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明るい未来へ(『光の子ども』寄稿) [こども園]

28年度「光の子ども」表紙.jpg

毎年この時期恒例です。今年で12回目になります。その時々いちばん頭にあることを書くようにしています。一年間でいちばん力が入る文章です。

今年ははじめに提出した文章の一部を数日後急遽差し替えました。最後の方の大きく時代が動き出しています。・・・若い世代の思いがけない思いが時代を切開いてくれると信じています。》のところ、はじめは私とは同世代トランプ大統領の出現によって、思いがけないほど世の中が明るくなりそうな気がしています。「正義」とか「民主主義」とかのきれいな言葉の裏で「経済第一」金まみれ、陰謀渦巻いていた世界が、思いっきりあけっぴろげになってきつつあります。一体これまでの世界は何だったんだ。どんどん霧が晴れて太陽がくっきり現れてきます。若い人に期待します。》だったのです。その経緯は「遠のいた?イハトビラキ」に書いた通りです。

「後生畏るべし、いずくんぞ来者の今に如かざるを知らんや」『文殊菩薩』ブログからです。


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明るい未来へ               

 ちょうちょう組のみなさん、そして保護者のみなさん、ご卒園おめでとうございます。ここまで育てあげるまで、多くの喜びと共に大変なこともいろいろあったことと思います。まだまだ道半ば、しかし子育ての苦労も後で振り返れば、子どもと共に在ったひとときひとときが、かけがえのない人生の宝物です。

 私のような団塊の世代も七十代、「少子高齢化」の言葉を目にしない日はないほど現実の問題になっています。そんな中、その現実を悲観的にではなく前向きに考えようということで、「縮充社会」という言葉が登場しています。提唱者は参加型地域づくりの実践者山﨑亮東北芸工大教授です。《縮減でも縮退でもない。拡充でも補充でもない。縮みながら充実させて、質感が良く暖かい地域社会》ということです。

 先ごろ中学の同級生数人で温泉に行って、宴席で十分酔って部屋に戻ってから議論になりました。具体的な課題をめぐっての議論だったのですが、われわれ世代はいくつになっても「前へ、前へ。上へ、上へ。広く、広く」の発想が抜けきれません。過去の失敗の経験を糧にしてもう一度、ついそんな発想にもなってしまう。同世代が集まると、そうした上昇志向的感覚を共通理解にして話してしまうのです。

 私たち同級生が集まってよく話す人は、自慢話のできる人です。敗戦にうちひしがれた中に生れ、高度成長期のまっただ中で成長期青年期を過ごし、それぞれの立場で「がんばって」きました。「がんばる」の語源は「我を張る」だそうです。いつも追い立てられるようにして、たえず周囲と自分を引き比べさせられながら生きてきた結果としての自慢話。「へえぇ」とは言いつつもほんとうはだれも聞きたくなんてないのかもしれないのに、共通の話題としてはそこにゆくしかない。

 ところがそんなわれわれ世代も終活を意識する歳になって、眼の置き処が変わってきていることも事実です。そんな中での「縮充社会」、「周囲と比べる必要はありません。今あなたは充たされていますか。」世の中全体ひとりひとりの心の中味が問われ出しているようです。

 宮内認定こども園は、宮内幼稚園時代から数えて六十五年の歴史があります。私は、叔母が先生として勤めるようになったので、開園間もなく双葉保育園からたんぽぽ組に転入した第二期生です。宮内幼稚園はずーっと「キリスト幼稚園」と呼ばれてきました。今ふりかえって大事だったなあと思うのは、お祈りの習慣です。お祈りのときは目を閉じます。そのとき、目に見える世界から別の世界に入ります。日々重ねたその習慣が「心の世界」を育ててくれたような気がします。現実の世の中を生きてゆくには、ときには「心の世界」はかえってわずらわしい、うっとうしいように思うこともありました。しかし終活年代に入った今思うに、それなりに納得できる生き方はできたかなと思えるようになっています。「キリスト幼稚園」のおかげです。

 大きく時代が動き出しています。明るい未来へ向かうのか、重苦しく閉ざされる方向に向かうのか。私は古代神話の岩戸開きを思い起こしつつ、明るい未来に賭けています。思いが先か世界が先か、ニワトリが先かタマゴが先かのようですが、私は断然思いが先です。思うから世界はそのようになるのです。若い世代の思いがけない思いが時代を切開いてくれると信じています。

 「後生畏るべし、いずくんぞ来者の今に如かざるを知らんや」(これからの世の中を担う若者の力はすばらしいにちがいない。きっとこれまでの世代を乗り越えて、新しい世界を切り開いてゆくことだろう。)


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めい

《やれるところまで精いっぱい働くべきだと、常に限界まで挑んでしまう。精神のバランスを崩してしまう人は、そういうタイプであることが昔から多いのです。そんな人たちには、「頭」と「心」は異なるということをまず、知っていただきたいと思います。》
《「大通り」を行くだけが人生ではない》
《人間として「意味」を感じられるような生き方を模索することが大切です。皆と同じような「大通り」を行くだけが人生なのではなく、自分らしいユニークな「小径(こみち)」を行ったって良いんじゃないか》
《日本人の多くは関係性を何が何でも温存しようとするがために、自分の意見を飲み込んだり、自分の考えを捻じ曲げたりすることをしてしまう。そして、さきほどの「頭」と「心」の話で言えば、「頭」が「心」にガッチリとふたをしている状態が起こってしまう。そこから、「心」や「身体」の問題が起こってくるのです。》
《ぞんざいに「心=身体」を無視し続けると、いずれ“自爆テロ”を起こされるのがオチです。我々の「心=身体」は決してでたらめではありません。現代人は「心」をあまりに軽視し過ぎです。本来は「心」が社長で、「頭」はその秘書に過ぎないはずが、どうにも関係が逆転してしまっていて、秘書である「頭」が独裁者になり社長に「黙れ」とやっている。それが現代人の不幸の原因なのです。》
《日本人は「ハングリーモード」のスイッチを戻せなくなってしまっている。生きる手段に過ぎなかった「ハングリーに働くこと」自体が、自己目的化してしまっているのです。もっと一人ひとりが「生きる意味」を大切に生きてもよいのではないでしょうか。》
《世間に振り回されている人が、最後に一番馬鹿を見るのではないでしょうか。「心」が本当にやりたいことをやらない人生なんて、後悔してもしきれません。》
《本当にやりたいわけではないことの中で消耗する人生よりも、最後に「おもしろかった」と言えるような人生を歩むことが、やはり人間にとって一番大切なことではないだろうかと思います。》

吉本隆明(エリアン)が今氏乙治先生(イザベル・オト先生)に言われた言葉、「心の状態だけをたいせつにしなさい」
http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2012-03-21

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“労働教”から離脱し、キリギリスとして生きよ 移民流入で人口増も。JR東海の需要に不安なし思考停止経営からの決別
http://www.asyura2.com/17/hasan119/msg/782.html
投稿者 軽毛 日時 2017 年 3 月 07 日 11:56:28: pa/Xvdnb8K3Zc jHmW0Q

“労働教”から離脱し、キリギリスとして生きよ

キーパーソンに聞く

精神科医の泉谷閑示氏に、これからの「働き方」を聞く
2017年3月7日(火)
柳生 譲治
 電通社員の過労自殺事件をキッカケとして「長時間労働」の是正が国民的な関心事となっている。しかし現実には、法で定められた有給休暇の消化すらままならないのが働く人の現状だ。長時間働いていれば「あいつは頑張っている」と見なされるのが日本社会。逆に、周りが多忙な中でさっさと早帰りすると「空気の読めない奴」などと白い目で見られる現実。それは日本社会ならではの会社組織への「同調圧力」が働いているからではないか。

 『仕事なんか生きがいにするな ~生きる意味を再び考える~』という刺激的なタイトルの著書を1月に出版した精神科医の泉谷閑示さんはこれまで、全ての人に同質的価値観が求められるがゆえに、個人が追い詰められる日本社会の問題を論じてきた。働くことこそ生きることという“労働教”によって精神的なバランスを崩していく、日本のビジネスパーソンのための処方箋を聞いた。

泉谷閑示(いずみや・かんじ)氏
精神科医、思想家、作曲家
1962年秋田県生まれ。東北大学医学部卒業。東京医科歯科大学医学部附属病院、財団法人神経研究所附属晴和病院などに勤務したのち渡仏、パリ・エコールノルマル音楽院に留学。現在は、精神療法を専門とする泉谷クリニック院長。「泉谷セミナー事務局 official site」を通じて、一般向けのセミナーや勉強会も行っている。『「普通がいい」という病』『反教育論 ~猿の思考から超猿の思考へ~』など著書多数。近著に『仕事なんか生きがいにするな ~生きる意味を再び考える~』『あなたの人生が変わる対話術』がある。
「頭」と「心」は異なる、そのことをまず知るべし

「働き方改革」が大きなテーマになる中で、長時間労働からうつ病を発症したり、さらには過労死したり過労自殺したりする人たちが日本には絶えません。いま泉谷先生のクリニックを訪れるビジネスパーソンの方々には、どういう傾向がありますか。

泉谷:精神的に追い詰められた原因はクライアントさんによって様々です。パワハラ的な上司の独裁の下で疲弊し葛藤している人もいれば、どんな目的で使われるかも分からない仕事を振られて「オレは何をやっているのだろう」と、はたと自分の生き方に疑問を感じてやって来られる方もいます。

 ただ、原因は様々でもその結果として、うつ病になって休職を余儀なくされ、通り一遍の薬の治療だけでは先が見えずに、休職と復職を繰り返すような方が少なくないのが現実です。そういう方々は「硬い勤勉さ」を持った、生真面目でストイックな感じの人が多いように思います。ストイックに自分にムチ打って、怠けを絶対に許せないような人たちです。

 やれるところまで精いっぱい働くべきだと、常に限界まで挑んでしまう。精神のバランスを崩してしまう人は、そういうタイプであることが昔から多いのです。そんな人たちには、「頭」と「心」は異なるということをまず、知っていただきたいと思います。

「心」に常にフタをしてしまうと、精神的な病につながる

「頭」と「心」の違いとは、どういう意味でしょうか?

泉谷:頭も心も同じようなものだろうと思っている人は少なくないと思いますが、それは間違いです。「頭」とは理性の場であり、一方の「心」は感情や欲求、感性、直観の場で、「身体」と分かち難くつながっています。例えば「頭」は仕事を進めるための情報処理を行い、過去を分析したり、未来を予測したりします。それに対して「心」は野生原理の感情や欲求の場ですから、仕事はしないで「休みたい」とか「眠りたい」「遊びたい」とかいう欲求を抱えていたりします。

 本来、動物は「身体」と連携した「心」のみでできているのですが、近代以降の人間は、「頭(理性)」が思い上がって「心」の出した結論を軽視し却下しがちなのです。「頭」が「心」の欲求に常に「フタ」をしてしまっているのです。「頭」が「心」を強力にコントロールしようとしているわけですね。これでは、うつ病などの精神的な病気を引き起こしてしまうのも仕方のないことです。

「大通り」を行くだけが人生ではない

自分の欲求を押し殺している状況ですね。ただ、現実には、仕事が忙し過ぎて心の欲求に応えられないのであれば、仕事を辞めない限り改善は難しいかもしれないですね。

泉谷:もちろん、そういうケースもあるでしょうね。私のクリニックに来られるクライアントさんにもよくお伝えしていますが、例えば休職している人が同じ職場の同じ仕事に復職することだけが「ゴール」なのではありません。私のクリニックでの精神療法や心理療法を通じてじっくりと検討した結果、今の仕事や職場に納得できないことが明確になったような場合には、転職したり、独立起業したりすることも選択肢に入ってくるだろうと思います。

 精神的に追い詰められた方々の原因を大別すると、「本人側」に原因がある場合と、その人が属している「環境側」に原因がある場合があります。本人側に問題がある場合は、たとえ勤務する会社を変えたところでいずれ同じ行き詰まりが生じるため、精神療法を通じて本人が抱えている問題の解消に努めていくことが不可欠になります。しかし、会社の体質や仕事の内容、上司との関係など、環境に原因がある場合は、さきほど申し上げたように、その人が本当に何をしたいのかをしっかりと突き詰めたうえで、転職したり独立起業したりすることも視野に入れるべきでしょう。

 つまり、そうした方々は、企業が売り上げや利益を出すためといった「意義」をひたすら追求する“労働教”に疲弊してしまっているのです。人間として「意味」を感じられるような生き方を模索することが大切です。皆と同じような「大通り」を行くだけが人生なのではなく、自分らしいユニークな「小径(こみち)」を行ったって良いんじゃないか、とクライアントさんに伝えることがよくあります。

日本は今もムラ社会だから、「空気を読む」

環境に問題がある場合というのは、どういうケースがありますか。泉谷先生がかねて著書で指摘されてきた、「個人主義」が確立されていないがゆえの「同調圧力」といったこともありますか。

泉谷:日本では職場や組織に対する「同調圧力」が強く、窮屈な思いをするということがもちろんあります。いわゆる「空気を読む」というやつです。あいにく日本は今も「ムラ社会」ですから。いまも従順でない者には、一種の「しごき」が与えられることさえあります。電通社員の過労自殺といったこともその延長線上にある問題です。個人主義の未熟な社会ゆえの悲劇と言えるでしょう。

 ここからは、ちょっと脱線するのをお許しいただきたいのですが、以前、私が研究社から出した本(『「私」を生きるための言葉 ~日本語と個人主義~』)で、言葉を切り口にして、日本の「ムラ社会」を考察したことがあります。欧米の言語と日本語を比較したら、とても興味深いことが見えてきたのです。欧米の言語では、主語を立てることが必須になっているわけですが、日本語には本当の意味での主語がないのです。そのことが、日本の社会の在り方を象徴的に表しているのです。

ムラ社会ゆえに、日本語には「主語=私」が欠けている

「同調圧力」のお話から、ずいぶん話題が変わりましたね(笑)。

泉谷:いいえ、日本語の言語構造と「ムラ社会」とは直接関係しているという話です。ちょっと我慢して聞いてください(笑)。日本の社会の特徴を考える上で、日本語に「主語」がないという考え方から、示唆を得るところは少なくありません。

 「日本語では主語が省略されることが多い」と私たちは学校で習ってきましたよね。その考え方で言えば、省略されることは多いものの、日本語に主語はあることになります。でも、そうではなくて、一見、主語とされているものは「主題」を立てているだけであって、そもそも欧米語のような主語がないのではないかという議論が近年活発になっています。そのため、日本語を用いる私たちは、「私」という一人称がない未熟な「0人称」にとどまってしまうという傾向を帯びているのです。

「0人称」とはどういう意味でしょう。

泉谷:「0人称」と最初に呼んだのは哲学者・フランス文学者の森有正で、日本人の話し手には「自分がない」という意味が込められています。日本語では自己と対象の主客が合一的で、その間の境目があいまいです。話者は個人主義の欧米人のような確固とした主体を持っておらず、相手との関係によって話す内容さえも変化してしまいます。言い換えれば「誰」が言ったかはあまり問われない社会。「誰でも同じ意見である」「同じ価値観を持っている」という前提に立った社会であるとも言い換えることもできます。自分もほかの人間も考え方は同じだから、あえて主語を明示する必要はないということになるのです。

日本は「主語=私」がないという言語構造からして、環境に同調していく傾向を帯びていると。

泉谷:そうなんです。しかし面白いことに、インド・ヨーロッパ語族の言語も7世紀くらいまでは、やはり日本語と同じように主語というものはなかったのだそうです。しかし、そのうち動詞の活用が始まり、主語も登場してきた。英語では12世紀頃、主語の義務化が起こるようになってきた。それはムラ的だったヨーロッパの中世の社会が、「個人」に目覚めていった社会の流れと密接に関連しているわけです。

つまり、日本は「個人主義」という点では800年くらいヨーロッパから遅れていると。ゆえに自分と他人との関係が未分化で、「同調圧力」もまだ強いのだということになるのでしょうか。

仕組みだけは欧米から輸入し、「二重構造」の社会に

泉谷:800年とは言いません(笑)。でも、個人主義という観点ではおそらく400年くらいは遅れているのではないでしょうか。そんな風に相変わらず「ムラ社会」が継続されているのが実情なのに、社会の仕組みだけは欧米からどんどん導入している。例えば「成果主義」とか「コンプライアンス」とか。しかし、やはり環境は相変わらず「ムラ社会」なので、それは表面的に真似たに過ぎない「二重構造」になってしまっていて、そこに齟齬が出てくるわけです。そして、そのツケは個人に押し付けられているのです。

 例えば、建前上は欧米企業のように「自分の意見をはっきり述べるように」と社長や上司から言われますが、生真面目な人がその指示を本気にしてはっきり意見を述べたりすると、「空気が読めない」とか「強調性がない」とか言われてしまう。あるいは「働き方改革」ゆえの時短の指示に従い、さっさと帰ったりすると、白い目で見られてしまう。

 ちなみに私は、病院に勤めていた時には「同調圧力」には決して従いませんでした。自分の仕事が終わったらさっさと帰るようにしたのです。欧米では、ほかの人がまだ仕事をしているから帰りにくいなどということはありえません。生真面目な人が多い日本では、「ふざけた奴だ」と思われるかもしれませんが、案外それくらいで丁度いいのではないかと思いますよ。

 本題に話を戻しましょうか(笑)。

 こうした「ムラ社会」ゆえの同調圧力との軋轢によって、精神的に追い詰められる人が日本にはとても多いのです。そういう人たちには、是非、勇気を持って「ムラ社会」から自覚的に離脱し、本当の自分を生きることをお勧めしたいと思います。例えば私のクリニックでも、同調圧力の高い企業で生きづらそうにしている人が、何かの機会に海外に出たり英語を使ったりすると、まるで別人のように生き生きするというケースも少なくありません。

「自分は自分、人は人」という前提を忘れない

最初におっしゃられた「硬い勤勉性」をもった人ほど、同調圧力にやられてしまいそうな気がします。ムラ社会の同調圧力に屈しないためにはどうしたらよいのでしょうか。

泉谷:コロンブスの卵のような言い方になりますが、最初から「ムラ」に入らないことです。例えば、あえて最初からランチのグループに入らないとかですね。「ムラ」に入らなければ、当たり前のことですが「村八分」といういじめに逢うことはないのです。「ムラ社会」では、その場にいない人が悪口のターゲットにされてしまう可能性はもちろんありますけれど、いくら陰で悪口を言われても、自分の耳に届かなければ、それは言われてないのと同じなんです。そうやって一人ひとりが、ある程度の覚悟を持って個人主義的に自立していくことでしか、日本は根本的に変わっていけないのではないかと思います。「自分は自分、人は人」という当たり前の前提を忘れないことです。

「自分と仲たがいするより、世界と仲たがいすることを選ぶ」

なかなかそう割り切れない人もいるのでは?

泉谷:日本人の陥りやすい最大の問題点は、自分と人との「関係性」を最重要視してしまって、「関係性」を守るがために個人の方が歪んでしまうというところにあるように思います。その結果、個人が精神的に追い詰められていく。私はよくクライアントさんに、「それは本末転倒でしょ?」と言っています。

 つまり、自分はこう思う人間で、相手には相手の意見がある。その相対的関係で2人の関係が決まるわけです。しかし、どちらも人間なんだから、時間の経過とともに考えが変わったりすることもあるでしょう。すると、自ずと両者の関係は変わるはずです。あらかじめその前提をわきまえたうえで、「他者」同士として「対話」を行う。本来の関係性とはそういうものです。なのに、日本人の多くは関係性を何が何でも温存しようとするがために、自分の意見を飲み込んだり、自分の考えを捻じ曲げたりすることをしてしまう。そして、さきほどの「頭」と「心」の話で言えば、「頭」が「心」にガッチリとふたをしている状態が起こってしまう。そこから、「心」や「身体」の問題が起こってくるのです。

 合わなくなってしまったのであれば、それはそれで仕方ないわけだし、残念ながら対立してしまうこともあるかもしれない。それが「個」として立つ人間同士の関係の、避けがたい宿命です。どうしてこの当たり前のことが引き受けられないのか、と私は思います。もちろん、自分の考えには最低限の責任が伴いますから、「自分はこうです」という主張をキチンと考えておかなければなりません。そこをごまかすために、人間関係におもねるように生きてはいけないと思うのです。確かソクラテスの言葉だったと思いますが、「自分自身と仲たがいするよりは、世界全体と仲たがいすることを選ぶ」というのがあります。このような覚悟が、自分が拠って立つ基本でなければならないでしょう。「自分を大切にする」とはそういうことです。

 また、自分自身の「心=身体」とキチンと「対話」することも重要だと思います。例えば、毎朝、目覚まし時計に起こされること自体、「心=身体」にはとても酷なことをしているわけです。起きたくないのに、無粋なベルで起こされるんですから。大げさに聞こえるかも知れませんが、毎日でも自分の「心=身体」に「ごめんね」と謝る。そういう内的な姿勢が必要なんです。

精神衛生上の効果はあるのでしょうか。

泉谷:はい、全然違うと思いますよ。ぞんざいに「心=身体」を無視し続けると、いずれ“自爆テロ”を起こされるのがオチです。我々の「心=身体」は決してでたらめではありません。現代人は「心」をあまりに軽視し過ぎです。本来は「心」が社長で、「頭」はその秘書に過ぎないはずが、どうにも関係が逆転してしまっていて、秘書である「頭」が独裁者になり社長に「黙れ」とやっている。それが現代人の不幸の原因なのです。

大人も「心」を中心にして、生活全体を遊ぶべし

最近出版された、『仕事なんて生きがいにするな』では、もっと日常の中の遊びや余裕を重視した方がいいというようなことを書かれています。追い詰められたビジネスパーソンが精神の危機から脱するために、具体的にどんなことをすればいいのでしょうか。

泉谷:小さな子供が無心で遊ぶように、大人も「心」を中心にして、生活全体を遊ぶべきなのです。ただし、それは大人ならではの成熟した遊びであり、頭脳を駆使した創造的な遊びになるでしょう。身近なところで具体的に言えば、料理とか日曜大工、音楽などもよいだろうと思います。実際にそういう「遊び」を仕事にまでしてしまった人もいます。

 私のクリニックに来ていたクライアントの方で、もともとはかなりのエリートと言われるような職業についていた方がいるのですが、休職中に遊びの一環であるモノづくりに熱中するようになりました。すると、どんどん元気になっていって、ついには会社も辞めて、そのモノづくりを職業にしてアトリエを開きました。つまり、そのクライアントさんは自分の「鉱脈」を掘り当てて、生きる意味を取り戻すことができたわけです。

 現代人は、もはやハングリーに働かなくてもさすがに死ぬほどのことにはならないのに、「働くことこそ生きること」という“労働教”にいまだに洗脳されたままなのです。戦後すぐの時代の人々がハングリーに働くことが不可欠だったのは事実ですが、今はもう、そういう時代ではありません。にもかかわらず、日本人は「ハングリーモード」のスイッチを戻せなくなってしまっている。生きる手段に過ぎなかった「ハングリーに働くこと」自体が、自己目的化してしまっているのです。もっと一人ひとりが「生きる意味」を大切に生きてもよいのではないでしょうか。

「ごはんが食えなくなる」ことはない

しかし、会社を辞めて仕事にまでしてしまうというのは、一般の人には危険な発想ではないですか。

泉谷:そんなことはないと思います。よくみなさん、思い切った転身をしようとする人に対して「ごはんが食えなくなる」などとおっしゃいますが、私は「本当でしょうか?」と申し上げたい。今の日本で「食えなくなる」といっても、戦争直後の切実さとはまったく異なると思うのです。今はアルバイトもたくさんあるし、生活保護もあるし、どうにかして生きていける。

 むしろ、「あの人は社会から落伍した」とか、「負け組だ」などと世間から思われるのが、多くの人は嫌なのだと思うのです。「ムラ社会」の発想から抜けていないのです。辞めるときに同僚から「馬鹿だな」と言われたら、「馬鹿でーす!」と開き直ってもよいのではないでしょうか。世間的にうまくいっていると見られている人も、いつかは落伍するかも知れないし、それが人生でしょう。そして、誰でもいつかは必ず死ぬわけです。世間に振り回されている人が、最後に一番馬鹿を見るのではないでしょうか。「心」が本当にやりたいことをやらない人生なんて、後悔してもしきれません。

 みんなもっと「キリギリス」になった方がよいのではないかと私は思うのです。「アリ」のように未来のためにコツコツと働いているだけでは、「今を生きる」前に死んでしまいます。

 ある現代音楽の作曲家が、亡くなるときに「本当はバッハのような美しい音楽を書きたかった」と後悔したそうですが、それなら最初から自分の「心」の本当の声を聞いて、美しい音楽を作ればよかったのではないでしょうか。本当にやりたいわけではないことの中で消耗する人生よりも、最後に「おもしろかった」と言えるような人生を歩むことが、やはり人間にとって一番大切なことではないだろうかと思います。

by めい (2017-03-08 06:21) 

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