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田中末男著『宮澤賢治〈心象〉の現象学』を読む [宮沢賢治]

西尾先生の日録で「宗教」をめぐってのやりとりが続いている。隔靴掻痒、宗教そのものを遠巻きにしてあれこれ言い合っているように思えてならない。はからずも、1ヶ月前にちょっと紹介しておいたhttp://blog.so-net.ne.jp/oshosina/2006-04-02本の感想をまとめながら、宗教とは、そして信仰とは何なのかについてひとつの見方が言葉になった。

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毎日少しずつ大事に読んできた田中末男著『宮澤賢治〈心象〉の現象学』を読み終えた。再読である。再読でもこんなに新鮮だったのはなぜだろうか。一回目もしっかり鉛筆で傍線を引きながら読んでいた。二回目は鉛筆を持たなかった。傍線を引くとしても、一回目と同じ箇所に引いただろう。 

≪従来、賢治の理想像として「雨ニモマケズ」の「デクノボー」が称揚され、あたかも個性を磨耗させ、砂粒のような「滅私奉公」的、ないしは「自己犠牲」的人間を志向していたかのような理解がなされてきた。これは誤解もはなはだしい。賢治ほど旧来の因襲の中でがんじがらめにされながら、必死でそれから脱出しようとした人間もいない。それがふたたび前近代的人間像に逆戻りしようとしたなどとは考えられない。なんのために「唾し はぎしりゆききする/おれはひとりの修羅なのだ」と呻吟したのか。まさしく、一人ひとりが、それぞれの顔と個性をもち、それを互いに尊重し合えるようなそういう世界を実現しようと生涯にわたって祈願し、また身を削ってきたのである。≫(p.258)

読み終えて、心底このことに本気だったにちがいない賢治像がくっきりと浮かび上がってきた。

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田中末男著『宮澤賢治〈心象〉の現象学』 [宮沢賢治]

前回の結び、≪われわれの最大の武器は、自らを「自然」に食べさせてしまうことも厭わない「土人」性なのかもしれないと思いだしているところです。≫

こう書いて、いま毎日少しずつ再読中の田中末男著『宮澤賢治〈心象〉の現象学』(洋々社 平成15年)について書きたくなった。

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久遠のいのち 

賢治にとって法華経のもつ決定的意味は-父親との確執における戦略的要因を度外視すれば、これが賢治の内に〈根源的エネルギー〉を解放したことである。

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