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藤沢周平著「漆の実のみのる国」を読んで(承前) [上杉鷹山]

『漆の実のみのる国』を読み進める中、「開運なんでも鑑定団」に山田方谷の書が出たのを観た。本物だが傷みがひどいので5万円の評価だった。鑑定士の田中大さんは、「山田方谷が素晴らしいのは上杉鷹山が50年以上かかった改革をたった10年足らずで成し遂げたこと」とコメントした。鷹山公の名前が出たことをうれしく思いつつ、10年と50年の差を思った。考えるに山田方谷は、主君である備中松山藩主板倉勝静(かつきよ)に勘定奉行に任ぜられた財政家としての働きであった。対して鷹山公は、君の立場で臣を動かしての財政改革であった。藤沢周平が描こうとしたのは、「明君」としての成功物語ではない。臣とともに厳しい藩政に取組む等身大の鷹山公だった。行きつ戻りつ煩悶しつつの藩政改革であった。いつになっても到達点の見えない50年の歳月の一端だった。一方方谷はといえば、君板倉勝静は、鷹山公を「三百諸侯中随一の名君」評価した白河藩主松平定信の孫である。鷹山公と方谷はほぼ半世紀の年代差、方谷にとって鷹山公はたしかな指標として意識されていたにちがいない。方谷には到達点が見えていたのである。鷹山公の業績あっての方谷であったように思う。


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著者は執筆に先立って米沢周辺を取材して回った。連載が1月号から始まった年、平成510月のことだ。4年後の平成9126日に逝去69歳。その年の9月、当時の同行者を取材した記事が山形新聞に載った。「あまりしゃべらず、寡黙な人だったが、偉ぶったところはなく、にこにこしていた。取材でもメモは取らなかったなあ。体調を気遣って足取りはゆっくりだった」とは小野さんの印象。”収穫”は偶然に訪れた。南原に向かう車の中で、斜平山(なでらやま)に漆の実がなっているのを小関さんが見つけた。車を止め、斜面を少し上って採った実を小関さんが差し出すと、藤沢さんは一言「これは・・・」。「どうも漆の実を実際にご覧になったことがない様子だったので、たまたま見つけた実を採ったのです」と小関さん、藤沢さんはそれまで、漆の実をかなり大きなものだと思っていたらしい。》(『藤沢周平と米沢―『漆の実のみのる国』から」山形新聞 平9.9.10)その時の体験は翌611月号の『漆の実・・・』連載に反映する。《 領内を埋めた百万本の漆木は、秋になるとどんぐりのような実をつけ、晴れた日は実は日に光り、風が起きると実と実はたがいに触れあってからからと音を立てるだろう、山野でも川岸でも、城下の町町でもからからと漆の実が鴫り、その音はやがてくるはずの国の豊饒を告げ知らせるだろうと思ったものだ。/ 実際には、その後治憲が見せられた漆の実は、総(ふさ)状の小枝の先についた米粒のように小さなものでしかなく、治憲は自分の思い違いに一驚を喫することになったのだ》(山形新聞による)。ところが単行本にこの文章を見つけることができない。こう変わっている。《「漆の実の大きさはいかほどのものか」/「いたって小さな実にござります」/「ほほう、小さい……」/ 治憲はまだ漆の実を見たことがなかった。ただ漠然と、それはどんぐりのようなものであろうと想像していた。さきほどの当綱の説明で、その想像は若干の訂正を余儀なくされて、どんぐりのような実は総状にかたまって稔り垂れるものらしいと思ったものの、大筋で変化があったわけではなかった。/ いま当綱は実は小さいという。治憲はそれで残っていたいささかの疑いがとけたように思った。櫟(くぬぎ)の実のように大きくては、総のごとくついては重すぎないかと思ったが、それは同じどんぐりでも小楢の実のような、かなり小さなものであるらしいと治憲は想像した。/ 植立てが実施され、十年、二十年たてばこの国は三木(漆・桑・楮―引用者)、とりわけ市街地にまで植立てられる漆の木で埋めつくされるだろう。そして実が生る秋、それも今日のようではなく、目も青く染まるような晴れた日は、いささかの風にどんぐりのような実はからからと音を立てることだろう、と治憲は思った。》(下22-23p))連載ではいったんあきらめたかに見える「からから」の音が、単行本では小さいなりに復活している。さらに連載での「思い違い」からの「一驚」は、単行本では最終章最後の文章に次のように変わっている。《・・・いま鷹山の胸にうかんでいることは亡妻のことではなく、漆のことだった。/ 米沢に初入部し、国入り前に江戸屋敷から国元にむけて大倹実施を発表したことで、入部するや否やむかえた藩士たちの憤激を買い、嘲罵ともいうべき猛反対の声を浴びてから五十年が経過している。白子神社におさめた大倹執行の誓文。竹俣当綱によって、漆の実が藩の窮乏を救うだろうと聞いて心が躍ったとき、漆の実は、秋になって成熟すれば実を穫って蝋にし、商品にすると聞き、熟すれば漆は枝先て成長し、いよいよ稔れば木木の実が触れ合って枝頭でからからと音を立てるだろう、そして秋の山野はその音で満たされるだろうと思ったのだ。収穫の時期が来たと知らせるごとく。/ 鷹山は微笑した。若かったとおのれをふり返ったのである。漆の実が、実際は枝頭につく総のようなもの、こまかな実に過ぎないのを見たおどろきがその中にふくまれていた。 (完)》(下267p)連載初出の文と照合してみたくなって、『文藝春秋』平成93月号をさがしたが、ネットでは見つからない。

 

鷹山公が実際の漆の実を知ったそのときの「おどろき」、その背景には作者の実体験があった。実体験での「驚き」と最後の文章に込めた鷹山公の「おどろき」との間に流れる心の動きを知りたいと思った。藤沢周平最後の文章だけに、読む人が読めば感ずるところも多いのではないだろうか。私も熱心な読者になってみようかと思い出している。

 

昨日の山形新聞「気炎」欄、天見玲さんの「藤沢周平の在り方」が深く心に残った。《生き方よりもどう在ったかの方がはるかに大事で、面白い。》! 思わずわが身をふりかえった。

 

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藤沢周平の在り方


 無口で控えめで静かな物腰、弱者へのいたわりに満ちた穏やかな表情、どんなことがあっても浮か

 「オール読物」今年2月号は藤沢没後20年を記念して「藤沢周平の美学」という特集を組み、藤沢の娘・遠藤展子と作家阿川弘之の娘・阿川佐和子との対談を載せた。展子の気の強さは両親のどちらに似たのかを問われて展子はこう答えている。〈おそらく父じゃないかと。表には出さないし、穏やかで外面はいいんだけれど、実は気は強いし、好き嫌いもはっきりしていました〉

 同じ対談の中で展子はこんな話も紹介している。展子が小学1年生のころ、出勤前の藤沢が朝ご飯を食べていた。その朝、卵が1個しかなかった。母は働いている夫を気遣って藤沢の味噌汁に卵を入れた。娘に卵がないのを知った藤沢はちゃぶ台をびっくり返した。娘のことに関してはキレやすいところがあった—。

 展子が幼稚園児の時、先生に手提げ袋を持ってくるよういわれたが、持っていなかった。父は先生から借りた手提げ袋を見本に一生懸命に手提げ袋を作った。その姿を展子は夜、ふすまの隙間から見ていた。展子が生まれて8ヵ月にして生母が病死していたのである。翌朝、お膳の上には父の作ってくれた手提げ袋が置いてあった。このエピソードは展子の著書「父・藤沢周平との暮し」に出ている。

 これらはその時その時に藤沢周平がどう在ったかを物語る。生き方よりもどう在ったかの方がはるかに大事で、面白い。(天見玲)

 

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以下は平成9910日山形新聞「藤沢周平と米沢(下)」。

 

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取材旅行が原点に

驚きの回想小説に反映


 米沢での講演会から一夜明けた平成51017日、藤沢周平さんは連載中の「漆の実のみのる国」の取材で置賜各地を回った。訪れたのは宮内の青苧織り、長井の青苧栽培農家と最上川の船着き場、米沢に移動して、鷹山公が家督を継いで米沢藩主となった時に誓詞を奉納した白子神社、中国の故事にならって自ら田植えをした籍田跡、側室お豊の方の墓がある林泉寺から、南原へ。同行したのは文芸春秋の担当者2人と、地元の米沢市市編纂専門員・小野栄さん、米沢有為会理事の小関薫市議会事務局長(当時)だった。


  ◆偶然手にする

 「あまりしゃべらず、寡黙な人だったが、偉ぶったところはなく、にこにこしていた。取材でもメモは取らなかったなあ。体調を気遣って足取りはゆっくりだった」とは小野さんの印象。”収穫”は偶然に訪れた。南原に向かう車の中で、斜平山(なでらやま)に漆の実がなっているのを小関さんが見つけた。車を止め。斜面を少し上って採った実を小関さんが差し出すと、藤沢さんは一言「これは・・・」。「どうも漆の実を実際にご覧になったことがない様子だったので、たまたま見つけた実を採ったのです」と小関さん.

 藤沢さんはそれまで、漆の実をかなり大きなものだと思っていたらしい。取材の翌年の11月号には次のような一節が載った。藩の収入を増やすため、執政竹俣当綱が熱心に進めた漆百万本植栽計画に触れたくだりだ。


  ◆町に鳴り響く

 「領内を埋めた百万本の漆木は、秋になるとどんぐりのような実をつけ、晴れた日は実は日に光り、風が起きると実と実はたがいに触れあってからからと音を立てるだろう、山野でも川岸でも、城下の町町でもからからと漆の実が鴫り、その音はやがてくるはずの国の豊饒を告げ知らせるだろうと思ったものだ。

 実際には、その後治憲が見せられた漆の実は、総(ふさ)状の小枝の先についた米粒のように小さなものでしかなく、治憲は自分の思い違いに一驚を喫することになったのだ(後略)」


  ◆小さいんだな

 「この鷹山公の驚きは、藤沢さん自身の驚きの反映だったはず」と小野さんは語る。この時漆の実を見て、小野さんは思わず「こんなに小さいんだな」。「あなたも知らなかったんですか」の言葉が藤沢さんから返ってきたという。小説のタイトルにもなった漆の実の記述が、米沢での取材から生まれたのは、登場人物がかつて活躍していた「場の力」と言えようか。

 ろうを取るため幹に傷のついた漆の古木を南原で見て、取材旅行は終了。藤沢さんは白布温泉に一泊して翌日、米沢を離れた。この時藤沢さんが二人のために書いた「軒を出て 犬寒月に 照らされる」「花合歓や 畦にあふるヽ 雨後の水」の色紙を小野さんと小関さんは今も大切に持っている。


  ◆残り3分の1

 取材後も、小野さんの元には藤沢さんから名前の読みの問い合わせがあった。77月に届いたはがきには「『漆の実・・・』は、感じからいうと残るは三分の一という気がしております」とある。しかし去年春から休載、そして今年一月の死。「あと二、三回で完結したんだろうけど、本当に惜しい人を亡くした」と小野さんは残念がる。

 三月号に遺稿として掲載された原稿用紙六枚分の「結び」。鷹山公が小説の終わりで考えていたのは、漆のことだった,初めて漆の実を見て感じた驚きの回想が、大作を締めくくる。「最後の文章は、小野さんと私に対するメッセージではないか、と感じましたね」小関さんは、しみじみと語る。

 漆の百万本植栽は計画途中で頓挫したが、同時に進められた桑の植栽は米織振興に貢献。莅戸善政の藩政再建が功を奏し、年貢が完納されるようになったのは、鷹山公の死の年だった。{鈴木雅史)


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