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この師ありてこそ——田島賢亮(1) [田島賢亮]


芸文なんよう 表紙.jpg

南陽市芸術文化協会の機関誌に書かせていただいた。原稿依頼あったのが昨年10月頃だったろうか。ちょうど宮内小学校の先生方に「宮内の歴史と文化を子ども達にどう伝えるか」ということで語った余韻が残っていて、「田島先生のことをまとめてみたい」とすぐその場で思った。依頼する方はせいぜい2〜4頁ぐらいのつもりだったはずだ。それが、須藤克三、芳武茂介、小田仁二郎を個別に取り上げたことで当初の倍に増えて、かえって迷惑をかけてしまったようだ。来年度に半分まわそうかという案も出たそうだが、今号に一挙掲載されることになったのはほんとうにありがたかった。ていねいにルビも振っていただいた。書いている間、読んでくれそうないろんな人の顔が思いうかんだ。それだけに、かなり力が入った。5冊いただいたので、田島先生の奥さんの実家に2冊届けてきた。一冊は田島先生の息子さんに届くはずだ。


(←表紙の絵は、手塚道夫さんの「雪解けの街」)


*   *   *   *   *


はじめに


 宮内双松公園、石の鳥居をくぐって琴平神社へ向う石段の左手、少し入ったところに、「辛夷(こぶし)咲くわが家 よるひるのわが家  絹亮」という句碑があります。裏面の碑文、

賢亮句碑.jpg

 「田島絹亮先生は南陽市漆山、医師徳弥、かやの二男として明治三十一年三月生れ。大正四年山形師範学校に入学。来形された俳壇の巨星河東碧梧桐先生より『東北に絹亮あり』と讃えられ自由律俳句に傾倒。師範学校卒業後宮内小学校に奉職。全身全霊を傾け大正デモクラシーの教育を実践。すぐれた作家、歌人、俳人、工芸家等を育てられ国学院大学卒業後、希有の教育俳人として名をあげられながら常に郷里を深く想い宮内に煌めく文化の灯を点じられたが昭和五十八年他界されたので此処に句碑を建立し 永く先生の徳を偲ぶことにした。 昭和六十三年九月吉日  建立委員会  大竹俊雄」

 碑建立の中心を担った大竹俊雄は、教育に生涯を捧げることになる田島賢亮(絹亮)の最初の勤務校宮内小学校での、最初の教え子でした。大竹は当時三年生、師と仰ぐ田島との交遊は賢亮が亡くなるまでつづき、大竹の真情溢れる師への思いは『大竹俊雄 北汀叢書 全』(平成六年 南陽文化懇話会)で知ることができます。


「教育は感化」


肖像.jpg

 田島賢亮が宮内小学校に勤務したのは、大正八年十月から十年三月までの一年半でした。

 「私が長い教員生活の間に、大げさにいえば、命をかけて教育をした学級、ないし学年、また学校は、大体五・六をかぞえるのですが、その中の一つが宮内小学校における五年生甲組への教育でありました。

 私が俳人として世に名をあげたのは大正七年、八年に至り、滝井孝作、芥川竜之介、菊地寛、志賀直哉というような人々から、私独特の持ち味が認められて、小説家への転向をすすめられたのが同八年、したがって宮内小学校における生徒への授業や指導もまた単に形式的な常規にのっとらず、奔放自在、闊達不覊、燃えるが如き情熱を傾倒して全生徒の学力の増進に力をもちいたことはいうまでもなく、特に個々の持つ天性の発掘伸長に全力をあげたのでした。」(『百年のあゆみ』南陽市立宮内小学校 昭和四十七年)

宮内小授業.jpg

 賢亮二十一歳、この当時すでに自由律俳句の世界で名を成していたのです。宮内の人々がこのことを知るにつけ、若き田島先生を仰ぎ見る思いはいかばかりであったことか。教室での授業の様子の写真が残ることからもその注目度がうかがえます。妙齢の女性が教室の先生に花を届けた話も伝わります。先生を慕うのは担任の生徒にとどまらず、高等科にも及んでいました。彼らとの交遊は賢亮が東京へ出てからも続きます。いかに魅力ある教師であったことか。賢亮の教育観がよくわかる文章があります。五十八歳の昭和三十年、東京の緑が丘中学校の校長時代、PTA会報に寄せた「教育は感化」と題する一文です。緑が丘中学校は、廃校寸前といっていいほどの混乱と荒廃の極みにあった学校で、特命を受けた賢亮が渾身の力をもって立て直した学校でした。

 「以前『教える』という言葉が使われました。私には不満足であります。たとえぱ、親孝行とはかくすべきだと教えることは誰にでも出来ます。けれどもこれだけでよいものでしょうか。戦争後には『指導する』という言葉が使われるようになりました。これも不満足です。こうして親孝行をしなさいと指導すること誰にでも出来ます。けれどもこれだけでもよいものでしょうか。



 私は、教育は『感化』であると信じております。自分自身が親孝行でなけれぱ、子供を孝行の人に感化するわけには参りません。感化は理屈ではありません。理屈などは、子供自身が先刻知っております。わかっておるのに理屈を並べるから、子供はますますいやになるのです。

 教師や大人に純情があり、熱情があり、若々しい鋭い感性があり、けがれない良心があり、同感があれぱ、必ず子供は感動を受けます。感動のないところに、感化はありません。教育は人間との共鳴に出発すると存じます。」(『追想 田島賢亮』昭和六十一年)

 「理屈ではなく感動を」、田島先生の感化力は、宮内の人たちに甚大な影響を与えました。その中から須藤克三、芳武茂介、小田仁二郎、黒江太郎といった宮内文化史に輝く人材が生まれました。歴史に名を残すような人だけではありません。明治四十年頃から四十五年頃生れの宮内の人 にとって、田島先生は忘れられない先生でした。上記以外、薫陶を受けた方の名前をあげておきます。(宮内関係のみ 順不同 敬称略)

 大竹俊雄(自由律俳人、果樹農家、市会議員)、吉田誠一(石工、小田仁二郎碑等)、佐藤忠三郎(同級会長、市会議員、(医)公徳会理事長・NDソフト(株)社長の父)、海老名松之助(農業)、漆山源次郎(農業、市会議員)、加藤栄一(農業)、菅原正藏(建具製造)、鈴木隆一(宮内高教頭)、高橋ヨシ(女医)、中山いち(女子美術学校時代に夭折)、高橋儀一郎(東京で夭折)、三須秀三(NHK国際調査局チーフ)、相原四郎・・・手元の資料からわかった範囲です。こうした方々を通して、大正デモクラシー的平等観に立った形式にとらわれない賢亮の教育の成果が、今もなお宮内文化の底流に脈々と伝わることを感じとることができるのです。

 田島賢亮が宮内に残したものは何だったか。教え子たちの業績を通して浮かび上がってくるのは、人としての「矜恃(きょうじ)」です。自らを恃(たの)むことで自ずから成る矜(ほこ)れる気持ち、深く時代に沈潜しつつ決して阿(おもね)ることなく自らの道を切り拓く、振り返れば時代の先覚者としての役割を果しているのです。文学においてすでに当代一流の評価を得ていた賢亮の矜恃の思いが幼な心にそのまま伝わり、どこに出ても臆することなく自ら信ずるところを進むことができる、その精神を植え付けたのではなかったか。須藤克三、芳武茂介、小田仁二郎の三人の教え子にみてみます。(つづく)



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