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この師ありてこそ——田島賢亮(2) 須藤克三 [田島賢亮]

須藤克三 明治39(1906)昭和571982  


山びこ学校.jpg山びこ学校から何を学ぶか.jpg

   雪がコンコン降る

   人間は

   その下でくらしているのです

           石井敏雄


 『山びこ学校』(無着成恭 昭和二十六年)冒頭の詩です。雪が降り積む山深い茅葺き屋根の下での祖父と二人きりの暮らし、そこにあって敏雄は「人間は」の言葉によって一挙に「普遍」が開けました。自らの貧しい暮らしを客観化する視点を獲得したのです。敗戦の惨禍からようやく立ち上がりつつあった戦後間もない日本に大きな反響を巻き起こした『山びこ学校』そのものの意義を象徴する詩です。ごく貧しい一山村の営み、そこから生まれた中学生の言葉の表現が日本中から注目され、戦後日本の再生にとって大きな役割を果すことになります。

6-174 21-A 須藤克三.jpg

 『山びこ学校』が世に出ることになったのは、学生時代以来の無着成恭に対する須藤克三の導きがあってのことでした。石井敏雄の詩が最初に置かれたことにも、戦後日本の立脚点を必死で索る克三の思いが伝わります。

 理論社を創業し多くの児童文学者を育てた小宮山量平氏が南陽市で『児童文学に賭けた半生―須藤克三との出会い』と題して講演されています。ふたりを結びつけたのは『やまびこ学校』でした。氏は日本の戦後史の中に須藤克三を位置付け、今なおその役割は終わっていないと訴えられました。


「戦後すぐ、日本語がこの世から消滅するんではないかという風な時代が来ていたわけです。・・・日本人が、本当の意味の日本人の心を失ってはならない。・・・いちばん大事なことは日本語というものを大事にしなければならない、そのことに心を繋いだのが無着さんの仕事であり、それを大きく支えた須藤克三の仕事でした。」「根こそぎ日本は植民地化されるような状態がやってくるかもしれない。そのような事になる前になんとかしなくちゃならない。」そういう中で、「必死になって子どもたちの中でいい文章を守ろうとした。」日本全体、分裂対立の風潮の中にあって、克三は日本語を守ることを通して日本人がひとつになることを呼びかけた。小宮山氏は克三と日本はもう一度敗戦を迎える。それまでに日本語の大切さを守り育てておかなくちゃならない」と切実な思いで語り合ったといいます。


 「もう一度の敗戦」とは軍産勢力の求めるままに舵を切った現在の日本を指しているように思えて気になりますがそれはともかく、克三の日本を背負う気概は、田島先生によって植え付けられたのではなかったか。高等二年の時図画だけ習った克三でしたが、東京に出てから宮内出身の同年代と毎夜のように田島先生の本郷の下宿に押し掛け、文学や美術談義に花を咲かせたといいます。そうした東京時代を経た上での山形での活躍でした。小西正保(岩崎書店編集部長)は、「須藤克三の存在は、山形県における文化運動の巨峰」であるとして宮沢賢治と比較しつつ、賢治は「孤独な運動者」という感じで「生命を花火のように短く燃えつきらせてしまった」のに対して、克三は「戦後三十年、息長く、着実にさまざまの分野に人材を育て、決してあせらず、その広大なすそ野の頂点に立って少しずつ少しずつ現実を変え、今後の長い展望のもとに変革を試みている」と評価しました。(『須藤克三の道・仕事・人』)その背景には、田島先生を中心に形成されていた豊かな人間関係を通して醸成されていた克三の自信、すなわち矜恃があったにちがいありません。(つづく)


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