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獅子冠事務所の今後について(3) 膨らむ構想 [地元のこと]

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日本各地の「お祭り会館」を検索してみた。意外と少ない。たいてい山車が主役。たしかに宮内も南部子ども神輿の山車の保管場所に困っているのでちょうどいい。しかし、宮内のお祭りで常時見世物にするほどのものはない。それで思いついたのが30年前の資料館構想だった。手っ取り早いものとして鈴木孝一氏の宮内郷土資料館「時代(とき)の忘れもの」がある。宮内に縁ある者にはほんとうにありがたい資料館だ。「未来トーク」で話を出す前に了解を得ねばならない。「お祭り会館的施設に資料館を併設してもらうとして、孝ちゃんの資料そっくりそっちに移すように考えてもいい?」孝ちゃん、「いいどごでね」。孝ちゃんも根っから宮内のことを思っている。その気持ちあってのここまでの蒐集だった。奥さんからおいしいお茶を出していただいての立ち話。―― 


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この前の土日の1516日、熊野大社での「菊花秋月」の催し、あれがものすごくよかった、若い人の発想で菊まつりを考えればまだまだ可能性は開けてくる、という話。町中菊でいっぱいにしようというのはかねてからの孝ちゃんの考えだ。新しい会館を菊まつりの拠点にするのもいい。熊野大社だけでなく宮町通りも菊でいっぱいにする。これまでの菊花にこだわるのではなく、ああいうアレンジメントだっていい。若い人にはその方がずっと魅力的なんだから・・・話題は菊まつりへ。というわけで夜の「未来トーク」、「宮内公民館+獅子冠事務所+山車保管施設+郷土資料館+菊まつりの拠点施設」と構想は大きく膨らんで語らせていただくことになったのでした。


そして一昨日(20日)、私の思いの中ではなんとか実現したいというところまで形を整えてきたこの構想、私なりに整理しておかねばと書き始めたこの記事ですが、ふと文化懇話会のかつての構想のことが思い起こされ、菅野俊男会長の綴りと会報を引っ張り出し、めくっているうち伊藤長太郎さんの文章に出会ったのでした。

 

吉野石膏の須藤恒雄社長には二度お会いして思い出話を語っていただいたことがあります。最初は菖蒲沢の水園で、そこで語り足りなくて「会社に来い」と言われて東京まで行ってきました。「週刊置賜」の取材というかたちで、置賜タイムス社の木村さんと一緒でした。2回に亘ってお聞きした貴重な話は「週刊置賜」の記事になっています。こんなやりとりがあった。


*   *   *   *   *

 

須藤恒雄会長.jpg

 — 世の中、こういう不景気不景気という中で、吉野石膏㈱は全然株式公開もなし、日本の企業の中では特殊な存在ですね。シェアが七〇〜八〇%占めているという会社を、どう考えればいいか・・・? 

〈須藤会長〉いやあ、ホントは株式公開でもしてね、皆さんから資本を集めれば良かったんだろうけども、うちのコンビナートはねえ、みな大会社なものだから、こっちは金を調達する必要が無かったわけだよ。みな資本金何十億という会社だから。三菱化成だって、三菱金属、住友金属鉱山、今はコープケミカルなんてなってるが、農協系の新潟硫酸だとか・・・サインすればどこの銀行でも何億でも出すところだから、金が要らなかったんだなあ。

 今、うちは資本金六億だけども、本当は株式を公開し、資本金六十億くらいになっていればよかったのよ。本当はネ。資本金だけは全然増やす必要なかったもんだもな。増資して他人に株を持たせるなんてこと、出来なかったわけだ。そういうコンビナートばかりなもんだからね。

   ・・・・・・・・・・

 ― このままの形熊でずーっといきますか?

〈須藤会長〉まあ、景気がどうなるかね、どんどん家でも建つようになんないと。金利がいくら安くても、使えないだろう、どこの企業もリストラだ、リストラだという中では。少しくらい給料安くても、大勢使うというのならいいけど、既存の額を減らすわけに行かないものだから人数を減らす、これは問題だ。

須藤会長と衣袋監査役.jpg

〈衣袋監査役〉建築業、銀行、証券会社といった一番人数の多い所が、減らし方やってる。景気良くなる要因がないんだなあ。   

 ただ、ここ五、六十年のことを考えると、終戦直後は[掘って掘って」って炭坑ね、黒もの。そのあとは三白景気って、セメント、肥料、砂糖。その次がガチャ万景気って言って機織り、そして弱電、自動車と、みんなおかしくなって行った。

 ところがウチの場合、ぱかげた好景気は無いんだけども、スローカーブでずーっと上がってきている。人間が住む以上は、住宅が必要だからねぇ。   

 ― 明治34年(一九〇一)創業ですから二年後には百周年を迎えられるわけですが、会社の重大な危機というのは無かったのですか?

〈須藤会長〉俺が引き継いでからは無いな。それまではそりやあ大変だった。財産も何も無くて始まった事業だからねえ。   

 俺の時代で危機が無かったということはね、やっぱりいい部下が俺を助けてくれたということだよ、いい部下が沢山いた。優秀な技術屋が何人か居て、俺を助けてくれる部下が大勢いたということだよ。

 仕事なんていうものは、一人で出来るもんじやない、大勢の社員たちが社長と同じ気持ちになってやってくれなきやね。企業は人なりという、その人に恵まれたということだね。

 

   *   *   *   *   *

 

一緒にインタビューした木村さんが「大きな存在感が人を圧倒するのではなく、包み込むような温かい人柄を感じた。」と評している。その通りの方だった。

 

対して伊藤長太郎さん、伊藤さん自身、石膏ボードの会社を立ち上げて倒産の憂き目にあっておられる。須藤さんとは昵懇の間柄だったはずだ。(芳武茂介さんは須藤さんとは長井中学の同級生、その縁での同席か。二人の親密度についてはわからない。) 私の伊藤さんに対する印象は「商人的」ということだった。石黒龍一郎さんが、宮内の製糸業について、製糸工場の経営者というのは、工業的感覚での経営というよりむしろ、商業的才覚での経営であったという事実があります。つまり、工場内の品質管理、品質の向上とか、生産工程の能率化という工業的なプロセスにそのエネルギーを使うよりは、何とか商売で当ててもうけてくれましょう、うまく相場の波にのりましょう、原料を安く買いましょうという方向へ精力を傾けてきました。その結果、純粋な工業的認識に乏しく、この地には工業技術の蓄積というものが、ごく一部を除いては無い、つまり技術的に成長しなかった。この風潮は今も尚、底流となって宮内の工業の中にあり、それが欠点のひとつではないかと考えられます。》と語られた。根っからの宮内人である伊藤さんは明らかにその系譜にある。せんべい作りを業とした龍一郎さんはこう続ける。《われわれ工業人は、戦前の商業主義的工業の範躊を脱し、より高度なものへの激しい挑戦の意欲をもった「工業する心」を確立してゆくことが第一の課題であります。商業主義的工業、準工業的姿勢ではどうしても装備は軽装になりがちであり、身軽でありがちです。われわれは「技術力」という有形の財産にも劣らない無形の財産を残すにはどうするか、深く考えるべきだと思われます。》『いかにして”南陽衆”たりうるか?! 報告書』1980) 須藤恒雄会長は、龍一郎さんが範とする、まさに「工業する心」を持つ方だった。伊藤さんの文章を読みつつ、二人の間のギャップの大きさを感ぜずにはいられなかった。

(つづく)


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