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今ぜひ知ってほしい人― 元陸軍中将遠藤三郎(講話資料) [遠藤三郎]

今ぜひ知ってほしい人

元陸軍中将遠藤三郎(川西町出身)

平成29221日 熊野大社證誠殿 南陽市倫理法人会

 

遠藤三郎という人

 明治261893)年12日、川西町(旧小松町)に呉服商・遠藤金吾の三男として生まれ、仙台幼年学校、陸軍士官学校を経て陸軍大学校を優等で卒業(34)、野戦重砲第五連隊長、参謀本部第一課長、関東軍参謀副長、陸軍士官学校長等を経て、航空兵器総局長官で終戦。戦後は埼玉県狭山市陸軍士官学校跡地に入植、一農民としての生活の傍ら政治的社会的活動に取組む。護憲運動、日中友好の先覚者。昭和341959)年の第5回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で立候補したが落選の経験あり。明治371904)年81日から昭和591984)年99日まで一日も欠かさぬ93冊の日記を残す(現在狭山市立博物館所蔵)。昭和591011日、狭山市にて逝去。著書『日中十五年戦争と私 -国賊・赤の将軍と人はいう』(日中書林 1974)。紹介・研究書として、宮武剛『将軍の遺言 遠藤三郎日記』(毎日新聞社 1986)、吉田曠二『元陸軍中将遠藤三郎の肖像―「満洲事変」・上海事変・ノモンハン事件・重慶戦略爆撃』(すずさわ書店 2012)、吉田曠二『将軍遠藤三郎とアジア太平洋戦争』(ゆまに書房 2015)、張鴻鵬いま甦る遠藤三郎の人と思想(陸軍高級エリートから反戦平和主義者へ)桜美林大学北東アジア総合研究所 2016.12遠藤三郎関連本.jpg


遠藤三郎との出会い

平成172005)年、小松生れの黒沢昭夫さん(昭和7年生れ/赤湯 双葉商事社長)によって初めて知る


遠藤元中将の自己紹介 

・衆議院予算委員会公述人として第28回衆議院予算委員会公聴会 昭和33225日)

《私は過去半生を軍人として生活しました老兵にすぎません。終戦後約一年巣鴨米軍拘置所に入りましたが、戦犯の事実がなく、裁判も受けずに、わずかに東京裁判の証言台に立っただけで出所いたしました。自来今日まで一開拓農民として農業を営んでおる六十五才の老農夫にすぎません。政治家でもなく、宗教家でもなく、学者でも評論家でもありません。また自民党、社会党、共産党等いずれの政党にも属しておりません。ただ一個の国民として申し述べるのであります。従って私の申し上げる意見には何人のひももついておりませず、また感情に走ったり、片寄ったイデオロギーにとらわれたものではございませんので、全く私自身の学習、特に体験を基礎としたものでございまするから、その点を御承知おきを願いたいと存ずるのであります。/
 そうしてその学習のおもなるものは、陸軍の幼年学校、士官学校、砲工学校、砲兵学校、大学等、日本の諸学校のほかに、フランスのメッツの防空学校、パリの陸軍大学、ヴェルサイユの通信学校等の課程を経たこと、並びに各国の著名な兵学書等によって自習したことであります。また体験のおもなるものは、明治四十年から昭和二十年に至るまでの軍人生活、ことに大正の末期には参謀本部部員兼海軍軍令部参謀といたしまして、直接国防用兵、作戦計画立案の任務を担当したこと、昭和二年ジュネーヴの海軍軍縮会議に列席し、次いで国際連盟の全般軍縮会議の準備委員といたしまして、軍縮問題に直接ぶつかったこと、また実戦の体験といたしましては、満州事変及び上海事変には参謀本部からの派遣参謀として、もしくは軍参謀として、北支事変には砲兵連隊長として、ノモンハン事件の末期には関東軍参謀副長として、支那事変及び大東亜戦争の初期には、飛行団長として直接第一線に従軍いたし、また教育関係では陸軍大学の兵学教官、大本営の教育課長、航空士官学校長等の実務につきました。また軍政方面では、航空本部総務部長として、次いで軍需省の航空兵器総局長官として軍需生産の業務等に携わったこと等でございます。》

自らの生涯を凝縮して綴った、昭和491974)年の年賀状「御挨拶
」『日中十五年戦争と私』より/太字は引用者)

《 幾度も死線を越えて八十一年を過しました。逆縁の悲しみもなく二曾孫まで儲けましたことは天地の恵み、神仏の加護、皆様のお情けによるものと感謝しております。/ 前半生は軍人、後半生は農民、功罪は別として随分我武者羅に我が路を歩み続けたものと思います。関東大震災の際は江東方面の警備に当てられ、孤立した数万の罹災者に独断深川の糧秣倉庫の米を分け、鮮人騒ぎの最中数千の鮮支人を習志野廠舎に護送して現地司令官に叱られ、二・二六事件には武力鎮圧に反対して単身反乱将校を訪ねて自首を勧め、自決した野中大尉を弔問して当局ににらまれ、聯隊長の時部下一等兵の所罰問題で軍法会議と争い師団長から「現代の法規を無視し新たに法を作ろうとする悪思想の持主」と烙印を捺され、関東軍副長の時中央の対ソ攻勢作戦に反対して消極退嬰恐ソ病者として職を追われ、飛行団長として中支および東南亜の戦場に出されましたが皮肉にも四回も感状を授けられたことは面映いことでありました。航空兵器総局長官の際は軍需産業を民間の営利事業に委するのを誤りとして国営に移し赤の将軍と呼ばれ、本土決戦に反対して徹底抗戦組から狙われ、敗戦直後軍備の全廃を日本の黎明と新聞に発表して軍人の激怒を買い、巣鴨戦犯拘置所に入れられてはマッカーサー司令官に報復的野蛮の裁判と抗議し、朝鮮動乱の際は「日本の再軍備反対と国際警察部隊設置の提唱」を公にして特審局から箝口令を敷かれ、一九五五年に新中国を視察し速かに中国と国交を結ぶべきを訴えて国賊と罵られるなど思い出は尽きません。/ 幸いにして日本の非武装は憲法に明示され、時の流れは日中の国交を正常化し、札幌裁判も自衛隊違憲の判決を下し、国連もまた私の主張する「国籍を離れた個人志願による国際警察」とはまだ隔りはありますが、国際監視部隊を紛争地に派遣する様になりました。/ 先のベトナム戦争も今回の中近東戦争も共に軍隊の価値の限界を示し、日本国憲法の正しさを証明しました。/ 私も恥なく祖先の許に行けると思います。老化も進みましたので今後御無音に過ぎるかもしれません。失礼の段は何卒御宥恕賜りたく、永い間の御厚誼誠にありがとうございました。/ 皆様の御多幸を御祈りして御挨拶と致します。》  

◎当時の感想                                                     遠藤中将の戦後のもろもろの発言に真摯に耳を傾けなければならないと考えるのは、占領軍による「洗脳」以前の、自らの痛哭の体験から発したものであるからです。大東亜戦争から何を学ぶかを考える時、中将の戦後の言葉そして生き様は、戦争を体験しないわれわれにとってのいわば「原石」のように思えるのです。》(「正気煥発掲示板」)

◎遠藤三郎のすごさ 
1. 80年間「日記を書く」という行為によって培われた倫理性。たとえ発表を前提としないものであっても、「書く」という行為によって自ずから「あるべき自己」が顕現し、そのことによって行動も律せられてゆくという典型としての生き様。 

2.. ≪航空兵器総局長の時、兵器産業を営利を目的とする株式会社に委することは不合理と思い、強引にこれを国営として「赤の将軍」のニックネームを附せられた≫とあるように、戦争の拡大が兵器産業の利潤追求と表裏の関係であることを体験を通して痛感し、その関係を断ち切るべく主張し行動されたこと。                

◎その人となり
○評価 
・松下芳男(軍事史家)『仙台陸軍幼年学校史』
《恩賞を受けた数においては全陸軍として他に類例がなかったのではあるまいか。仙幼校卒業では首席で台賜(皇太子から銀時計授与)、陸軍士官学校、砲工学校、陸軍大学校では優等で恩賜(天皇から軍刀授与)。武功は満州事変で関東軍参謀として、および支那事変で野戦重砲第五連隊長として二回の金鵄勲章拝受、第三飛行団長の時、四回の感状受領である。/「昭和十七年に航空士官学校長、航空本部総務部長、航空兵器総局長官と航空兵科の要職を隈なく歴任して、官は陸軍中将に昇っている。/一本筋の通った識見と勇気ある表現力をもっていたために各職において相当忌憚なき意見を表現し、周囲から尊重もされたし、また非難もされた。しかし、かれは、それを恐れなかった。終戦後の彼の行動も同じ軌を踏んでいるのであろう。》
・戦場の評価(宮武剛『将軍の遺言』)
《ある日遠藤の「非武装諭」が話題になった。「再軍備の旗振り役だった服部卓四郎参謀本部作戦課長さんが ”戦場で、あんなに強い人はいなかった。暫くじっと見てるのがいい”、そういったのをよく覚えている」と、いまも遠藤を敬愛する森川(軍需省での後輩)はいう。/勇将であった誇りが、遠藤の場合、後半生の「反戦」の支えになっていく。確かに第三飛行団は次々に武功をあげる。》
《戦場で、敗けたことがない、との自負心が戦中はもとより戦後も遠藤の歯に衣を着せぬ主張の拠り所になる。たとえば常勝の元将軍、遠藤が「反戦」や「非職」を語る時、論争の相手は少なくとも「戦争を知らない」とか「卑怯者」という、きまり文句は使い難い。》 
・橋川文三(思想史家)による『日中十五年戦争と私』評(日本読書新聞)
「戦争について、たんに感傷的な回想と反省を述べるのではなく(そういう種類の旧軍人の回想録は非常に多い)そこから一個の借りものではない平和理念を導き出し開拓してゆく」「一貫した思想性をもつということと、少なくとも旧軍特権層において、著者があまり評判が良くないということは、明らかな関連をもっているが、そのこと自体が旧日本軍と日本人そのものについて、私たちが何を考えなければならないかを示唆する」

◎遠藤三郎と辻政信
《幼年学校―陸士―陸大と常に優等は昭和期の陸軍で、永田鉄山、遠藤三郎、辻政信ぐらい、といわれる。》(『将軍の遺言』)
第28回衆議院予算委員会公聴会でのやりとり(昭和33年2月25日)
辻(政)委員 遠藤さんとは私はマレーの戦場でおわかれしてから初めてお会いするのでありまして、シンガポール作戦のときに遠藤さんは飛行兵団長とされまして、あの作戦の終始を通じて最も積極的に、最も勇敢に、常に部下の先頭に立たれ、われわれが地上で占領した飛行場にまつ先に着陸されまして、シンガポール攻略にちよつと戦史に例のないような勇敢なお働きをなさつた閣下であります。それが終つてから軍需省にお帰りになつて、陸軍の飛行機をつくるために国内を歩かれまして、至るところで全力をもつて飛行機をつくれということを国民に説かれ、また国民の零細な航空献金を集めるために最も活動なさつた閣下が、ただいま承りますと、敵が入つて来てもまる裸の方がよろしいというように承つたのであります。しかもそれが四十年間の軍人生活の結論であり信念であつてかわらない、こういうふうに拝聴いたしましたが、あのマレー戦場における軍人としてのあのお働きも、おそらく私は信念の上に立つたお働きであると、今日まで非常な敬意を持つて参つた次第でありますが、ただいまのお話を承りますと、あなたの信念が百八十度大転換をしておる。その転換されました動機について後輩として承りたいと思います。
遠藤公述人 私自分では転換していないつもりなんでございますけれども、力のない者に武力抵抗を与えるということは非常に残酷な結果を来すということは、戦場の体験から見ているわけなんです。そしてまた内地に帰つて来まして、あのマレー付近のように、人口が粗ではなくて日本は非常に稠密である。そしてあの爆撃の様相を直接見たわけであります。敵が一兵も上陸しておらぬ日本に、ただ爆撃されただけであの混乱状態を来す。あなたはごらんになつたかどうか存じませんけれども、東京を爆撃されると日本海の方が安全だろうというわけで向うに疎開する者が絡縄として出て来るわけであります。日本海方面があぶないぞいうと日本海方面からこつちの方に出て来る。またそういう引越しすることできない連中は、もうほんとうにお気の毒な混乱状態を爆撃下でさらしたわけであります。それがもし敵が上陸するというときに、かまやくわをもつて抵抗し、またはある人が言われる石を投げても抵抗するというけれども、そんなことをしたならば層上陸した者が凶暴性を発揮いたしまして、日本国民大衆はどうなるかわからぬ。それが私はもう耐え切らぬのです。だから力があるならばもちろん上陸させないように防禦することは、決して私は不同意じやございません。しかしどう考えてもそれだけの力は持ち得ないのだ、そうすればその力のないものに防禦させるということでは、直接任務につく青年たちは特攻精神を持たなければならず、非常な過重である。一般国民は敵にますます凶暴性を発揮させて残酷な目にあわすということは申訳ない。それならばむしろ心の抵抗で行くべきじやないか。しかし心の抵抗というのは最後の最後でありまして、私の念願するところはそういう侵略、国際的ギャングのないように日も早く国際連合に警察部隊をつくりまして、ギャングをやることができないようにしたいというのが考えの根本なのであります。その点先ほどたいへんほめられて恐縮したのですが、辻君こそ非常に勇敢で私なんかもう足下にも寄りつかぬほどで、勇敢さにおいてはほんとうに私は敬意を表しておるわけなんです。その点私とあべこべなので、私はむしろ臆病でひつばられて行つた方ですから訂正しておきます。》
辻政信について
1902年(明治35年)–1968年(昭和43年)。石川県出身。遠藤と辻は経歴において非常に類似。しかし人間として全く対照的。山下奉文中将はマレー作戦中の日記において、「この男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也」と辻を厳しく批判。CIAの1954年機密文書によると、CIAを始めとするアメリカの情報機関は戦後、辻に接近。しかし、その評価は「政治においても情報工作においても性格と経験のなさから無価値である」「機会があるならばためらいもせずに第三次世界大戦を起こすような男」。歴史家半藤一利は議員となった辻を取材した際、目の前に「絶対悪というものが出現存在する気配にとらわれた」と感想を記す。その一方で、軍人や地元住民の中には辻の軍事功績や人柄を支持し、敬愛した人々が多く存在したことは事実であり、その評価は戦後になっても変わらず、終戦後30年を経た昭和54年に加賀市には辻を顕彰するために銅像が建立されている。

◎戦後の主張
○「軍人生活の体験に基く日本再軍備反対論」(昭和28年11月)
「数千里に亘る日本列島、細長いだけに地障も多く兵力移動は困難で上陸防御は絶対に成立しないと云うも兵学上決して過言ではない」
「戦争末期、一兵の上陸を見ずに空襲だけで、あの混乱を起した。勝目のない戦争を続けて居れば一般国民も巻き添えを喰い惨禍目を覆うものがあるであろう。最初より戦わざるに若くはない」
「真に敵の侵攻を防ごうとするならば ”攻撃は最良の防御なり”の鉄則に従い来攻に先立ち、その本拠を覆滅するに足る武力を持たねばならぬ。それは現実的に不可能な事は説明の要はなかろう」
「現憲法が占領中押しつけられたものだから破棄若くは改変せよという論者に一言したい。現憲法は誰が作ろうと如何なる環境下に作られようと平和の理想を歌われて居る事には変りがない」
「むしろ日本国自身が作ったのでは或いは現実に即さぬものと一笑に附せらるかも知れないが、戦勝国殊に米国の要求若くは示唆によって出来た所に国際法的性格と力とがあるのではなかろうか」
「再軍備し他国と相似形の国を作って見ても小さいものはどこまでも小さい。永久に三等国、四等国の域を脱し得ぬだろう。再軍備するのを愛国心と思う様な陳腐な考えから脱却し、軍備を捨てて文化の香り高い一等国を築き上げる事がより強い愛国心である」

○「元軍人の観たる新中国」(昭和31年)
「御隣りの国の中国、しかも二千数百年の交渉を持ち、その間、相争った期間は百年もなかろうか、と思う。イデオロギーが違うからといって国交も結ばずいつまでも敵視していてよいものか。向うからは再三、平和友好の手を差し伸べてきている」
「毛政権はマルクスの公式通りの唯物論の範囲を出ない共産主義ではなく東洋精神や東洋道徳という人間味が加わっている様に思える。共産主義は成長しつつある様に思える。西欧の民主主義にもいい得るので、多分に社会主義を取り入れ成長しつつある。両者は未来永劫、相反するものではなく互いに接近し得る、また接近しつつある、と見るべきではないか」
「古来、東西岡文明の融合点であり大和の国である日本こそ、その融合の橋渡しを」
○「兵器生産は国際平和を脅かすばかりでございませんで、国の経済体制を病的にする第28回国会予算委員会公聴会/昭和33年2月25日)
「最後に一言つけ加えておきますが、防衛生産の名のもとに兵器工業に国家予算を使用されることは、厳に戒めていただきたいのであります。兵器生産は国際平和を脅かすばかりでございませんで、国の経済体制を病的にするものであるということを、私は航空兵器総局長官時代にいやというほど味わいました。一たび兵器工業が産業界に根を張りますと、これが是正はきわめて困難でありまして、その弊害は自衛隊の兵員一万、二万の増加以上であるということを御参考までに申し述べまして、私の公述を終ります。」(拍手)

◎いまなぜ遠藤三郎か
○戦争実需投機経済から生活重視投資経済への転換
「これまで何十年も、われわれ(米国)は、自国の産業を犠牲にして外国の産業を儲けさせてきた。自国の軍隊をすたれるままにしつつ他国の軍隊に資金援助してきた。米国のインフラを整備をしない一方で外国に何兆ドルも支援してきた(今後これらのことを全部やめる)」(トランプ大統領就任演説)《米国の覇権的な義務を放棄することで、米国の産業や雇用を一時的に再生しようとするのがトランプの経済戦略の要諦》(田中宇)
○アメリカに約束したと言う「51兆円」の意味
副島隆彦氏が《安倍は、アメリカに51兆円も、貢ぎ金をもってゆく。何ということだ。」と題して、日本で、貧者たちの、飢えた若者たち、年金がどんどん減額になっている老人たちによる暴動が起きないのが、不思議だ。 このままだと、暴動が起きるだろう。》と書いたのに対して、飯山一郎氏が《今回の「51兆円投資」は,日米両政府が厳格に協議をして,厳密に協定する「投資」ですので,「大丈夫なのか?」といった「心配」は床屋政談にちかい「余計な心配」》《副島センセが憤慨するような,「貢ぎ(カネを呉れちゃうこと)」ではありませんし…,中国やロシアなど国際社会の注視・監視もありますので…,騒ぐことではなく,逆に「チャンス!」》と言い切り、双方真逆の判断。どちらが正しいか。/日米首脳会談終えた2月11日、NY株は2日連続で取引時間中の史上最高値を一時更新。飯山氏曰く、《アメリカという国の在り方が,大きく変わってきているので… 世界も日本も大きく変わってゆく… 今までの世界ではない別の世界になりつつある.そのことを(個人と機関)投資家が認識し,評価しているので… NYダウが2万ドル台!というバカ高い株価水準になっているのです.》アメリカがインフラ投資に本気になり出すことへの期待。そのいちばんの手助けをするのが日本、という図式。

○遠藤三郎の願い(公聴会発言)
《役にも立たない軍隊を作って、アメリカの役にも立たない兵器をもらって、そうしてわれわれの生活を暗くするような軍備はおやりにならぬ方がよかろうと私は思っております。》《真に人類社会の永遠の幸福をこいねがうならば、まず軍隊をなくすべきものであろうと思います。現憲法によりまして戦争と軍隊とを否認しておる日本こそ率先してこれを実行し、米ソの間の抗争を緩和するよう奉力することがわれわれ日本人に与えられた崇高な使命と信じております。》 岸田外相の働きに注目。
遠藤三郎元中将の魂が動き出している・・・そんな気がする。


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めい

166:飯山一郎: 2017/02/21 (Tue) 23:28:54 host:112.166.192.107 
http://grnba.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16034724

アメリカの株式市場が上昇軌道にある間は…
トランプ政権は,波乱があっても,まぁ安泰だ.

トランプ大統領の政治は…
 1.「国民の生活が一番!」という小沢一郎流,
 2.「社会インフラ大改造!」という田中角栄流,
この二つの↑↑政治姿勢と方針で…
トランプ政権は…
 1.国民から期待され…
 2.資本家にも期待される.
だっからトランプ政権は,簡単にはコケない.

しかし…
前稿の「山高ければ谷深し」の一時的大暴落と…
ソロスが企んでいる「カラー革命・アメリカ大暴動」
この↑↑二つが重なった時は,そうとうヤバイ.
その状況を,3月中旬までに見透かすことが…
ずえったいに必要になる.

by めい (2017-02-22 04:32) 

めい

落合莞爾氏が王希天虐殺事件について取り上げているとのこと。(『國體アヘンの正体 大日本帝国を陰から支えた「天与のクスリ」 (落合・吉薗秘史 2) 』)
『元陸軍中将遠藤三郎』(すずさわ書店)に「王希天殺害事件と隠蔽工作」の節(44−51p)。『いま甦る遠藤三郎の人と思想』に「遠藤三郎の軍人としての冷徹性ー王希天虐殺事件の隠蔽工作」の章(47−52p)。

   *   *   *   *   *

王希天虐殺事件の謎
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-8770.html

1923年9月1日に発生した関東大震災の直後に、井戸に毒を入れた等のデマにより朝鮮人虐殺事件が発生したことはよく知られている。

しかし事件が国際問題となることを恐れた陸軍によって隠蔽されたため、中国人の王希天虐殺事件のほうはあまり知られていない。

王希天の出身地である長春には周恩来によって建立された記念碑があり、毎年九月になると家族等により記念行事が行われる。

ここまであたりが一般的に知られている王希天虐殺事件だが、落合莞爾氏によれば事件には全く別の裏があったという。

落合莞爾氏の発見した吉薗周蔵日記には、王希天は死んではおらず、その後に別人に成りすましたという驚愕の説が展開されている。

王希天は中国人互助団体である僑日共済会の会長であったが、フリーメーソン系の共済会から脱出する機会を伺っていた。

そこで王希天は死を偽装して組織を脱会し、その後は軍部の保護下で周居應と名乗って漢方医となり、炭そ菌開発にも携わったという。

事件の隠ぺいには、関東大震災直後に大杉栄殺害事件に関わった甘粕正彦や内務大臣となる後藤新平らの関与もあったらしい。

もしこれが真実だとすると、王希天虐殺事件の背後には731部隊や満州国の起源に関わる大きな謎が隠されているのかもしれない。

野崎晃市(43)

by めい (2017-09-06 04:27) 

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