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韮崎行(3)堀 秀成のこと [神道天行居]

堀秀成肖像 .jpg

ホテルのロビーにあった韮崎市ふるさと偉人資料館第6回企画展「韮崎の礎を築いた偉人たち—未来の韮崎を創造—」のチラシに驚いた。「★峡北地方に学問の種を蒔く★堀 秀成 1819(文政2)年〜1887(明治20)年」とあったのだ。堀 秀成については、錦 仁『宣教使堀秀成 だれも書かなかった明治』(三弥井書店 平24.12)に目を通したことがあったからだ。


錦 仁新潟大学名誉教授は南陽市赤湯出身、錦三郎先生の次男で錦啓先生(筆名天見玲さん)の弟さんです。私の高校同級生で中学時代から知っていますが、一際抜きん出ていました。山形新聞書評欄でこの本を知りました。


関心を引いたのは同級生の著ということもありますが、「堀秀成」という名前が友清歓眞全集で見おぼえがあったからです。調べると『友清歓眞全集』2巻の中の『石門漫録』にありました。30歳足らず若き宮地水位先生と名のある堀秀成先生60歳とのいい交流が友清先生の筆によって紹介されています。貴重な文章に思え、この記事の最後に写しておくことにします。


それにしても韮崎が堀秀成と関係ある土地とは全く知りませんでした。『宣教使堀秀成』にも韮崎についてはとくに言及はありません。ネットで見て、幕末のころ3040歳にかけて甲斐の国にたびたび滞在、韮崎にもすぐれた文人を育てていたことがわかりました。以下の記事です。


韮崎市の歌人 教育家 栗原信利・保信と 堀秀成

 

(肖像写真は『宣教使堀秀成 だれも書かなかった明治』からです。明治13年61歳の時の撮影で唯一の写真だそうです。昭和19年版【古河史跡写真帖』からです。)


   *   *   *   *   *


堀秀成と韮崎


堀秀成(一八一九~一八八七)は通称を内記・八左衛門、号を琴舎と称した。安政三(一八五六)年にそれまでの茂足を改めて秀成を称した。

富樫広蔭らに学び、嘉永四(一八五一)年に駿河国江尻から甲斐の市川に卜居し苦学していた。『蘿蔓』『榎の板屋』『稲種考』『萩の上風』『三種類辞衣』『文千経一絲』『古道提綱』などを著わし名を知られるようになった。安政三(一八五六)年には御岳神官らの請によってその社中に滞在し、翌四年には景山源烈公の召しによって出府し、古事記ならびに音義を進講して八月甲斐国に帰った。このようにして堀秀成の影響は甲斐の国学・神道・国語学・歌学に及んで行くのである。それにしても掘秀成はいつごろから韮崎周辺の人々と関係を持つようになったのであろうか。これを証拠立てるものとして、穴山町の栗原家に所蔵されている『仮字本義考』堀秀成著の識語がある。


安政四巳年五月二十五日草稿を起し、いとまにかき継ぎて閏五月十三日畢。同十四日より中清書をはじめて、同十九日夕までに畢る。かくて同二十日の朝調べて朱書を入、猶いとまをえて校正すべし。   堀秀成


おなじ年の葉月大人の江戸におもむかせ絵ふとききて珍らかなる考えにしあらば、吾国にも壱巻だにとどめまほしくて、ことしげかりけるをりなれども、十八日の午時はじめ夜さへうつして廿日の巳のときばかりに終る   源保定

 

この識語によって、国学に情熱を抱く保定が、秀成の学問をひたすらに学ぼうとしたのは、安政四年(1857)の八月以前であったことがわかる。秀成の出府が六月であったから、それ以前であったとも思われる。また、藤原茂男家所蔵の『神名考』には次の識語がある。

 

安政三辰年二月廿六日草稿、同三月三日四日再改。同五月中清華堀八左衛門茂足。

 

茂足という改名は、『神名考』著述以後行われ、改名以前から峡北の国学者と接触があったとも推定できようが、やはり栗原保定との出会いは安政四年ごろと見るのが穏やかである。

 

いかなるゆかりなりけむ栗原ぬしに一たびのたいめ給りてはあやしきまでにしたはしくて

  秋さらばまたもとひこむ栗原にゑみてまちませやどのみつくり 秀成

 

知己を得た秀成は、穴山村の城濠院で塾を開くに至った。韮崎市に及ぼした秀成の影響は、栗原家・藤原茂男家・長坂九十郎家・生山家などに所蔵されている秀成の著書の多いことに明らかで、また、秀成の色紙や短冊も数多く珍蔵されている。

 

  みみなしの山をともしくおもふ日のひごとのごとくなれる比かな 秀成

  打わたす竹田の原のはつ霞まつひとふしのながめなるらん     〃

  みつよりのなは打かけて穴山の郷をむさしに引よしもがな     〃

よしの山のかたに

  見ればかつなみだにくもるよしの山てる日かくりしむかしおぼえて 〃

復古世

  はまかぜのふきあれてこそしら浪のむかしにかへる世とはなりけれ 〃

 

   *   *   *   *   *

 

和歌がふんだんに出てきます。『宣教使 堀秀成』のあとがきにこうあります。

《秀成はいつでもどこでも歌を詠んだ。美しいものにふれるとたちまち心が動いて一首の歌が生まれる。国学者は歌を大切にした。「古今集」仮名序によれば、歌は天地の関闘から存在した。神たちは歌でもって心を表現していたが、やがて人間に伝えられ広まったという。歌は神から人へ伝えられ、長い歴史を経て「古今集」の時代になり、今日へと続いている。/ということは、和歌は日本の歴史を体現しているのである。和歌を詠むと、神世以来の日本と我が身とが一体化するから尊重されたのである。》407p

和歌を詠むことで「共感の体系」に参入することになるのです。日本の文化の基本的な在りようだったのかもしれません。南陽市での貴重な体験が紹介されています。この地でも和歌は庶民の暮らしの中にしっかり根付いていたことの証言です。

《山形県で体験した興味深い出来事を紹介しよう。帰り道の(明治十五年)十一月十五日、朝食をとるために南陽市赤湯の高嶋要助家に立ち寄った。休んでいると、隣室から「古今集の会読といふことするこゑ」が聞こえてくる。興味をおぼえて、仲居の女に歌をもたせて送ってみた。「へだてゝはいとゞゆかしく思ふかなことばの花のかをりもれきて」。すると、その女を介して、「やさしくも高きあたりにつたへけむかをりもあらぬ松のあらしを」と返してよこした。秀成の「ことばの花のかをり」に、「かをりもあらぬ松のあらし」と応えている。「やさし」は、恥ずかしいの意。おのれの分をわきまえた謙虚な歌である。/会ってみると、五十歳と三十歳ばかりの三人であった,「自分たちは、ここより二、三里ほどの片山里に住んでおります,教えてくれる先生もいませんが、温泉に入りながら夜も昼も「古今集」を読んでみようと思いたちまして、おとといから泊まっております」という。そして、「私たちの志を汲んで、二、三日お泊りになって教えてくださいませんか」と頼んだが、秀成は急ぐ旅ゆえとことわった。/この旅館は今の「御殿守旅館」であろうと思われる。昔は米沢藩主上杉鷹山(治憲 一七五一〜一八二二)の別荘であった。ここに泊まるのは一般に上客だから、かれらは地方の有産・知的階級と思われる。刈り入れが終わって骨休めを兼ねてやってきた村長クラスの農民だろうか。いずれにせよ庶民階級に属するといってよいだろう。「古今集」は、明治十五年の山形の「片山里」の人々にも愛好されていたのである。ふつうの人々の生活の中で、楽しまれ、読まれる文学として存在していたのであった。そして、ごくふつうに贈答歌の作法をふまえて優雅な歌のやりとりをすることができたのである。/私たちは、正岡子規の「歌よみに与ふる書」(明治三十一年二〜三月)に記された有名な「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候」という一文をすぐ思い浮かべる。「古今集」は明治になって否定され抹殺されたと思ってしまうが、少なくとも明治十五年ころまでは地方でも読まれていた。江戸時代からの風流な文芸・文化がそのまま生きていたのである。/都の文化は東北の片田舎にも広く浸透し定着していた。秀成はそういう東北をも体験したのである。》309p

この話はだいぶ前、お兄さんの錦 啓先生が書かれた山形新聞「日曜随想」で知って、すごいことだと思ったものでした。いまでは想像もつかない文化の香りがこの地にも立ちこめていたのです。イザベラバードはこの年の4年前にこの地を通っています。「繁栄し、自立し、その豊かな大地のすべては、それを耕す人々に属し、圧制から解き放たれている。これは、専制政治下にあるアジアの中では注目に値する光景だ」と記したイザベラバードも、堀秀成が感じたと同じ文化の香りを置賜盆地に嗅ぎ取っていたのでしょうか。鷹山公没して60年、まだ鷹山公善政の名残りもあったかもしれない時代です。ちなみに、三人が住む「ここより二、三里ほどの片山里」といえば、南陽市の吉野地区であろうと推測します。

 

錦仁教授はこの著の前になぜ和歌(うた)を詠むのか―菅江真澄の旅と地誌(笠間書院 平23)を上梓しています。新潟大学人文学部阿部賞を受賞し、評判が高かったのでしょう、平成27年にペーパーブックスとなって再版されています。受賞の選考理由の中に、一、和歌とは、古来、天と地を結び、天皇・藩主と民衆をつなぐという思想が、実は、菅江の和歌に明確に認められる、/二、和歌の思想はそれにとどまらず、都と国土の関係にも及び、和歌に詠われることによって「辺境」もまた国土の中に正しく位置づけられる》ことを明らかにしたとあります。和歌は日本人の暮らしに切り離せないものであったことを、菅江真澄の記録を通して読み解いた本のようです。またつい注文してしまいました。

 

韮崎行、思いがけない方向に発展してしまったようです。「神道天行居」のカテゴリーに入れておくことにします。

 

以下は堀秀成に関わる友清歓眞先生の御文章です。

 

   *   *   *   *   *

 

 わが国の神典を普通の理論的研究の態度で考へることは根本から誤りである。実は千二百年前記紀編脩当時すでに当局学者の間に其の弊があった為めに余りに奇怪に見えた伝へは殆んど削られ、ことさらに話の辻棲を合せるやうに努力した為め大いに古意を損したが、それでも古伝の大概は甚だしく傷けられずに伝へられて地上文献の至宝となったのであるが、それを更らに又た欧米に行はれる古代史研究の方法等を以て勝手にとぎほぐして行っては古義の模様は消えて行くばかりである。

 閑談を一つ。

 明治十年頃宮地水位先生が堀秀成翁と阿波国で面会せられたとき小松島で神道の講演会を聞かれたことがある。そのとき水位先生はまだ三十歳足らずの青年、堀翁は六十歳位ゐであったが其の二人が講師であった。(堀秀成翁は下総国古河の人、富樫広蔭の門人で制度の学を修め特に音韻言語の学に長じ著書百有余部あり、伊勢神宮の学館にも教鞭をとられしことあり。)

 うす暗いランプに照らされた会場で、盛んに神界に出入して居られた時代の青年神道家水位先生と雄弁自在の堀翁との登場は面白い対照であった。その時に堀翁は議論と実際とは大いに異るといふことを講演されたのであるが、水位先生は大いに感服せられて其の要旨を直ちに筆記されようとした。年少でこそあれ既に其頃多数の門人もあった水位先生として同じ講師として壇に立たれながら他の講師の説を筆記しようとせられたといふことは水位先生の謙虚無我な美はしい性格がよくあちはれて居るやうである。然るに堀翁は其れをみて、それはやめたまへ、私が昨年八月二十八日永井従五位殿の邸に於て今日の話と同じことを講演し其時の考録が此処にあるから進呈するとのことで数葉の冊子を水位先生が貰ひ受けられた。その要点を次ぎに抄出する。


  凡そ議論を先にする者は実際に後る、議論を主とする者は打聞きては高尚に似たるも猶死物たる

 を免れず、実際を主とする者は高 尚なるところはなくとも活物なり、然れば議論と実際とは死活

 の違ひある如し、然れども其の議論よく実際に施すによろしきあり、 又た議論上にては宜しきに

 似て実際に施す能はざるあり、英人は実際を先とし 仏人は議論を先とすと云ふ、今や日本にも学

 者論 といふものありて実用に甚だ迂遠なる論あり、たとへば信玄謙信両将の如きは甲越両流兵学

 の模範 となると雖も確く格を守りて実效に於ては織田豊臣両公の下に相列ることだに難し、此の

 両公の如きは其の戦法を取て兵家の範則と為すこと無しと雖も機に応ずるの妙に至りては他に比す

 べきもの無し、然れば武田上杉の戦法は死物に近く織田豊臣二公の戦法は最も活物と云ふべし、議

 論の理に 適へるも実際の用に適ひ難き此類なるべし、猶云はば世に行はるる西洋画といふものの

 甚だ真に適 へる如きも見るままに活機を生ずるの味はあらず、東洋の文人画の如きものは打見て

 は異体にして 怪物を描ける如きものながら見るままに活機を生じ筆力の顕はれて自然の真味を呈

 露するの域に至るものなり、彼の西洋画は議論に比すべく、東洋画は実用に比すべし、すべて議論

 に走るものは遂に偏僻に落る失なきこと能はず、宋の孫甫に或人名硯を贈る、其値千金と云、孫甫

 云、此硯何を以て千金の値ありや、或人答、此硯は墨を磨んとして息を以て呵すれば水流るるなり

 と、孫甫云、硯一日に一担の水を尽すとも水の価何か有らんと云へり、これ然るべき言には聞えた

 れど然云ふときは文房具を感玩する雅味と云ふものなく風情といふものも失せて只だ偏僻なるもの

 とのみなれるをや、茲に取降したることながら一の物語あり、元禄の頃市川海老蔵沢村宗十郎とい

 ふ名だたる俳優あり、或時大仏供養といふ狂言を為さんとて海老蔵は悪七兵衛景清の役、宗十郎は

 畠山重忠の役と定まる、然るに其狂言の稽古の間悪七兵衛景清は衆徒の姿となり長刀を掻い込みて

 重忠の幕の前を通りて花道まで至るところを重忠声をかけて景清待てといふところを宗十郎重忠に

 なりて景清待てと声をかくるに其気合真を得ずとて海老蔵の意に適はず、それにては景清の驚きて

 振り向く調子が出ずとて数日同じところを稽古すれども折合はずして遂に初日となる、楽屋の人々

 も甚だ心配したれどもやむことを得ずしてそこの幕となる、然るに景清は花道を過ぎて小幕の前に

 近づけども重忠は声をかけず、間合度を過ぎたれば俳優の仲間は更にも云はず見物も不審に思ひ居

 たり、景清今は為方なく小幕の内に入りたるところを思ひがけず景清待てと声をかけられて実に驚

 き小幕より半身をあらはして重患の方を睨みたるが、設けたる狂言にはあらずて実事となりたれば

 見物の人々も其の気合に感じて其狂言大いに当りて盛んなりしと云ふ、彼重忠の宗十郎、景清の海

 老蔵互ひに言ひ合せて業を合せたらんには其度はよく節に適ひてあるべけれど此実事には遠くして

 死物なるを其度を放したるところより却て実に至りて活物とはなれるなり、議論のよく条理に合へ

 るも却て死物になること多きは此等の事にて思ひ知るべし、議論と実際とを死活に比して如此並べ

 たるは他ならず、議論書といふものと我が神典とを合せ言はんが為めなり、然るは議論書といふも

 のは打見ては宜しく道理にも適ひたるやうなるを神典と云ふものは甚だ幼なく道理にも適はぬ事も

 雑るやうに見ゆるものなり、然れども議論書は其の書ける人の見識を規とし、つとめて道理に適ふ

 やう書けるを、神典は神代より伝はり来りし故事を在りのままに、人智を以て慮るときは道理に適

 はぬやうに一応思はるる事をも記者の意を放れて伝はりたる事実のままに記したるものなれば人智

 を以てみるときは甚だ不審(イブカ)しく見ゆる事のあるが、やがて凡人の心もて記せるものなら

 ざる明証なりかじ、其の幼なく見ゆるところ却て活物たる所以なるぞかし、又た道理に適はぬ如く

 覚ゆるも小なる人智を以て然思はるる迄にて深幽なる神理を究めて見むには今日顕明の上に於て道

 理に適はざる如く見ゆるものは顕明に相反したる幽冥中の道理に適へるものなるぞ、明かに顕幽の

 分を辨へ然して其の大活眼を開きてこそ我神典は見るべきものなれ、然れども此等のことは簡単に

 つくし難きことなれば席を重ねて述ぶべし。



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