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山又さんへの弔詞 [弔詞]

8月22日、山又さんが亡くなった。6日目の葬式で、思い起こすことも多く毎日少しずつ書いていたらずいぶん長い弔辞になってしまった。将棋6段の腕前、何事も段取りのいい方で、戒名も告別式の会場も司会を誰にしてもらうかまでも決めておられたという。私が弔辞を読むことも段取りの中に入っていた。そうでないとしても、私にとっては当然読まねばならない人だった。


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弔 詞


 山又さんこと、江口徳(のぼる)さん、享年九十六歳、自らに向っては数々の道を窮めること深く、外に向ってはその影響及ぼすこと広く、堂々たる人生を終えられました。

 静かであれば埃は立ちません。波立つこともありません。動けば動いただけ、埃も立ち、波も立ち、波紋も広がります。一生を振り返れば言い知れぬ多くのご苦労、ご心労もあったにちがいありません。まわりへの波立ちも多々あったにちがいありません。多くを果された後、昨年脳梗塞に襲われ、以来療養の日々を送っておられました。しかしお盆も過ぎた時、致命的とも言える誤嚥性肺炎によって回復の道を閉ざされ、最後を家でとの配慮からご自宅に帰られました。私が最後にお会いしたのが亡くなられる四日前、穏やかなお顔でした。枕元で和子ちゃんとしばらく昔話をして、「また来っから」とお別れしましたが、次にお顔を拝したのは旅立たれた後のことでした。すべてを祓い清め、穏やかに静かに旅立たれたように私には思えます。

 最後まで心に懸けていただきましたことに感謝しつつ、山又さんと重なる私なりの思い出を振り返らせていただきます。


 遡れば、私の一つ上の和子ちゃん、一つ下の晴ちゃんと共に宮内幼稚園に通った時に始まります。子どもの頃の印象は、先代山又製材創業のおじいちゃんの下、その跡取り、御長男として弟さん達と共に黙々と働く姿であり、また宮内町時代副団長まで務められた消防団活動に於ける颯爽とした御姿でした。自ら残しておられた履歴書によると、それまでの家業を株式会社にして専務職に就かれたのが昭和三十八年、翌年には社長になっておられます。四三歳の時でした。この年から、宮内町商工会から始まり南陽市商工会に至るまで二十四年間に亘って商工会理事を務められています。尽力された南陽ロータリークラブの創設がちょうど会社設立と重なる昭和三十八年のことでした。会社の成長と並行させつつ地域経済界の中核を担ってこられたことがわかります。昭和五十年からは南陽市観光協会理事を十五年間、六九歳まで務めておられます。その他南陽市にとどまらず、社団法人米沢法人会、山形県警察友の会の理事も永きに亘って務めておられます。多くの人脈をお持ちでした。

 謡曲、尺八、将棋等、趣味の世界に於いても、この地では一頭地抜きん出ておられました。

 宮内幼稚園母の会から始まった私の両親と山又さん御夫妻のお付き合いは、料理研究会、ロータリークラブで一緒だったということもありますが、何より楽しみにしていたのは、毎年春、平さんを交えての間に合わせ地蔵様参拝でした。朝早くでかけて参拝の後、近辺のどこかに立ち寄って持ち寄った弁当を食べてくるのでした。いつから始まったのかわかりませんが、私の父が運転をやめる十五年位前までつづいていたと思います。そうしたこともあって、私が家に戻った四十年前、毎週日曜の朝山又さんに家に来ていただいて大竹徹さんとともに謡を教えて頂くことになりました。謡曲の教本を一冊ずつ仕上げてゆく本格的なものでした。結局中途挫折で終ったものの五年位つづきました。私と山又さんとの身近なつながりはここから始まりました。

 いろんなことが思い浮かびます。

 県議選で源ちゃ(髙橋源吉さん)に敗れ、浪人中だった大竹俊博さんを市長にすることになる運動公園問題の発端は、商工会青年部の会合の前にたまたま立ち寄ってお聞きした山又さんからの情報でした。昭和五十九年のことでした。私には、ちょっとしたことで歴史が変わることをまざまざと実感させられたことで忘れることができません。

 ヤマザワの進出に際しては商工会青年部の一員として抗議の陳情に上がったこともありました。しかし後になって思えば、山又さんの先見性に頭を下げざるを得ませんでした。郵便局の誘致にしても山又さんの先見性と行動力は遺憾なく発揮されました。先を読む力に裏付けられた妥協なき合理性はしばしば周囲との摩擦を生み、ご家族は大変な思いもされたことと思います。ただ、いま振り返れば、ご自分の財産をどう公(おおやけ)に活かすかということをいつも念頭にもっておられました。

 昭和二十七年、 和子ちゃんが第一期生であった宮内幼稚園 創園時に始まり、昭和五十二年の学校法人化と全面改築事業、そして三年前、ゼロ歳児から受け入れる宮内認定こども園に向けた移転改築に至るまで、物心両面にわたってご尽力いただきました。寄附金の募集に際しては、「亮ちゃん、いくらすればいい?」とお訊ねいただき、恐る恐る申し上げた金額そのままご寄付いただきました。亡くなる直前にもさらに付け加えていただきました。個人の寄附としては最高額でした。

 双葉保育園への御尽力も長期に亘っておられます。昭和五十一年に社会福祉法人双葉保育園理事になられ、五十八年に第四代理事長に就任、平成十二年まで十七年間理事長を務めておられます。この間、手元の「双葉会九十周年記念誌」によると、昭和六十三年、老朽園舎に指定されるやただちに保育所整備計画に着手され、平成六年に三〇〇名を超す定員を誇る東北屈指の保育園を完成されました。ここに至る御努力と御苦労については直接多くをうかがい、その足元にも及ばぬとは思いつつ、宮内認定こども園建設実現に向けた励みにさせていただきました。

 保育園新園舎完成後は高齢者福祉事業への取組みにも着手され、平成十二年三月特別養護老人ホーム「太陽の里」の完成を俟って理事長を退任されました。現在双葉会は児童福祉十一施設十一事業、高齢者福祉三施設六事業、職員総数三〇〇名近い大組織とのことでありますが、山又さんはまさにその礎を築かれたのだと思います。

 山又さんの頭の中はいつもいろんな構想でいっぱいでした。九〇歳を超えてもなお、あれもしたいこれもしたいと意欲的に見えました。百歳を目指しておられたともお聞きします。道半ばの思いをお持ちかもしれません。しかし私から見れば、堂々たる人生です。

 思い起こす多くのお話の中でいちばん心に残るのは何と言っても、「戦地から復員して帰ったら、親が芳子を嫁に決めてくれていた。あの時程うれしかったことはない。」と語られたことでした。そのことを話された時の顔が今も思いうかびます。そのことが山又さんのその後のがんばりの出発点であり、原動力であったにちがいありません。がんばりぬかれた生涯でした。「おつかれさま」と迎えに出られたばあちゃんの声が聞こえてくるようです。私の両親ともども、間に合わせ地蔵様参拝のあと立ち寄ったあちこちの思い出話に花が咲いているかもしれません。多くに影響を与え続けられた一生でした。私にとってだけでなく、私の両親の生涯にも多くの彩りを添えていただいたことをあらためて思いつつ、感謝と追悼の思いを捧げたいと思います。

 ありがとうございました。安らかにお休み下さい。


  平成二十八年八月二十七日


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大覺院殿双山徳成大居士。


↓御会葬御礼に添えられた和子ちゃんの手紙。

和子ちゃん御礼1.jpg和子ちゃん御礼2.jpg

 ↓『南陽ロータリークラブ 20年のあゆみ』(昭和59年10月)より

山又さん無欠席表彰.jpg集いし友.jpg

 


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