるが行使できないというのは極めておかしな理論で、わが国が禁治産者であると宣言するような極めて恥ずかしい政府見解だ。9条にかかわらず、集団的自衛権は、権利はあるし行使もできると思う。


これはこれでいい。このレベルで議論しても問題は何も見えてこない。山本太郎議員の質疑のすごさは、このレベルを抜け出たことにある。


集団的自衛権とは仲間の国を守るため武力使う権利」という。それはたしかに「自然権」かもしれない。しかしいま問題なのは、その「仲間」がアメリカであるということなのだ。そこを明確にしたのが山本議員の質疑だった。

 

今朝、元自衛官による、かつての同業佐藤正久議員(ヒゲの隊長)への怒りの叫びを読んだ。その中にこうあった。


《米国は集団的自衛権の名の下に、74年間宣戦布告もしない、自称「自衛の」戦争を大小200以上やってきた。その挙句が「9.11」だ。日本をそんな国にするのか。》

 

国民の関心の大勢がここに及んだ時、日本は変わる。変わらざるを得ない。そうなりつつある。放射能禍と抱き合わせの覚醒であることがなんともつらいが、これも日本に担わされた宿命なのだろうか。

 

今日の本題。

 

「憲法第九条(戦争放棄)は日本人の発案」(相曾誠治『サニワと大祓詞の神髄』山雅房 平成21年)という文章を読んだ。

 

   *   *   *   *   *

 

 白鳥敏夫(一八八七〜一九四九年)も同じA級戦犯になりました。東大出の秀才で、イタリア駐在の大使を務めた後、翼賛会から代議士に転じています。その白鳥がある日、何を間違えたのか突然、わたしに面会を申し込んできました。

 「外務省の役人から君の著した『天孫降臨の大義』という本を見せてもらったが、君はほんとうに神様を信じているのか?」

 「白鳥先生、わたしたちは神様の子どもです。外見こそ人間の姿をしていますが、間違いなく神の末裔です。そうおっしやる先生御自身も同様です」

 「いや、そんなこと言う人に初めて出会った。もう一度聞くが、確信あるのか?」

 「もちろんです」

 「それではちょっとつきあってくれんか」

 「どこへですか?」

 「ある街に大変な霊能者がいるそうだ。そこで日本の将来を占ってもらおうと思うのだが」

 独りでは心もとないという白鳥にわたしは同行しました。霊能者はおばあさんで、信奉者が引きもきらずに訪れるにぎわいです。ところがそのときはおばあさんが神霊に伺ってもなんら回答がありません。日が悪いから帰ろうということになり、二人ですごすご引き返してきたことがあります。

 よしあしは別として、実はそのころから白鳥は神(霊)がかりを始めるようになっていました。応接間でわたしと話している最中、ひょいと立ち上がっては窓から外に飛び出したりします。窓の高さは簡単にまたげるほど低くありません。加えて、白鳥は相当な肥満体です。身軽な身のこなしを見て白鳥に霊が作用していることを悟りました。

 「相曾君、困ったな。日本は負けるかもしれないぞ」

 「わかりますか」

 「うん、わかる」

 「白鳥先生、今、そんなことを口外すると危ないですよ」

 「うん、わかっている」

 白鳥がA級戦犯に指定されてからのことです。

 「”争うな、戦うな”が皇祖皇宗の教えというのは真理か?」

 「もちろんです。戦ってはいけません。戦ったから負けたのではないですか」

 「確かにそうだな。初めてわかった。処刑される前に最後の御奉公をしたいのだが……」

 「先生、いったい何を考えておられるのですか?」

 「ほかでもない。新憲法に戦争放棄をうたうようマッカーサーに英文で手紙を書いたのだ」

 「先生が直接渡すのですか?」

 「いや、じかでは先方も受け取らないだろう。大先輩の幣原の所へ持っていく」

 こうして幣原喜重郎(一八七ニ〜一九五一年)首相の所に戦争放棄の原案が持ち込まれたわけです。幣原は外務次官や外務大臣などの外交官畑を歩いてきた政治家です。終戦後の一九四五年十月、首相に就任し、占領軍の政策に従って憲法の改正に着手しました。

 幣原は白鳥の発案であることを極秘にし、戦争放棄の案をGHQに提出します。この秘話を知っているのはほんの数人だけです。戦争放棄は進駐軍から押し付けられたと世間一般では考えられていますが、実は白鳥敏夫の発案だったのです。

 幣原の子息はかつて独協大学の教授をしていましたが、このいきさつについては全く知りませんでした。

 「父は戦争放棄の原案には全く関与していません。日記や書き残したメモにも全くそのような経緯は見当たりません。何かの間違いではないでしょうか」

 幣原はそこまで慎重に事を運んだのでしょう。

 ただ、白鳥の後輩に当たる外交官がわたしの話に近い内容を週刊誌で発表したことがあります。幣原やわたし以外にも白鳥から胸中を打ち明けられた人がわずかにいたのでしょう。

 現行憲法の第九条、戦争放棄は神界のおぼしめしです。

 

   *   *   *   *   *


「現行憲法の第九条、戦争放棄は神界のおぼしめしです。」

然り。

戦後間もない友清歓真先生の御発言。(「所感」 昭和231111日 第20回山上特別修法)

 

   *   *   *   *   *

 

 ・・・世間では米ソ戦争といふことが當面の問題として、すべての場合に大きな目標となるやうでありますが、本日の山上修法は直ちにさういふ問題を対象とするのではないのであります、然らばその目的はと申しますと、それは萬有和合世界霊化といふことで、或る大国と大国とが戦ふかどうかといふやうなことよりも、もっと根本的なところに重点がおかれてありますので、要するに此の世界の成り立ちの時からのマガツクモを祓ひて先づこの国土の清明を祈願するといふことが主となって居ります。・・・

 

   *   *   *   *   *

 

山形新聞731日の「気炎」は、平和主義の権化遠藤三郎中将についての「元陸軍中将の主張」だった。

 

   *   *   *   *   *

     

 福岡県小竹町に「兵士・庶民の戦争資料館」(武富智子館長)がある。開設したのは武富登巳男前館長(2002年に84歳で死去)。ビルマ(現ミャンマー)戦線で航空偵察兵として従軍した。

 日本初の民間の戦争資料館として開館され、公立の施設と違い、個人の兵士と庶民の立場を強調する展示館をめざした。もともと倉庫だった場所を改造した資料館は、広いとは言えないが、所狭しと並ぶ展示物の一つ一つが絶妙のバランスで融合し、見学者に静かに語り掛けてくる。

 「憲法九条と遠藤三郎不戦の思想展」が毎年、憲法記念日に合わせて開催されている。17回目となる今年は、例年の2倍となる60点が展示された。

 遠藤三郎(1893〜1984年)とは旧小松町(現川西町)出身の陸軍中将。陸軍航空士官学校長などを歴任し、戦後は91歳で亡くなるまで護憲と反戦を訴えた。

 武富前館長は陸軍時代にインドネシアのジャワ島で遠藤と知り合い、交流する中で書簡や写真、資料などの寄贈を受けたことが開設のきっかけになったという。

 遠藤は参謀本部時代の1927年、ジュネーブでの海軍軍縮会議に参加している。終戦直前には軍部の本土決戦に反対した。ただ立場上、軍事指導の役割を果たし、その悔恨からか、「戦争は最大の罪悪であり、軍隊は危険な存在」と自伝で主張している。さらに日本国憲法を「無上の悦び」と評価し、護憲の姿勢を鮮明にした。

 武富氏の長男・慈海副館長は「集団的自衛権行使の容認へと国が動いている今こそ、『軍備亡国』を訴え、護憲を貫いた遠藤の不戦思想を学びたい」と話す。作家井上ひさし(川西町出身)の「一分ノ一」(講談社文庫)という小説に登場するサブーシャこと遠藤三郎は、この遠藤中将がモデルになっている。    (落合ひろし)


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めい

http://www.asyura2.com/15/senkyo190/msg/159.html

6. 2015年8月05日 23:26:17 : dkr0OeNo4U
憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」の部分を、単なる消極的な受身の姿勢と理解するなら、この文章は子供の作文以下である。
もし、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」国際平和のために日本が主導的役割を果たし、相互に武力の先制不使用を約束するような、21世紀の「不戦条約」を実現させるべく積極的に行動し、各国、各宗教のリーダーを説得してまわる外交を展開するなら、前文のこの文章は全く違った輝きを放つことになる。
これこそ、「積極的平和主義」ではないか。

by めい (2015-08-06 04:06) 

めい

【本の紹介】 憲法第九条を発案したのは誰か〔新説〕
     『「東京裁判」を読む』
     著者 半藤一利 保阪正康 井上 亮
   発行 日本経済新聞出版社 2009年8月3日発行 2,310円(税込)
     『占領下日本』
      編者 半藤一利 竹内修司 保阪正康 松本健一
   発行 筑摩書房 20D9年7月25日発行 2,300円+税 
http://www.assert.jp/data/2009/38404.html

 筆者は以前に、本紙(アサート No.318(2004年5月22日)号)に、「9条の生みの親」を知ろう 、と題して、憲法九条の戦力放棄を明確に規定した「9条の生みの親」は、実はアメリカから押し付けられたものではなく、日本帝国主義の敗戦の年、1945年10月に内閣を組織した幣原喜重郎首相であったという、しかも幣原氏自身が、思い付きや、「一時的なものではなく、長い間考えた末の最終的な結論だ」と語っているという、これまでほとんど知らされていなかった事実について、【資料紹介】を行った。
 今回ここに紹介する二つの書籍は、出版元は違うが、今年のほぼ同時期に発行され、しかも昭和史では第一人者と目されている半藤一利、保阪正康の両氏が著者、編者として参加、討論を主導されている。それぞれに扱うテーマは異なっているが、いずれも敗戦直後から東京国際戦犯裁判を含む占領下日本において、いまだに多くの謎と未解決の問題を問いかけている諸問題について鋭く切り込んでいる注目の好著といえよう。
 『「東京裁判」を読む』の目次は、
序章 歴史の書庫としての東京裁判
第1章 基本文書を読む
第2章 検察側立証を読む
第3章 弁護側立証を読む
第4章 個人弁護と最終論告・弁論を読む
第5章 判決を読む
第6章 裁判文書余録
であり、
『占領下日本』の目次は、
序章 「八月十五日」の体験
第1章 日本は「無条件降伏」をしたか
第2章 「一億総懺悔」の問題点
第3章 天皇とマッカーサーとの会談の真実
第4章 天皇が「人間」となった日
第5章 「堕落論」および「俳句第二芸術論」の衝撃
第6章 憲法第九条を発案したのは誰か
第7章 当用漢字・新かなはどうして採用になったのか
第8章 検閲はどう行なわれていたか
第9章 国敗れてハダカありき
第10章 “日本人民共和国”成立の可能性
第11章 『はるかなる山河』に生き残ったことの意味
第12章 東京裁判でパル判事が主張したこと
第13章 「デス・バイ・ヘンギング」という判決
第14章 『日本の黒い霧』の推理は正しいか
第15章 朝鮮戦争は「神風」だった?
第16章 古橋・湯川・黒澤の活躍
第17章 警察予備隊が編成されたとき
第18章 マッカーサーが忘れられた日
である。

<<白鳥敏夫の憲法論>>
 両書で期せずして、憲法九条成立にかかわる文書として、元駐イタリア大使・白鳥敏夫の弁護資料が取り上げられている。
 まず、『「東京裁判」を読む』の第4章「個人弁護と最終論告・弁論を読む」の中で、問題の文書について以下のように紹介される。

 検察、弁護側双方の反論は一九四八年二月十日で終了した。これで法廷での証拠文書はすべて出尽くしたことになる。この前日の二月九日の公判で元駐イタリア大使、白鳥敏夫の弁護資料として提出された不思議な文書がある。それは終戦から四カ月過ぎた一九四五年十二月十日付で白鳥から当時の吉田茂外相に宛てられた書簡だ。このとき白鳥は巣鴨拘置所に収監されていた。
 書簡で白鳥は皇室のキリスト教化と戦争放棄の平和憲法制定を訴えている。白鳥は日本の敗戦をかつてのユダヤ王国の滅亡に誓え、日本民族との類似性を指摘する。そして、キリストを受け入れなかったために流浪の民となったユダヤ民族の悲劇を語り、日本ほ同じ道をたどってはならないと説く。・・・
 白鳥は続いて憲法改正問題について述べる。これからの日本人は「絶対平和の民」であるべきで、天皇の終戦の詔勅にある「万世泰平」の基礎は新憲法で打ち立てる必要かあるという。
 国民は兵役に服することを拒むの権利及び国家資源の如何なる部分をも軍事の目的に充当せざるべきこと等の条項は新日本根本法典の礎石たらざるべからずと存候〔略〕
 天皇に関する条項と不戦条項とを密接不可分に結びつけ而して憲法のこの部分をして純然たる革命を他にして将来とも修正不能ならしむることに依りてのみこの国民に恒久平和を保持し得べきかと存侯
 吉田は白鳥からこの提案を当時の幣原喜重郎首相に伝えてほしいと要望され、幣原に書簡の写しを手渡したと供述している。憲法改正作業は幣原内閣のもとで行われたが、はたして白鳥の書簡は何らかの影響を与えたのだろうか。そう考えるのは白鳥を買いかぶりすぎであろうか。

<<「新説」の根拠>>
 一方、『占領下日本』では、同じ文書が、「第6葦 憲法第九条を発案したのは誰か」で取り上げられ、この章の冒頭報告を行っている竹内修司氏が以下のように紹介している。

 竹内 いちばん最初に戦争放棄を言い出したのは、戦前の外交官で、東京裁判のA級戦犯でもあった白鳥敏夫だと最近いわれ出したので、そのもとになった原文を探して見てみたのですが、驚くほど荒唐無稽な手紙です。・・・
 「昨今はもっばら天皇大権の縮減、人民権利の伸長に一般の注意が向けられおり、それはもちろん負荷なしとは存知候らえども、これらの事項は諸外国の憲法に於いて明記せられおり、我々は自由にこれを斟酌しうる理にて、問題は比較的簡単にござ候。さりながら日本の我らは絶対的平和の民たらんとするものに候らわずや。去る八月十五日の御詔勅に拝する万世太平の基礎は新憲法に於いて、しかと打ち立てざるべからずと存じ候。将来この国民をして再び外戦に赴かしめずとの、天皇の厳なる確約、いかなる事態、いかなる政府の下に於いても、何らの形式によるかを問わず、国民は兵役に服することを拒むの権利、及び国家資源のいかなる部分をも軍事の目的に充当せざるべからずなどの条項は新日本根本法典の礎とならざるべからずと存知候」
「有体に申せば、小生は旧天皇制なくんば、いかにして新憲法の中に平和条項を有効適切に折り込むべきかを知らざるものにござ候。天皇に関する条章と、不戦条項とを密接不可離に結びつけ、而して憲法のこの部分をして純然たる革命を他にして将来とも修正不可能ならしむることによりてのみ、この国民に恒久平和を保障しうべきかと存ず」。
というのが、その部分なのです。・・・
 竹内 そして「よろしければ一通、幣原首相にお返し願いあげたく、小生は新憲法に関する愚見を、首相がいかに受け取られるかに、承知いたしたく存知候」なんて言っておしまいになっている。吉田さん、よかったら回してくれよ、ということです。
 これが、二十二年一月二十日まで、進駐軍に留め置かれているのです。一月二十日に吉田の手に渡っている。吉田がそれを幣原に見せたかどうかはわかりません。でも暗合があるのは、幣原がマッカーサーと会見をして、戦争放棄のことについて言い出して、マッカーサーが感激をしたというのが一月二十四日ですね。名目上はペニシリンを貰ったことへのお礼で、三時間くらい話をしているから、その時に出た話だろうというのが普通言われていることです。その四日前に少なくとも吉田の手に初めてこの手紙が渡っていて、それがもしも幣原のところに渡ったとすれば、ちょうどいい頃合いだろう、と。だから、というのが新説なんですね。

 以上が、「憲法第九条を発案したのは誰か」、それは白鳥敏夫だという新設の根拠である。
 この後の討論の中でさらに注目されるのは、
 竹内 マッカーサーが、ワシントンに天皇無罪のメモを送ったについては、私はオーストラリアが戦犯リストを提出して、その七番目に「ヒロヒト」を挙げたことと関連していると思います。オーストラリアのリストのことをマッカーサーが知ったのが一月二十二日、その三日後の二十五日に、彼は二カ月も遅らせていた「天皇が戦犯であるかどうか、証拠を収集せよ」という指示に対する返事を、急遽送っているのです。
 先に話に出た、その時期の空気がそうだったという話。吉田茂なんかは戦争放棄を憲法に謳うということまでは考えなかったけれど、軍備を持たないという、それくらいのことは言ったと思います。
 半藤 そのことは、どうも幣原さんが普段から理想論で言っているらしいのです。不戦条約以来。あの言葉そのものが不戦条約の言葉とそっくりですからね。そのものズバリですものね。
という箇所である。
 ここで半藤一利氏が述べている「あの言葉」とは、もちろん憲法九条の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」という文言そのものである。白鳥敏夫発案という「新説」も、幣原説を補強する以上のものではないといえよう。
(生駒 敬)

by めい (2015-08-08 07:04) 

めい

日本国憲法「第九条」の草案者は誰か? - ワシーリー・モロジャコフ
nippon.com 5月14日(木)11時33分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150514-00010000-nipponcom-pol&p=1

ワシーリー・モロジャコフ/MOLODIAKOV Vassili(拓殖大学日本文化研究所教授)

A級戦犯・白鳥敏夫からの英文の手紙

1945年12月10日公判を待つために東京の巣鴨拘置所に拘留中の、前駐伊大使で同時に「A級戦犯」であった白鳥敏夫は、吉田茂外相(当時)あての長文の手紙を書き終えた。手紙は英語で書かれていた。拘置所の検閲を難なくすり抜けられるようにするためか、それとも手紙が占領軍本部の目に留まるようにするためなのか。占領軍に読ませるためだったとの可能性が濃厚であったとみられる。

日本国憲法「第九条」の草案者は誰か?(元記事)

白鳥は、1930年代初頭に天皇陛下の報道官だった頃の回想から始めている:

“That privileged post which I held for nearly three years afforded me the rare opportunity of observing and studying the personality of our Sovereign at a close range. As a result, I could thoroughly convince myself of his innate love of peace, his thirst for truth, and his genuine anxiety for the welfare of his people. Especially keen, I found, were his interest in foreign affairs and his desire for good relations with other nations. It seemed to me that he had an instinctive mistrust of the military and that nothing worse became him than his title of Generalissimo and the military uniform in which he had always to appear in public.”

(3年間の報道官の職務のお蔭で、私は、頻繁に間近で天皇陛下をお見かけし、陛下のお人柄を知り得る、非常に稀な機会を得た。その結果、私は、天皇陛下が、生まれ持って平和を愛しておられ、真実を尊重し、真に日本国民の平安に心を砕かれていることを深く確信した。特に、陛下は、国際関係に関心をもっておられ、他国と善隣関係を保ちたいとお考えになっていたようだ。私は陛下は本能的に軍人に不信感を抱いており、大元帥という肩書と公の場で着なければならない軍服を最悪なものと感じていたと私には思われた。)

白鳥は、どこまで正直にこのような天皇の姿を描いたのだろうか?このように天皇を描写することで誰かを納得させたかったのだろうか?吉田茂は、この手紙を書いた白鳥本人よりも、昭和天皇の実像をよく知っていたと考えられる。従って手紙のこの部分は、占領軍に向けられたものだったのではないだろうか。

天皇は「戦犯」として東京裁判に召喚されるのか、玉座からの退位を強制されるのか、もしくは、統治権の総攬者(そうらん)ではなくなり日本国と日本国民統合の「象徴」たる君主として存続するのか。この時期、占領軍は、天皇の今後の運命についてまだ最終決定を下していなかった。

興味深い憲法改正に関する記述
この手紙の中で最も興味深い部分は、その結語である。白鳥は、憲法改正問題に触れながら(全面的な改正についてはまだ言及していない)、”Provisions containing a solemn promise on the part of the Emperor never, under any circumstances, to make his subjects fight a war, the right of the people to refuse military service in any form under any government, and the non-application to martial use of any part of the resources of the country”. (いかなる状況にあっても自らの国民を戦争に参加させないこと、どのような政権下のどのような形であっても、国民は兵務を拒否できる権利、国の資源の軍事的な目的での使用を一切なくすことに対する天皇の誓いが含まれた条文)を盛り込むことを提案している。

白鳥は、”Must form the corner-stone of the fundamental law of the new Japan if it is seriously meant to make her a land of eternal peace.”(日本が、真に平和国家たらんとするならば、(このような提案が)新生日本の基本法の礎石とならなくてはならない)としている。

さらに”Tenno’s mission to reign over this land in peace and tranquility.”(天皇の使命は、平和と安らぎの中で我が国を統治すること),”That would be a totally new departure in constitutional legislation.”(それは、憲法制度において、まったく新しいものとなる)と添えている。

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

戦争放棄をうたった1947年の憲法第9条は、全世界的な意味での革新的な条文となった。1945年9~10月の時点で、国民の願いという形ではあるが、日本のマスコミも戦争放棄を呼びかけてはいたが、白鳥の手紙は、時系列的に見て「永久的な戦争放棄」の原則を憲法に用いた最初の試みであった。ここで、この手紙を、広く知られている出来事や史実と同じ文脈の中で、もう一度見ていきたい思う。

誰が白鳥の手紙をGHQに受け渡したか不明
吉田は、戦前、白鳥からの依頼を受け、長年にわたり外相を務めていた幣原喜重郎を白鳥に紹介したことがある。1946年1月20日以前に、手紙は、連合国軍最高司令官であるマッカーサーの総司令部に届けられていたが、一体、誰が手紙を受け渡し(吉田本人である可能性も考えられる)、誰が実際に手紙を読んだのかは不明である。

1946年2月1日、マッカーサー元帥に対し、憲法問題調査委員会起草の「憲法改正要綱」が提出された。マッカーサーは、その改正要綱を拒否、2月3日、総司令部民政局に対し、自ら定めた憲法基本原則(「マッカーサー・ノート」(※1))を基盤として、憲法草案を作成するよう命じた。2月4日、民生局長であったコートニー・ホイットニーは、部下を集め、憲法草案作成の作業を開始すること、「国家主権としての戦争の放棄」という項目を含んだマッカーサーにより基本原則を伝えた。2月10日、草案作成の作業は完了。2月12日、マッカーサーが草案を承認。その翌日2月13日、「マッカーサー草案」は日本政府に提示された。

占領軍民政局は、天皇や日本政府に対して、この草案を受け入れる以外の道はないことを示した。そして、ホイットニーは、もし、このGHQ草案を受け入れなければ複数の連合国が裁判にかけることを要求している天皇の身柄を保障することは「困難になる」とした。2月21日、幣原との面談においても、マッカーサーは、このことを丁寧な言い回しをしながらも、はっきりと認めた。

「戦争放棄」をめぐる曲折
マッカーサー草案の中で、最も議論を呼んだのは、戦争の放棄と天皇の新しい地位に関する部分だった。戦争放棄の宣言をする必要がある根拠として、マッカーサーはこう発言した。

「もし日本が戦争を放棄することを明確に宣言するならば、日本は世界の道徳的リーダーの地位を確立できる。」 

幣原が「元帥は、指導的役割とおっしゃるが、他国は日本には追随しないでしょう」と応じると、マッカーサーは「もし他の国が日本に付いていかなくても、日本が失うものは何もない。日本を支持しない国が正しくないということになるのだ」と答えた。2月22日、マッカーサー草案は天皇によって承認され、3月6日には、「憲法改正草案要綱」として発表された。協議の中で、ホイットニーは、戦争放棄を前文の中で、基本的な原則の一つとして列挙されるだけではなく、独立した一章にすることを強く主張した。

歴史学者のリチャード・フィン(※2)と西鋭夫は、第九条をめぐる歴史の真実は闇に覆われているとしている。マッカーサーによれば、第九条を最初に発案したのは、幣原であり、1946年1月24日に懇談した際に幣原より耳にしたとのことであるが、それは政府による草案の作成の段階であった。

吉田茂は、第九条が制定に到ったのは、マッカーサーの全面的なイニシアチブによると認めている。マッカーサーの「戦争そのものを法の領域外に置く」という発言から、フィンは「日本国憲法における反戦思想は、おそらくマッカーサーによるものだろう、反戦思想を憲法に盛り込んだ責任は彼が全面的に負うべきものである」との結論に到達した。フィンは、どうやら白鳥の手紙については全く知らなかったようである。

マッカーサーに間接的に影響を及ぼした白鳥
白鳥が手紙の中で憲法改正および「戦争放棄」を盛り込むことについて記している部分の和訳が、1956年、東京裁判で白鳥の弁護人を務めた廣田洋二によって公表された。著者は、入手可能なありとあらゆる資料を精査し、マッカーサーが、第九条の着想を幣原から受けたであろうこと(この時のことについて触れているマッカーサーの回顧録が出版されたのは、手紙が公開されてから8年後のことだった。)、そして、その幣原に影響を及ぼしたのが白鳥である可能性は充分すぎるほどあるという結論に達した。

廣田は、「戦争放棄」の問題は、1月24日にマッカーサーと幣原が会談した際に話し合われたということを(GHQに白鳥の手紙が届けられてからたった四日後のことである)示し、幣原がGHQ草案の作業に取り掛かるまでに、この手紙を読む時間は充分にあったとしている。しかし、この廣田の論文は、知名度の低い雑誌に掲載されたこともあってか世間で注目を集めることはなかった。

幣原の「戦争放棄」の着想に結びつく
幣原が、白鳥の手紙から「戦争放棄」の着想を受けたが、「A級戦犯」である白鳥のことには一切触れずに、自らのアイデアとして、新憲法の基本原則の一つとすべきとマッカーサーに進言したということも考えられる。この「戦争放棄」の理念は、マッカーサーを揺り動かし、その結果、マッカーサーは憲法草案作成にさらに力を注いでいる。マッカーサーにアイデアが伝わるのとほぼ同時期に、GHQに届いていた白鳥の英文の手紙をホイットニー自らが読むか、補佐官などから手紙の要旨を伝え聞いたという可能性も考えられる。政治問題に関して、ホイットニーがマッカーサーに強い影響力を持っていたことは、よく知られているところである。もちろん、今まで申し上げてきたことすべてをもってしても、白鳥を「第九条の発案者」と呼ぶのには論拠不充分である。しかしながら、白鳥が影響を及ぼしたという可能性が非常に大きいのは厳然たる事実である。

私は、この自らの推説を、博士論文公開審査会の席上(「白鳥敏夫と日本外交(1931-1941年)」東京大学2002年)で披露した。多くの人が、関心をもって聞いてくれたが、しかし、軍国主義のイデオローグとして名を馳せた「戦犯」が、「戦争放棄」を憲法の基本理念とするという説があまりに大胆だと懐疑的だった。

後に、推説に関して、ロシア語で著した「戦いの時代 ― 白鳥敏夫(1887-1949年)、外交官、政治家、思想家」(2006年)で詳細に記述した。今日も、白鳥の伝記と呼べるものは、この本しかない。白鳥が英語で記した手紙の完訳は、私の論集「The Re-awakening of Japan(日本の新しい覚醒)」(2008年)にその他の白鳥の手紙の訳と共に収められている。

(※1)^天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。
国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。予算の型は、イギリスの制度に倣うこと。

(※2) 歴史家 アメリカン大学名誉教授 元国務省外交官 日米関係の歴史に詳しい。

by めい (2015-08-08 07:07) 

めい

憲法第九条『戦争放棄』は、世界史の扉を開くすばらしき狂人、幣原首相によって生まれたもの!
2013年05月08日 | 日本とわたし
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/d7687e6f43b62b9370cba44a9b11bcd1

この、終戦当時の首相であった幣原喜重郎氏による証言を、ぜひ読んでください。
この証言は、国会図書館内にある資料からのもので、戦争放棄条項、憲法第九条が生まれたいきさつが、事細かに書かれています。

憲法のどこが押しつけか?
押しつけ論のウソは、いったい誰が、どんな目的で作り上げたのか。

以下の、幣原首相の言葉は、一言一句、彼のものか、そしてまた事実なのか、美化されたところはないのか、それはわたしにはわからん。
けども、日本自らが、世界平和への鍵をにぎり、そのドアを開けた国であったことがわかり、胸が熱うなった。

「世界は今、狂人を必要としている。
何人かが、自ら買って出て狂人とならない限り、世界は、軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができない。
これは素晴らしい狂人である。
世界史の扉を開く狂人である。
その歴史的使命を、日本が果たすのだ」

なんちゅうすばらしい言葉やとかと思う。
これを今、チンケな政治家がいじろうとしてる。
日本が、原爆を落とされて重傷を負った日本が果たした歴史的使命を、浅はかな人間に奪われてたまるか!

死中に活!

肝っ玉が座った。

↓以下は、証言の中で特に感銘を受けた言葉を抜粋させてもろたもの。

『原子爆弾というものができた以上、世界の事情は根本的に変わって終った。
世界は真剣に、戦争をやめることを考えなければならない。
そして、戦争をやめるには、武器を持たないことが一番の保証になる。
軍縮交渉とは、形を変えた戦争。
平和の名をもってする、別個の戦争であって、円滑な合意に達する可能性など、初めからないもの。
原子爆弾が登場した以上、一刻も早く軍拡競争を止めなければならぬとわかっていても、それは不可能。
集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられない鼠の大群と似た光景―それが、軍拡競争の果ての姿。

軍縮は不可能である。
絶望とはこのことであろう。
唯、もし軍縮を可能にする方法があるとすれば、一つだけ方法がある。
それは、世界が一斉に、一切の軍備を廃止することである。
一、二、三の掛け声もろとも、すべての国が兵器を海に投ずるならば、忽ち軍縮は完成するだろう。
もちろん不可能である。
それが不可能なら不可能なのだ。
ここまで考えを進めてきたときに、九条というものが思い浮かんだ。

要するに、世界は今、一人の狂人を必要としているということである。
何人かが、自ら買って出て狂人とならない限り、世界は、軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。
これは素晴らしい狂人である。
世界史の扉を開く狂人である。
その歴史的使命を、日本が果たすのだ。
    
日本民族は、幾世紀もの間、戦争に勝ち続け、最も戦闘的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。
神の信条は武力である。
その神は、今や一挙に、下界に墜落した訳だが、僕は第九条によって、日本民族は依然として、神の民族だと思う。
何故なら、武力は神でなくなったからである。
神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。
日本人は、その悪魔を投げ捨てることによって、再び神の民族になるのだ。
すなわち日本は、この神の声を、世界に宣言するのだ。
それが歴史の大道である。
悠々と、この大道を行けばよい。
死中に活というのは、その意味である』


↓以下、転載はじめ


この資料は、国会図書館内にある、憲法調査会資料(西沢哲四郎旧蔵)と題されたものを、
私(今川)が、川西市立図書館を通じて、国会図書館にコピーを依頼して手に入れ、
さらにそのコピーを、ワードに移し替えたものである。
原文は縦書きであるが、ホームページビルダーの性質上、横書きで書いている。

昭和三十九年二月

幣原先生から聴取した、戦争放棄条項等の生まれた事情について

ー平野三郎氏 記―

憲法調査会事務局

は し が き
この資料は、元衆議院議員平野三郎氏が、故幣原喜重郎氏から聴取した、戦争放棄条項等の生まれた事情を記したものを、当調査会事務局において印刷に付したものである。
なお、この資料は、第一部・第二部に分かれているが、第一部・第二部それぞれの性格については、平野氏の付されたまえがきを参照されたい。

昭和三十九年二月
憲法調査会事務局


第一部

私が、幣原先生から、憲法についてのお話を伺ったのは、昭和二十六年二月下旬のことである。
同年三月十日、先生が急逝される旬日ほど前のことであった。
場所は、世田谷区岡本町の幣原邸であり、時間は二時間ぐらいであった。
 
側近にあった私は、常に謦咳にふれる機会はあったが、まとまったお話を承ったのは当日だけであり、
当日は、私が、戦争放棄条項や天皇の地位について、日頃疑問に思っていた点を中心にお尋ねし、これについて、幣原先生にお答え願ったのである。
その内容については、その後まもなくメモを作成したのであるが、以下はそのメモのうち、これらの条項の生まれた事情に関する部分を、整理したものである。
 
なお、当日の幣原先生のお話の内容については、このメモにもあるように、口外しないようにいわれたのであるが、
昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみて、あえて公にすることにしたのである。


元衆議院議員・平野三郎氏: 
かねがね先生にお尋ねしたいと思っていましたが、幸い今日はお閑のようですから、是非うけたまわりたいと存じます。
実は憲法のことですが、私には第九条の意味がよく分りません。   
あれは、現在占領下の暫定的な規定ですか、それなら了解できますが、そうすると何れ、独立の暁には、当然憲法の再改正をすることになる訳ですか。 

幣原喜重郎氏:  
いや、そうではない。
あれは一時的なものではなく、長い間、僕が考えた末の、最終的な結論というようなものだ。

平野氏:
そうしますと、一体どういうことになるのですか。
軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうする訳なのですか。

幣原氏:  
それは、死中に活だよ。
一口に言えばそういうことになる。

平野氏:
死中に活といいますと……。

幣原氏:
たしかに、今までの常識ではこれはおかしいことだ。
しかし、原子爆弾というものができた以上、世界の事情は根本的に変わって終った、と僕は思う。
何故なら、この兵器は、今後更に幾十倍、幾百倍と発達するだろうからだ。
恐らく次の戦争は、短時間のうちに、交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰して終うことになるだろう。
そうなれば、世界は真剣に、戦争をやめることを考えなければならない。
そして、戦争をやめるには、武器を持たないことが一番の保証になる。

平野氏:
しかし日本だけがやめても仕様がないのではありませんか。

幣原氏:
そうだ。
世界中がやめなければ,ほんとうの平和は実現できない。
しかし、実際問題として、世界中が武器を持たないという真空状態を、考えることはできない。

それについては、僕の考えを少し話さなければならないが、僕は、世界は結局、一つにならなければならないと思う。
つまり、世界政府だ。
世界政府と言っても、凡ての国がその主権を捨てて、一つの政府の傘下に集まるというようなことは空想だろう。
だが、何らかの形における世界の連合方式というものが、絶対に必要になる。
何故なら、世界政府とまでは行かなくとも、少なくも、各国の交戦権を制限し得る集中した武力がなければ、世界の平和は保たれないからである。
凡そ人間と人間、国家と国家の間の紛争は、最後は腕づくで解決する外はないのだから、どうしても武力は必要である。
しかしその武力は、一個に統一されなければならない。
二個以上の武力が存在し、その間に争いが発生する場合、一応は平和的交渉が行われるが、
交渉の背後に武力が控えている以上、結局は武力が行使されるか、少なくとも、武力が威嚇手段として行使される。
したがって、勝利を得んがためには、武力を強化しなければならなくなり、かくて二個以上の武力間には、無限の軍拡競争が展開され、遂に武力衝突を引き起こす。
すなわち、戦争をなくするための基本的条件は、武力の統一であって、
例えばある協定の下で軍縮が達成され、その協定を有効ならしむるために必要な国々が、進んで、且つ誠意をもって、それに参加している状態、
この条件の下で、各国の軍備が、国内治安を保つに必要な警察力の程度にまで縮小され、国際的に管理された武力が存在し、
それに反対して結束するかもしれない、如何なる武力の組み合わせよりも強力である、というような世界である。
    
そういう世界は、歴史上存在している。
ローマ帝国などがそうであったが、何より記録的な世界政府を作ったものは、日本である。
徳川家康が開いた、三百年の単一政府がそれである。
この例は、世界を維持する唯一の手段が、武力の統一であることを示している。
    
要するに、世界平和を可能にする姿は、何らかの国際機関が、やがて世界同盟とでも言うべきものに発展し、
その同盟が、国際的に統一された武力を所有して、世界警察としての行為を行うほかはない。
このことは、理論的に昔から分かっていたことであるが、今まではやれなかった。
しかし、原子爆弾というものが出現した以上、いよいよこの理論を現実に移す時が来た、と僕は信じた訳だ。

平野氏:
それは誠に結構な理想ですが、そのような大問題は、大国同志が国際的に話し合って決めることで、
日本のような敗戦国が、そんな偉そうなことを言ってみたところで、どうにもならぬのではないですか。

幣原氏:
そこだよ、君。
負けた国が負けたからそういうことを言う、と人は言うだろう。
君の言うとおり、正にそうだ。
しかし、負けた日本だからこそできることなのだ。
おそらく世界には、大戦争はもうあるまい。
もちろん、戦争の危機は、今後むしろ増大すると思われるが、原子爆弾という異常に発達した武器が、戦争そのものを抑制するからである。
第二次世界大戦が、人類が全滅を避けて戦うことのできた、最後の機会になると僕は思う。
如何に各国が、その権利の発展を理想として叫び合ったところで、第三次世界大戦が相互の破滅を意味するならば、
いかなる理想も人類の生存には優先しないことを、各国とも理解するからである。
   
したがって各国は、それぞれ世界同盟の中へ溶け込む外はないが、そこで問題は、どのような方法と時間を通じて、世界がその至高の理想に到達するかということにある。
人類は、有史以来最大の危機を通過する訳だが、その間どんなことが起こるか、それはほとんど予想できない難しい問題だが、
唯一つ断言できることは、その成否は一に、軍縮にかかっているということだ。   
もしも有効な軍縮協定ができなければ、戦争は必然に起こるだろう。
既に言った通り、軍拡競争というものは、際限のない悪循環を繰り返すからだ。
常に、相手より少しでも優越した状態に己を位置しない限り、安心できない。
この心理は果てしなく拡がって行き、何時かは破綻が起る。
すなわち、協定なき世界は、静かな戦争という状態であり、それは嵐の前の静けさでしかなく、
その静けさがどれだけ持ちこたえるかは、結局時間の問題に過ぎないという恐るべき不安状態の連続になるのである。 
   
そこで軍縮は可能か、どのようにして軍縮をするかということだが、僕は軍縮を身をもって体験してきた。
世の中に、軍縮ほど難しいものはない。
交渉に当たるものに与えられる任務は、如何にして相手を欺瞞するかにある。
国家というものは、極端なエゴイストであって、そのエゴイズムが最も狡猾で悪らつな狐狸となることを、交渉者に要求する。
虚虚実実千変万化、軍縮会議に展開される交渉の舞台裏を覗きみるなら、何人も戦慄を禁じ得ないだろう。
軍縮交渉とは、形を変えた戦争である。
平和の名をもってする、別個の戦争であって、円滑な合意に達する可能性など、初めからないものなのだ。 
    
原子爆弾が登場した以上、次の戦争が何を意味するか、各国とも分るから、軍縮交渉は行われるだろう。
むしろ軍縮交渉は、合法的スパイ活動の場面として、利用される程である。
不信と猜疑が無くならない限り、それは止むを得ないことであって、連鎖反応は連鎖反応を生み、
原子爆弾は世界中に拡がり、終りには大変なことになり、遂には身動きもできないような瀬戸際に追いつめられるだろう。
    
そのような瀬戸際に追いつめれても、各国はなお、異口同音に言うだろう。
軍拡競争は、一刻も早く止めなければならぬ。
それは分っている。
分ってはいるが、どうしたらいいのだ。
自衛のためには力が必要だ。
相手がやることは自分もやらねばならぬ。
相手が持っているものは自分も持たねばならぬ。
その結果がどうなるか、そんなことは分らない。
自分だけではない。
誰にも分らないことである。
とにかく自分は、自分の言うべきことを言っているより仕方はないのだ。
責任は自分にはない。
どんなことが起ろうと、責任は凡て、相手方にあるのだ。 
    
果てしない堂々巡りである。
誰にも手のつけられない、どうしようもないことである。
集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられない鼠の大群と似た光景―それが、軍拡競争の果ての姿であろう。
    
要するに、軍縮は不可能である。
絶望とはこのことであろう。
唯、もし軍縮を可能にする方法があるとすれば、一つだけ方法がある。
それは、世界が一斉に、一切の軍備を廃止することである。
一、二、三の掛け声もろとも、すべての国が兵器を海に投ずるならば、忽ち軍縮は完成するだろう。
もちろん不可能である。
それが不可能なら不可能なのだ。
ここまで考えを進めてきたときに、九条というものが思い浮かんだのである。

そうだ。
誰かが自発的に、武器を捨てるとしたらー最初それは、脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。

次の瞬間、直ぐ僕は思い直した。
自分は何を考えようとしているのだ。
相手はピストルをもっている。
その前にはだかの体をさらそうと言う。
なんという馬鹿げたことだ。
恐ろしいことだ。
自分はどうかしたのではないか。
もしこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂った、と言われるだろう。
まさに狂気の沙汰である。
    
しかし、そのひらめきは、僕の頭の中でとまらなかった。
どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。
恐らくあのとき、僕を決心させたものは、僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。
何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。
今だ。今こそ平和だ。
今こそ平和のために、起つ時ではないか。
そのために生きてきたのではなかったか。
そして僕は、平和の鍵を握っていたのだ。
何か僕は、天命をさずかったような気がしていた。
    
非武装宣言ということは、従来の観念からすれば、全く狂気の沙汰である。
だが今では、正気の沙汰とは何か、ということである。
武装宣言が正気の沙汰か、それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果、もう出ている。
    
要するに、世界は今、一人の狂人を必要としているということである。
何人かが、自ら買って出て狂人とならない限り、世界は、軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。
これは素晴らしい狂人である。
世界史の扉を開く狂人である。
その歴史的使命を、日本が果たすのだ。
    
日本民族は、幾世紀もの間、戦争に勝ち続け、最も戦闘的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。
神の信条は武力である。
その神は、今や一挙に、下界に墜落した訳だが、僕は第九条によって、日本民族は依然として、神の民族だと思う。
何故なら、武力は神でなくなったからである。
神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。
日本人は、その悪魔を投げ捨てることによって、再び神の民族になるのだ。
すなわち日本は、この神の声を、世界に宣言するのだ。
それが歴史の大道である。
悠々と、この大道を行けばよい。
死中に活というのは、その意味である。

平野氏:
お話の通り、やがて世界はそうなると思いますが、それは遠い将来のことでしょう。
しかし、その日が来るまではどうする訳ですか。
目下のところは差当りは問題ないとしても、他日独立した場合、敵が口実をつけて侵略したら。

幣原氏:
その場合でもこの精神を貫くべきだ、と僕は信じている。
そうでなければ、今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。
しかも次の戦争は、今までとはわけが違う。
僕は、第九条を堅持することが、日本の安全のためにも必要だと思う。
もちろん、軍隊をもたないと言っても、警察は別である。
警察のない社会は考えられない。
とくに、世界の一員として、将来世界警察への分担負担は、当然負わなければならない。
しかし、強大な武力と対抗する陸海空軍というものは、有害無益だ。
僕は、我国の自衛は、徹頭徹尾、正義の力でなければならないと思う。
その正義とは、日本だけの主観的な独断ではなく、世界の公平な与論によって裏付けされたものでなければならない。
そうした与論が、国際的に形成されるように、必ずなるだろう。
何故なら、世界の秩序を維持する必要があるからである。
もしある国が、日本を侵略しようとする。
そのことが、世界の秩序を破壊する恐れがあるとすれば、それによって脅威を受ける第三国は黙っていない。
その第三国との特定の保護条約の有無にかかわらず、その第三国は当然、日本の安全のために必要な努力をするだろう。
要するに、これからは、世界的視野に立った外交の力によってわが国の安全を守るべきで、だからこそ、死中に活がある、という訳だ。

平野氏:
よく分りました。
そうしますと憲法は、先生の独自の御判断で出来たものですか。
一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果、ということになっています。
もっとも、草案は勧告という形で、日本に提示された訳ですが、あの勧告に従わなければ、天皇の身体も保証できないという恫喝があったのですから、事実上命令に外ならなかったと思いますが。

幣原氏:
そのことは、此処だけの話にしておいて貰わねばならないが、実はあの年(昭和二十年)の春から正月にかけ、僕は風邪をひいて寝込んだ。
僕が決心をしたのは、その時である。
それに僕には、天皇制を維持するという、重大な使命があった。
元来、第九条のようなことを日本側から言い出すようなことは、出来るものではない。
まして、天皇の問題に至っては尚更である。
この二つに密接にからみ合っていた。
実に重大な段階であった。                    
幸いマッカーサーは、天皇制を維持する気持ちをもっていた。
本国からも、その線の命令があり、アメリカの肚は決まっていた。
ところが、アメリカにとって厄介な問題があった。
それは、豪州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関しては、ソ連に同調する気配を示したことである。
これらの国々は、日本を極度に恐れていた。
日本が再軍備したら大変である。
戦争中の日本軍の行動は、あまりにも彼らの心胆を寒からしめたから、無理もないことであった。
日本人は、天皇のためなら平気で死んでいく。
殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の、不可分とも言うべき関係であった。
これらの国々のソ連への同調によって、対日理事会の評決では、アメリカは孤立する恐れがあった。
この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を、同時に提案することを、僕は考えた訳である。
豪州その他の国々は、日本の再軍備化を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。
故に、戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は、廃止されたと同然である。
もともとアメリカ側である豪州、その他の諸国は、この案ならばアメリカと歩調を揃え、逆に、ソ連を孤立させることができる。
この構想は、天皇制を存続すると共に、第九条を実現する、言わば一石二鳥の名案である。
もっとも、天皇制存即と言っても、シンボルということになった訳だが、僕はもともと、天皇はそうあるべきものと思っていた。
元来天皇は、権力の座になかったのであり、また、なかったからこそ続いていたのだ。
もし天皇が権力をもったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。
世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。
日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を維持する神主のようなものであって、むしろそれが、天皇本来の昔に戻ったものであり、その方が、天皇のためにも日本のためにも良いと僕は思う。 
この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側から、こんなことを口にすることは出来なかった。
憲法は押しつけられた、という形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら、実際に出来ることではなかった。
そこで僕は、マッカーサーに進言し、命令として出してもらうように決心したのだが、
これは実に重大なことであって、一歩誤れば、首相自らが、国体と祖国の命運を売り渡す、国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。
松本君にさえも、打ち明けることのできないことである。
幸い、僕の風邪は肺炎ということで、元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰い、それによって全快した。
そのお礼ということで、僕が元帥を訪問したのである。
それは、昭和二十一年の一月二四日である。
その日僕は、元帥と二人きりで、長い時間話し込んだ。
すべてはそこで決まった訳だ。

平野氏:
元帥は簡単に承知されたのですか。

幣原氏:
マッカーサーは、非常に困った立場にいたが、僕の案は、元帥の立場を打開するものだから、渡りに舟というか、話はうまく行った訳だ。
しかし、第九条の永久的な規定ということには、彼も驚いていたようであった。
僕としても、軍人である彼が、直ぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、
賢明な元帥は、最後には非常に理解して、感激した面持ちで、僕に握手した程であった。
     
元帥が躊躇した大きな理由は、アメリカの侵略に対する将来の考慮と、共産主義者に対する影響の二点であった。
それについて僕は言った。 
     
日米親善は、必ずしも軍事一体化ではない。
日本がアメリカの尖兵となることが、果たしてアメリカのためであろうか。
原子爆弾は、やがて他国にも波及するだろう。
次の戦争は、想像に絶する。
世界は亡びるかも知れない。
世界が亡びれば、アメリカも亡びる。
問題は今や、アメリカでもロシアでも日本でもない。
問題は世界である。
いかにして、世界の運命を切り拓くかである。
日本がアメリカと全く同じものになったら、誰が世界の運命を切り拓くか。
好むと好まざるにかかわらず、世界は、一つの世界に向って進む外はない。
来るべき戦争の終着駅は、破滅的悲劇でしかないからである。
その悲劇を救う唯一の手段は軍縮であるが、ほとんど不可能とも言うべき軍縮を可能にする突破口は、自発的戦争放棄国の出現を期待する以外にないであろう。
同時に、そのような戦争放棄国の出現も、また空想に近いが、幸か不幸か、日本は今、その役割を果たしうる位置にある。
歴史の偶然は、日本に、世界史的任務を受けもつ機会を与えたのである。
貴下さえ賛成するなら、現段階における日本の戦争放棄は、対外的にも対内的にも、承認される可能性がある。
歴史の偶然を、今こそ利用する時である。
そして、日本をして自主的に行動させることが世界を救い、したがってアメリカをも救う、唯一つの道ではないか。
また、日本の戦争放棄が、共産主義者に有利な口実を与えるという危険は、実際ありうる。
しかし、より大きな危険から遠ざかる方が大切であろう。
世界はここ当分、資本主義と共産主義の宿敵の対決を続けるだろうが、イデオロギーは絶対的に不動のものではない。
それを不動のものと考えることが、世界を混乱させるのである。
未来を約束するものは、たえず新しい思想に向って、創造発展していく道だけである。
共産主義者は、今のところはまだ、マルクスとレーニンの主義を絶対的真理であるかのごとく考えているが、そのような論理や予言は、やがて歴史のかなたに埋没してしまうだろう。
現に、アメリカの資本主義が、共産主義者の理論的攻撃にもかかわらず、いささかの動揺も示さないのは、資本主義がそうした理論に先行して、自らを創造発展せしめたからである。
それと同様に、共産主義のイデオロギーも、いずれ全く変貌してしまうだろう。
いずれにせよ、ほんとうの敵は、ロシアでも共産主義でもない。
このことは、やがてロシア人も気付くだろう。
彼らの敵も、アメリカでもなく資本主義でもないのである。
世界の共通の敵は、戦争それ自体である。

平野氏:
天皇陛下は、どのように考えておかれるのですか。

幣原氏:
僕は、天皇陛下は実に偉い人だと、今もしみじみと思っている。
マッカーサーの草案をもって、天皇の御意見を伺いに行った時、実は陛下に反対されたらどうしようかと、内心不安でならなかった。
僕は、元帥と会うときはいつも二人きりだったが、陛下の時は、吉田君にも立ち会ってもらった。
しかし、心配は無用だった。
陛下は言下に、徹底した改革案を作れ、その結果、天皇がどうなってもかまわぬ、といわれた。
この英断で、閣議も納まった。
終戦の御前会議の時も、陛下の御裁断で日本は救われたと言えるが、憲法も、陛下の一言が決したと言ってもよいだろう。
もしあのとき天皇が、権力に固執されたらどうなっていたか。
恐らく、今日天皇はなかったであろう。
日本人の常識として、天皇が戦争犯罪人になるというようなことは考えられないであろうが、実際はそんな甘いものではなかった。
当初の戦犯リストには、冒頭に天皇の名があったのである。
それを外してくれたのは、元帥であった。
だが、元帥の草案に天皇が反対されたなら、情勢は一変していたに違いない。
天皇は、己を捨てて国民を救おうとされたのであったが、それによって天皇制をも救われたのである。
天皇は、誠に英明であった。
正直に言って、憲法は、天皇と元帥の聡明と勇断によって出来た、と言ってよい。
たとえ象徴とは言え,天皇と元帥が一致しなかったら、天皇制は存続しなかったろう。
危機一髪であったと言えるが、結果において僕は満足している。
     
なお、念のためだが、君も知っている通り、去年金森君から聞かれた時も、僕が断ったように、このいきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならないことだから、その積りでいてくれ給え。

by めい (2015-08-08 07:23) 

めい

【白鳥元伊大使「憲法に戦争放棄」進言】
http://melma.com/backnumber_133342_2245637/

マッカーサー・幣原会談直前
「憲法に戦争放棄」進言
 白鳥元伊大使 首相へ書簡
 番組制作者が調査
 (朝日新聞2005年8月14日一面トップ記事)
>>
 日本国憲法の制定前の46年1月、後にA級戦犯として終身禁固刑を受けた白鳥敏夫・
元駐イタリア大使=服役中に病死=が、9条の原型となる戦争放棄や軍備撤廃を新憲法
の条項に盛り込むべきだとする提案をまとめた書簡を、当時の吉田茂外相を通じて
幣原喜重郎首相に送っていた。
<<
 ドキュメンタリー番組制作者鈴木昭典さんの調査結果だという。

 憲法成立の仮定は実は分かっていないことも多いらしく、以前このブログでも
幣原喜重郎や吉田茂についての仮説を紹介したことがある。

 憲法九条は押し付けではなかった……という仮説
   http://blog.melma.com/00133342/20050305213700

 今回、この幣原と吉田をつなぐ第三の人物“白鳥敏夫”が明らかになった。

 この新聞記事について書いたブログの記事を検索してみたが、ほとんど出てこない。
 「白鳥敏夫」でブログ以外のウェブサイトを検索してみると、こんな記事が出てきた。


憲法9条・救国トリック説で筆者の堤堯に三国志空城計を指摘
   http://www.asyura2.com/0411/war65/msg/515.html

Re:憲法九条は日本人の発案、相曽誠治著「サニワと大祓詞の神髄」
   http://www.asyura2.com/0411/war65/msg/518.html

 このような記述があるということは、白鳥敏夫が憲法第9条の成立に関わっている
ということは、ある程度分かっていたということだろうか。

 歴史論争に踏み込むと複雑になるので、ここではこの事実のみを記しておきます。

 鈴木昭典さんの取材成果をまとめた番組は、8月14日に放送されていたという。


田原総一朗スペシャル戦後60年!私達は間違っていたのか!? 
憲法9条は日本人の発案!?
 出演者/田原総一朗 筑紫哲也 姜尚中 西部邁

 知らなかった。
 再放送はあるのだろうか。

by めい (2015-08-08 07:56) 

めい

9条発案者は幣原首相<本澤二郎の「日本の風景」(2181) <マッカーサーも驚く戦争放棄> <9条誕生秘話>
http://www.asyura2.com/15/senkyo196/msg/823.html
投稿者 笑坊 日時 2015 年 11 月 21 日 18:45:39: EaaOcpw/cGfrA
   

http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/52120626.html
2015年11月21日 「ジャーナリスト同盟」通信

<マッカーサーも驚く戦争放棄>

 天皇制国家主義という前近代の政治体制下の日本為政者は、敗戦時でも時代の変化を読み切れず、明治憲法の焼き直しの改正案(大日本帝国憲法改正案)でやりくりしようとしたことを、憲法学者はみな承知していることである。あまりのひどさに、ポツダム宣言を履行する立場のGHQも、基本的な原則を用意するほかなかった。そこに、当時の幣原喜重郎首相の9条案が飛び出した。これにマッカーサー元帥も驚いたようだが、次の吉田内閣のもとで徹底審議のうえ、圧倒的多数で成立した。それが現行の日本国憲法である。戦後70年の平和の原動力である。

<日系将校の証言>

 クリントン・民主党政権発足直後のアメリカを1か月かけて、取材旅行をしたことがある。これの概要は「アメリカの大警告」(データハウス)に詳しいが、西部カルフォルニア州のサンフランシスコ郊外で、元日系将校のオクノ・シロウと会見、新憲法誕生時の日本印象を証言してもらった。
 彼は「日本人すべてが歓呼の声でもって受け入れていた」と即答した。反対派はいなかった、というのだ。「仕事の関係で地方にも行ったが、農民団体の組合事務所の壁には、憲法誕生を喜ぶポスターも貼ってあった」とも語った。

 オクノは通訳将校であった。日米開戦を前にして、米軍は頭の良い日系米人の若者を集めて、日本語教育を特訓した。彼はその一人だった。日本占領下、GHQで活躍した人物である。会見は1993年3月のことである。
 農場を営んでいたオクノは、別れ際に「日本は2度と戦争をしてはいけない」と訴えた。祖国の悲劇を2度と見たくない、とも言った。

<9条誕生秘話>

 これまで考えを進めてきたときに、9条というものが思い浮かんできた。そうだ、誰かが自発的に武器を捨てるとしたら?最初それは脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。
 この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを、僕は考えたわけである。そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出してもらうように決心した。

 この幣原証言は、2004年(平成16年)11月10日の第161回参院憲法調査会に提出された「幣原喜重郎の語り」からである。「津久井進の弁護士ノート」に載っている。
 ポツダム宣言を完璧に履行できる9条であることに、マッカーサーも脱帽したであろう。

<井上清著の「日本の歴史」>

 日本を代表する歴史家・井上清は、新憲法制定について「まず要綱、ついで正式の草案が公表され、国民の検討にゆだねられた。その後の選挙で選ばれた議会で十分に審議され、修正もされた」と冷静に記述している。
 民主政治は過程を重視する、この点で日本国憲法制定に非はない。戦争法で見せた安倍・自公の暴走とまったく異なる。

 彼は続ける。「新憲法は支配階級には”おしつけ”、民衆はそうではなかった。熱烈に歓迎された」のである。ここでいう支配階級とは、侵略戦争を反省しない安倍の祖父や財閥ら戦争勢力のことである。
 戦時中、内務官僚だった奥野誠亮は、先ごろ102歳にして日本記者クラブにきて「侵略戦争」を敢然と否定した。謝罪することに対して「恥ずかしい」とも述べている。
 当時の官僚もまた「支配階級」であった。その後継者が安倍であり、今の自民党、これに追随する公明党創価学会ということになろう。日本は、こうしてみると、乱世・戦国時代に突入していることにもなろうか。

<沖縄県民の戦いを支援する日本人へ>

 安倍晋三は、先のオバマ米大統領とのマニラ会談で、辺野古移転について、何としても約束を守ると公言した。改めて沖縄に緊張の槍を投げつけた。

 なぜか?彼は本当に日本人ではないからだ。沖縄と沖縄県民への差別である。しからば、沖縄県民の戦いを支援する日本人でなければ、9条に顔向けできないだろう。
 アメリカの労働組合も、沖縄を支援すると立ち上がったという。米国の市民・労働者との連帯は重要である。韓国の従軍慰安婦運動も米国で歓迎されている。沖縄の問題では、韓国や中国にも支援する仲間がいるだろう。国際連帯で米帝と極右政権を追い出すしかない。これは日本国憲法9条が命じている。

<9条は世界の最高峰>

 戦争放棄の9条が、犯罪である戦争をなくす唯一の方法である。日本は、そうして国際社会に認知されたものである。9条はアジア諸国民への永遠の公約でもあるのだ。武器弾薬で幸せは来ない。
 幣原もマッカーサーも正しかった。9条は世界に冠たるもの、最高峰のものである。

2015年11月21日記(ジャーナリスト・日本記者クラブ会員)

by めい (2015-11-22 05:39) 

めい

報ステが驚異の大スクープ!憲法9条(戦争放棄)は幣原喜重郎首相の提案であった事が判明!木村草太氏「押しつけ憲法論こそ…
http://www.asyura2.com/16/senkyo201/msg/858.html
投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 2 月 26 日 19:30:05
by めい (2016-02-26 21:04) 

めい

報道ステーション 2016年05月03日 『“憲法9条„ を発案した総理 幣原・マッカーサー会談の真実など』
http://www.asyura2.com/16/senkyo205/msg/536.html

by めい (2016-05-05 06:21) 

めい

「押しつけ憲法」を真っ向から否定する新史料!! 「9条は幣原首相が提案」マッカーサー、書簡に明記 
http://www.asyura2.com/16/senkyo211/msg/163.html
投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 8 月 12 日 11:30:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU

「押しつけ憲法」を真っ向から否定する新史料!!
http://79516147.at.webry.info/201608/article_89.html
2016/08/12 半歩前へⅡ

 ウソをついても一向に恥じない平成のキツネたちが、今の平和憲法を「押しつけ憲法」だと騒ぎ立てる。憲法を改悪して戦前の軍国憲法に戻すのがキツネたちの目的だ。そんな謀(はかりごと)を根本から覆す「証拠」が明らかになった。けさの東京新聞が大々的に報じた。

*********************

東京新聞によると、
 日本国憲法の成立過程で、戦争の放棄をうたった九条は、幣原喜重郎首相(当時)が連合国軍総司令部(GHQ)側に提案したという学説を補強する新たな史料を堀尾輝久・東大名誉教授が見つけた。

 九条は、一九四六年一月二十四日に幣原首相とマッカーサーGHQ最高司令官が会談した結果生まれたとされるが、どちらが提案したかは両説がある。マッカーサーは米上院などで幣原の発案と証言しているが、「信用できない」とする識者もいる。

 堀尾は五七年に岸内閣の下で議論が始まった憲法調査会の高柳賢三会長が、憲法の成立過程を調査するため五八年に渡米し、マッカーサーと書簡を交わした事実に着目。

 高柳は「『九条は、幣原の先見の明と英知とステーツマンシップ(政治家の資質)を表徴する不朽の記念塔』といったマ元帥の言葉は正しい」と論文に書き残しており、幣原の発案と結論づけたとみられている。だが、書簡に具体的に何が書かれているかは知られていなかった。

 堀尾は、国会図書館収蔵の憲法調査会関係資料を探索。今年一月に見つけた英文の書簡と調査会による和訳によると、高柳は五八年十二月十日付で、マッカーサーに宛てて「幣原首相は、新憲法起草の際に戦争と武力の保持を禁止する条文をいれるように提案しましたか。それとも貴下が憲法に入れるよう勧告されたのか」と手紙を送った。

 マッカーサーから十五日付で返信があり、「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原が行ったのです」と明記。「提案に驚きましたが、わたくしも心から賛成であると言うと、幣原は明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました」と結んでいる。

 九条一項の戦争放棄は諸外国の憲法にもみられる。しかし、二項の戦力不保持と交戦権の否認は世界に類を見ない斬新な規定として評価されてきた。

 堀尾が見つけたマッカーサーから高柳に宛てた別の手紙では「本条は(中略)世界に対して精神的な指導力を与えようと意図したもの」とあり、堀尾は二項も含めて幣原の発案と推測する。

 改憲を目指す安倍首相は「(今の憲法は)極めて短期間にGHQによって作られた」などと強調してきた。堀尾は「この書簡で、幣原発案を否定する理由はなくなった」と話す。

*******************
幣原喜重郎
 1872~1951年。外交官から政界に転じ、大正から昭和初期にかけ外相を4度務めた。国際協調、軍縮路線で知られる。軍部独走を受けて政界を退いたが、終戦後の45年10月から半年余り首相に就き、現憲法の制定にかかわった。


「9条は幣原首相が提案」マッカーサー、書簡に明記 「押しつけ憲法」否定の新史料
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201608/CK2016081202000116.html

by めい (2016-08-12 16:53) 

めい

堀尾輝久氏 マッカーサー書簡で“押し付け憲法論”は覆った 注目の人 直撃インタビュー(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/16/senkyo214/msg/279.html
投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 10 月 11 日 15:45:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU

堀尾輝久氏 マッカーサー書簡で“押し付け憲法論”は覆った 注目の人 直撃インタビュー
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/191251
2016年10月11日 日刊ゲンダイ

 改憲勢力で衆参3分の2超を得た安倍首相は悲願の憲法改正に向け、虎視眈々と機会をうかがっている。この臨時国会で憲法審査会を再び動かそうとしているが、安倍が改憲のよりどころとする「押し付け憲法論」をひっくり返す新史料が見つかった。平和憲法の根幹をなす9条を発案したのはGHQではなく、幣原喜重郎元首相だと証言するマッカーサーの書簡だ。憲法制定過程をキッチリ議論すれば、9条改憲派は足場を失いかねない。前提を覆す史料を探し出した東大名誉教授の堀尾輝久氏に経緯や意義を聞いた。

――改憲勢力は「今の憲法は戦勝国の押し付け」との主張を繰り返し、安倍首相は「極めて短期間にGHQによって作られた」と強調しています。しかし、今年1月に国会図書館憲政資料室で発見された史料によれば、戦争放棄をうたった9条はマッカーサーGHQ最高司令官が主導したのではなく、幣原元首相が発案したものだと裏付けられるそうですね。

 僕が見つけたのは、1958年12月に憲法調査会(56~65年)の高柳賢三会長とマッカーサーらによって交わされた書簡です。英文で8通21ページにのぼります。憲法調査会トップとして憲法成立過程を調査していた高柳が、その経緯をマッカーサーに詳しく尋ねたものなのです。この書簡の発見で、幣原発案を否定する理由はなくなったと考えています。

――具体的にはどんな文書なのでしょうか。

 核心部分はマッカーサーがしたためたこのくだりです。

〈第9条のいかなる規定も、国の安全を保持するのに必要なすべての措置をとることを妨げるものではありません。本条は、専ら外国への侵略を対象としたものであって、世界に対して精神的な指導力を与えようと意図したものであります。本条は、幣原男爵の先見の明と経国の才とえい知の記念塔として、永存することでありましょう〉(憲法調査会による和訳)

 交戦権と戦力の放棄は幣原発案であったことを示唆すると同時に、戦力放棄について幣原とマッカーサーの考え方には違いがあったこともうかがえる証言なのです。大学院生時代からフォローしていたテーマなので、発見した時は本当にうれしかった。研究者として久しぶりに興奮しました。

――どういう流れで往復書簡がやりとりされたのでしょうか。

 高柳は大正、昭和期を代表する英米法学者です。会長を務めた憲法調査会は、岸信介外相(当時)が代表者となった議員立法で56年に設立され、岸内閣が発足した57年に始動した。最後の大仕事として58年に渡米し、憲法制定過程に関わったマッカーサーとの面談を計画していたのです。高柳は事前に文書で申し入れたのですが、マッカーサーに固辞されてしまった。  
   
岸元首相の「調査会」トップとやりとり

――安倍首相の祖父にあたる岸元首相は生前、〈憲法調査会で「日本国憲法は改正すべし」という権威ある結論を出させたかった〉という趣旨の発言をしています。調査会トップの高柳会長も改憲派とみなされたのでしょうか。

 誤解されたというか、少なくとも良い印象は持たれなかったようです。どうやら在米日本大使館が横やりを入れ、マッカーサー側に警戒されたようなのです。結果的に滞在中の面談はかなわなかったのですが、高柳はめげずにさらに手紙を送り、学術的な調査であることや詳細な質問項目を伝えた。それでマッカーサーの証言を得ることに成功したのです。そうした一連の経緯も、往復書簡の中に記されています。

――マッカーサーは51年に米上院で9条は幣原発案だと証言しましたが、日本では「信用できない」とする識者が少なくありません。

 さらに突っ込んだ書簡もあります。〈幣原首相は、新憲法起草の際に戦力と武力の保持を禁止する条文をいれるように提案しましたか〉という高柳のストレートな質問に、マッカーサーは〈戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです〉と明快に答えている。続けて、〈首相は、わたくしの職業軍人としての経緯を考えると、このような条項を憲法に入れることに対してわたくしがどんな態度をとるか不安であったので、憲法に関しておそるおそるわたくしに会見の申込をしたと言っておられました〉と結んでいます。この会見というのは、9条が発意された46年1月24日のマッカーサー・幣原会談を指しています。

――押し付け憲法論は空論だということですね。9条改正を目指す安倍首相は論拠を失います。

 安倍政権は9条の発意はマッカーサーによるものだという見解をベースに改憲を訴えていますが、史実は異なります。高柳は憲法調査会の活動のまとめの段階で「憲法第九条――その成立経過と解釈」という論文を発表している。61年のことです。マッカーサーとの往復書簡をベースに、「9条は幣原発案と見るのが正しい」と結論付けているのですが、原文は紹介されていなかった。それが幣原発案説の弱点だったのですが、ようやく原文が見つかった。安倍首相にはぜひとも目を通してもらいたい。

――それにしても、憲法公布70年の節目を迎える今日まで、この重要な往復書簡が日の目を見なかったのはなぜなのでしょうか。

 教育学者である私からすれば、これくらいのレベルの話は憲法学者であれば知っていてしかるべきだと考えていました。これだけ押し付け憲法だと言われているのだから、それに反対する憲法学者が探し出すだろうと思っていたんですが……。憲法成立過程に関わった学者も9条についてはあいまいな立場を取り続けたことが、少なからず影響していると思います。

■反応しない大手メディアに落胆

――そうしている間に改憲派は力をつけてしまいました。

 政府は押し付け憲法だから新しい憲法に作り直さなければいけないと盛んに喧伝する。歴史を知らず、戦争を知らず、そうした世論誘導の中で育った若い世代はその通りに受け止めてしまいかねない。そうした状況だからこそ、教育思想研究者として、後の世代のためにもキチンとしたものをまとめなければいけないと思い、原文を探し続けてきました。

――9条にこだわり続けた理由は?

 原点は戦争体験です。戦時教育を受け、戦争を経て、戦後改革を目の当たりにしました。父親は日中戦争が始まってすぐに戦地に赴き、僕が6歳の時に戦病死した。言ってみれば、僕は「靖国の子」。当然のように軍国少年として育ったんです。それが敗戦すると、教科書を自分の手で黒く塗りつぶさせられた。中学1年生の時でした。価値観が変わる、それも強制的に変えられる。あの衝撃は忘れられません。国家のため、天皇陛下のためと教えられてきた。それが新しい憲法が制定されると、憲法にのっとった教育基本法で個人の尊厳や人格完成という新しい理念を知ることになった。ギャップはとんでもなく大きかったんです。その問題意識は消えなかった。東大法学部で政治思想史を学んだ後、教育学の研究に移り、人間の成長や発達の問題を軸に政治や社会について考えるようになったんです。

――反響はいかがですか。往復書簡に関する論文を発表したのは「世界」(岩波書店)の5月号でした。

 正直言って、期待ほどではありませんね。これまでも教育関係の雑誌に幣原発案説を繰り返し書いてきたのですが、専門誌だというのもあるのか、あまり広がらなかった。今回は補強する原文を見つけ出したので、状況が変わるかと思いましたが、どういうわけか大手メディアは全然反応しませんね。終戦記念日の直前に東京新聞に取り上げられたことで、NHK、韓国KBS、ジャパンタイムズ、赤旗などから取材依頼があったくらいです。今回、メディアの立ち位置についても考えさせられました。

(聞き手=本誌・坂本千晶)

▽ほりお・てるひさ 1933年、福岡県生まれ。東大名誉教授。東大法学部卒業後、東大大学院で教育学博士課程修了。専攻は教育学、教育思想史。東大教育学部長、日本教育学会会長、日本教育法学会会長などを歴任。著書に「現代教育の思想と構造」「教育を拓く」など。安保関連法に反対する学者の会メンバー。

by めい (2016-10-11 20:36) 

めい

幣原喜重郎とマッカーサーとの会談

   *   *   *   *   *

《幣原はGHQにマッカーサーを訪ねます。/通訳もつけず2人で3時間にわたって話し込みました。/マッカーサーに一体何を伝えたのか。/会談の内容を伝える資料が残されています。/幣原の友人が会談の内容を聞き娘がそれを書き残しました。/幣原がマッカーサーに切り出します。/「どうしても天皇制を維持させたいと思うが協力してくれるか」。/マッカーサーが答えます。/幣原が提案します。/幣原が提案したのが「戦争の放棄」でした。/マッカーサーと幣原「大いに二人は共鳴した」と記されています。/天皇制の維持と戦争の放棄を伝えた幣原。/その真意は何だったのか。/天皇制を守ろうとした幣原。/戦争放棄の提案については次のように書き残しています。/「国民が子々孫々その総意に反して戦争の渦中に引き込まれるが如きことなきよう」。/戦争の放棄を提言した幣原。》

   *   *   *   *   *

NHKスペシャル「憲法70年 “平和国家”はこうして生まれた」 2017.04.30
http://o.x0.com/m/481923

うだるような暑さに包まれた国会に14人の議員が集まりました。
初めにちょっと申し上げる事が…。
日本国憲法の誕生前夜憲法改正案の審議を進める秘密の小委員会です。
議論が白熱。
焦点となったのが戦争放棄を定めた第九条でした。
戦後日本の国のあり方を定めた日本国憲法。
第九条で平和の理念がうたわれます。
「国際平和を誠実に希求し」。
実はこの冒頭の条文はもともとの憲法の改正案にはありませんでした。
憲法の草案を作成したGHQ。
マッカーサーは「戦争の放棄」「戦力の不保持」を規定しますが条文に「平和」の文言は入れなかったのです。
では憲法九条の平和主義はどのように生まれたのか。
その経緯をたどる極秘の資料が発見されました。
昭和天皇が敗戦後間もなく勅語で初めて「平和国家」を掲げたのです。
平和国家の理念が広がる焼け跡の日本。
昭和21年1月天皇陛下が6年生だった時の書には「平和国家建設」とありました。
「平和」の文言はどのようにして憲法九条に盛り込まれたのか。
一人の議員が国会で提案した事が分かりました。
平和国家日本の出発点となった日本国憲法。
新たに発掘された資料から憲法第九条が誕生するまでの1年8か月に迫ります。
日本国憲法が施行されてから70年を迎えようとしています。
「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」を掲げた憲法。
中でも大きな柱である平和主義はどのようにして生まれたんでしょうか。
最近資料の公開が進み新たな事実が次々に明らかになってきました。
平和主義を定めた日本国憲法。
その第九条です。
この3つが規定されています。
そして冒頭に「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という条文があります。
この部分は憲法の基になったGHQ連合国軍総司令部の草案にはありませんでした。
では70年前焼け跡の広がる日本で平和の考え方はどのように誕生し憲法に盛り込まれたんでしょうか。
番組では平和国家の出発点となる重要な資料を堀り起こしました。
敗戦から間もない昭和20年9月の出来事です。
日本は降伏文書に調印します。
ポツダム宣言を受け入れ非軍事化民主化を進める事になりました。
2日後9月4日戦後最初の国会が開かれます。
日本は新たにどのような国家を目指すのか。
国会を召集したのは明治憲法で統治権の全てを握っていた昭和天皇です。
天皇は開院にあたって自ら勅語を読み上げました。
「平和国家を確立」。
新たな日本の建設に向けて昭和天皇が「平和国家」という目標を初めて掲げたのです。
歴史学者の和田春樹さんはこの「平和国家確立」の勅語が敗戦から間もない日本に大きな影響を与えたと考えています。
天皇の「平和国家」の勅語はどのようにして出来たのか。
重要な資料を私たちは去年発見しました。
勅語が出来るまでの極秘の草案です。
何度も修正を繰り返して作成された事が初めて明らかになりました。
草案は第1案から第4案まであります。
その第1案。
ここに「平和国家」の文言はありませんでした。
示されていたのは「国体の護持」です。
国体天皇を中心とする国のあり方を護る事は政府の最大の課題でした。
ところが第2案では「国体の護持」が消されます。
続く第3案で加筆されたのが「平和的新日本を建設」。
ここに「平和」が初めて登場します。
書き加えた人物も分かりました。
首相の東久邇宮稔彦です。
戦後最初の首相となった皇族の東久邇宮。
内閣や宮中に諮りながら草案を編み出しました。
なぜ「平和」の文言を勅語に加えたのか。
東久邇宮は「平和国家」の勅語が示された同じ国会で演説しています。
日本がポツダム宣言に従って非軍事化民主化を進める事を強調しようとしたのです。
昭和天皇の「平和国家」の勅語にいち早く反応した憲法学者がいました。
勅語を報じた記事を切り抜いて大学の講義に用いていました。
東大教授の宮澤俊義です。
後に政府の下で憲法改正に取り組む宮澤は平和国家に着目。
敗戦直後の9月「武装解除と平和主義」について講義を行っていました。
「原子爆弾のようなものが発明された今日戦争を行うという事はどう考えても無意味である」。
宮澤は「武備なき国家」を戦後日本の姿として思い描いていました。
焼け跡の日本に広がる平和国家の理念。
文部省は9月15日に「新日本建設の教育方針」を発表します。
その柱が「平和国家の建設」でした。
昭和天皇が掲げた目標は敗戦から僅か1か月で教育現場でも大きな方針となったのです。
長年憲法の制定過程を研究してきた古関彰一さん。
「平和国家」の理念は新しい天皇の姿を世界に伝える重要な意味があったと言います。
戦前の大日本帝国憲法いわゆる明治憲法では天皇は陸海軍を統帥する大元帥であり国際社会から厳しい目を向けられていました。
昭和天皇は海外に平和国家のメッセージをどのように伝えたのか。
戦後初めて天皇と会見した外国人がいます。
クルックホーンさんの叔父は新聞記者でした。
従軍記者だったフランク・クルックホーン。
9月25日昭和天皇に会見しました。
家族のもとに残した回想録が非公開のまま眠っていました。
回想録には宮中の表拝謁の間で会見した時の天皇の言葉が記されていました。
この会見の記録が宮内庁に残されていました。
クルックホーンの事前質問に対する昭和天皇の英文の回答文書です。
非武装の平和という昭和天皇の回答。
英文の回答を書いたのは戦前外務大臣を務めた…幣原の晩年共に暮らした孫の…戦前軍縮条約を結んだ幣原は軍部から軟弱外交と批判されました。
昭和天皇はクルックホーンとの会見の2日後9月27日マッカーサーを訪ねます。
天皇は「平和の基礎の上に新日本を建設する」事を伝えました。
天皇が占領政策に協力する事を確認したマッカーサー。
日本政府に憲法改正を促していく事になります。
昭和天皇と側近たちもいち早く憲法改正に向けて動き始めます。
3年前に公開された…天皇と憲法の関わりが明らかになりました。
従来は敗戦直後の日本政府は憲法の改正に消極的だったと考えられてきました。
ところが敗戦の1か月余り後9月21日の昭和天皇の記述です。
憲法改正問題について調査を依頼していたのです。
白羽の矢が立ったのが戦前首相を務めた近衞文麿です。
天皇の下近衞はどのような憲法改正を目指していたのか。
当時近衞が持ち歩いていた手帳を初めてテレビで撮影しました。
手帳からは「民主主義の意味」と題したメモ書きが発見されました。
「国民多数の意向に従った」「君民一致」こそ新しい憲法にふさわしいと考えていました。
近衞は天皇の軍の統帥権など大権を制限する事で明治憲法の改正を進めようとしていました。
しかし同じ時期に近衞とは別の憲法改正調査が始まります。
新たな首相に幣原喜重郎が選ばれました。
幣原は内閣に憲法問題調査委員会を設置します。
元東大教授の松本烝治国務大臣を委員長に憲法の改正調査に乗り出しました。
ここに憲法改正は天皇の意向を受けた近衞と幣原内閣による調査が並行する事になりました。
ところがこのころ近衞を戦犯容疑者として訴追しようとする動きが進んでいきます。
東京裁判に向けてGHQが戦争指導者たちを次々に逮捕します。
この間「昭和天皇実録」によれば天皇は「近衞文麿による憲法改正調査」を気にかけその進み具合を何度も確認していました。
12月軍や政府の首脳に続いて皇族の梨本宮が逮捕されます。
更に近衞に逮捕令が出されました。
出頭当日近衞は服毒自殺しました。
近衞の死によって昭和天皇の下で始まった憲法改正の調査は挫折したのです。
ご覧頂いたように敗戦後間もなく昭和天皇は「平和国家の確立」を勅語で示しました。
平和国家という新たな目標は焼け跡の日本に広がりその後の平和の考え方に大きな影響を与えた事が分かってきました。
更に昭和天皇が早くから明治憲法の改正に向けて動いていた事も明らかになりました。
改正のための調査を命じられたのは元首相の近衞文麿でした。
しかし近衞の憲法改正はその死によって挫折します。
憲法改正の調査は幣原首相の下憲法問題調査委員会が担う事になりました。
こうした中マッカーサー率いるGHQは日本政府に憲法改正を促し注視していました。
次は敗戦の翌年戦争放棄の条文がどのように生まれたのかGHQと幣原内閣の憲法を巡る交渉を見ていきます。
元日に昭和天皇はいわゆる人間宣言を行います。
天皇を「現御神」とする神格を自ら否定しました。
GHQは平和国家に向かう日本の動きを注視していました。
それを示す記録がアメリカ国立公文書館に眠っていました。
アメリカ陸軍が撮影した記録アルバムです。
幣原内閣昭和天皇の動向などが報告されています。
学習院の授業風景です。
天皇陛下が初等科6年だった時の書の写真がありました。
写真のキャプションには新年の「書き初め」と記されています。
「平和国家建設」。
平和国家の理念が日本に広がりつつある事をアメリカは把握していたのです。
一方アルバムには東條英機ら戦犯容疑者の姿があります。
東京裁判の開廷を前に昭和天皇の戦争責任を追及する声が国際社会にありました。
こうした情勢を受けて幣原首相が動きます。
幣原はGHQにマッカーサーを訪ねます。
通訳もつけず2人で3時間にわたって話し込みました。
マッカーサーに一体何を伝えたのか。
会談の内容を伝える資料が残されています。
幣原の友人が会談の内容を聞き娘がそれを書き残しました。
幣原がマッカーサーに切り出します。
「どうしても天皇制を維持させたいと思うが協力してくれるか」。
マッカーサーが答えます。
幣原が提案します。
幣原が提案したのが「戦争の放棄」でした。
マッカーサーと幣原「大いに二人は共鳴した」と記されています。
天皇制の維持と戦争の放棄を伝えた幣原。
その真意は何だったのか。
天皇制を守ろうとした幣原。
戦争放棄の提案については次のように書き残しています。
「国民が子々孫々その総意に反して戦争の渦中に引き込まれるが如きことなきよう」。
戦争の放棄を提言した幣原。
幣原の下憲法改正調査を進めていた委員会でも平和国家の理念を新しい憲法に盛り込もうとする憲法学者がいました。
宮澤俊義です。
昭和天皇の「平和国家」の勅語を受けて東大で講義を行っていたあの人物です。
極秘の委員会の議事録から宮澤らの主張が明らかになりました。
「潔く裸になって平和国家としてやっていく」。
宮澤は明治憲法で天皇の軍の統帥権を定めた第十一条など軍の規定を全面的に削除すべきだと主張しました。
しかし宮澤らの主張は軍の規定を残置残しておくべきだという主張とぶつかります。
反対の中心となったのは委員長の松本国務大臣。
明治憲法の改正には消極的でした。
政府が作成を進めていた憲法改正案がスクープされます。
天皇を中心とする君主主義はそのまま認められていました。
GHQは直ちに条文を分析し「極めて保守的」と批判します。
マッカーサーはGHQが憲法の草案を作成する事を決断します。
マッカーサーが急いだ背景には極東委員会の存在があります。
連合国の日本占領の最高機関として2月下旬に発足しGHQを管理する事になっていました。
極東委員会にはソビエトやオーストラリアなど天皇制に厳しい意見を持つ国も加わっていました。
マッカーサーは新たな憲法の基本原則を自ら示します。
いわゆるマッカーサー・ノートです。
そこに後の憲法九条につながる「戦争の放棄」が定められました。
マッカーサーは戦争の廃止そして戦力の不保持交戦権の否認を打ち出します。
更に「自己の安全を保持するための」戦争つまり自衛戦争を否定しました。
マッカーサーはGHQ民政局に1週間で憲法草案を作成するよう命じます。
戦争放棄の条文を担当したのが…ケーディスは自衛戦争を否定した箇所を削除したといいます。
その理由を生前証言しています。
ケーディスによる修正です。
自衛戦争を否定した箇所が削除されます。
新たに「武力による威嚇または武力の行使」が加えられました。
これにより侵略戦争を明確に否定したのです。
GHQ草案が完成します。
新しい憲法草案では多くの人権規定が盛り込まれ天皇は象徴とされました。
翌日GHQは憲法草案を日本側に示し次のように伝えました。
日本政府はGHQ草案を受け入れます。
条文の検討が行われ政府による帝国憲法改正案の作成が進められる事になります。
4月戦後初の総選挙が行われ吉田茂が首相となります。
憲法改正案の条文についていよいよ衆議院で審議が始まろうとしていました。
ご覧頂いたようにGHQ草案を基に「帝国憲法改正案」が作られました。
第九条の基になった条文です。
幣原首相が提案した「戦争の放棄」はGHQによって憲法に規定されました。
GHQのケーディスが「武力による威嚇または武力の行使」を加えて侵略戦争を明確に否定しました。
これは「国連憲章」から引用しています。
そして「戦力の不保持」「交戦権の否認」も規定されました。
こちらは日本国憲法の第九条です。
冒頭には「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」とあります。
ところがこの条文は改正案にはありません。
ではどのようにして生まれたんでしょうか。
実は衆議院の小委員会で国会議員たちが熱い議論の末に書き加えた事が新たな資料から分かってきました。
国会で帝国憲法改正案委員小委員会が始まります。
出入りが厳しくチェックされる秘密会でした。
小委員会の議員は14人。
各政党から法律の専門家らが集まりました。
およそ1か月にわたって憲法の条文を巡り議論を戦わせます。
秘密会だったその記録は戦後50年間封印されていました。
近年速記録が公開されます。
日本人の手で多くの条文が追加修正された事が分かりました。
第二十五条の生存権。
第二十六条義務教育の中学までの延長。
そして第九条。
この小委員会で「平和」の文言が加えられた事が明らかになりました。
九条の「平和」について提言したのは日本社会党の鈴木義男です。
後に司法大臣となる鈴木義男。
その主張は九条の冒頭に「平和を愛好する」という文言を追加する事でした。
ほかの議員からも賛同の声が上がります。
犬養毅首相の息子で後に法務大臣を務めます。
なぜ鈴木は「平和」の文言にこだわったのか。
法学者だった鈴木に影響を与えたのは第一次世界大戦後のヨーロッパとアメリカの留学体験です。
人類初の世界戦争となった…戦死者は1,000万人近くに上りました。
大戦後講和会議が開かれ平和を求めて国際連盟が設立されます。
鈴木は国際協調と戦争を違法化する新しい考え方を学びます。
帰国して東北帝国大学教授となりました。
しかし鈴木を待っていたのは軍国主義へ向かう日本でした。
教育現場に軍人を配属して軍事教練の強化が進みます。
この動きを鈴木は「殺人術を教える」と反対し新聞で訴えました。
「人類文化の理想が平和にある」。
辞職に追い込まれて弁護士となった鈴木は治安維持法違反に問われた人々の弁護に取り組みます。
戦争に突き進む時代の中で無罪を主張しました。
同じ頃日本は旧満州中国東北部に進出。
国際的な孤立の道を歩みだします。
国際連盟の勧告に反発した日本は連盟を脱退しました。
再び起こった世界大戦。
太平洋戦争では日本人だけで310万人が犠牲となりました。
なぜ2度の世界大戦を防げなかったのか。
その反省から…国際社会が協力して平和を維持しようとする動きが生まれました。
鈴木義男は国際連合が誕生していく世界を見つめていました。
戦後国会議員となった鈴木は発言しています。
国際関係史を研究する油井大三郎さんは鈴木義男の孫です。
九条に「平和」の文言を追加するよう主張した祖父の真意を問い直しています。
2度の大戦を経て国際平和に動き出した世界に日本が積極的に参加すべきだという鈴木の提案。
この提案を芦田委員長が受け止めました。
外交官出身の芦田均。
戦前軍部を批判するなどリベラルな政治家として知られていました。
芦田はある資料を持ち出します。
この時芦田たちが手にしていた外務省の資料。
私たちはこの資料を発見しました。
外務省は憲法の修正がどのような国際的な影響を及ぼすかを考察し注意を伝えています。
国際法規は憲法と共に尊重するよう求めていました。
なぜ外務省は国際法規にこだわったのか。
資料を作成したのは条約局長の萩原徹だった事が分かりました。
この資料を提出した理由を萩原は報告書に残していました。
戦前大陸に進出して国際連盟を脱退した日本の外交を「ドンキホーテ式外交」と指摘。
日本の伝統的な外交を破壊したと考えていました。
この資料から憲法改正への外務省のなみなみならぬ期待を油井さんは読み取ります。
「ドンキホーテ式外交論の基調をなしていたものであるから」。
「新日本が国際秩序の中にのみ存在し得る」。
萩原は新たな憲法で日本を国際秩序の中に位置づけたいと考えていました。
外務省が小委員会に提出した資料です。
「条約」「国際法規」に加え鉛筆で「これを誠実に」「遵守する」事が記されています。
これを受け憲法第九十八条に第二項が追加されます。
更に小委員会では芦田委員長がこの外務省の資料を九条の修正に生かそうとします。
各党の委員が争うように条文を提案します。
党派を超えて次々に条文の提案が出されました。
2日後の7月29日。
再開された小委員会の冒頭で芦田委員長が一つの案を示します。
鈴木が最後の「声明す」の削除を求めました。
憲法九条の平和主義が誕生しました。
こうして今から70年前に日本国憲法は誕生しました。
その第九条です。
第九条の冒頭の条文は衆議院の小委員会で加わりました。
鈴木義男の発言そして国際秩序条約の遵守を求める外務省の意向を受け14人の国会議員が党派を超えた議論の末に生み出した事が新たな資料から明らかになったのです。
それは国際連合へと歩み始めた世界の動きを見据え日本が積極的に平和を担おうとする考え方から生まれたものでした。
こうして誕生した平和国家。
そこには多くの犠牲者を出した先の大戦への反省の念が込められていたのです。
「国民主権」「基本的人権の尊重」そして「平和主義」を掲げた新たな憲法。
鈴木義男は新憲法を解説した本で次のように述べています。
敗戦の焼け跡から平和国家として歩み始めた日本。
日本国憲法は今年施行から70年を迎えます。
2017/04/30(日) 21:00〜22:00
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「憲法70年 “平和国家”はこうして生まれた」[字]

日本国憲法の施行から70年。平和主義の出発点が新たな資料で明らかになった。昭和天皇の平和国家確立の勅語に始まり、衆議院での議論を経て第九条が誕生するまでを描く。

詳細情報
番組内容
日本国憲法の施行から70年。平和主義の出発点が新たな資料で明らかになった。昭和20年9月、昭和天皇は勅語で平和国家の確立を明らかにした。しかし、GHQ草案の条文には平和の文字はなかった。その後、衆議院の小委員会で鈴木義男議員の発言を機に議論があり「国際平和を誠実に希求」する条文が第九条に盛り込まれたことが明らかになった。番組では速記録をもとに小委員会をドラマで再現。“平和国家”誕生の舞台裏に迫る。
出演者
【出演】鶴見辰吾,斉藤洋介,阿南健治,【キャスター】武田真一,【語り】中條誠子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – 報道特番

by めい (2017-05-03 06:14) 

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