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まっぴら!一億総活躍社会 [地区長]

「一億総活躍」を恐れる人が急増中!~60歳過ぎたら、もう働きたくありません…(週刊現代)の記事があった。この記事に、このところの頭の中のくすぶりが「まっぴら!一億総活躍社会」という言葉になって固まった。そこを解きほぐしてみたい。


昨年冬に28年度町内地区長の選考委員長になることを引き受けていた。そのときはこども園の仕事は26年度限りのつもりでいたので、かりにだれもなり手がいなかったら自分がやるしかないだろうと思いつつ選考委員長を受けた。いよいよ新年度をひかえて、目処をつけていたT君に「副地区長になって支えるから」とあたったが、一晩考えてくれた末断られた。やむを得ない家庭の事情があった。こども園の方、後任予定者の事情でそのまま続投、しかも28年度から新園長交代、できない理由はいくつもあげることができたが、私が2年間引き受ければ以後10年ぐらいの役員人事はスムーズにながれてゆく、そのことを思い、地区の仕事はこれまで何もしたことはなかったが、4役(地区長、副地区長、会計、衛生組合長)のうち二人に残ってもらうことで、43世帯の地区長になった。思えば、祖父も父も一生懸命務めた役だった。


そのあとまったく思いがけない展開が待ちかまえていた。36地区からなる地区長会の会長を引き受けることになったのだ。前任で同級のK君からの突然の押しつけにためらいとまどっていたのだが、315日朝の熊野大社参拝で各社巡拝しているうち、夏のお祭りのことが思い起こされた。祭りの実行委員長は地区町会の会長の宛て職、獅子冠事務所のこれからを大所から考えよ、昨年の祭りの反省を徹底させよとの神様のお示しかと、あとはどうなれ、の思いで引き受けた。それが47日のこと。以来毎日何かの会合がある。もう何日も経っているように思えるのにまだ10日をすぎたばかり。会合の度に酒がついて回る。良いわけがない。本業も忙しい。そろそろくたびれが出てきた。


いくつかの会合で来賓あいさつをさせられる。この年になってがんばって語ってみてもしょうがないし、という思いでその都度思ったことを何度か語っているうちに、地区長、地区長会長という立場から地域のこれからをどう考えるかという漠然としたイメージも少しずつ定まってきたような気がする。

 

そういえばきっかけは、大竹正弘さんの弔詞に「今年粡町の地区長になり、図らずも今日これから地区長会の総会です。あらためて宮内のこれからについても考えさせられることになりそうです。四十年前に比べると人口では二割減、世帯数に至っては三割減の宮内です。それはそれなりのいい未来があるはずです。」と書いたことだった。それがずっと頭にあって何かの席で、「市役所がなくなっても、高校が線路の外に出ていっても、ありがたいことにおくまんさまは宮内から離れない。ありがたいことです。」と語って、あらためてほんとうにそうなんだ、と思った。


「町をにぎやかに」なんて無理に思わなくてもいい。いや、思いたい人は思ってもいい。だけどそれがさも正しいことのように押し付けないで欲しい。もう20年以上になるが、大竹市政の「南陽市5万人構想」に対して、「まだ見ぬ12千人より、今いる38千人(現在32千人)のための市政を!」と批判したことがあった。大竹市長は「5万人構想」の下に積極的に大型店を誘致したのだった。その結果従来商店は立ち上がりようなく落ち込んだ。


二、三日前4人ばかり残った酒の席、口を挟む術無くだまって聞いているほかなかったのだが、私以外の3人は「北朝鮮悪い」「中国悪い」のネトウヨ的発想に自然のこととして流れていった。その発想の根底にあるのは、「経済絶対」「国家絶対」だった。引き上げ間近、片付けが始まったところで「アメリカにしても日本にしても、戦争を好む勢力と戦争を嫌う勢力があって、経済第一を言ったとたん、戦争勢力の方に取り込まれてしまうんだよな。」とつぶやいたが、どれだけ耳に入れてもらったか。帰っても、この3人の論法をどう崩すかとずっと考えているうち浮んできたのが「『町をにぎやかに』なんて思わなくてもいい」だった。少子高齢化社会をすなおに受けとめれば、これがこれからの世の中のトレンドになりそうな気がする。「がんばらなくてもいいんだよ。」

 

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「一億総活躍」を恐れる人が急増中! ~60歳過ぎたら、もう働きたくありません…(週刊現代)

http://www.asyura2.com/16/hasan107/msg/551.html

投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 月 16 日 14:10:05:            

まっぴら!一億総活躍社会2790.jpg毎年150万人が還暦を迎えている。うち25%は継続雇用を希望していない




20160416日(土) 週刊現代 :現http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48416代ビジネス

人手不足や、年金の先行きが厳しいことは、よく分かる。60過ぎても70になっても「活躍」しろというのも、正論だ。でも、今までだって必死でやってきた。もう休ませてくれてもいいじゃないか。

オレは必死に働いてきた

今、日本のサラリーマンを戸惑わせる、「変化」の風が吹き荒れている。

「『65歳まで定年延長』なんて、私にはいい迷惑ですよ。60歳過ぎたら、きっぱり会社とは縁を切るつもりだったのに」

こう語るのは、大手電機メーカーに勤務する58歳男性だ。都内に住むこの男性は、商品の企画・開発を担当する部署の幹部を務めている。

「ウチは定年こそ60歳ですが、最近は1年ごとに更新の嘱託契約で、65歳まで雇用延長できるようになっています。正社員じゃなくなるから、肩書きは全てチャラだし、給料も六掛け。勤務地は地方の工場などになり、しかも、今までは部下だったような若い社員が上司になるわけです。

一応、『延長するかどうかは各人の自由』ということになっていますが、社内の雰囲気は『せっかく雇ってもらえるんだから、給料が安かろうと、5年くらい恩返しと思って働け』という感じ。妻も『会社が雇ってくれるって言うのに、辞めることないじゃない』と言っています。しかし、今更そう言われても……」

高齢化高齢化と耳にタコができそうな昨今、「60歳で定年」というかつての常識は、もはや過去のものになりつつある。安倍総理は2月末の政府会議で、こう述べた。

65歳までの定年延長や65歳以降の雇用継続を行う企業などに対する抜本的な支援・環境整備策のパッケージを、『ニッポン一億総活躍プラン』の策定に向けて、政府を挙げて検討いただくようお願いします〉

これに呼応する動きもすでに始まった。自動車業界2位のホンダや、住宅大手の大和ハウス、外食業界2位のすかいらーくなど、「65歳定年制」を本格導入する大企業が相次いでいる。トヨタも、工場で働く社員4万人を対象に、「定年後も65歳まで同じ待遇を維持する」という新制度をスタートさせた。

確かに、「日本株式会社」そのものが斜陽にさしかかった今、少しでも多くの人間が年をとっても働いて、カネを稼ぎ、経済を回すべきだ、という理屈はよく分かる。

また、60歳を過ぎたからといって、急に体力が衰えるというわけでもない。年金だって、もう原則として65歳までは受け取れなくなったのだ。「一億総活躍」というお題目に、反論するのはなかなか難しい。

冒頭の男性のように、家族から「働けるうちはしっかり働いて、家計を支えろ」「60過ぎても雇ってもらえるなんて、このご時世に幸せだと思え」さらには「働かないと、老後のカネが足りなくなるぞ」とガミガミ言われている人も少なくない。親の介護や施設入居の費用を捻出するために、とてもじゃないが悠々自適とはいかない、という人だって多いはずだ。

しかし、である。ある時を境に線を引かれて、いきなり「ハイ、ここから後ろに並んでいる人は、もう5年働いてもらいます」と言われても、「おいおい、そりゃ聞いてないよ」と思うのが、人情というものだろう。

前出の男性が続ける。

「自分がした仕事には少なからず自信を持っていますし、真剣にやってきた、会社にも多少は貢献したと思っています。特に50を超えたあたりからは、『なんとなく惰性で過ごしていては、ダメになってしまう』『出世するにも、60歳から逆算して目標を決めなければ』と思っていました。60歳を一つの区切りとして、強く意識してきたんです。

だからこそ、今になって後出しジャンケンのように『もっと働け』と言われても、乗る気にはなれません」

だから「延長戦」は辛いんだ

都内の食品メーカーに勤める61歳の男性も、モヤモヤした思いを抱えながら、定年後も働き続けているという。

3年前に外資系企業との合併が決まった時、早期退職の募集があったので、私はそれに応募したんです。

もともと私が仕事一筋すぎたせいもあって、一度就職した息子が会社を辞めて、引きこもりになってしまった。もう役員になんてなれそうもなかったし、せめて今からでも家族としっかり向き合おうと思って、退社を決心したところでした」

しかし、早期退職願を提出して約2ヵ月が経った頃、突然人事に呼び出された。

「てっきり退社についての話だと思ったら、正反対でした。『合併を機に、定年を65歳にすることになったから、会社に残ってほしい』と言われたんです。『若い社員なら、次の行き先もある。でも58歳で再就職はムリだから、退社後に後悔したって手遅れになる。給料は2割減るが、ポストは変わらないから』とも」

人事は「今、この場で残るかどうか判断してくれ」と迫る。考える間もなく、押し切られる形で首を縦に振ってしまった。その夜、帰って妻に雇用延長を告げると「あらそう、仕事は続けてもらったほうが助かるわ」と、まるで他人事だった。

「結局、まだずるずると勤め続けています。

しかし、外資と合併したこともあって、やりづらいことこの上ない。仕事の流れも変わってしまったし、大事な会議には外国人の役員がやってくるから、私もヘタクソな英語で発言しなきゃならない。部下には『こいつ、この程度の英語も分からないのか』という目で見られているような気がして、つらいです。

机の引き出しには、いつでも出せるように辞表を用意しているんですが……完全にタイミングを逸してしまって、3年前に早期退職を決心した時のような踏ん切りが、なかなかつかないんです。老後の不安はないと言うと、ウソになりますし」

「老害」になりたくないし

やるせないのは、この男性のように、60歳直前まで仕事一筋で生きてきた人ほど、65歳までの「ロスタイム」に突入したとたん、むしろ疎まれるということ。

50代後半でそれなりの責任を伴う地位にある人には、会社の側も気を遣って、それなりのポストを用意する。その気遣いが、仇になるケースもある。大手事務用品会社に勤める神奈川県の59歳男性は、「私の場合、会社にハメられたようなものです」と苦笑いした。

55歳を過ぎた頃から、『60歳になったら辞めるんだ』と心に決めて、部下の指導や仕事の引き継ぎにも力を入れてきたつもりでした。

それが昨年、突然『新しいプロジェクトを立ち上げるから、そのリーダーをやれ』という辞令が下ったんです。ウチの会社の慣行では、58歳を過ぎたら定年まで同じ部署・同じ役職というのが普通でしたから、何のつもりだろうと思いました」

異動先は、男性を除いて全員が40歳以下の若い部署。最初は「オレが定年になるまでには、後任がやって来るんだろう」と軽く考えていたが、どうも様子がおかしい。

「半年や1年で区切りが付くような軽い仕事とは思えない。それとなく役員に尋ねてみると、『向こう5年はやってほしい』というようなことを言われました。そんなの話が違う、と思いましたよ。

私が責任者ですから、辞めるとも言いづらい。しかし、来年60歳を超えたら、1年ごとに契約をやり直さなくちゃいけなくなるし、給料も半分になって、残業代もなし。

会社は『残業しなくていいから』と言っていますが、部下が残っている手前、私だけさっさと帰るわけにもいかないでしょう。定年になっても、まだサービス残業しろってことですよ」

周囲に年の近い社員はいない。「ゆとり世代」の若手とも日々向き合わねばならないのは、正直言ってやりづらい。不本意な人事なのだから仕方がない、この状況はオレのせいじゃないんだ―と自分に言い聞かせるが、どうしても脳裏には「老害」の二文字がよぎる。

「最近は部下も慣れてきて、私の意見をなかなか聞いてくれなくなっているような気がするんです。仕方ないと分かっていても、ストレスは溜まります。若い人の言うことも一理あるな、と思うことは多いので、私が無理にリーダーを続けなくてもいいと思うのですが……会社の狙いが、いまいち掴みきれません」

もう解放してくれ!

月並みな表現だが、少なからぬサラリーマンが、定年後の「第二の人生」を楽しみにしている。今回、体験談を寄せた人たちも、「うまくいくかどうかは分からないけれど、会社を辞めたら、退職金を元手に妻と店をやる約束だった」「地方に移り住んで、畑でもやろうと思っていた」と口を揃える。

これまでは、それでいいはずだった。だが今となっては、「悠々自適の老後」など、時代が許さない。「60過ぎたら、もう働きたくない」―と願うことは、まるで「罪」であるかのような空気が、この国を覆ってしまった。

そんな空気に流されるようにして、つらい日々を送っている人もいる。茨城県に住む60歳の元エンジニアの男性は、せっかく58歳で早期退職をしたにもかかわらず、現在、諸々の事情から職を探しているという。

「私は転職を2回しているし、最後に勤めた会社でも子会社へ出向させられたりしたので、多少早めに辞めたところで、そんなに退職金も変わらない。ちょうど父親が認知症になってしまって、そちらの介護が大変になってきたので、早期退職を決心したんです。

しかし、昨年の夏に今度は母ががんになってしまった。首が回らなくなったというほどではありませんが、足りると思っていた老後の資金に、黄信号が灯りました」

幸いにしてがんは治癒したが、男性の妻は「これからが不安になってきたから、やっぱり働かない?私もパートに出るから」と言い出した。

「ずっと家にいるとあなたまでボケるわよ、と言われたんですが、この辺は田舎ですし、ハローワークに行っても清掃員や建物・公園の管理人といった求人がメインです。

初めて公園の管理人の面接に行った時は、失敗しました。みんなラフな格好で来ていたのに、私だけスーツにネクタイで行ってしまった。どうしても、サラリーマン時代のクセが抜けなくて……不採用でした。意外と狭き門なんですね」

もちろん働けば、いくばくかのカネは得られる。だが、これまで40年近く会社に、そして世の中に尽くしてきたのに、まだ解放されないのか。まだ苦汁を舐めたり、恥をかいたりしなければならないのか。

一生懸命働いてきた。60歳になったら、もう休みたい―そう思うのは、そんなに悪いことなのだろうか。

「週刊現代」2016416日号より


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めい

《少子高齢化がますます進むのだから、社会のシステムを変えなきゃいけない。そこはみんな気づいているはずなんです。でも、「一億総中流」と言われた時代の記憶がどうしても忘れられない。特に、政治的に力を持っている60~80代の人はいまだにその幻想に囚われているんだと思います。》
もう若者はとっくに気づいているのです。

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この国に子どもを育てる気はあるか? 一刻も早く高度経済成長の「幻想」を捨てよ! 下り坂の「下り方」を白熱対論
http://www.asyura2.com/16/hasan107/msg/570.html
投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 4 月 17 日 07:48:40

この国に子どもを育てる気はあるか? 一刻も早く高度経済成長の「幻想」を捨てよ! 下り坂の「下り方」を白熱対論
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48424
2016年04月17日(日) 平田オリザ,藤田孝典 現代ビジネス

待機児童問題が大きな注目を集め、国家の姿勢が問われている。「この国はもう、子どもを育てる気がないんじゃないか」「日本社会は分断され、階層化が進む一方だ」。

先日、この国の新しいかたちを模索する著書『下り坂をそろそろと下る』を上梓した平田オリザ氏と、若者の「見えない貧困」をえぐった著書『貧困世代』を刊行した藤田孝典氏。この国の現実を直視し、そのうえで未来を志向するお二人に、この国に行方を語ってもらった――。

■想像力が欠落している国、日本

平田 今回上梓した『下り坂をそろそろと下る』の校了作業をしているとき、子育て中のお母さんが書いた「保育園落ちた」という匿名のブログが大きな話題を呼びました。私の主宰する劇団にも小さい子どもを持つ俳優がたくさんいますが、あのブログは子育て世代の切羽詰まった真実の叫びだと思います。

平田オリザ 1962年東京都生まれ。劇作家、劇団「青年団」主宰、東京藝術大学COI研究推進機構特任教授

藤田 私にも子どもがいるのですが、認可施設には入れなくて、しばらく無認可の保育園に入れていましたから、「保育園は落ちるのが当たり前」という感覚でした。でも、あのブログを読んで改めて思ったのは、保育園に落ちることは決して当たり前じゃないし、むしろおかしいということ。多くの子育て世代がそのことに気付いたからこそ、あれだけ大きな議論になったのでしょう。

平田 それだけ切実な問題にもかかわらず、政府の反応は極めて鈍いですね。安倍首相は、待機児童の解消について問われた国会答弁で、「保育所」のことを「保健所」と言いました。ただの読み間違いだと言い訳するのかもしれませんが、この問題に対する関心が低いと言われても仕方ないでしょう。ああいう答弁を見ていると、この国はもう、子どもを育てる気がないんじゃないかとさえ思う。

藤田 平田さんはかねて指摘されていますが、リーダーというのは、社会的弱者の声を聞きとる力が求められています。ところが、今の政府には小さな声に耳を澄ませようという姿勢が見られない。他者への思いやり、想像力というものが極端に欠落しています。

藤田孝典 1982年茨城県生まれ。社会福祉士、NPO法人ほっとプラス代表理事、聖学院大学人間福祉学部客員准教授

平田 国民の間でも、保育園問題については意見が分かれていますね。この前、ツイッター上での議論を見ていたところ、「子どもを産むのは覚悟のうえだろう」というつぶやきがあったので、とても驚きました。

僕らの世代の感覚だと、「覚悟」というのは、演劇をやるとか、音楽家を目指すとか、そういう人が持つべきものでしたから。子育てというごく普通の営みにまで覚悟がいるのか、と。

藤田 本当におかしな話ですよね。私の新著『貧困世代』でも書きましたが、今の日本では、結婚して子どもを産むという、ごく当たり前のことでさえ、「ぜいたくなこと」だとみなされてしまう。

平田 そんな国は珍しいでしょう。海外に目を転じると、子育て世代のために様々な優遇政策がとられています。
たとえばフランスでは、子どもを3人以上もつ親は、美術館などの文化・レジャー施設の料金が大幅に割り引きされます。これは子どもと一緒でなく、親がひとりで利用するときでも適用されます。子育て中であっても、子どもにかかりきりになるのではなく、演劇や美術、映画や音楽といった「文化」に触れる機会を失わないように配慮しているんです。

■出生率2.81の「奇跡の自治体」

藤田 欧州は「生存権」をとても大事にしているのでしょう。そもそも生存権とは、単に生きているだけではなく、「健康で文化的な最低限度の生活を営む」権利のことです。しかし日本の場合は、そうした文化や芸術に接する権利を軽視している。生活保護を受けている人がコンサートに行ったり、映画を見たりしていたら、「生活保護のくせに、ぜいたくだ」などと言われてしまう。

平田 社会全体がギスギスしているように感じます。保育園に受かったお母さんが、子どもを預けて昼間から街を歩いていると、すぐに目を付けられる。もし映画なんか見ていたら「あの人は仕事をしていないのに、子どもを預けている」なんて保育園に密告されるから、有給休暇も取れないし、いつも働いているふりをしなければならない。

藤田 誰だって本音を言えば、ゆとりをもって暮らしたいんでしょうけど、他人がやっているのは許せない。社会全体が「こうあるべき」という考えに支配されている気がします。

平田 そうした風潮が蔓延する一方で、国はあてにならないんだから、自分たちで子どもを育てる環境を整備しようという企業や団体も増えてきましたね。じつは僕も1990年代の半ばごろ、「結婚・出産しても女優を続けられる劇団にする」と宣言したんです。それで、子育て中の俳優には割り当てられる仕事を少なくして、稽古場に子どもを連れてこられるようにした。団員同士も服を譲り合ったり、ベビーカーを使いまわすなど、相互扶助しています。それだけのことでも効果はあったようで、今、うちの劇団には40人くらい子どもがいます。地方公演のときなどは俳優たちが忙しいので、一番ヒマな僕が子どもたちの宿題を見てあげています。

藤田 それは助かるでしょうね(笑)。政府に期待できない以上、同じような境遇の人同士が情報や物を交換する「人間関係の豊かさ」が重要な時代ですね。ただ、自力でそういうネットワークを築けない人にとっては、国が子育てしやすい社会保障政策をとってくれないと行きづまってしまう。

平田 おっしゃる通りですね。本来、これは政治の問題であり、国が取り組むべきことです。しかし、今の政府の対応はどうにもズレている。
たとえば、安倍政権は税制を優遇して、親子三世代が一緒に暮らす「三世代住宅」を促進しようとしていますが、これは「おじいちゃんやおばあちゃんと一緒に暮らせば孫の面倒を見てくれるだろう」という、日本の古い家族観に囚われた発想であって、今の時代には合わないんじゃないかと思う。その点、地方自治体の中にはきめ細かい政策を取り入れているところもあります。岡山県の北東部にある奈義町では、地元出身の若い夫婦向けに、入居費の安い公営住宅を用意しています。こうすれば、一緒に暮らすわけではないけれど、おじいちゃんやおばあちゃんに孫を預けることもできる。なぜこういう施策をとったのか。地元の方に聞いてみると、三世代で暮らすことを嫌がるのはお嫁さんじゃなくて、むしろお姑さんのほうだそうです。お姑さんたちは自分が若いころ、嫁姑問題で辛い思いをしたから、同じような思いを嫁にさせたくないし、自分だって嫁に気を遣いたくない。そこで今のような仕組みを作ったそうです。

藤田 よく考えられていますね。

平田 こうした政策が奏功したのか、奈義町は昨年、出生率2.81という奇跡的な数字を叩き出しました。この町はおもしろいところで、人口は6000人と少ないのに、建築家の磯崎新さんがデザインした現代美術館があったりする。そういうセンスのよさが、若者を惹きつけるのかもしれません。

■「文化資本」の格差が日本を分断する

藤田 人間をその土地に根付かせるには、最低限の住まいを社会保障で用意することが必要だと思います。ヨーロッパの多くの国では、若者のために公的な低家賃住宅を整備し、家賃補助制度を充実させている。そうやって住まいを提供することで、若者が親元から離れ、自分たちの「世帯」を作るようになる。そして世帯が増えれば、子どもも自然と増えていくというわけです。

平田 住宅問題については、日本でもやれることはたくさんあるんですよね。地方であれば、空いている公営住宅もたくさんあるから、改装しておしゃれにするとか。あとは、東京をはじめとする都市部は家賃が何しろ高いから、公的な補助も必要でしょう。

藤田 私は、医療や介護のみならず、住まいや教育といった、人間にとっての「ベーシックニーズ」と呼ばれるものは市場原理に任せてはいけないと思います。

平田 教育に対する社会保障も、日本ではほとんど手が付けられていませんね。

藤田 ええ。2012年度の調査によると、大学生のうち、半数を超える52.5%もの学生が奨学金を利用しています。今の学生の半分は、借金を背負った状態で社会に出なければならないのです。また、親からの仕送り額も減っていて、1990年には12万円ほどあったのに、2000年代に入ってからは10万円を切る水準まで下がりました。こうなると、学生たちは遊ぶためではなく、生活のために長時間のアルバイトをせざるをえません。なかには、アルバイトのために授業やテストを欠席せざるをえないという本末転倒な事態も起こっている。経済的に豊かな親の子はじっくり勉強できるけれど、そうでない子は教育を受ける時間を奪われてしまうんです。

平田 私は全国の大学や高校で演劇のクラスを持っているので、「教育格差」の問題は肌身に感じています。とりわけ懸念しているのは、2020年度から実施予定の「大学入試改革」によって、教育格差がますます広がるだろうということです。『下り坂をそろそろと下る』でも触れましたが、入試改革の骨子は、従来のように詰め込み型の知識をテストするだけでなく、集団でディスカッションさせるとか、グループで芝居を作らせるなど、プレゼンテーション能力やコミュニケーション能力を問う試験を課すというものです。グローバル化した社会ではいずれの能力も求められますから、この方向性じたいは間違ってはいません。ただ、そうした試験制度になると、都市部の子ほど有利になります。わかりやすい数字をあげると、演劇を学べる高校は3年前の数字で50校ほどありますが、そのうち8割を東京、神奈川、大阪、兵庫の都市部が占めています。

藤田 地方の子は演劇を学びたくても地元では学べないわけですね。

平田 私は美術や演劇、音楽などの素養を「文化資本」と呼んでいますが、都市部の子は幼いころからそうしたものに触れる機会が多い。しかし地方だと、そもそも美術館の数も少ないし、お芝居やコンサートが開かれることも少ない。だから能力が高くて勉強ができる子であっても、地方に住んでいると文化資本を高めることができない。今でさえ官僚の経歴を見ると、ほとんどが東京の富裕層出身でしょう。今後はその流れがますます加速します。そして官僚が都会の富裕層出身ばかりになると、先ほども話題に出てきた、社会的弱者の暮らしに対する想像力が働かなくなってしまう。

藤田 一方、シングルマザーのお子さんなどは塾にも行けないし、教材を買ってもらうこともできない。勉強すれば社会的に成功できるかもしれない、という夢を持つことができない。対する富裕層の子も、ひたすら勉強してエリートになることを宿命づけられているという面ではつらいんですけれど、両者が交わることはない。日本社会は分断され、階層化が進む一方です。

平田 先日、ある教え子の学生が「貧しいのは自己責任だ」という趣旨の話をしていて、とてもショックを受けました。今の時代、ふつうに大学を出ても、もしかしたら「ブラック企業」に就職するかもしれないし、仕事のストレスでうつ病にかかって働けなくなるかもしれない。たとえ一流企業に就職できたとしても、親の介護が必要になって働けなくなるとか、誰でも貧困に陥る可能性はあるわけです。しかし富裕層の学生には、そうした想像ができない。だから「自己責任」なんて言葉を軽々に口にしてしまう。

■高度経済成長という幻想

藤田 ところで、今夏の参院選から選挙権の年齢が18歳に引き下げられ、約240万人の新たな有権者が生まれますね。若者たちの声が国政に反映されるのでしょうか。

平田 最初の選挙次第でしょうね。何らかの影響を与えることができれば、政治家も若者の意見を無視できなくなる。だから若者たちには、ぜひ投票に行ってほしい。若い世代の投票率が高いということを示さないと、政治家の若者軽視の態度は変わりません。

藤田 ぜひ選挙に関心を持ってほしいですね。ただ、18歳から20歳くらいの若者だと、自分の身の回りのことで精いっぱい。社会や政治のことは上の世代に任せておけばいいという人も多いんですよ。おまけに今の若者はみんな公務員を目指すような安定志向で、社会を変えようという気持ちのある人が少ない。

平田 階層の固定化が進んでしまったために、自分たちが「社会を変えることができる」というイメージを持てないのでしょう。

藤田 そんななかで「アベノミクス」などという大きなスローガンを聞くと、「よくわからないけど、任せておけば景気が良くなっていいんじゃないか」という幻想を抱いてしまう。

平田 若者に限らず、少なからぬ国民がアベノミクスに期待していますね。安倍政権が、約40%という岩盤のような高い支持率を保っているのも、国民が高度経済成長期の幻想から抜け切れていないことの表れでしょう。確かに戦後の日本はアメリカの庇護のもと、大量生産、大量消費することで経済成長してきました。しかし、今やそのシステムは制度疲労を起こして機能しなくなっている。これからの日本に必要なのは、『貧困世代』でお書きになっていますが、「脱近代化」であり、「脱工業化」を目指すことだと思うんです。

藤田 少子高齢化がますます進むのだから、社会のシステムを変えなきゃいけない。そこはみんな気づいているはずなんです。でも、「一億総中流」と言われた時代の記憶がどうしても忘れられない。特に、政治的に力を持っている60~80代の人はいまだにその幻想に囚われているんだと思います。

平田 工業立国の時代なら、教師の言うことを聞いていい学校に入って、安定した企業に入って上司の言うことを聞いていれば給料が上がって、クルマも家も買えた。でも、よく考えるとそうしたモデルって、実は1960年から90年くらいまでのたった30年ほどしか機能していないんですよ。それに、今の時代は産業構造の転換も早いから、若いころ身につけた技術で一生食べていくのも難しい。昔は旋盤工でずっと食べられたけど、今は違う。だから必要なのは「転職できる能力」なんですが、そこが見落とされている。ずっとネジを作ってきた人に「仕事がなくなったから介護をやってください」と言っても、大変なことですよ。

藤田 日本の場合は、職業訓練のメニューも限られていますからね。

平田 たとえばデンマークは失業保険の期間が2年と長くて、職業訓練でボランティア体験をさせたり、演劇のワークショップを受けさせたりと、コミュニケーション能力を高めるところから始めるんです。

藤田 ヨーロッパだと、失業するということは、それほど大した話とは受け止められないですよね。なぜかといえば、職業訓練のメニューが豊富に用意されているから。失業したとしても、日本に比べると別の仕事に就くことが比較的容易だからです。ところが日本の場合は、「失業した」「もう首をくくるしかない」となってしまう。ヨーロッパの人から見たら、仕事がないくらいで、なぜ死ななきゃいけないのか理解できないでしょう。

平田 安倍政権の雇用政策は本当に矛盾していると思うんです。企業が世界で競争するためには、どうしても賃金を抑えなければならない。すると必然的に非正規雇用は増える。これはもう、産業構造がグローバル化しているんだから仕方ないとしましょう。でも、そうであるなら、非正規雇用の人が失職しても次の仕事を見つけやすいように就労支援を充実させればいいのに、それをやらないで、「一億総活躍社会」などと言い出しているから、おかしいことになる。

藤田 非正規が増えるということは、雇用を解体してしまうということですよね。そうするなら、代わりに社会保障を充実させることが不可欠です。雇用保険の期間を延ばすとか、職業訓練の内容を充実させるべきなのに、そこにはまったく手が付けられていない。

■まずは「現実」を直視しよう

平田 もう、成長社会じゃないということを前提にして、どうやって社会の制度を変えるか考えなきゃいけない時期に来ています。司馬遼太郎さんが『坂の上の雲』(文春文庫)でお書きになった明治時代の日本は、坂を上っていく時期だった。けれど今の日本は、転ばないように気をつけながら、上り切った坂をゆっくりと下っていく時代です。藤田さんは前作の『下流老人』で高齢者の現実を書き、今回の著書では若者を取り巻く苛酷な現状を描いた。受け入れがたいかもしれないけれど、今の日本に必要なのは、そういう「現実」をまず直視することでしょう。

藤田 なんだか今回の対談は、全体的に暗い内容になってしまいましたね(苦笑)。ただ、世界を見ると、これまでの新自由主義的な経済成長を重視する政策に対する、カウンター勢力が台頭してきています。アメリカの大統領候補者争いで注目を集めた民主党のバーニー・サンダースとか、イギリス労働党党首のジェレミー・コービンは、格差の是正や社会保障の充実を訴え、多くの若者から支持されている。日本もいずれ、ああいう政治家が現れるのではないかと期待しています。

平田 日本の政治家も変わってほしいですよね。私は、今のこの国の社会を表わす言葉は「競争と排除」だと思いますが、これからは「寛容と包摂」の精神を大切にしてほしい。

藤田 経済が成長すれば、みんな幸せになるという時代はもう終わった。これからの日本は価値観を多様化して、それぞれが自分なりに幸せな居場所を見つけられるような社会を作っていきたいですね。

(構成/平井康章)
読書人の雑誌「本」2016年5月号より

by めい (2016-04-17 11:52) 

めい

「経済第一」の行きつくところ。
《いずれ日本人は「経済発展できるなら、統治のかたちなんかどうでもいい」と言い出すようになるだろう。
「金がなければ、人権なんかあっても仕方がない」「金がなければ、平和であっても仕方がない」というような言葉を吐き散らす人々がこれからぞろぞろと出てくるだろう。
いや、すでに出てきているか。》

   *   *   *   *   *

内田樹の研究室

日本のシンガポール化について
http://blog.tatsuru.com/2013/08/20_1116.php

「シンガポールに学べ」という論調をよく見かける。
今朝の毎日新聞にもそういう記事が出ていた。
こんな記事である。

シンガポールの高級住宅街に一人の米国人移民が暮らす。ジム・ロジャーズ氏(70)。かつてジョージ・ソロス氏と共にヘッジファンドを設立。10年間で4200%の運用成績を上げたとされる伝説的投資家だ。市場は今もその言動を追う。
「シンガポールは移民国家だからこそ、この40年、世界で最も成功した国となった。移民は国家に活力や知恵、資本をもたらす」。プールサイドで日課のフィットネスバイクをこぎながら熱弁をふるう。
シンガポールの人口531万人のうち4割弱が外国人。超富裕層から肉体労働者までさまざまな移民を積極的に受け入れる。少子化にもかかわらず人口は過去10年で100万人以上増えた。1人あたり国内総生産(GDP)は2012年は世界10位。5万ドルを超え、日本をしのぐ経済成長を遂げる。「外国人嫌いなのは分かるが、日本もシンガポールを見習うべきだ」と話す。
(・・・)
シンガポールは人口の75%を中国系が占める華人国家だ。10年の経済成長率は14・7%と1965年の建国以来、最高を記録し、ロジャーズ氏の見立て通りに発展しているかに見える。国別対外投資額で中国はトップ。人民元決済を始め、対中貿易・投資の拠点として足場を固める。移民受け入れを拡大し、2030年に人口690万人を目指す。」

連載記事であるから、明日以降シンガポールの「とてつもない欠陥」に論及されて「やっぱりシンガポールはダメだよね」という結論になるのかも知れないが、今のところある種の人々(超富裕層)からは「世界で最も成功した国」とみなされていて、他の国も競って「シンガポールみたいになるように」というアピールだけが紹介されている。
実際に日本人でも「シンガポールに学べ」ということを言う人たちはけっこう多い。
そういう人たちの中で「シンガポールは経済的な活力を得る代価としてこれだけのものを『失っている』」という損益対照表を作成して、その上で「それでも、差し引き勘定すると、日本のシステムよりシンガポールのシステムの方がすぐれている」と論じた人がいるだろうか。私は寡聞にして知らない。
ロジャースさんのような人たちは別に「他の国の人たち」の幸福を切望して「シンガポール化」を促しているわけではない。
そう思っている人がいたら、よほど善良な魂の持ち主である。
こういう人がある政策を薦めるのは「そうしてくれると、オレが儲かるから」である。それ以外の理由はない。
日本メディアのシンガポール関連記事はその経済的な成功や、英語教育のすばらしさや、激烈な成果主義・実力主義や、都市の清潔さについて報告するけれど、シンガポールがどういう政治体制の国であるかについては情報の開示を惜しむ傾向にある。
だから、平均的日本人はほとんどシンガポールの「実情」を知らない。
シンガポールの「唯一最高の国家目標」は「経済発展」である。
平たく言えば「金儲け」である。
これが国是なのである。それがthe only and supreme objective of the State なのである。
政治過程や文化活動などはすべて「経済発展」の手段とみなされている。
だから、この国には政府批判というものが存在しない。
国会はあるが、ほぼ全議席を与党の人民行動党が占有している。1968年から81年までは全議席占有、81年にはじめて野党が1議席を得た。2011年の総選挙で人民行動党81に対し野党が6議席を取った。この数字は人民行動党にとっては「歴史的敗北」とみなされ、リー・クアンユーはこの責任を取って院政から退いた。
労働組合は事実上活動存在しない(政府公認の組合のみスト権をもち、全労働者の賃金は政府が決定する)。大学入学希望者は政府から「危険思想の持ち主でない」という証明書の交付を受けなければならないので、学生運動も事実上存在しない。「国内治安法」があって逮捕令状なしに逮捕し、ほぼ無期限に拘留することができるので、政府批判勢力は組織的に排除される。えげつないことに野党候補者を当選させた選挙区に対しては徴税面や公共投資で「罰」が加えられる。新聞テレビラジオなどメディアはほぼすべてが政府系持ち株会社の支配下にある。リー・クアンユーの長男のシェンロンが今の首相、父とともにシンガポール政府投資公社を管理している。次男のリー・シェンヤンはシンガポール最大の通信企業シングテルのCEO。シンガポール航空やDBS銀行を傘下に収めるテマセク・ホールディングスはシェンロンの妻が社長。
李さん一族が政治権力も国富も独占的に私有しているという点では北朝鮮の金王朝のありかたと酷似している。
たしかにこんな国であれば、経済活動はきわめて効率的であるだろう。外交についても内政についても、社会福祉や医療や教育についても、政府の方針に反対する勢力がほとんど存在しないのだから。
李さん一家が決めたことがそのまま遅滞なく実施される。
上記のロジャースさんはきっと李さんファミリーの「ゲスト」くらいの格でシンガポールに滞在しておられるのだろうから、彼がシンガポールの政治経済のかたちが「オレ的には最高」と評価したとしても何の不思議もない。
日本を「シンガポール化する」というのは、端的には日本の政治制度を根本から革命して、この独裁的な統治形態(平たく言えば「王制」)を導入するということである。
シンガポールだって、中国だって、サウジアラビアだって、アラブ首長国連邦だって、60-70年代のアジア・アフリカの開発独裁だって、遠くは第三帝国だって、独裁制がしばしば劇的な経済成長をもたらすことは周知の事実である。
日本を「シンガポール化」したいと言っている人たちにしても、経済システムだけを「いいとこどり」して真似ることは難しいということは先刻ご存じなのである。
労働運動、学生運動はじめとするすべての反政府運動の抑圧とマスメディアの政府管理も併せて実現しなければ、効率的な経済発展は難しいことは彼らだってわかっているのである。
でも、それを口に出して言うと、さすがに角が立つので、今は口を噤んでいる。
そして、「日本のシンガポール化」について総論的に国民的合意がとりつけられたら、その後になってから「あ、『シンガポール化』という場合には、治安維持法の発令と、反政府運動の全面禁止はもちろんセットになっているわけですよ。何言ってるんですか。知らなかった?金もらうだけもらっておいて、いまさら『知らなかった』じゃ通らないですよ」と凄むつもりなのである。
実際に今の日本ではひそかに「シンガポール化」のための伏線設定が進行しているように私には見える。
最も顕著なのは「唯一最大の国家目標は経済発展であり、国家システムはそれに奉仕する限りにおいて有用である」という国家概念の転倒を模倣しようとしていることである。
シンガポールの場合は、民主主義や基本的人権の尊重といった国家の根幹にかかわるシステムに重大な瑕疵があることを官民ともに知りつつ「でも、経済発展しているんだから、まあいいか」とシニカルに言いつくろっている。
ある意味では合理的だし、ある意味では「官民共犯的」とも言える。
だが、日本の場合はそうではない。
「経済発展するために」という名目で統治システム上の矛盾や不合理をこれから作り出そうとしているのである。
憲法を改定し、国民主権を制限し、基本的人権を制約し、メディアを抑え込み、労働組合をつぶし、「危険思想」の持ち主をあらゆるセクターから閉め出し、「超富裕層」が権力も財貨も情報も文化資本も排他的に独占するシステムを、これから作為的に作り出そう賭しているのである。
「そうしないと、経済発展しないのですよ」というのが彼らの切り札である。
今日本のマスメディアはほとんどがこのコーラスに参加して、音域は違うけれど、同じ歌を歌っている。
いずれ日本人は「経済発展できるなら、統治のかたちなんかどうでもいい」と言い出すようになるだろう。
「金がなければ、人権なんかあっても仕方がない」「金がなければ、平和であっても仕方がない」というような言葉を吐き散らす人々がこれからぞろぞろと出てくるだろう。
いや、すでに出てきているか。

by めい (2016-05-03 05:52) 

めい

《売り上げの「拡大」や「成長」よりも、事業の「持続可能性」や「(ヒト・モノ・カネの)循環」といったことが優先的な価値となっている》
《人口減少が本格化する今、根本からこれからの経済社会のあり方や「豊かさ」、「幸福」の意味、そしてビジネスと倫理の関係性を考え直す時期に来ているのである。》然り。

   *   *   *   *   *

「経済成長」幻想が日本を滅ぼす! 人口減少社会を「希望」に変えていく確かな方法 もう過去の“成功体験”は捨てよ
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48620
2016年05月11日(水) 広井良典 現代ビジネス
文/広井良典(京都大学こころの未来研究センター教授)

かつて70年代後半に、当時のアイドル歌手だった太田裕美の「木綿のハンカチーフ」という曲が大ヒットしたことがある。と言っても、最近の学生にこの話をしてもまったく通じず、彼らにこの話をするときは“今でいうとAKBどころじゃないほど人気があった太田裕美という歌手がいて……”といった説明をしなければいけないのだが。

この曲は、「東へと向かう列車」――この“東”はもちろん東京を暗に指している――に乗って大都会に出ていった若い男性と、地元に残った恋人の女性との間のやりとりが歌詞になっており、男性は後半で東京の暮らしが楽しくて帰れないと言い、“涙ふく木綿のハンカチーフください”という女性の言葉で終わる内容となっている。

ここで「木綿のハンカチーフ」の話をしたのは、この曲は、まさにそれが大ヒットした時代の世界観やパラダイム――後でも述べる“幸福”観でもある――を象徴的に表現したものと言えるからである。その時代とはもちろん高度成長期だが、それは言い換えれば人口や経済が「拡大・成長」を続けると同時に、“すべてが東京に向かって流れていた”時代でもあった。

ただし正確に記すと、この曲がヒットした1975年~76年という時代は、すでに高度成長の後半期であり、私は中学2年生くらいだったが、日本は次第にモノがあふれる時代になりつつあり、それまでの高度成長期的な価値観に疑問が生まれ始めていた時期でもあったと思う。かくいう私自身が、ひたすら「拡大・成長」を追求するという日本社会のありようへの疑問とともに育ったのだった。

■経済成長はすべての問題を解決してくれるのか?

ところで、ここで現在の視点から、この歌の続き、いわば“その後の「木綿のハンカチーフ」”を考えてみるとどうだろうか。

東京に残った先ほどの男性は、乗車率300%の通勤電車で会社に通い、半ば過労死する寸前まで働くことになったかもしれない。子育てもままならず――ちなみに東京の出生率は都道府県の中で最低である――、中年を迎えると、故郷に残してきた親の介護問題が発生するが、遠距離介護で親のケアもできない……。

こうした状況や事例が現に数多く起こってきたのである(ちなみに以上のような話は、数年前に参加させていただく機会のあった、東京の「大丸有(大手町・丸の内・有楽町)」地区の今後を考える研究会でも話題となっていた)。

いずれにしても私たちは、「木綿のハンカチーフ」の時代とは全く逆の状況を生きようとしている。

そして、現在の日本社会の最大の問題は次の点にあるだろう。

それは、いま述べたように私たちは「木綿のハンカチーフ」とは大きく異なる時代状況を生きつつあるにもかかわらず、現在の日本には、なお「木綿のハンカチーフ」の時代の世界観にとらわれて、その延長でしか社会や経済やビジネスや企業のあり方、東京-地方の関係、あるいは働き方や「幸福」の意味を考えることができない層が多く存在しており、しかもそうした層が社会の中枢部を実質的に牛耳っているという点である。

異論があるかもしれないが、私から見ると「アベノミクス」はまさにそうした“ひたすら「拡大・成長」を目指すことが幸福をもたらす”という世界観の典型的な象徴に映る。世代的には、団塊の世代をはさんで上下それぞれ10年くらいにわたる世代において、そのような価値観が特に強いだろう。

いささか距離を置いた見方をするならば、ある意味でそれはやむをえない面もあるかもしれない。つまりそうした世代には、高度成長期の“成功体験”――それが本当に「成功」だったと言えるかについては様々な疑問があるが――がしみ込んでおり、また“ジャパン・アズ・ナンバー・ワン”とまで言われた記憶が強固に残っていて、全体として「経済成長がすべての問題を解決してくれる」という世界観から抜け出すことができないのだ。

増税をひたすら忌避し、結果として1000兆円に上る借金を若い世代そして将来世代にツケ回ししているという、現在の日本の異常とも言える状況も、そうした発想――経済成長により税収はやがて自ずと増加し借金を解消することができるという幻想――と一体のものである。

■「定常型社会」という発想――日本の長期人口カーブからの示唆

ところで今年の2月、2015年の国際調査の結果が公表され、前回(2010年)に比べて日本の総人口が初めて減少に転じたことが明らかになった。

以下の図はそうした日本の総人口の推移を、平安時代からの長期の時間軸で見たものだ。http://gendai.ismedia.jp/mwimgs/2/5/600/img_251fbc6a86517c46bc709b46a2569bf7202473.jpg

大きく概観すると、江戸時代後半の日本の人口は約3000万で安定していたが、“黒船ショック”を通じて欧米諸国の軍事力やその背後にある科学技術力に衝撃を受け、これではいけないということでそれ以降は“富国強兵”、第二次大戦後は“経済成長”ということを国を挙げての目標に掲げ、国力の増強に努めるとともにひたすら「拡大・成長」という坂道を上ってきた。

そうした社会のあり方が、ほとんど“直立”するかのような人口の急激な増加カーブとなって示されているわけである。先ほどの「木綿のハンカチーフ」は、こうした「拡大・成長」の時代の後半期と対応しており、この歌の内容がそうであるように、この人口急増の時代とは他ならず“すべてが東京に向かって流れる”時代でもあった。

しかし2005年に前年に比べて人口が初めて減り、その後は上下する時期がしばらく続いていたが、2011年からは一貫した減少期に入り、その結果が先ほどの国勢調査結果ともなっている。そして現在の出生率(1.42〔2014年〕)が続けば、日本の総人口は図にも示されているように2050年には1億人を切ることが予測されている。

この図を全体として眺めると、それはまるで「ジェットコースター」のような図になっており、ジェットコースターが落下する、その縁に現在の私たちは立っているように見える。

私たちは今後どのような社会のありようを構想していくべきなのだろうか。

手前味噌となるが、私は今から15年前の2001年に『定常型社会 新しい「豊かさ」の構想』(岩波新書)という本を出した。その要点は次のようなものである。

すなわち、「拡大・成長」のみを求めて様々な政策を行ったり、ビジネスや社会や教育や働き方等々を考えたりしていくことは、時代状況に大きく合わなくなっていて、かえって様々なマイナスを生む。

むしろ「定常型社会」、つまり経済成長を絶対的な目標としなくても十分な「豊かさ」や、より大きな「幸福」が達成されるような社会を私たちは目指すべきである、という内容である。

定常型社会などというと夢物語のように聞こえるかもしれないが、私が見るところ、ヨーロッパの多くの国々――主にドイツ以北のヨーロッパ――ではそれに近い状況になりつつある。

■新しい発想で「豊かさ」や「幸福」を考える必要性

なぜ「ひたすら拡大・成長を追求する」ということが問題なのか。それは、現在のような状況においてそうした方向を求めると、膨大な借金の将来世代へのツケ回しに加えて、皮肉にも拡大・成長という目標とは逆の結果を生み出してしまうからである。

たとえば先ほど言及したように、出生率を都道府県別に見ると東京が最下位で、沖縄がトップという事実がある。ひたすら「拡大・成長」という方向は、バブル期に言われたような“24時間働けますか”といった発想とも重なるが、そうした姿の代表は最大のビジネス都市たる東京である。

しかし逆説的にも、そうした東京では(子どもを産み育てる余裕もないため)出生率はもっとも低く、それは自ずと「人口減少」につながり、経済成長という目標にとっての最大のマイナス要因の一つとなる。

つまりひたすら「拡大・成長」を追求するという方向が、結果として逆の帰結を招いてしまっているのだ。さらに、東京への人口集中が進めば進むほど、それは日本全体の出生率を下げる結果につながる。

沖縄の出生率がもっとも高いという点も併せて考えると、ここでイソップ物語にあったような“北風と太陽”の話が思い出されるだろう。つまり何でもかんでも「拡大・成長」という発想ではなく、少し肩の力を抜いて「歩くスピード」をゆるめるような方向が、出生率の改善を含め、かえって経済にとってもプラスの結果をもたらすのである。

関連して、労働時間と時間当たり労働生産性の関係を国際比較すると、労働時間の「短い」国のほうが概して労働生産性が「高い」という、負の相関関係が見られるという点も類似した現象と言えるかもしれない。長時間つきあい残業をすれば生産性が上がるというものではなく、むしろ逆なのだ。

さらにこれは経済成長と「幸福」という、近年活発に論じられているテーマともつながってくる。

すなわち世界の様々な幸福度指標ないしそのランキングにおいて、残念ながら現在の日本は一定の経済的豊かさのわりにずいぶん低い位置にある(たとえばミシガン大学の世界価値観調査では43位、イギリスのレスター大学の「世界幸福地図(World Map of Happiness)」では90位であり、今年3月に公表された国連の「世界幸福白書(world happiness report)2016年版」では53位)。

こうした主観面の国際比較は難しい要素を含んでいるので、それを額面通りに受け止める必要はないが、日本が先ほどの人口変動のグラフにも示されるように、あまりにも「拡大・成長」のみを追求してきたことの矛盾がこうした結果を招いている面があるのではないだろうか。

ちなみに、フランスのサルコジ大統領(当時)の委託を受けて、ノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・スティグリッツやアマルティア・センといった著名な経済学者が、2010年に「GDPに代わる指標」に関する報告書を刊行しており(Stiglitz 他(2010))、またこうした動きと関わるものとして、経済学や政治学、心理学等の関連諸分野において「幸福の経済学」と呼ばれる研究が近年盛んになっている。

これは日本に限らず、GDPあるいは経済の「拡大・成長」をひたすら追求する方向性がある種の限界に直面し、新しい発想で「豊かさ」や「幸福」の意味を考える必要があるという認識が、世界規模で共有されつつあることの証と言えると思われる。

■ビジネスと倫理の進化――定常化時代の新たなビジネスモデルへ

ビジネスや企業のあり方も同様である。モノがなお不足していて、人々の消費が大きく伸びる時代であれば、“モーレツ社員”的な働き方も一定の意味があったかもしれない。

しかし現在のようにモノがあふれる時代となり、人々の消費が大方成熟ないし飽和しているような状況において、かつてと同じような行動を続けていれば、それは企業同士が“互いに首を絞め合う”ことになり、結果として経済全体にもマイナスになっていくだろう。それはまた、近年の日本において企業の「不祥事」が後を絶たないこととも関係している。

以上のように言うと、「それは理屈としてはわかるが、しょせん実現不可能な“綺麗事”であり、ビジネスあるいは経済というのは本来『利潤極大化』が至上命令の“弱肉強食”的世界であって、変わることはない」といった反論がかえってくるかもしれない。

しかしそれは違うのである。というのも、日本つまり私たち自身の過去を振り返ると、実は現在とはまったく異なる「経済」や「ビジネス」についての考え方や実践がそこに存在するからだ。

こうしたことを、「経済(ないしビジネス)と倫理の進化」という視点から最後に考えてみたい。

「経済と倫理」というと、現在では対極にあるものを並置したような印象があるが、近代以前あるいは資本主義が勃興する以前の社会では両者はかなり重なり合っていた。近江商人の“三方よし”の家訓がすぐ思い出されるし、現代風に言えば「地域再生コンサルタント」として江戸期に活躍した二宮尊徳は“経済と道徳の一致”を強調していた。

先ほど言及した“黒船ショック”をへて日本が急速に近代化の坂道を登り始めて以降も、こうした世界観はなお一定保たれていた。「日本資本主義の父」とされる渋沢栄一は『論語と算盤』を著し、経済と倫理が一致しなければ事業は永続しないと論じたし、この時代の事業家には、渋沢や倉敷紡績の大原孫三郎のように様々な「社会事業」ないし福祉活動を行う者も相当数いたのである。 

戦後の高度成長期になると、状況は微妙に変化していったように見える。“経営の神様”といわれた松下幸之助が「根源社」という社を設けるなど宇宙的とも呼べるような独自の信仰をもっていたことは比較的知られており、同様の例はこの時期の日本の経営者に多く見られる。

ただし国民皆保険制度の整備(1961年)など福祉や社会保障は政府が行う時代となり、経営者は社会事業などからは遠ざかっていった。当時はモノがなお不足していた時代であり、松下自身が考えていたように、企業がモノをつくり人々に行き渡らせることがそれ自体「福祉」でもあったのである。ある意味で収益性と倫理性が半ば予定調和的に結びつく牧歌的な時代だったとも言える。

80年代前後からこうした状況は大きく変容し、一方でモノがあふれて消費が飽和していくと同時に、「経済と倫理」は大きく分離していった(京セラの稲盛和夫やヤマト運輸の小倉昌男などは例外的ケースかもしれない)。他方では、日本がそうであるように経済格差を示すジニ係数は増加を続け、また資源や環境の有限性が自覚されるに至っている。

しかし近年、“「経済と倫理」の再融合”とも呼ぶべき動きが、萌芽的ではあるが現われ始めているように見える。たとえば「ソーシャルビジネス」や“社会的起業”に取り組む若い世代の言明などを読むと、それは渋沢栄一や近江商人の家訓など、ひと時代前の経営者の理念と意外にも共鳴するのだ。

なぜそうなるのか。もっとも大きくは、本稿で論じてきたように、経済や人口が「拡大・成長」を続ける時代から「定常化」への移行という構造変化が本質にあるだろう。

つまり経済のパイがほとんど大きくならない状況の中で「拡大・成長」時代の行動パターンや発想を続けていれば、先述のように企業や個人は“互いに首を絞め合う”結果になる。あるいは意図せざる形で不祥事に自らを追いやる結果になったり、“ブラック化”してしまったりする。

思えば近江商人の“三方よし”も、二宮尊徳の“経済と道徳の一致”も、渋沢栄一の『論語と算盤』も、それらはみな経済がある程度成熟し、限りないパイの拡大という状況が困難な時代における発想の転換あるいは新たなビジネスモデルの創造という意味をもっていたのではないか。

そこでは売り上げの「拡大」や「成長」よりも、事業の「持続可能性」や「(ヒト・モノ・カネの)循環」といったことが優先的な価値となっているように見える。

そして私たちの先人が現にこうした思想をもち実践者として活躍し、大きな足跡を残したということは、“人口減少社会のフロントランナー”たる私たち日本人が、「定常型社会」の新たなビジネスモデルを築き実現していけることを示しているのではないか。

人口減少が本格化する今、根本からこれからの経済社会のあり方や「豊かさ」、「幸福」の意味、そしてビジネスと倫理の関係性を考え直す時期に来ているのである。

広井良典(ひろい・よしのり)
1961年岡山市生まれ。東京大学教養学部、同大学院修士課程修了後、厚生省勤務をへて96年より千葉大学法経学部助教授、2003年同教授。2016年より京都大学こころの未来研究センター教授。専攻は公共政策及び科学哲学。著書に『定常型社会』(岩波新書)、『人口減少社会という希望』(朝日選書)、『ポスト資本主義 科学・人間・社会の未来』(岩波新書)など多数。『日本の社会保障』(岩波新書)でエコノミスト賞、『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書)で大仏次郎論壇賞受賞。

by めい (2016-05-12 06:07) 

めい

「全員貧乏にさせる運動」を!!
《そろそろ、野党であろうが、与党であろうが構わないが、「経済成長などするわけねえだろう!馬鹿野郎!・・・真実を語る政治が、いつどこの時点ではじまるのか、そこが日本の復活の分岐点になるだろう。・・・いま日本は、世界の最先端、成長のない世界を味わっている。これこそが、人々が21世紀22世紀と地球にやさしく生きるモデルを提示できるチャンスなのだ。先ずは、日本から金持ちを失くそう。全員貧乏にさせる運動が、出発点になる。乱暴なようなだが、これが処方箋NO1である。地産地消、地域主権、内向き国家。それで良いのだ。》

* * * * *

世相を斬る あいば達也
●永遠に消費税は上がらない“法螺吹き安倍”は永遠に嘘をつく
http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/f0ed9369df3a86905aafc01b9cd92abd

今夜のテーマと結論は、見出しの通りで、それ以上の解説は不要だろう。すべて、実績を見れば一目瞭然、経済成長とか、トリクルダウンとか、日本中探しても、ツチノコ探しと同じことで、永遠に見つけることは出来ない(笑)。財務省出身の経済学者が、怒りのコラムを書きなぐっているが、腹立ちはご尤もだが、所詮政治家などと云うものは、一強のファシズム政権運営をしても、こんな程度である。ロシアの学者も、ピント外れな解を出している。以下、朝日新聞、竹中治堅コラム、スプートニク記事を参考に並べておくが、すべてにおいて、ピントがずれている(笑)。

どの記事を見ても、日本の経済政策への解がない。解がないのは当然だ。「ないものねだり」が目標なのだから、政策は、すべて外れる。そろそろ、野党であろうが、与党であろうが構わないが、「経済成長などするわけねえだろう!馬鹿野郎!ねえものは、ねえんだ。何慾ボケ掻いてるんだ。成長したけりや、原動力を出せ!出せねえんなら、つべこべ抜かすんじゃねえよ!諦観ちゅうモノが、日本には必須なんだよ、ボケ!税金が足りねえ、そりゃ、金持ちから引きはがしゃ良いだけ、朝飯前ってことよ。金持ちがいるから貧乏人がいる。みんなで貧乏になれば、みんな幸せってもんだろう?あたぼうじゃねえかよ!序でに言わせていや、国家公務員なんて役人なんてのはさ、8割かた、地方に島流しにしちまえ。過去問しか解けねえ奴らに、霞が関はモッタイね~」

上述のような真実を語る政治が、いつどこの時点ではじまるのか、そこが日本の復活の分岐点になるだろう。少なくとも、市場開放でもないし、自由主義経済でもない。もう、それらはアメリカEUが実験して大失敗しているのだ。いま日本は、世界の最先端、成長のない世界を味わっている。これこそが、人々が21世紀22世紀と地球にやさしく生きるモデルを提示できるチャンスなのだ。先ずは、日本から金持ちを失くそう。全員貧乏にさせる運動が、出発点になる。乱暴なようなだが、これが処方箋NO1である。地産地消、地域主権、内向き国家。それで良いのだ。欧米に倣うなら、この先端イデオロギーに先鞭をつけられるのは、超債権国日本だけなのだ。

by めい (2016-06-01 04:51) 

めい

《国家の経済を、外需に頼るなど、愚の骨頂》!!
《日本が経済成長すると本気で思っている人は本当にいるのか・・・それぞれ、自分の立ち位置があり、「成長神話」を口にしなくなったら、職を失う、そう云う事情主義で、日本の「成長神話」は生き続けているものと推察する。》
《我が国どうすべきなのか?・・・つまりは、縄文の昔からある、自然との共生の中で、編み出される知恵の集積的な、自然発生的価値観が誕生することだ。その価値観さえ確立できれば、充分に豊かで、子供が少なかろうと、働き方が古臭く、非効率であっても、共生に寄与する生き方であれば、充分に満足いく国家は成立しうる。》
《明治維新の誤謬を革命的に変革するところから、すべてが始まるような気がしている。》!!

   *   *   *   *   *

世相を斬る あいば達也
●成長神話に別れを告げよ! 成長は争いの元、定常価値を磨け!
2016年06月01日
http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/2a4384f372e5f759464a7a6445088079

以下は、相当真面目に社会経済問題を論評するジャーナリスト・町田徹氏のコラムだが、昨日のコラム同様に、肝心かなめの部分で、経済成長神話に拘っているのは残念だ。筆者が、執念深く「成長神話」を否定するのは、「成長」が嫌いだとか、信条的に忌避しているからではない。日本を構成している国民、営みをしている商店、内需中心に営みをする企業‥等、日本と云う国を動かしている原動力が、成長する市場があると思っていないことである。つまり、成長の原動力となるマインドが欠落していると云うことだ。

一部、限定的にグローバルな市場と会話をしている企業群は、外需という、他の誰かから奪える市場がある分、多少前向きなマインドがある。しかし、この分野においても、市場フロンティアは飽和状態に到達しているので、グローバル的にも、市場は枯渇傾向にある。何処かの市場を奪っている間に、他の市場を奪われると云うのがグローバル市場の競争なのだから、常に変動的で、国家の経済を、外需に頼るなど、愚の骨頂である。言うは易く行うは難しが、世界の協調だという事実は、歴史が百万遍証明している。

随分長きに亘って、日本では「構造改革」という言葉が叫ばれ続けている。この言葉自体にも「神話性」が潜んでいる。小さな政府を目指し、英米など欧米先進国は「構造改革」なるものを相当に進めているわけだが、それでも、精一杯頑張って1.5~2.5%程度なのである。「構造改革」の進んでいない我が国でも「0%前後」というのは、違いがあるとも言えるが、どっちもどっちの成長力である。ここのところが、今後の経済的な世界を考える時に重要になる。1%、2%の差を求めて、牛を殺したのでは元も子もない。つまり、労多くして益少なし、という徒労に終わる確率の方が高いと判断するのが正しい。

経済学的に、資本主義における資本の利益率と云うものは、歴史的に10%の利益率があることが前提で生きていく「魔物」なのである。資本主義の歴史を振り返っても、実物経済で、利潤率が10%を切ると金融経済的になり、その後、資本は覇権の立ち位置を別途調達すると云う経歴を持っている。この歴史的事実に沿って資本が動くと想定した場合、資本の利益率が2~3%程度になっている現状は耐えがたい状況という事実だ。この件には深入りはしないが、資本の覇権地が米英のウォール街、シティーから、限りなく離れようとしていると云うことだ。今現状は、行き先が定まらないので、IMF、FRBがひねり出すセメダインで、どうにか、くっ付いているに過ぎない。

我が国は、EUのように“ユーロ圏”を作りたくても、中国、ロシア、北朝鮮、韓国が隣人の我が国で、“元円圏”のようなものを作ることは想定しがたい。TPPという“TPP圏”という想定もあるが、日米で市場パイの収奪戦をするだけで、双方に大収穫があるとは、到底思えない。まあ、米国の場合は人工的に作られた国家と云うか集合体なので、日常的に移民という無産化階級を流入させているので、常に「成長の原動力」が調達できる。勿論、その弊害は、今や大統領選で明確に現れ、既得権勢力の度肝を抜いている。トランプ氏の発言では、白人を虐げ、移民を大切にするアメリカだと断言するに至り、ヤンヤノ喝采を浴びている。

それでは、自然国家の我が国において、アメリカのように、グローバルな精神力で、「移民」を受け入れる素地があるかといったら、もう皆無に近い。まあ、多少の移民は、自己都合で制限的に受け入れようか程度のマインドはあっても、「致し方なく」なのは、移民してくる人々にも以心伝心なのだから、上手く行くとは到底思えない。村や町に、他の町から、同じ日本が移住してくるだけで、鵜の目鷹の目の我が国で、これこそ、労多くして益少なく、百害に悩むことになるだろう。宗教的に自由ではあるが、信仰深き人々への配慮にも欠けているので、やはり、選択できる道とは思えない。

今後、日本が経済成長すると本気で思っている人は本当にいるのか、筆者は懐疑的に見ている。それぞれ、自分の立ち位置があり、「成長神話」を口にしなくなったら、職を失う、そう云う事情主義で、日本の「成長神話」は生き続けているものと推察する。国民が、本当は成長なんかしないよなと、或る意味醒めてみている以上、バブル的成長すら望めないだろう。多少いびつにはなっているが、自然国家で、主たる宗教もなく、民族的対立も少ないとなると、世俗的コンセンサスという意外に矮小化された世間で、日本人は生きている。そうなると、日本人には、世界標準のデモクラシーも、グローバルな資本主義にも、移植で云う「拒絶反応」が無意識下において、あるのかもしれない。

さてそれでは、我が国どうすべきなのか?この解を持っているのであれば、blogなど書かずに、もっと生産的活動に携わっている(笑)。日本で出来る「構造改革」霞が関解体くらいのものだが、それも、一時の臨時成長に過ぎない。つまりは、縄文の昔からある、自然との共生の中で、編み出される知恵の集積的な、自然発生的価値観が誕生することだ。その価値観さえ確立できれば、充分に豊かで、子供が少なかろうと、働き方が古臭く、非効率であっても、共生に寄与する生き方であれば、充分に満足いく国家は成立しうる。

歴史修正主義とは意を異にするが、明治維新の誤謬を革命的に変革するところから、すべてが始まるような気がしている。もっと大袈裟に言えば、古事記や日本書紀“出雲起源説―国家神道”に、日本の原点を求めること自体、破棄する勇気が必要かもしれない。このように21世紀のカオスな世界が展開していくにつけ、我々日本人は、日本の特性をあらためて検証し、あるべきものを、より価値あるものにブラッシュアップする発想に立ち返った方が、何らかの選択肢に行きつくのではないかと、日夜ふらふらと考えている。まあ、この辺はイデオロギーなので、あまり多くは語らないでおこう。

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≪ サミットで浮上した「日本の弱点」~こんなに低い潜在成長率で先進国と言えるのか
アベノミクスに募る不信感

■肝心の経済連携はお粗末
先週金曜日(5月27日)、サミット・ウィークがオバマ米大統領の歴史的な被爆地・広島訪問で幕を閉じた。
・『G7伊勢志摩首脳宣言』は、中国やロシアの力による現状変更を認めないことを再確認したほか、テロや難民、租税回避問題に協調して対処すると明言、政治イベントとしてのG7サミット(主要7ヵ国首脳会議)は概して成功したと評価できるのだろう。
・だが、肝心の経済連携はお粗末だ。『首脳宣言』に明記されたのは、世界経済の低成長リスクに7ヵ国が共同で対処するという総論だけである。議長を務 めた安倍晋三首相が目指した財政の協調出動は盛り込まれず、財政政策、金融政策、構造改革という選択肢の中で具体的に何をするかは各国の裁量に任された。 これでは実効性に疑問符が付く協調と言わざるを得ない。
・集まった先進7ヵ国の顔触れを見て、改めて想起したのが、群を抜く日本の潜在成長率の低さだ。財政出動に慎重なドイツが高い優先順位を付けていた構造改革を、どの国よりも必要としているのは、他ならぬ日本なのである。消費増税の再延期はある種の痛み止めに過ぎない。生温い「1億総活躍プラン」や骨抜きの「骨太計画」など、経済政策の練り直しが急務となっている。
・「リーマン・ショック直前の洞爺湖サミットは危機を防ぐことができなかった。その轍(てつ)を踏みたくない」――。 こう述べて、安倍首相が世界経済の下振れリスクを指摘したのは、サミット初日(5月26日)のセッションだった。

■国内政治のためのスタンドプレー
・確かに、8年前の洞爺湖サミットは、土砂降りの経済状況で開かれた。初日は月曜日で、その前週末まで東京株式市場が12日間連続安と54年ぶりの長期的な下げに翻弄されていた。
・筆者は当時、ある連載コラムに、『「G8(主要8ヵ国)サミットは「第3次オイルショック」「食糧危機」「米プライム・ローン危機」「新興国の成長神話の崩壊」と、連鎖的に増幅する世界的な経済危機に対してまったく無力であることを露呈した』と書いている。
・今回、安倍首相は、当時の経験を踏まえて、消費増税の再延期のお墨付きにもなる、G7諸国による財政の協調出動に同意を得ようと試みた。下落が目立つ国際商品市況のグラフなど4種類の資料を示して、首脳たちに理解を促したとの報道もあった。
・しかし、結果は空振りだ。『G7伊勢志摩首脳宣言』は、安倍首相が拘ったフレーズ「3本の矢のアプローチ」の英語版である「the three pronged approach」という文言を盛り込み議長国・日本に花を持たせたものの、肝心の細部では「すべての政策手段―金融、財政及び構造政策―を個別的(individually)にまた総合的(collectively)に用いるとの我々のコミットメントを再確認する」と記すにとどまった。
・つまり、実際に、どの政策をどの程度実施するかは、各国が独自の裁量で行うとしたのである。
・安倍政権は数ヵ月前から、日本の消費増税再延期を含む各国の財政出動という経済協調路線をサミットで演出し、G7諸国のお墨付きを錦の御旗に、ダブル選挙に打って出て、憲法改正の道筋を付けるという壮大なシナリオを描いていたといわれる。そのため、サミット直前に欧州を歴訪するなど、根回しに奔走した。だが、そうした議長工作は不発に終わった。
・ドイツや英国を取材する日本人記者に聞くと、非公式の取材の場では「各国にはそれぞれの事情がある。安倍政権の国内政治のためのスタンドプレーに巻き込まないでほしい」と不満をあらわにする政府当局者が少なくなかったという。

■サミット空振りの遠因
・一方で、『G7伊勢志摩首脳宣言』には盛り込まれなかったものの、日銀のマイナス金利や量的・質的金融緩和策を円安誘導と警戒する見方がG7諸国内に根強いことも改めて浮き彫りになった。
・オバマ米大統領が26日の記者会見で、「すべての国・地域に悪影響を与える保護主義や競争的な通貨の切り下げ、近隣窮乏化政策を避けることが重要 だ」と語り、サミットの討議の中であえてこの問題に言及したことを明らかにしたのだ。この問題では、首脳会議に先立つG7財務大臣・中央銀行総裁会議で も、日本はフランスから釘を刺されている。
・「3本の矢」と言いながら、政権発足以来、肝心の構造改革で抜本策を先送りし続け、その場しのぎの財政政策や金融政策を繰り返してきたアベノミクスへの不信感が、今回、サミットで空振りする遠因になったことを、政府は自覚する必要がありそうだ。
・ちなみに、サミットメンバーである先進7ヵ国の中で、日本の潜在成長率の低さはネガティブな意味で特筆に値する。
・例えば、国際機関のIMF(国際通貨基金)の最新の経済見通しをみると、日本の2016年の実質経済成長率は0.5%で、米国の2.4%、英国の1.9%、ドイツ、カナダ各1.5%、フランス1.1%、イタリア1.0%と比べて圧倒的に低い。 しかも、この予測は消費増税が予定通り行われて、ある程度駆け込み需要が喚起されることを前提にしている。それでも日本は潜在成長率が0%前後と極端に低いため、先進7ヵ国の中で6強1弱の構図になってしまうのである。
・このIMFの予測では、消費増税で個人消費が落ち込むと見られる2017年の日本の実質経済成長率はマイナス0.1%に下落する。これに対して、他の先進国は米国が2.5%、英国が2.2%、カナダが1.9%、ドイツが1.6%、フランスが1.3%、イタリアが1.1%と安定成長が見込まれる。つまり、潜在成長率の低い日本だけがマイナス成長に転落するとみられているのだ。 
・こうした状況では、他の先進国から見れば、日本の消費増税の再延期は、「世界経済の下振れリスクに対する予防策」ではなく、「日本のマイナス成長への転落防止策」としか映らない。

■第2次補正予算に注目
以前から繰り返して述べているように、財政健全化は必要だ。
・しかし、経済がマイナス成長に転落し、税収が落ち込んでは財政再建も覚束ない。IMFの予測を見れば、財政健全化が遅れても、消費増税を再延期せざるを得ないのは明らかだろう。
・報道によると、首相はサミット閉幕の翌日にあたる5月28日夜、麻生太郎財務大臣、菅義偉官房長官、谷垣禎一自民党幹事長と会談し、税率を10%に 引き上げる消費増税を2年半先送りする意向を伝えたという。本稿が掲載される頃には、その調整が完了しているかもしれない。消費増税の再延期は、もはや避けて通れない状況だ。
・そこで注目すべきは、サミットが終了した途端、安倍政権が検討を始めた今年度の第2次補正予算の中身である。消費増税の再延期によって来年度の税収不足が確実になる中で、相変わらずのバラマキ予算を組むのはもってのほかである。
・どうしても補正予算を編成するなら、熊本地震対応で緊急を要するものと、経済の構造改革に直結する投資効果の高いものに使途を絞り込んだ超小型の予算にしていただきたい。  ≫(現代ビジネス:町田徹の「ニュースの深層」)

by めい (2016-06-02 04:58) 

めい

《こんな押しつけがましい言葉に拒否反応を示さないニッポン人はやっぱりヤバい。》

   *   *   *   *   *

ビートたけし 「『1億総活躍』はツッコミどころ満載」
2017年2月4日 7時0分 NEWSポストセブン
http://news.livedoor.com/article/detail/12629656/

 安倍晋三・首相が「一億総活躍社会を目指す」と発表してからはや1年半。昨年6月には「ニッポン一億総活躍プラン」が閣議決定された。いまやテレビや新聞で聞かない日はないこの言葉だが、ビートたけし氏は著書『テレビじゃ言えない』(小学館新書)の中で、「気に食わない」と一刀両断している。

 * * *
 現代のニッポン人を見ていて怖いのは、「世の中を疑う」って気持ちがまるでなくなってしまっていることだ。それは「一億総活躍社会」って怪しい言葉を、みんなが信じられないほどすんなり受け入れちまってるのに象徴されていると思う。

 念のため説明しとくと、これは安倍晋三内閣の目玉プランでさ。「少子高齢化に歯止めをかけて、家庭・職場・地域で誰もが活躍できる社会を目指す」って意味のスローガンらしい。

 だけど、なぜ政権や与党・自民党の中から「こんなネーミングはやめたほうがいい」って声が出てこなかったんだろう。それくらい奇妙な言葉だぜ。

 安倍さん本人が考えたのか、ブレーンやコピーライターが考えたのか、それはオイラにはわからない。けど、とにかく最悪のキャッチコピーなのは間違いない。もう、「一億玉砕」とか「一億火の玉」みたいな、戦時中の危なっかしい国威発揚のスローガンとほとんど同じに見えちまう。

 これだけ世間から「好戦的な首相」と言われているのに、なぜわざわざツッコミどころを自ら作ってしまうんだろう。

 こんなスローガン、「軍国主義を日本中・世界中に思い起こさせたい!」と、あえて狙ってやってるのかと思うぐらいだよ。せっかくならサラッと「一億総活躍」ってだけじゃなくて、「一億総活躍・欲しがりません勝つまでは」ってコピーにしたほうが、狙いがわかりやすかったんじゃないの(笑)。

 だけど、国に「お前ら活躍しろよ」って言われて、「ハイ、わかりました! 頑張ります!」って納得しちゃうバカがどれだけいるんだろう。

 国が国民に「頑張れ」って強いるのは、よくよく考えりゃ「働いて税収を増やせ」「社会保障に頼るな」って言われているのとほとんど同じだろ。

 政府の人間は反論するだろうけど、それってやっぱり戦時中とほとんど変わらないマインドだ。こんな押しつけがましい言葉に拒否反応を示さないニッポン人はやっぱりヤバい。

 だいたいマジメに考えりゃ、「一億総活躍」なんて実現できるはずがない。

 よく「働きアリの法則」なんていうけど、100匹働きアリがいたら、そのうちの20匹は何もしないで遊んでばかりいる怠け者になっちゃうらしい。人間だってそう変わりはしない。国民全員が「活躍」といえるほど頑張るなんてあり得ないよ。

 それに、そもそも「活躍」ってのは、誰かの犠牲の上に成り立つものだからね。誰かが活躍すりゃ、その裏で別の誰かが仕事にあぶれたり、悔しい思いをするのが世の常だよ。

 何をもって活躍したというのか定義もわからないし、説得力がまるでない。それより毎年3万人も出ている自殺者をどうにかするほうが先決だよ。

※ビートたけし/著『テレビじゃ言えない』(小学館新書)より

by めい (2017-02-05 14:59) 

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