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400年くすぶる課題解決(遺恨解消)に向けて [地元のこと]

宮内の根底にくすぶる歴史問題がある。安部右馬助による嵐田左近闇討ち事件である。遡ることほぼ400年前の出来事が今も尾を引いている。

 

慶長3年(1598)、この地を直江山城守兼続が治めることとなり、直江に近い(母の実家)尾崎重誉が熊野の森の北、宮沢城に入る。どういう事情か、尾崎は半年そこそこで福島に去る。しかしその家臣の幾人かはこの地に関わりつづけ、現在の宮内の基礎を造ったのが嵐田左近であり、安部右馬助である。それまでは宮内の中心は熊野の森の背後、宮澤城のある今の菖蒲沢だった。信州飯山から移った、信玄謙信の流れを汲んで土木に長けた一統は、吉野川の水に着目、金山に堰を築き宮内の町に水を流し込み、その先に田地を開いた。近代になって宮内は製糸の町として稀に見る隆盛を誇る。その名残りが100年の歴史を重ねた菊まつりだ。

 

太々神楽百周年パンフ.jpgしかしどうもすっきりしない、何か事あると表面化する影がある。それがこの闇討ち事件だ。熊野大社太々神楽奉奏100周年に向けた動きの中での協賛金集め、その中でまた浮上した。いつか解決したいとずーっと思っていた。この際押し込めずに出してしまった方がいい。そういう思いで、「宮内文化史資料」第8集から「嵐田口伝記 全」をがんばって読み込んだ。薄れかかっているガリ版文字だが、89歳という嵐田源作翁の思いが伝わって一気にできた。ここからどんな展開が待っているかわからないが、400年来の課題解決に向けた第一歩でありたい。

 

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嵐田口伝記  全

 我が嵐田家代々過去の口伝を記します。
 我々毎日このせち辛い世にも係らず恨みにつけ楽しみにつけ、一生涯を一家団欒の中に無事暮らし得ることは一体誰のお陰でしょう。自分自分の致す処もあるでしょうが、その奥には遠い遠い祖先の恩恵に依ることは間違い無いことと存じます。
 さればこの遠い祖先の恩恵を如何にして酬い申すべきでしょうか。われわれの祖先がこの風波荒き世の中にあらゆる苦難と戦い、寄せ来る世上の怒濤を払い、勝利を苦闘の中に獲得し暮らし来った其の苦難のありさまを、つぶさに偲び肝膽に銘じ、粗宴に恥じぬよう心がけ、一家の繁栄を計る可きことと信じます。ここに於て、我々嵐田家の言い伝え、祖先の伝記を書き後世までの参考に備えたいと思います。
 我々の祖先嵐田泉左近は、安部右馬助と共に上杉景勝公に主従し、その藩中に於て館主格であったそうです。豊臣秀吉公は仙台伊達政宗を恐れて、その抑えとして景勝公を越後百二十万石より会津若松に移封したそうです。その際越後移転の跡形づけとして、嵐田安部の両人は残留したとのことです。景勝公はかつて石田三成と組し、関ケ原に於て徳川家康打倒を共謀せしとがを以て、家臣直江山城の領地米沢十五万石に移封されたそうですが、何様百二十万石の大々名が、わずか十五万石の小領地に縮封されたことですから、今の敗戦日本どこで無い。流石の景勝公も是れには困厄おく能わず、家臣共らにも充分禄も給与することが出来ず、喰うか喰わずの有様、百方万策尽き、家臣らには革細工、羽織の紐編み、織物等の手内職を許し、生か死かの苦難を凌がせるに至った。それが今日名産米沢織の起因を致せしとか。このような財政困難の折柄、嵐田安部ようやく越後の跡整理も終り来たそうです。だが来てみたものの藩中はこの有様、いくら館守格だの何のと云ってみたところで、仕官にも禄にもありつく様が無い。景勝公依って景勝公は両人に対し、いやいや大儀であった。だが右の始末、その代償として此米沢領内何処なりともお前らの勝手次第望みの土地を選み、生計を立てる様にとの仰せであった。両人は幾分かの涙金を拝領し、手厚い主人の恩恵を謝し、二人して北方を目指し元沖郷村宮崎に辿り着いた。安部はひとまず宮崎を好しとし、そこを自己第二の安住地と定めて開拓に着手した。居住久しくして其処に寺まで建立し、自分の名の綱正をとって綱正寺と命名し、今日に於てその証拠を残している。嵐田は安部と袖を分ち、当宮内に来り、ここを居住の地と定め、一意専心全町の区画並びに耕地の整理に孜孜として努力し、宮内町後日の発展に尽力した。その後安部は、宮崎開拓に尽力してみたものの、どうも宮崎の地形は南側に松川の大河を控え、雨後の洪水田畑の被害などにより開拓も思わしくないまま、断然宮崎開拓を思いすてて嵐田に共同開発を申込んだ。元来快闊大度の嵐田むかしの好みを思い、心よく受諾した。安部は老父を隠居として宮崎に残し、妻子と共に宮内に来り嵐田に力をあわせ一層全町の発展、耕地の開拓に専念した。

 この協同開発の効果により全町の区画田面も大体出来上がったが、大事なことには全町の用水並びに開拓田面全部にかけ渡すだけの灌漑水は、かの熊野山後方菖蒲沢の水だけでは足らず、ぜひ多方面から補給せねばならんことになった。この補給水の選択には、両人ともに大いに困憊した。論戦数たび極まるところを知らず、その結果ついに両人の体をも離隔するに至った。これにより嵐田はついに安部の激論を反駁し、断然意を決し独断専行の挙に出でて、金山村大橋の上側たもとより北の山麓ぞいに給水路工事を起工することにした。
 これについて甚だ面白からぬ安部は、その工事の成り行きを切歯激怒の目で黙視し居った。これにひきかえ、町民の大多数は給水工事の完成を片時も早かれと祈り待って居た。苦難数ヶ月、工事もいよいよ終りをつげ掲水の火蓋を今や切らんとせしその当日などは全町の民衆黒山のように蝟集し、掲水いかにと期待し居った。待つまでもあらず、やがて止水の土を切るや、奔流堰にあふれ、一大洪水の如く滾々滔々町内に流れ込んだ。これを見た町民一同狂気喚呼し、その声山河を震動せしめ、万歳連呼宮内町幾千年後の繁栄を祝福し、嵐田の技術を賞讃した。以上の堰を宮内町場最古の図面に嵐田江堀と出ているのを私が見たことがあります。
 町民のこのよろこびにひきかえ、憤怒おく能わざりしはひとり右馬助のみ。このとき右馬助胸中に思えらく、町民かく嵐田を徳として嵐田に傾くからには、全町らならず彼の手中のものとならん。捨て置き難し、目の上のたんこぶは除くにしかずと、この時元来姦侫邪智の右馬助すでに嵐田殺害の陰謀胸中中に決した。熟考久しくして、江堀の竣工式祝いと称し、嵐田を私宅に招待することにした。元来闊達大度の嵐田、灌水論のいきさつも少々心の奥にあったでしょうけれども、更に意に介せず、供侍の従者一人ひきつれ、悠々祝賀の席に参列した。かねてたくらんで居た安部は、菩薩の外面に鬼心をかくし、ひとしおの待遇をした。嵐田は工事完了の喜びのまま思う存分心よく酔って、安部宅を雑談のすえ辞し、供侍を立て扇に手拍子をとり唄う謡曲終りを知らず、表門より入れば何ごともなかったでしょうが、そこが運の果て、裏門一帯は群竹の密林、昼なお暗しましてや深夜の帰宅、かねて覚悟の右馬助、時刻をはかり先駆叢中に潜伏し待つ間もあらず来かかる嵐田の脇腹目がけてま深に突き貫いた。噫無惨や、我々の祖先は永久の恨みをのんで安部の凶刃に倒れた。
 ここで私は一言しておきます。この安部嵐田の件について、その真偽を調べる力もなければ、無論知るよしも有りません。ただ今回山田先生の宮内町町史編纂について問いにまかせて、これまで当字内代々古老方の口伝をきき、安部氏は人道上に相反しているかの様に思え、人身攻撃にまで及んでいるわけです。
1-宮内地図Aa嵐田家と安部家.jpg 一体安部氏の邸宅は、今の新丁東方側直角なる宏大な屋敷だが、嵐田の邸宅も又劣らぬ邸宅で、十文字より本町を南下し、旧郵便局石黒製糸工場裏より清水町に出て、北方に登りさらに西して横町より十文字に至るこの屋敷を、役場の古地図には嵐田助十郎屋敷と出ている。彼の屋敷うらに屋敷鎮守の御堂が残ってあります。今でも五、六本の竹が、幾星霜の歳月を凌ぎ来り、わずかに昔の面影をしのばせ、淋しく風にそよぎいるのを、私が通りがかりに見まして、噫ここぞ我々祖先が安部の凶刃に倒れ血を流せし所かと心の中で念仏三昧に入り、祖先の冥福を祈り感慨無量低徊去る能わざる思いに耽ることもしばしばあります。
 嵐田亡き後の右馬助はさながら無鳥郷の蝙蝠で、直江山城などに対しては御髯のちりまで払い、一面には自分の罪を隠蔽するため多大の賄賂をもしたでしょう。又世論の悪評をまぬかれんため一つの方策として、全町の区画を整理し、町民一体に金銭などを振りまき道路橋梁など修築し、至れりつくせりの慈善事業をほどこして世上の世論を糊塗した。一賄賂の効や実におどろくべし、悪を善に死をまた生に換える。何と封建時代の思想、今日からは一大殺人並びに贈賄事件の張本人として検挙さるべき筈のところ、加害者は一賄賂の効をもって何のことだになく、被害者のみ家名断絶所払いの憂き目、その片手落ちの制裁や、実におどろきにたえざることでございます。
 その後嵐田一家に於ては、名字断絶の結果、舎弟に吉野川小滝の漆山家から嫁をもらい、名字を漆山と名乗らせ、兄助十郎は当内原に来たり、内原前数十町歩の田畑を開拓した。田面開拓術には親に劣らぬ技術に長じ、各町場毎には周囲に灌水堀をめぐらし、上部の田地より下部の田地へと一滴の水をも漏らさぬ計画の仕組には、耕地整理進歩の今日でも実におどろくべき整理法です。一体内原は水源地水林の水のみにては開拓田面一帯の灌漑にはどうしても足らない。ここを見計り灌水の節約をはかったものでしょう。
 世の諺に無理が通れば道理が引きこむ、悪盛んになれば善に勝つとか、しかし悪は一時盛んなれども到底永久に保たないようです。たとえ人は許しても天網は恢々にして許しません。安部はいったん嵐田を倒し、一時ときを得たもののその末路やいかに。安部家の今の長男は行方不明、一人の娘は一尼僧にしてわずかに祖先の冥福をいのりいるのみ、それに引きかえ嵐田の末葉はまたいかに。大本家嵐田長兵衛は依然として跡を絶たず、本家から七戸の新家が出来、さらにひいては宮内、赤湯は申すに及ばず遠くは米沢、さては東京方面までその門葉は蔓延し、ほとんど極まるところを知らず、各個孜々としてそれぞれ家業をはげみ国家に義務を果たしている。これを右馬助の一石碑とおし比べてみたらどうでしょう。国家に尽くすところ何れがまさるか劣るか。
 古語に云う。積善の家には余慶あり、積悪の家には余報ありと。だがしかし善は善なり悪は悪なりと行けばよろしいが、ままならぬ浮世の習にてそうばかり行かず、現に熊野山下にある右馬助の顕功碑を見てもわかります。たとい偽善家だの殺人鬼だのと呼ばれても、今は宮内町開拓の祖として堂々全町を俯瞰し、衆人敬意の上に立ち、香煙縷々として絶えない有様です。
 それにひきかえ嵐田の墓はいかに、老松古杉のもとに青苔墓面を掩い、幾百年の歳月を風雨に凌ぎ寂々寥々、ただただ門葉の輩回向香煙のほか誰れ訪うものもなく、鴉鳴きただ遠しの感ありです。さわあれ、祖先よその門葉は永久に盛んなり。何をか恨まん。もって地下によろしく冥せられよと祈ります。
 ここに右馬助の性格行為を古歌に依り評して見ましょう。
   聞くやいかに空のそらなる風だにも
        松に音するならい有りとは
 上の空の風も何によって言するのでしょう。その背後に天をも摩する老松のあるからではないでしょうか。安部の宮内全町の開祖となったその名声も、背後に直江山城という一大老松のあったからのことでしょう。
 又嵐田の性格行為を古歌を以て評してみますと
    思いとも岩手の山に年をへて
         朽ちや果てなん谷の埋れ木
 たとえ身は谷の埋れ木と朽ち果てて終るとも闊達大度細事に拘泥せぬわが祖先は、安部の顕彰碑などは殆ど物のかずでも無い問題外、草葉のかげにてただただ破顔一笑に付する事でしょう。世には顕官に諂侫(てんねい)追従して自己の罪悪を弥縫し、名声を史跡などまでに残す者あり、また真実豪放にして奸曲侫娼ならず功を論ずれば樹下に退き、史伝に洩るる我が祖先の如き大臆者(?)も多々あることと思われます。人間は二者のうちいずれを採るべきものでしょうか。我々は目前の利欲に走らず、死後の喜誉を目指して夢の如き短き人生の行路をたどり、我が祖先にならい勤勉努力して益々国家に尽し、はかない一生を送りましょう。
  鈴木幸松町長のとき、安部右馬助の石碑運搬の出人足の達しが役場よりありました。その際横町の漆山信次などは大いに憤慨して、我々の祖先殺害者の石碑運搬などはトンでもない、自分の清水町領からは一人も出人足は出さない、内原でも一切出さない様にと云って来て一人も出さなかった。内原では役場の達したもの、いまの此の世の中で昔の義士の仇討のようなことも語って居られまいとて出てしまった。
 信次大将の親父治右衛門は私らに会うたび、嵐田家の大先祖は我輩なんだぞ、などと言い云いしていた。親父それなら本家の証拠でもあるのかと聞くと、有るとも見たけりゃ何日でも来い見せて遣るなどと言い云いした。だがその実ない。無いのも道理、漆山の方は舎弟だ。嵐田の方が兄で、屋敷移転の際に証拠の品などは兄助十郎が持ってきたもので、漆山にはありようがない。しからば本家嵐田長兵衛に有るかといえば、これまた有るにはあったろうが、本家代々の人は物品どころか金銭などにも廉清なる質の人のみで、三食も二食にして人に与える位だから、そんな証拠物などは眼中にありようが無い。私より四つ五つ年上の長左門親父などは本当に気質のよいおもしろい人で、その性格は祖先の性格に似て実直快豁侠気があって人に好かれる質であった。今は故人となった快豁親父も何処へやら、実に人生行路のあと振り返りみれば、結ぶ間もない春のはかない短か夜の夢のまた夢であった。
 時鳥という鳥を昔の多くの人々が和歌などに大へん高尚優美なやさしい鳥のように詠んでおりますから、私も何程かやさしい鳥かと思って居りました。ところがなんともっての外の名実ともに違った荒ら鳥なそうです。これにはおどろき入りました。一体時鳥という鳥は、自分で巣を作ることを知らない鳥なそうです。だから玉子を生む時には鶯の空巣をねらってポタポタ生みつけ歩くということです。すると生みつけられた鶯はほかの玉子と知らず、自分の玉子同様に一生懸命身を粉にやつして反時(?)の養育をするそうです。やがて育った時鳥の里子は、最初のうちこそさまでの事はないが、段々生長するにしたがって横暴の本性をあらわし、もはや巣立つころには恩愛の親の義兄弟をことごとく皆追い出し、一人依然としておくめんもなく巣を占領し居る横暴極まる荒鳥なそうです。しかしさすがの荒鳥も義兄弟を巣から追い出すまでの乱暴は働くものの、殺しまではしないそうです。
 ここで若かりしに万物の長たる人間としてのその人間が、他人の経営している事業に押し込み闖(?)入して寛大極まる人をもかえりみず、追い出しはさて措き闇殺したらどうでしょう。これこそ将に天も赦さぬ最大の罪悪人で、実にこの時鳥にも劣る人道はずれの人間といわねばならんかと存じます。この口伝中の安部の行為はいかがでしょう。いささか時鳥にもまさるとも劣らぬ行為かと思われます。
 我々祖先はいったん不幸にも安部の凶刃に倒れ、名字断絶の憂き目にあい処払いにまでなったものの、なお今日まで嵐田屋敷には漆山を名乗って変らず、末裔(?)は屋敷を守って居ります。安部屋敷はどうでしょう。浮き川竹の流れのように流転々々と何代かの人手に渡り、安部の系統者は影を没し、自然の名字断絶処払いです。ああ汝より出でて汝にかえる。善因善果悪因悪果の徴や恐るべしであります。

    昭和三十九年四月
                      行年八十九歳     
                                                                                 嵐田 源作記す
   嵐田長三郎本家殿

 


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