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神道天行居精神の大根本 [神道天行居]

『古道』8月号の先師巻頭言、神道天行居精神の大根本と受けとめます。
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慢心といふことが格別に大きな邪魔となる
友清歓真
◎「神たる我れ」の自覚強化の修業と、慢心を大禁物とする修行とは、見方によって一寸矛盾した行きかたのやうに見えるが、さうでないので、そこが工夫修養の眼目の存するところである。山河にも号令し雷をも叱咤する「神たる我れ」の自覚強化を修行しつつ、断じて慢心を起さぬといふことが肝要で、それはそれほどむつかしいことでもないので、やる気さえあれば誰にもやれるので、学問識見の浅深等に関係ないことである。特に我党の同志諸君は、この点を眼目として修養工夫せられなければならぬ。慢心を起さぬといふことは、みだりに謙遜ぶって、ぺこぺこ頭をさげることではない。そんな人間には却って佞奸なものが多くつねに一種の精神的贈賄をやって「あの人は感心だ、実に謙遜だ」と思はせることを処世の秘訣とでも心得て居るものが多い。卑下慢をやってからに「どうだ、俺はこんなに謙遜だぞ」と思ふやうなのは、増上慢よりも更らに下等だ。
◎慢心がよくないといふことは、普通の世間的に考へても、誰でもが知り抜いて居ることで、わざわざ言ふに及ばぬほどのことであるけれど、苟も正神界に結縁し、正しい神法道術に交渉をもつものとして、この慢心といふことが格別に大きな邪魔となるものであるから、それで二十年来このことをうるさいほど中上げるのである。端的に申せば、慢心があって修業する神法道術は厳格なる意味に於て神法道術にならぬのである。多少の奇験が応現したりすれば、尚更らそれは警戒を要するのである。と申すわけは、正神界に於ては、慢心の影の存在するところには絶対に感格せられないからである。それに奇談があらはれたりするのは、断じて妖魔の感格である。邪人が正法を行へば正法も邪法となるとは此れをいふのである。慢心の影がさす瞬間に、正神の感応は去り、たくみに正神を擬装する邪神が感応する。それは神法道術に交渉をもつ人の実に大事な心がけを要するところである。
                            磐門胡餅第九

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