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「宮内よもやま歴史絵巻」28年度版 [宮内よもやま歴史絵巻]

◎「日本ハム」草創を担った宮内ゆかりの人々 

 

 いまや売上高(連結)一兆二千億円を越す日本ハム株式会社、創業者大社義規(おおこそよしのり 1911-2005)と共にその礎石となったのは宮内に縁ある人たちでした。

 日本ハムファイターズの初代オーナーで野球の殿堂入りも果している大社は、生家の没落により旧制高松高等商業学校を中退、叔父が経営する 徳島の養豚組合へ就職します。当時(昭和9年 1934)について日本経済新聞の「私の履歴書」(昭和59年 1984)にこう記しています。
《組合には、現在日本ハムの専務をしている鈴木茂雄君がいた。彼は私と同い年で、香川県から派遣されていた稲葉育男技師の甥だった。山形県の中学を出てから叔父を頼ってはるばる四国に来ていたもので、組合では私より二年先輩である。彼が、豚を気絶させるお手本をみせてくれた。さすがにうまいもので、必中である。彼とは誕生日が一日違いということもあり、すぐに仲良くなった。》

 稲葉育男は中川村中山の出身で宮内粡町稲葉亮三郎の兄、妻は粡町中山家の出。置賜農業を卒業後、ハムづくりの先駆者ローマイヤに学び、香川県でその技術を伝えていました。大社社長の右腕として副社長を務める鈴木茂雄は宮内菖蒲沢の出身、宮内高校鈴木隆一先生の弟です。昭和17年(1942)「徳島食肉加工場」が、大社が営業、鈴木が製造の責任を担ってスタートします。戦争による中断の時期を経て昭和23年再開、《工場再開には、鈴木君が、私のたっての願いを聞いてくれ、はせ参じてくれた。彼は故郷の山形で入隊したが、戦後はまた元の養豚組合に復職していた。製造技術に明るい彼が協力者として来てくれたのは、何よりも心強かった。》(同右)二人三脚での再スタートでした。

 昭和26年(1951)には「徳島ハム」となり、昭和29年(1954)大阪工場建設を皮切りに全国展開、飛躍の時代を迎えますが、その工場建設の先陣役が高畠泉岡出身の武田昭二郎。稲葉を頼って四国に渡り、戦後徳島工場再開時からの叩き上げ、大阪、下館(茨城県)、酒田、旭川、八戸等全国各工場の礎を築きました。粡町中山家に嫁いでいる姉の縁で稲葉につながります。妻は粡町高岡家の出です。

 なお、藤沢周平は「日本加工食品新聞」の編集長を十年も務め、日本ハムの成長をつぶさに見守ってきた人でした。大社が語った文章があります。《実は、藤沢さんとは、彼が作家になる前からの古い付き合いだ。1961年に、山形県のハム会社に資本参加した時に、食肉業界紙の記者五、六人を山形に招待したところ、山形出身で郷土の話を切々とされる記者がおられ、非常に強い印象を受けた。それが藤沢さんだった。・・・当時から作家になりたいと言っておられ、仕事の合間に小説を書いては、雑誌に投稿されていたことを覚えている。藤沢さんが初めて小説で賞を取った時も、直木賞をもらった時も音頭を取って祝いの会を開いた」〈談〉(「日経ビジネス」1994) 


 鷹山公が跡継ぎに決まる頃の米沢藩は、藩主重定公が幕府に領土を返上しようと覚悟するほど窮乏の極みでした。青苧騒動が起きたのは、鷹山公が九歳で重定公の養嗣子として米沢藩邸に入った宝暦10年(1760)のことです。青苧への課税強化の動きに反対して、北条郷(現南陽市)の農民たちが宮内熊野神社に集結蜂起するという事件が起きたのです。
 当時の郡代所頭取が森平右衛門、森は低い身分の生れでしたが藩主重定に取り入って出世し、藩政の実権を握るようになっていました。この森に近づいたのが赤湯村の大庄屋佐藤平次兵衛、森が平次兵衛の妹を見染めたことをみて、「下長井(西置賜)では青苧御役を課しているのだから北条郷でも青苧に税をかけるようにしたら」と森に進言したのです。森は早速北条郷代官小島次左衛門に検地を命じました。宝暦の飢饉に苦しむ現状を知る小島も従わざるを得ませんでした。
 北条郷の農民たちは法師柳の楊林寺に集まり、自分たちの味方と考える小島代官宛に354名連判の願書を作り、さらに森と平次兵衛を制裁すべく7月8日から10日にかけて北条郷の総鎮守宮内熊野神社に決起集結したのです。結局7月13日、家老色部典膳に願書を提出しはしましたが、説き伏せられてこの騒ぎは収まりました。
 この事件の結末は、江戸家老竹俣当綱のとりなしで、農民たちは死罪を免れることになりました。逆に宝暦13年、森平右衛門は竹俣当綱たちによって城内において誅殺され、平次兵衛は斬罪獄門になりました。こうして農民たちの要求はそのまま受け入れられ、「青苧上納」は免れることになりました。鷹山公が竹股達家臣団の大きな期待を担って藩主となるのは、その七年後のことでした。
 今、西落合白髭神社に「酬恩碑」が建っています。青苧騒動からほぼ100年を経た安政4年(1857)、子孫達によって建てられました。先祖の決死の行動が代々語り継がれていたのです。
 宮内熊野大社にある青麻神社(あおそじんじゃ)。明治の初期、妹神堂にあったのがここに遷されました。青苧がこの地の重要な産物であった頃の歴史を伝えています。

◎宮内四季のうた

春 
  妻と共に園地作業に有るときを愉しと思へり貧しきながら  湯村五郎 
  ゆるやかな丘陵地帯に段なして白き桜桃の花咲き満ちぬ  小林治郎
  置賜の国原青靄(もや)こむる果に雪輝きて飯豊山聳ゆ  上浦善助
  吉野川の川瀬のとよむ夕暮れに草笛吹きて遊ぶ少年  鈴木 茂
  北に向く窓に立たしし先生と肩触れあひしことも尊し  (「先生」は斎藤茂吉)  黒江太郎
  灯に小さく屈み粽(ちまき)を結ひながら地唄口ずさみをりし垂乳根(たらちね) 結城健三

  暮れなづむみ社の森に蜩(ひぐらし)の一つ鳴きをり梅雨の晴れ間に  舩山敏子
  滝の音も蛙のこゑにきえゆきて秋葉山なみを月さしのぼる  須藤るい
  ぶっつりと茄子の塩漬はみゐつつ母と朝餉のうれしさにゐる  須藤克三
  梅雨あけて祭りの御輿眩しかり供えし稲穂のともに揺れつつ  牧野 房
  笛の音と太鼓の音の鳴りひびき盆のおどりの輪が動き初む  山口精一
  米沢藩が糧物(かてもの)とせし滑莧(すべりひゆ)日照りのつづく今年勢ふ  鈴木静江
  子らを率(ゐ)てわれ自らもはづみたりし盆踊なつかし囃きこえて  井上宏子
  ふるさとの味をしのべと東京の吾子に色よき枝豆送る  小田たか

  台風に落ちたる林檎を丹念に拾ふ農夫に雨しきり降る  小野寺久子 
  秋の色よそにおとるなふるさとの我がつちかひし園のもみぢ葉  須藤永次
  時は移り忠とは何と疑える世にしあれども我等清掃す  山水辰二
  帰り来て日暮みじかければ燈(あかリ)もてさ庭に菊のわき芽を摘める  遠藤達一
  わがかなしみ人に言ふべきことならず菊人形紅(べに)の鎧が匂ふ  牧野 房
  ふるさとの刈田のあとに立ちのぼるさぎりの動きほのかなる朝  芳武茂介

  公園のここの枯原陽のてりて時雨は街の上を降り過ぐ  鈴木信太郎
  みづからを振ひ落とせしもののごと今朝一葉なき大公孫樹(いちょう)たり  鈴木冬吉
  梵鐘の打つ音八つしづかなり氷雨降りゐる朝(あした)聞きをり  佐野憲一
  雪の上の葡萄園の棚廃れしを照らしてのぼる冬の満月  大室外次
  この細き宮沢川も冬川のひびきをあげて大寒に入る  金子阿岐夫
  初市の露店にひとくくりの寒椿青きその葉に雪つもりゆく  鈴木冬吉

◎山口蓬春と小関賢一

 山口蓬春(1893-1971)は、洋画から出発しながら日本画に転じ、近代感覚の新しい日本画の道を切り開いた画家でした。「感ずる心の純真よりも器用に描くことをほめられた日本画からも、思わせぶりな精神論だけの日本画からも抜けだして、現代日本画界にひとつの水準を築いた」(米倉守)と評される近代日本を代表する画家のひとりです。
 疎開先赤湯の桜湯旅館の大浴場で山口蓬春に出会ったのが縁で、生涯蓬春に寄り添って自らの画業を磨き続けたのが宮内出身の小関賢一(おぜきけんいち 1922-1998)でした。
 賢一は、大正11年(1922)宮内菖蒲沢に父賢二母キチの長男として生れ、尋常小学校高等科を卒業後、須藤永次の吉野石膏、木村東介の羽黒洞を経て出征、復員後の昭和21年、疎開していた山口蓬春に出会い内弟子となります。しかしまもなく結核再発、帰郷して療養生活を余儀なくされますが、須藤永次の支援を得て画業に励み、昭和35年38歳で日展初入選、以後平成10年75歳で亡くなる前年まで二十数回の入選を果します。
 昭和41年(1966)、須藤永次の熱海から葉山の山口蓬春方に移り、昭和46年(1971)蓬春他界までを共に過します。平成2年に(公財)JR東海生涯学習財団によって山口蓬春記念館ができてからは、その嘱託職員として蓬春の顕彰に努め生涯を終えました。
 賢一の作品は、南陽市役所や宮内中学校で親しく目に触れてきましたが、平成23年(2011)に遺族より南陽市に多数寄贈され、得難い南陽市の財産になっています。

◎宮内熊野大社中興 北野猛宮司

 大正十年(1921)、伊勢神宮の太々神楽が宮内熊野大社で奉奏されるようになる取組みが始まります。苦学の末神宮皇學館を卒業、図抜けた発想力と実行力で宮内熊野大社の名を全国に知らしめることになる北野猛宮司は当時二十三歳、神社や宮内の将来について宮内町助役梅津亀之助と語る中で、境内末社の一つである皇大神社に着目し、その天照大神の賞揚教化を名分とした参宮行事を思い立ったのです。
 ついに昭和四年(1929)の第五十八回式年遷宮の年、伊勢神宮職員の学友竹田光三氏を通して、門外不出であった太々神楽奉奏の許可を得ます。相沢宇七、舟山長之助兄弟が伊勢に出向いて猛練習、翌年の昭和五年(1930)旧正月参宮での初奉納となりました。この地で伊勢神宮の太々神楽にふれることになった人々の驚きと感動はいかばかりであったことか。以来、宮内熊野大社は「東北の伊勢」と呼ばれるようになるのです。
 昭和五十三年(1978)、十四年間途切れていた仮装行列を、宮内商工会青年部が「菊と市民のカーニバル」として復活させました。その時「君たち若い者がやらなければ誰がやる」と協賛金をポンと出して後押ししてくれたのが猛宮司でした。
 その翌年「青年よ奮い立て!」と題して、宮内の青年たちに商売の心構えを説いた記録が残っています。最高位の神職身分一級でありつつ企業人としても抜きん出た存在でした。昭和五十九年(1984)宿願の幣殿兼神楽殿増改築工事の完成をまって八十七歳の生涯を閉じました。だれからも「北野さま」と呼ばれ、敬愛された宮司さんでした。


◎独立不覊の精神 須藤永次 (1884―1964)

 吉野村を発祥とする吉野石膏株式会社を超優良企業へと育て上げた須藤永次は、生来の腕白でした。飛躍への転機となったのは、バツイチ同士、幼い頃から知っていた山崎るいとの結婚でした。「あなたが考えて一番よい方法だと思ったら、思い切ってやることがいいと思います。」妻の励ましが自信を生んだのです。永次二十七歳、るい二十一歳、父母兄弟から離れての新世帯、石黒製糸所から出る赤糸・ペケ糸(三級品)商いからの出発でした。
 事業は次第に拡大、蚕物仲買に加え石炭販売事業によって躍進を遂げ、苦境に在った吉野石膏採掘所を引き受けて石黒七三郎と共に新会社を設立(大正7年 1918 )します。しかしその後昭和四年の生糸暴落によって破綻、苦難の中石黒の全幅の信頼を得て石膏事業に専念するようになり、昭和六年には破産した最大の取引先日本タイガーボードを引継ぎ、耐火ボードを手がけるようになります。昭和八年、吉野石膏鉱山の水害による竪坑陥没を機に石膏工場東京移転、現在への地歩が築かれます。
 養子として次代を引き継いだ須藤恒雄社長による述懐、「石膏ボード生産の原料は処分に困っている燐酸肥料生産の副産物。ただでもいいと言われたけれども、儲かりすぎて税金に取られるのがもったいないんで、最初は1トン二百円、それでも儲かりすぎるんで六百円で計算することにした。・・・うちの提携企業はみな大会社なんで、サインすればどこの銀行でも何億でも出してくれるから、株式公開が必要なかったんだなあ。」利益の多くは美術品の収集に向けられました。
 東京に出てからの飛躍のきっかけは、工場建設中に川底から出てきた魚籃観音の発見と伝えられます。会社も盤石となった昭和三十五年(1960)
、観音さまは双松公園の琴平神社内に合祀され、毎年琴平神社祭礼前日の五月四日に例祭が行われています。

大観が画いた相生の松

 日本には男女和合のめでたい松としていくつかの「相生の松」 がありますが、双松公園の相生の松は、姿においても大きさにおいても日本一と言っていいすばらしい松です。夫婦相生の松として「妹背(いもせ)の松」ともよばれ双松公園の名の由来となりました。
 昭和三十年代、当時東大名誉教授であった植物学の権威本田正次博士が枯れ死寸前のこの松を見て驚かれ、博士自らすぐ県に連絡して天然記念物に指定されたといわれます。その後婦人会や地元の方々の献身的な手入れによって今の姿に回復したのでした。
 この松にまつわる伝説もいくつか伝えられており、古来この 松に願えば縁むすびに効験があると云われ、代々寺子屋を開き 琴平神社の神主でもあった長部功が歌にしています。
  結ばんと思ふえにしはわが里の妹背の松に祈れ諸びと
 横山大観は大正から昭和にかけてしばしば漆山の金上製糸に 長逗留しています。「相生の松」と題する作品がありますが、 その姿形からしてモチーフとなったのは宮内の相生の松と考え られます。 (神奈川県箱根町 ポーラ美術館蔵)

近代宮内の礎となった佐野元貞

 宮内町初代町長となる佐野元貞(1857-1915)は、鎌倉時代、北条時政の妾腹の子北条相模坊臨空と共にこの地に落ち着いた佐野家の出です。幼くしてコレラの大流行(1861)で父を亡くし、五百戸のうち三百戸を焼く宮内大火災(1872)に遭い、苦難を重ねながら勉学に励み、宮内小学校在勤、宮内養蚕伝習所長等を経て、明治二十二年(1889)町長に就任、四十年(1907)年まで四期半務めます。
 『蠶業示要(さんぎょうしよう)』の小著を残しています。宮内にいよいよ人口増加の萌し現れつつある明治二十一年(1888)の 発行。十九年頃から次々に新たな工場の創設があり、蚕の需要が飛躍的に伸 び始めた時代でした。この小冊子は養蚕、製糸事業者にとって共通認識を得るのに重要な役割を果したと思われます。 印刷社は東京日本橋の吾妻健三郎。米沢の出身の人物で元貞の一級上。全国とび回る元貞と出会い、置賜人同士肝胆相照らす交流がしのばれます。
《斯業ノ隆盛ハ独リ我郷ニ止マラズ全国ヲ挙テ之ニ従事セザルノ地ナキニ至レ リ夫レ物ノ価タルヤ需用ノ減少モ供給ノ増加モ共ニ下落ヲ免レザル者トス然レバ則チ吾人ハ勉メテ飼養法ヲ研究シテ以テ繭ノ原価ヲ低廉ニゼザルベカラズ又 製糸ヲ精良ニシテ以テ需用ノ増加ヲ謀ラザルベカラズ今日ハ實ニ競争ノ戦場ニ 在ル者ナリ先鞭ヲ揮ヒテ一歩モ輸却スベカラズ希クハ諸君従来ノ旧套ヲ脱却シ テ斯ノ新法ヲ試ミラレンコトヲ不肖切望ノ至リニ堪ヘズ》
 製糸業で隆盛を極めることになる、宮内新時代を開くにふさわしい志が伝わってきます。
 『おみきばばちゃの夜噺』のおみきばばちゃこと佐々木みきは、元貞の三歳下の妹。 著者で孫の田島房子は、宮内文化の源流田島賢亮先生の最初の教え子にして 生涯を共にした奥さんでした。

宮内、賑わいの記憶

 明治10年代から当時の輸出産業の花形、製糸業で栄えた宮内町。 最盛期の大正10年(1921)、歌人上野甚作が詠んだ歌があります。
   小さなる町にはあれど中空に黒煙りはく煙突いくつ 
  しかし、世界大恐慌(昭和4年)とともに翳りが出てきます。 昭和4年(1929)と6年(1931)を比べると、繭価格も生糸価格も半値です。 その後持ち直すものの昭和8年の11,000人をを峠に人口も減少 に転じます。戦争が始まって疎開児童の増加等で再び上昇、昭和 23年(1948)がピークでした。 
◎宮内の人口推移
 ○明治18(1885)年から緩やかな上昇開始。(3,334人/520戸)
 ○大正7(1918)年から急激な上昇開始。(6,984人/1,196戸)
 ○昭和8(1933)年に最高。(11,504人/1,972戸)
○昭和19(1944)年が底。(9,582人/1,870戸)
○戦後は、昭和23(1948)年が最高。(11,978人/2,273戸)
○平成27(1915)年は大正10(1921)年レベル。(7,496人/2,668戸)
○平成29(1917)年4月1日、7,288人/2,670戸(赤湯10,944人/4,006戸 、沖郷7,322人/2,385戸)



 花笠音頭に「菊は宮内あやめは長井バラの名所は東沢」と歌われるがごとく、菊といえば宮内、宮内といえば菊でした。菊人形展をもって「菊まつり」とするならば、その歴史は日本一です。その土台をつくったのが「くまぎっつぁ」こと菊地熊吉(1894–1974)でした。宮内の小作農家に生まれた熊吉は、絵や彫り物、それに酒が大好きでした。求めに応じて作った獅子頭など多くの作品が今も残ります。
《山形連隊にとられるまで農業をやっていた。・・・人形師になるとは思わなかったよ、・・・兵隊時代の軍旗祭でまわりの者におだてられて王道という人形を余興に出したんだ。これが大変評判になってしまった。大正四年秋除隊になってまた農業をやっていると、・・・腕をいかし菊人形をつくらないかとすすめられた。ちょうど宮内で頼んだ東京の人形師が有利な米沢に逃げてしまったその穴埋めにな。そこで引き受け予想以上に評判だった。しかし次の年に断ったよ。なんだか責任が重いようだったし、それに人形師になっても一生メシが食える訳でなし、やはりどこまでも農業をするつもりだったから。ところがネバラレてまた引き受けてしまった。そんな具合で人形をつくっているうちこんどはおれが人形にほれはじめたんだ。しかもぞっこんという具合にな。・・・ほれた以上は真剣になったよ。毎年のように国技館と浅草花屋敷の菊人形、それに当時の帝展を欠かさず見に上京した。・・・なにも自慢することはないが、ただ宮内の菊の飾り付けは咲いた菊をくっつけるのではなく、ツボミの菊をとりつけて咲かせるところに値打ちがあると思う。この技術だけはほかで真似られないと思っている》(昭和36年11月7日山形新聞「この道ひとすじ」)
 熊吉は菊作りから、電動仕掛けも含めた場面構成、人形づくり、菊つけ、小道具、そして背景まですべて自分流に考えて一手に引き受けました。「独創だからこそ一生懸命続けられたもので、ふり返ってみると、思う存分に菊人形づくりができた。私はその点幸福者だと思っている」と後年述懐しています。その菊人形作りの伝統は息子、孫へと引き継がれ今も生きています


 

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