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横山大観がモチーフにした「相生の松」 [宮内よもやま歴史絵巻]

1-相生の松.jpg

粡町商店街「歴史溢れて光り輝く街づくり」事業は、平成28年度南陽市商店街まちづくり活性化推進事業補助金をいただいての事業で、なんとか年度内完成を目指してがんばっている。「よもやま歴史絵巻」、今回も10枚作製に挑戦中。そのうちの一枚「日本一の相生の松」を作成中、大発見があった。その経緯。


「妹背の松 長部功」.jpg

《日本には男女和合のめでたい松としていくつかの「相生の松」がありますが、双松公園の相生の松は、姿においても大きさにおいても日本一と言っていいすばらしい松です。夫婦相生の松として「妹背(いもせ)の松」ともよばれ双松公園の名の由来となりました。


 昭和三十年代、当時東大名誉教授であった植物学の権威本田正次博士が枯れ死寸前のこの松を見て驚かれ、博士自らすぐ県
に連絡して天然記念物に指定されたといわれます。その後婦人会や地元の方々の献身的な手入れによって今の姿に回復したのでした。


 この松にまつわる伝説もいくつか伝えられており、古来この松に願えば縁むすびに効験があると云われ、代々寺子屋を開き琴平神社の神主でもあった長部功が歌にしています。
  


  結ばんと思ふえにしはわが里の妹背の松に祈れ諸びと   


(この歌は宮内岳鷹会の持ち歌のひとつ。10年前、10周年記念での構成吟「美(うま)し地(くに)みやうち」の中にある。平岳謙先生に節調をつけていただいた。)


大観「相生の松」.jpg

このブログにも相生の松については何度か書いているので、それをまとめればいいと思ってここまで書いてきて、何の気なしに「相生の松」で画像検索したら、横山大観の「相生の松」を発見。なんとこれ、ここの相生の松ではないのか!?


ちなみに双松公園の「相生の松」は樹齢350年、たまたま大正8年発行の「宮内案内」口絵写真に、当時の相生の松の写真があった。大観の絵は東側から見た構図だが、写真は西側から。

相生の松 大正8年.jpg

宮内よもやま歴史絵巻にも、横山大観については「横山大観と多勢亀五郎」がある。横山大観は大正から昭和にかけてしばしば漆山の金上製糸に長逗留している。その間、漆山の金上の屋敷の中でじっとしていたわけではない。酒を飲むにも当時隆盛を極めた宮内の料亭が多かったにちがいない。双松公園まで足を運んで相生の松を目にしなかったはずがない。あたりまえのこのことにあらためて気づかされて、にわかに大観が身近な人に感じられるようになった次第。


この絵があるのは神奈川県箱根町のポーラ美術館制作年は1950年(昭和25)頃、絹本彩色で軸装、42.0 x 51.5 cmという。海を背景にしているがモチーフとなったのは双松公園の相生の松と考えて間違いないだろう。http://www.polamuseum.or.jp/collection/002-0481/


横山大観と南陽との関わりについては錦三郎先生が詳しく調べられていたはずということで、錦昭先生(天見玲さん)にうかがったことがある。昭先生の奥さんが「たしかにそうだった」とおっしゃった。しかし、昭和30年金上製糸倒産に至る労働争議どさくさの中で、大観の作品はわけもなく散逸したと聞く。錦先生の調査も、その辺の触れてはならないタブーの壁に突き当たって頓挫し、発表もできぬまま調査研究成果資料山積みの中に埋もれたままらしい。いつか陽の目を見る日がくることを期待したい。


【追記 2017.3.14】

ここを書き終えて山形新聞を開いたら、今日の「気炎」、天見玲さんだった。お父さんの錦三郎先生のことから書き起こしておられる。「置賜は国のまほろば・・・」の哀草果の歌が梨郷から見た風景であったことを本人から直接聞いておられたという貴重な文章。平岳謙先生からは、長井の講演を終えての長井線車中の作とお聞きしたことがある。「天が最も公平に・・・」の歌をもらった弟さんは錦仁新潟大名誉教授で、韮崎行(2)堀秀成のところで書いたことがある。以下、今日の「気炎」転載させていただきます。


*   *   *   *   * 


3月に思う


 1914(大正3)年生まれの父は15歳で山形市の歌人・結城哀草果の門人となった。哀草果は歌に精進することを「鍛錬道」「拙修道」ととらえていたから門人に対する指導はすこぶる厳しかった。〈わが歌は罵られきわれは叱られき先生に従ひし四十数年〉と父は詠んでいる。完膚なきまでに罵倒されながらも父はついに哀草果を離れることがなかった。あらゆる分野で師弟の関係が濃密に存

在しえた時代だったのである。

 67(昭和一一)年の3月、哀草果が我が家を訪れたことがある。なぜ年月を記憶しているかといえば、その年の4月から私は社会人となったからである。

 哀草果が来ると父は緊張した。その恐縮ぶりは息子の私には滑稽に見えるほどだった。だが、私たち兄弟は恐れ入ることもなく、哀草果の訪問をうれしく誇らしく思った。私は、来月から社会人となること、赴任地が長井市であることを告げて、色紙をねだった。哀草果は「それではこの歌がいいだろう」と言い、〈置賜は国のまほろば菜種咲き若葉茂リて雪山もみゆ〉を書いてくれた。この歌は南陽市の梨郷で詠んだと哀草果はそのとき語った。〈置賜は・・・〉はすでに長井市に住む山口のぶさんが作曲していた。哀草果はそれを思い出したのかもしれない。春の晴れた日、梨郷から田園越しに飯豊の白い山並みが美しく見えた。

 まだ学生だった弟は〈天が最も公平に分配する時間を貴重に生きむわれと決めたり〉の歌をもらった。能力も財力も容貌も背丈も環境も天は決して公平に与えはしない。しかし、時間だけはいかなる人にも1日24時間と平等に与えられている。人生は天が最も公平に与えた1日24時間をどう使うかにかかっている。

 卒業式が行われる3月になるときまって50年前の哀草果がよみがえるのである。  (天見玲) 


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