So-net無料ブログ作成
検索選択

獅子冠事務所の今後について(2)「お祭り会館」構想 [地元のこと]

827日の夏まつり実行委員会反省会の席で、ひとしきり公民館改築が話題になった後、「この際宮内として大きな構想を打ち出してもいいんでね?たとえばお祭り会館みたいな。」とけしかけてきたのは隣りの席の遠藤栄吉前議長だった。おもしろいとは思いつつもすぐには具体的イメージを結べなかった私はその時は頭に留め置く程度だった。それが105日、獅子冠事務所役員会の白熱した議論の中で獅子冠事務所の将来とリンクした。人員不足の納所(なっしょ)を補っていつも炊事に関わってきた大友世話役の「これからも獅子冠事務所として続けるのに、あの炊事場ではやってられないよ。」という言葉だった。それまでは、事務所の財政窮状を訴えて今後実行委員会からどれだけ金を引っ張ってくるかが存続の突破口だったのだが、「お祭り会館」にリンクしたことで視界が一挙に開けてきた。


それからして数日前のことだった。頭取の家屋敷まで含めた「お祭り会館」にしてはどうかとふと思った。間もなく会った頭取に話すとなんのためらいもなくOKだった。300坪あると言う。公民館と頭取家の間にIさんの蔵があるがそれは交渉すれば協力してもらえるのではないか。そうすれば現在の公民館をそのまま使用しながらの工事も可能となる。


 

文懇No.5.jpgちょっと寄り道して、30年以上前にさかのぼる。手元に菅野俊男さんによる「文化懇話会 総会関係文書綴」がある。昭和59年から平成5年までの関係書類が綴ってある。菅野氏は宮内郵便局長を定年退職後、地区長会長をはじとする公的な要職をこなされたほか、文化懇話会々長として宮内文化をわれわれ世代に引き継ぐ中心的役割を果された。マメで几帳面な人で、きれいな字で書かれた総会での会長挨拶原稿も綴じられてある。59114日、記念すべき第一回の総会。「・・・我々の周囲には文化的風土の下地が充分にありますが、ややもするとそのまま立ち消えとなるようで、なんとかして郷土の文化を再認識したいと10人程の者が文化センターを拠点として集まり話し合いをしました。この集まりに伊藤長太郎芳武茂介先生という力強い支持者がおられまして、いろいろご指導いただき、我々の目を開かしていただきました。・・・」 ちょうどこの頃だったと思う。商工会青年部に声がかかって喜多屋さんの座敷に集められた。伊藤長太郎さんにお目にかかったのはその時が初めてでなかったろうか。宮内に製糸に関する資料館をつくりたいという話だった。そのための「戦術」を語っていただいた、そんな記憶がある。なぜか「戦術家」のイメージがある。その伊藤氏の大きな働きかけがあって文化懇話会は資料館建設に向けて尽力した。しかし、新山市長から大竹市長に替わった流れの中で頓挫した。頓挫の大きな理由が、あてにしていた吉野石膏からの寄附が断られたことだったことを当時の会報から、いま知った。伊藤氏がその経緯を実に生々しく記しておられる。重要な文章である。そもそも吉野石膏が南陽市を見限って山形市天童市に目を向けてしまった理由がここにあったのではないか、と気づかされた。長いが全文載せておく。文章にかなりの乱れがあるが原文のまま。私には読むほどに辛くなる文章だ。伊藤氏の「策」が須藤社長の気持ちを逆撫でしてしまったのではあるまいか。

 

*   *   *   *   *


郷土資料館開設要望課題の顛末及び今後の対策

      文化懇話会顧問 伊藤長太郎


 郷土資料館の開設上、郷土文化史上最重要課題として郷土の輝しい記録である生糸産業史をその中心にと提唱、文化懇話会としてその実現に取組んで来た。

 昭和二十二年故須藤永次君の御協力を得、二年余にわたる御努力を乞い開設をみた宮内図書館の整備と内容の充実をもあわせ文懇としての念願と致し推進に取り組むことを已に議決した。我々の多年の願望であった郷土資料館の開設がたまたま前市長当時市の市制二十周年記念事業として取り上げることを明示されたのである。

 文懇としては欣喜全力協力を申出で、我々の可能な限りの資料蒐集に先ず力を尽すことを約した。

 一方市の事業として新市庁舎建設まで、永年にわたり使用されてきた現文化センターを内容外装共に充実新装の形態にしていただくことで記念事業にふさわしい地域の文化建造物にと強く要望、吾々文懇としても已にその全面協力のことを約した。

 已にその連動の経過は文懇会報誌に繍々述べてきた。

 ここに残念乍ら大きく支援を期待してきた地元出身の大事業家、須藤恒雄社長へ懇請してきた寄金要請が打切りのやむなきこととなった最終回答を甚だ遺憾乍ら御報告申上げる。

 万止むを得ぬこととして、芳武・伊藤が須藤社長と円満裡にこの取組み中止のことを確認、文懇幹部諸氏に報告してある。

 盟友諸氏と共に協力、力の限りを尽して爾来三年有余直接その先頭に立ちこの課題を提唱した我々としてまた須藤社長との交渉に深く携ってきた顧問伊藤・芳武として誠に慚愧に堪えぬ念いは当然である。会員各位に以下その経緯の大要を述べ諒恕を乞うこととする。

 郷土、その先人の筆頭である結城豊太郎翁が経済界で活躍しておられた当時先輩として私淑なされた日銀総裁井上準之助氏が浜口総理に乞われて大蔵大臣に就任の頃は、國家経済が曽てない多事多難の時代であった。氏が議会における最初の演説に「吾が国の経済の現況その盛衰は一に繊細な生糸の貿易にその命運が託されている」と言い切っておられた。何回となく申しておリ各位も御存じの通り我国開国、明治維新の大革命に際しては生糸の生産貿易による外貨獲得がこれ又国家の興亡を左右し

た至上の課題であった。

 急速な国運の進展は一に蚕糸業に総てが託されていたと申して過言でない。開国から明治・大正・昭和初期とこの事業が盛衰を経ながら国家経済に果した鴻業は歴史の證するところ、この偉大な事業にわが郷土も大きく関り「羽前エキスストラ」と称され、世界に誇る製品を産出、業界に雄飛したことを重ねて申上げる。

 郷土の文化史としてこの産業の歴史を忘却してはならない。郷土に生を享けた者の重大な責務でもある。

 我々が郷土を愛し文化懇話会諸氏と共にこの事にかけてきた課題を是非理解して貰いたい。文懇として自動製糸器械も入手出来た。

 だが放置されたまま已に三年近い今鉄屑と化しつつある。廃品屑鉄となれば僅かの値であろうか。

 然し郷土の輝しい歴史の重みを秘めた資料として、この上ない千金の重みを持ち文化財として誇りうる日もあろう。入手までは所管省を動かし、県関係課の好意をも得たものである。斯業の歴史を語る「殖産益国」の碑も破砕寸前に幸い移設ができた。当地での機械化工業としての製糸業の新発展を語る貴重な証、今此処に文化センターに「歴史の証人」として遺された。又資料の蒐集の懇請に対して厚意をしめして、寄贈していただいた文献類これまた素晴らしい当地域の器械製糸業の創始から昭和に至る迄の斯業の歴史系統を明らかにし、文献として初めて学界にも問え貢献出来る貴重な資料の数々がある。

 我々は外容は兎も角として内容としては大きく希望が持てる状態と衷心喜んで文懇各位と目的に向って前進を誓い合うことが出来た。

 然し一方文化センターはこの侭の形態では物足りない。そこで市記念事業に協力、文化センター本体の大改修、収納庫、展示場(美術品の展示も考え)、同敷地の整備等も含め市当局と協議に入った次第、その大筋は凡そ前回の文懇会報・誌上で報告の通りである。須藤社長からのこの度の「支援要請打切り」は残念乍ら止むを得ぬことと受止めた。

 本文は伊藤が執筆を担当したが、芳武君とは完全に合意し又須藤社長とも円満裡に協議の上解決とした。

 本文の発表については我々の責任で記述することで諒解を得ている。

 須藤杜長のお断りの理由は凡そ次の事情である。

 一、地元の本企画への盛り上りが更にないことが第一、

 二、須藤社長からは先づ地元の方々又地元有力者からの協力如何と問われた。

 三、文懇幹部が須藤社長を初めてお訪ねした折、地元製糸家、有力者で一億円位の寄金をと、又前市長退陣直前の前村山助役との三者御会合の折地元製糸家で一億円位の拠出が前提と同様のことの言かあった由でその上であれば自分も応分にとのことを話された由。

 四、最終の訪問の前に会合の際お断りの理由として「地元某家が反対しているのに自分としては出来ない」と話されたこと芳武氏に聞された。

  これが最終のお断りの理由とされた。

 前項一・二共に須藤社長の意に添い得ず終ったことは事実である。

 三については我々には一億円の拠出等のことは直接申されたことはない。我々は仄聞しただけである。

 それについて額は申さずただそうした寄金は出来ぬ話であることはその都度十分お伝えしながら進めてきていた。

 四については最後の会談を要請した折重大なこととしてその御発言を文書及び口頭で確めた。無論芳武氏に御発言の事であり否定はなかったかそれのみでない旨も一言つけ加えられた。

 先づここで現時点で緊急を要する蒐集資料の中の自動製糸器械の大改修と設置場所の整備である。

 須藤社長にその二点に絞り懇請に及んだ。須藤社長は「地元の貴重な文化財と考えるべきで、当然市当局かこの程度のことはすべきこととして要請さるべきでしょう」との断りの言であった。市民憲章に「高い文化のまちをつくります」ともあり尤もなことと要請を引きこめた。

 我々地元出身の顧問として微力でも一生懸命努めて来たが「生糸資料の展示を主とした郷土資料館の建設等は全く無意味な企画、誰も見に行く者もあるまい」との放言があったと、郷里でそうした足を引張るような発言は如何した事であろうか。

 須藤社長が帰郷の折々必ずしも賛成しないという方々からそうした話を耳にされた由、当初有意義な企画として大いに賛意を表しておられたが、徐々に考え方に動揺を示された発言が後半多くなった。我々は極力そうした考え方の是正に尽した。

 先般お盆でご帰郷の祈も又々「本件で迷惑している」との某家での話が耳にされてこられたことを我々に話された。我々には理解できぬことだ。須藤社長は通例二回程墓参で帰郷され出入りの方々から種々郷里の諸事情を耳にされておられる様であるが郷里の経済上の実態がどの程度ご理解いただいているだろうか。

 又顕彰の課題にも前社長須藤永次翁の顕彰碑建立を含め色々と意見もあったが今回正式に辞退したい旨我々に申し出された。顕彰事業は文懇が会全体として自前で據金の上に実行の方針で進めて米た。凡その資金見通しは已につけて出発した。

 我々と文懇幹部諸氏とこの課題にかけた熱意には行動に於ても充分でない点も多くあったと思う。須藤社長への本課題への期待が杞憂に終ったこと、又経過上前市長時代市当局への説得の不手際等か我々両名にもたであろうと重ねて申しておく。

 願わくば須藤社長の折角のご厚志を差し当り何とか生かしていただくべく文懇としての活動維持費の支援をお願いした。市を通して五千万円の基金を文懇幹部のお願いとして参上した。一応案を持参するようにとの回答をいただいた、市が基金を受入れて利子を文懇に支給の事は市として難かしいとのことで、まだ案を作成していないことをきかされた。

 この際須藤社長が折々申しておられたように、このような企画を考え直すことが必要といっておられた事を考慮市全域一体となり全市的視野で「文化財団」を結成の方針として基金を要請のことを提案した。

 基金の額は今までの経過を考慮して参億円としてお願いすることで要請額とすることとした。金額算定の基金は資料館課題の文化センター大改修、資料展示場兼美術館展示場、収納庫の概算額参億円としていたこと、今ひとつの考え方として須藤社長より要請中の最終段階で初めて金銭上の氏の考えとして示された額、市としての当面臨時的な市財政上の出費予算額の10%程度であれば話の理解できるとのお話があったことを基準と考えた。当時市の責任者それぞれの発言に、国体費概算額十五億円(前収入役 正式市主催の文懇委員参加の合同協議会の席上の発言)、歴史資料館構想の概算五億円(前市長参加の文懇との話合い席上渋谷教育長の提示額)他に結城記念館・図書館移転設立用地として入手の土地代出費額凡そ弐億円が已に支払われていた。文化センター資料館開設費用とし市が正式に協議会開会に提示した額が四億円余であった。

 計弐捨七億その10%弐億七千万円それに文懇とし願出中の五干万円を加算凡そ参億円、両者共に約参億円が適当なお頴いの額で一応要請額と考えた。然しこれまたお断り受けた。須藤社長のこうした要請に対し現在は総て地域市民応分の據出が前提でとの考え方を示されてきた。

 それ以外の方針での我々の要請は受入れられないとのことであり、このことを堅持されていると認めざるを得ないとの結論である。

 我々両名は最終会談には須藤社長と十分胸襟を開いて郷里の事情を話合い、我々としての要請のお願いはこれで終結とした。

 今後は市が直接須藤社長に何等かの地元えのご配慮を我々の立場では折角の善意を実らずに終ったが市の立場で社会還元の御厚志を懇請されることを期待、須藤社長にもよろしく御配慮をとお願いしておいた。

 近く大竹市長にもその旨お伝えいたし、市としての要望があれば市議会にも諮り須藤社長の折角の善意を意義あらしめて戴きたい旨申し上げることとする。

 然し乍ら当面文懇として蒐集した貴重な文献諸資料等の保持は前述の如く緊急を要する課題である。又、自動製糸器械の改修並に今後の資料蒐集等は何とか我々としても可能な事である。市に資料館の開設を期待それに備えて文懇として現保有物件一切の寄附を申出て市に採納を乞うこととしていただきたい。

 但し蒐集物件の修復等の費用は有志の者として、市への寄附金で賄っていただきたい旨の御約束は已に申出てある。文懇は市当局と十分協調将来の郷土資料館開設に前進を期して戴くことを衷心各位に希求して擱筆のこととする。


*   *   *   *   *


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0