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横峯式教育法の考え方 [横峯式]

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昨年の暮に書いた、横峯さんの保育園見学レポートです。

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 「全国引きこもりKHJ親の会」の推計によると、不登校やニートを合わせた引きこもりの総数は160万人(注1)にも及び、子どもを持つ家庭の40軒に1軒が該当するという。 実に穏やかならざる数字である。本人はもとより、その周囲の心労はいかばかりか。しなくて済むならしないで済ませたい苦労の最たるもののひとつ。日本全体に積り積った、そのために費やさねばならぬ精神的消耗の集積を思うと気が遠くなる。本来世の中に役立つ事が人として生れてきての生き甲斐につながるとするならば、そしてそうした人材を育てることをもって本来公教育(注2)の使命とするならば、その数字はそのまま日本の教育結果のおぞましき現況を表わす数字といえるわけで、事は重大なのである。横峯吉文氏が雑談中にふと語った言葉、「できる子どもはほおって置いてもできる。できない子どもをできるようにしてやること、それが私のいちばんのテーマだ。」できないとは、単に勉強ができない、運動ができないを意味するだけなのではない。実は、160万という数字も横峯氏からはじめて聞いた数字だったが、それは世の中にうまく適応できないという意味で、まさに「できない」子どもの数なのだ。日本の教育がこの問題に真摯に向き合うことなくして日本の将来はない。決して「うちの子どもは大丈夫」で済まされる問題ではない。この付けはいずれ日本国民全体に及ぶと考えていい。 

大学で教職の資格をとるために「教育原理」という講義を受けたことがある。そこで、日本の教育の原理は、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」によって基礎づけられた主知主義であると聴いていた。そんな頃出合ったのがメルロー・ポンティ(1908-1961)というフランスの哲学者だった。もし生きていたら会いに行ったかもしれない、それほど親しく思えた初めての哲学者だった。彼の根底にあるのがデカルト批判だった。

 デカルト(1596-1650)の精神と身体とを切り離して考える心身二元論に対し、フッサール(1859-1938)からメルロー・ポンティにいたる現象学では、人間が身体をもってとにかくまず生きているという現実を第一義とする。そこから現象学は、「われなし能う、ゆえにわれあり」の言葉を引き出していた。メルロー・ポンティを読んでいてその言葉に出会い感動した。以来、教育の原理はいずれデカルトからそこへと変わるべきとずーっと思いつづけてきた。

   「われ思う、ゆえにわれあり」と「われなし能う、ゆえにわれあり」とのちがいを考えていて、イソップの「すっぱいぶどう」の話が思い浮かんだ。

≪たわわに実ったおいしそうなぶどうをキツネが見つけた。食べようとして跳び上がるが、ぶどうの房はみな高い所にあり、届かない。何度跳躍してもついに届かず、キツネは怒りと悔しさで、「どうせこんなぶどうは、すっぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか」と捨て台詞を残して去ってゆく。≫(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

極論を承知で言うのだが、デカルト的主知主義に原理を置く教育というのは、「どうせこんなぶどうはすっぱくてまずい」で納得してしまう教育のような気がしたのだ。つまり、現実から目を背け主観をいじくりまわして心の安定を得ようとする。いつのまにか、自分の本心がどこにあるかさえもわからなくなってしまっている。よく「心の教育」というが、その内実は実にあいまいなものでしかない。

 

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横峯方式をどう理解するか [横峯式]

 横峯方式を幼稚園の先生方に理解してもらいたくて年頭に書いた文章を載せておきます。

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「子どもの脳の発達 臨界期・敏感期 早期教育で知能は大きく伸びるのか?」という、早期教育の是非について論じた本を読みました。その結論部分に、子どもに備わっている「自分で育っていく力」の力強さをあらわす言葉としてrobust(形)robustness(名)という英語がでてきました。

 引用してみます。

世界中の子ども達の生きている環境はさまざまだ。それは、ニューヨークのセントラルパークに沿う高級アパートメントの一室かもしれないし、北海道の牧場かもしれない。マレーシアのジャングルでロングハウスのなかを走り回っている子ども、一歳過ぎまで布で全身をぐるぐる巻きにされて育てられているボリビアの山岳地帯の子ども、あるいはモンゴルのゲルの中で暮らしている子どもかもしれない。子ども達の育つ環境や育児の習慣はきわめて多様性に富んでいる。幼児期から裸馬に乗っているモンゴルの子どもも、いかだの上で生活をして、土を踏むこともなく、幼児期から泳いでいる子どももいる。

 絵本の語りかけを熱心に行っている親もいれば、子どもには話しかけないのが習慣になっている部族もいる。

 子ども達が聞く言語もさまざまだ。母音が五つの日本語、複合母音まで入れると三〇近くある英語、イントネーションが四つある中国語や八つもあるタイ語を聞いて育っている子ども達もいる。

 これほどの多様な環境に育っているにもかかわらず、世界中の子ども達は、ほぼ五ヶ月で寝返りし、一歳で立位歩行を開始するし、最初の誕生日にはひとつくらい意味のある言葉をしゃべるようになる。最初の一〇単語が出るのにかかる期間が五ヶ月前後であるのは、日本でもアメリカでも同じだ。 こうした発達の同一性があるからこそ、私たち小児科医は、多数の子どもの発達の標準を記録した発達スケールを信じて、子どもの発達を判断することができるのだ。しかし、それほど多様な環境に育ちながら、この驚くべき発達の過程の同一性があるということはどう説明すればよいのだろうか。 これこそ、発達の専門家が等しく認める子どもの発達のロバストネスの表れなのである。

 子ども達の発達は、早期教育をやろうがやるまいが、それによって大きく進路を狂わせることがなく、人として生きていくための知識とスキルを獲得するように調節されているのである。

 実はこの文章にうなづきながら、横峯さんの言葉が浮かびました。

 

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YYプロジェクト(横峯さんの保育園)との出合い [横峯式]

昨日の「エチカの鏡」も横峯さんの保育園でした。「直江兼続公と南陽」の方を進めなければならなくて書きかけのままだったのですが、先に進むためにもとりあえずアップしておきます。

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 「全国引きこもりKHJ親の会」の推計によると、不登校やニートを合わせた引きこもりの総数は160万人(注1)にも及び、子どもを持つ家庭の40軒に1軒が該当するという。 実に穏やかならざる数字である。本人はもとより、その周囲の心労はいかばかりか。しなくて済むならしないで済ませたい苦労の最たるもののひとつ。日本全体に積り積った、そのために費やさねばならぬ精神的消耗の集積を思うと気が遠くなる。本来世の中に役立つ事が人として生れてきての生き甲斐につながるとするならば、そしてそうした人材を育てることをもって本来公教育(注2)の使命とするならば、その数字はそのまま日本の教育結果のおぞましき現況を表わす数字といえるわけで、事は重大なのである。横峯吉文氏が雑談中にふと語った言葉、「できる子どもはほおって置いてもできる。できない子どもをできるようにしてやること、それが私のいちばんのテーマだ。」できないとは、単に勉強ができない、運動ができないを意味するだけなのではない。実は、160万という数字も横峯氏からはじめて聞いた数字だったが、それは世の中にうまく適応できないという意味で、まさに「できない」子どもの数なのだ。日本の教育がこの問題に真摯に向き合うことなくして日本の将来はない。決して「うちの子どもは大丈夫」で済まされる問題ではない。この付けはいずれ日本国民全体に及ぶと考えていい。

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