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文藝春秋4月(平成9年)臨時増刊号『藤沢周平のすべて』 [藤沢周平]

『藤沢周平のすべて』.jpg












藤沢周平が亡くなったのが平成9126日。その後間もなくの文藝春秋4月臨時増刊号完全保存板『藤沢周平のすべて』が届いた。開いていたら新聞切抜き2枚がハラリと落ちた。訃報記事だった。ことのほか貴重に思えた。一枚は「日刊ゲンダイ」、もう一枚は砂川しげひさの漫画から朝日新聞とわかった。(記事クリック拡大) 

さようなら藤沢周平さん.jpg藤沢周平訃報記事.jpg

無着成恭さんの追悼文があった。山形師範の一級先輩であった。高畠町夏刈の「紅一点」が出てきてうれしかった。日本の教育について、根源を衝く指摘があった。《どんな道徳でも世界宗教といわれる宗教が基礎になっているのに、明治政府は世界に通用する宗教を拒否して、世界的に見れば極めて特殊な日本教=天皇をご神体とする新宗教をつくり、国民支配の道具にした。教義がないので「教育勅語」というお経をでっちあげて全国民に暗誦させた。その結果としての日本。パーセンテージから言えば、学歴が高いほどウソつきや偽善者が多く、学歴が低いほど正直者が多い。そういう教育構造を持つ国家の一員として、「ずいぶん手間どりました」と言える日がくるのだろうか。》今の天皇退位問題につながる。「学歴が高いほどウソつきや偽善者が多く、学歴が低いほど正直者が多い」との慨嘆は藤沢周平にも通ずる共通感覚ではなかったか。ひいては山形県人にかなり共通する感覚と言ってもいいのではないだろうか。


*   *   *   *   *


その日

無着成恭(福泉寺住職)


 七十歳過ぎたら、藤沢さんのところへ遊びに行く―と心に決めていた。

 私も藤沢さんも昭和二年の生まれ。私は三月で藤沢さんは十二月。今年の誕生日がきたら七十歳であった。

 会わねばならぬ用向きはなにもなかった。なにもないのだが、藤沢さんの作品を読むたびに、このことを話したい、あのことも話したいという思いがつのった。もちろん、それは私の側からの一方的な片想いで、藤沢さんは全く知らないことである。私のような男から惚れられているということを知ったら、藤沢さんはどんな顔をするか。ああ、ここにも私の読者が一人いた―という程度で軽くうなずいてくれたらそれでいいのだが。迷惑がられるかも知れないなという不安もあった。

 しかし、それでも私は、古稀が過ぎたら、「出羽桜」か「寿」か「男山」か、あるいは「紅一点」か「樟平」か、藤沢さんが庄内の酒がいいというのなら「初孫」とか「大山」を探して持っていこう。

「もしもし。藤沢さんですか。ぼく無着成恭です。突然電話してごめんなさい。今日電話したのは、あなたと山形の酒を一度のみたいという用件なんです。古稀も過ぎたので、一度あなたと飲んでから死にたいんです。同じ学校の屋根の下で二年間も一緒だったのに、たったの一度も、あなたと酌み交わしたことがないんです。このまま死ぬのが残念で、古稀が過ぎたら申し込もうと思ってたんです。ご迷惑でなかったら、お願いします」

 こんなセリフを頭の中でくりかえしながら、住所と電話番号をひかえてその日がくるのを待っていた。

 山形師範学校では私が昭和20年組、藤沢さんは21年組であった。

 昭和20年組というのは、戦争中に本科生になった学年ということである。予科の二年と三年が同時に進級し、旧制中学からは人数に余裕がなく約二十名しか採用されなかった。ところが八月十五日の敗戦で、十月、軍隊の学校にいっていたものが約百名合流してきた。加えて、女子師範を合流させて男女共学になり、それに青年師範まで加えて、同学年が、約五百名という異常さであった。

 昭和21年組も、敗戦直後のごたごたや学制改革などの影響を受けないわけはなかった。それでも人数は三百人をこえる程度で、20年組よりはまとまりがあったように思う。

 そういうわけで、小菅留治さん(本名)と私は、同じ時代、同じ屋根の下で二年間、学んだという程度の御縁でしかない。廊下ですれ違った程度といったらいいか。

 小菅さんたちが「砕氷船」という同人誌を作ったと聞いたとき、「砕氷船か。なるほどいい名前だLと思った。けれども私は厚い氷を割るために、この学校ではまず学生・目治の組織が砕氷船だなんて考えていた。

 いや、そう言い切っては半分ウソになる。私は、自分の生まれた村の同人誌「草酣(そうかん)」に拠っていたからである。私が生まれた村には結城哀草果先生がいて、日本野鳥の会会長の中西悟堂さんが疎開していて、川ひとつへだてた隣り村が斎藤茂吉先生の生家だったりして敗戦直後からいくつかの同人誌が活動していた。私の目はそっちの方に向いていて、「砕氷船」の方には向いていなかった。

 あれから五十年。五十年前はまるで別々の地点に立っていたのに、今は、体温が伝わってくる程の近さにいる。そう感じる。それは藤沢周平さんにだけ感じるのではない。同じ頃に生まれ、同じ時代を共有している作家からは多かれすくなかれそういうものが伝わってくる。たとえば、吉村昭さんの「戦艦武蔵」、とくに「戦艦武蔵ノート」や「総員起シ」を読んだときなど鳥肌が立った。ちょっと、先輩になるが、山本七平さんの「一下級将校の見た帝国陸軍」や「私の中の日本軍」を読んだときも、心の申にスッとはいってきた。

 それが藤沢さん。あなたの書いたものを読んでいると、乾いている心がしっとりと潤ってくるのだ。

 たとえば、「秘太刀馬の骨」を読んだとき、子どもを亡くした杉江さんが、夫の半十郎を拒否し躁鬱をくりかえしている。その杉江さんが子どもを人質にとって脅している浪人者をピシリとやっつけて子どもをとりかえす。そのあと、

「ずいぶん手間どりました。さあ、はやく帰って旦那さまのお夜食を支度せぬと・・・・・・」

 というセリフがある。

 私は、この一行を何度読んだかわからない。

 ジーンとくる。涙がでる。

 藤沢さんは、たったこの一行を書きたくて「秘太刀馬の骨」という小説を書いたんだなあと思う。

 「ずいふん手間どりました」

 この言葉、この小説の中で、二重の、いや三重の意味がある。

 「衰えて死がおとずれるそのときは、おのれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終ればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽して生き抜かねばならぬ」・・・『三里清左衛門残日録』の最後にでてくる藤沢周平さんの言葉だ。これは、「夜ふけて離れに一人でいると、突然に腸をつかまれるようなさびしさに襲われる」清左衛門が最後に悟る心境として書かれている。

 ところで藤沢さん。あなたが「半生の記」の中でコア・カリキュラムのことにふれ、「好意的にではあるが(臼井吉見は無着さんの授業を見て)りムチャクチャの即興的なものだ』と書いてあるが、無着さんはコア・カリキュラムの教案にしたがって綿密にすすめられたのだと思うしと書いてくださった。だが、これはやはり臼井さんの方が正しいと思う。なぜなら子どもの疑問や質問は体系的にはでてこないのだから。

 それから、これは小説とは開係のないことだが「密謀」下巻の二五四ページ(新湯文庫)あたり、「直江兼続は山形城の西北菅沢山に陣を布いていた」とある(但し、西北は西南の誤りです)、この菅沢山が私の少年時代の遊び場だった。『兼統は菅沢山の本陣から東北の方を見ていた」というその本陣が私が生まれた澤泉寺というお寺である。お寺の位置は今よりも高く、水の湧きでる岩井戸の前。それから私、無着成恭の四代前までは栗林姓の、上杉の足軽。中山城の栗林となっている。明治維新のとき食えなくなって祖父があずけられた寺が無着禅師の系統だったので、弟子一同、無着を姓にして役場に登録。ついでに私の父は明治維新に批判的で、伏目がちに「われわれ東北人は賊軍だからしと言ったのをきいている。

 どんな道徳でも世界宗教といわれる宗教が基礎になっているのに、明治政府は世界に通用する宗教を拒否して、世界的に見れば極めて特殊な日本教=天皇をご神体とする新宗教をつくり、国民支配の道具にした。教義がないので「教育勅語」というお経をでっちあげて全国民に暗誦させた。その結果としての日本。パーセンテージから言えば、学歴が高いほどウソつきや偽善者が多く、学歴が低いほど正直者が多い。そういう教育構造を持つ国家の一員として、

 「ずいふん手間どりました」

 と言える日がくるのだろうか。

 日本人は明治以後、軍国主義教育で、地獄に突きおとされ、戦後は経済主義教育で地獄に突きおとされた。二度あることは三度あるということになるのか。それとも、三度目の正直で、やっと「ずいぶん手間どりました」となるのか。

 藤沢さん。あなたはそんな過激なことは言わない。けれども阿じ山形県人なのに、なぜか私は言う。しかし、藤沢さん。あなたは表面は静かだが、内面は私よりも激しい。

 あなたと会うのがたのしみだ。電話をすれば藤沢さんは、たぶん時間を作ってくれるだろう。師範学校の頃のこと、大東亜聯盟の石原莞爾将軍のこと、大川周明博士の「日本二千六百年史」のこと、そして、自分の教え児のこと、日本の教育のこと、いや、やはり主題は、藤沢周平の文学のことだなあ。あなたの小説には、どの人物にも「人それぞれに花あり」という、あたたかいまなざしがゆきわたっているもの―たとえば「たそがれ清兵衛」ではじまる一連の作品などを読めばわかる。そんなこんなを空想して、会うことをたのしみにしていた今年の正月だった。

 けれども、私にその日が来なくて、藤沢さんにその日が来てしまった。

 

*   *   *   *   *

 

編集後記によって、藤沢周平さんの人となりがまるごとわかったような気がした。「原稿をお願いした方々全員が、執筆を快諾して下さった」に、こみあげてくるものがあった。

 

*   *   *   *   *

 

編集を終えて


「物をふやさず、むしろ少しずつ減らし、生きている痕跡をだんだんに消しながら、やがてふっと消えるように生涯を終ることが出きたらしあわせだろう」と、二十年も前に藤沢さんは書いている。

 ぞの言葉通りこの作家は、豪邸も別荘も高級車も持たずに逝った。

 だが生きた痕跡は消えるどころか、巍々たる作品の山脈が残りだ。作品の一つ一つを読み返すたびに喪ったものの大きさが実感される。

 原稿をお願いした方々全員が、執筆を快諾して下さった。編集部にも長大な誄詞(るいし)を捧げた満足感がある。しかし、この号を作らずにすめばいちばん良かったのだという思いは消えない。(A)



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