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宮内新町通り商店街すごろく [宮内の歴史]

スゴロク 新聞記事.jpgスゴロク.jpg
きのうたまたま、40年ぐらい前の新町通りを再現してつくったという「宮内商店街すごろく」というのが手に入って懐かしんでいたら、今朝の山形新聞に記事になっていました。一軒一軒の店のイラストがものすごくよく描けています。見ていると、今はもう無い店でも40年前のようすがそのままそっくり眼に浮かびます。それにしても、40年なんてあっという間なんだなあ・・・ つくってくれた晴美さん、ありがとう。わが家では、お客さんに見てもらえるところに貼っておくことにしました。

↓この地図がちょうどその頃、昭和54年でした。商工会青年部員の店です。双松公園で商工業まつりをやった時のものです。「地元で買物キャンペーン」を銘打って作成しました。われわれにとっての旧き良き時代です。
「地元で買物キャンペーン」地図.jpg

↓は昨年11月、市民大学講座に向けて作成した昭和8年と昭和27年の家並比較図です。

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宮内、賑わいの記憶(補遺) 民話「むかさり」 [宮内の歴史]

雪降りて・・・.jpg

『おみきばばちゃの夜噺』の中の「むかさり」、そのまま載せておきます。


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むかさり


舌、焼がねえよに、ふうふう、吹いてから、少すずつ飲めよ。

こらっ、矩燧、動がすでねえ。甘酒こぼれる。

うめえがったなあ、この甘酒は。

今晩は風呂さも入ったす、甘酒ものんだす、からだぽかぽか

すてえるうつに早ぐ寝んべえ。

何? 昔話? やれ、やれ。

今聞かせっから待ってろ。



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宮内、賑わいの記憶(6)近代宮内の礎をつくった佐野元貞 [宮内の歴史]

2-佐野家.jpg佐野元貞DSCF2777.jpg佐野元貞履歴書.jpg

「北条」郷の関わりでたびたび登場の佐野家は鳥居の場の北西の角。かつて修験の蓮蔵院の家柄だが今は書店を営む。店の様子は外見も中の陳列の様子も私の子どもの頃と全く変わらない。最近誰だったか「不思議な店だ」と言ったが、たしかにそうだ。現当主は私の3級先輩、実にいい人だ。おじいさんもお父さんもよくわかる。そのおじいさんの親、つまり現当主のひいおじいさんが佐野元貞という人。安政41857)年525日、憲誠、みのの長男として生まれた。文久元(1861)年、コレラ大流行。父憲誠死亡。明治51872)年49日、宮内500戸の内300戸焼失する大火災。死者2名。鳥居の場掛舞台からの出火。佐野家類焼。明治22月から83月まで、旧米沢藩士西山乾三郎に就いて漢学修業。明治81875)年五等仮訓導。宮内小学校在勤。13年宮内村用係。17年学務委員、月給12円。20年、東置賜郡蚕糸業組長に選挙。21年、宮内養蚕伝習所所長。22年町会議員に選挙。すぐ宮内町初代町長に選挙。40年まで4期半務める。宮内町救育義会幹事。23年、宮内町外十四ヵ村連合会議長。24年、東置賜郡蚕糸業組長。東置賜郡教育会員。27年東置賜郡会議員。30年、宮内町農会会長・・・あらゆる分野に亘って信頼されていたことがわかる。この間、24年町役場焼失、265月宮内大火、粡町27戸焼失、33年、十文字風呂屋煙突から105戸焼失の宮内大火と度重なる火災にもあっている。大正41915)年1221日、58歳で死亡。その功績については下記『山形縣紳士鑑』に詳しい。


「佐野元貞」でネット検索して『蠶業示要』なる著のあることを知った。ありがたいことに国立国会図書館に保存されていて、12ページ全文ダウンロードすることができた。いよいよ人口増加の萌し現れつつあるの発行だ。19年頃から次々に新たな工場の創設があり、蚕の需要が飛躍的に伸びた始めた時代だった。この小冊子は養蚕、製糸事業者にとって共通認識を得るのに重要な役割を果したのではなかったか。


小冊子ではあるが当時出版物の貴重さは計り知れないものであったことだろう。印刷社は東京日本橋の吾妻健三郎。実はこの人物、米沢の出身だった。安政3年の生れなので元貞の一級上。全国とび回る元貞とどこかで出会い、肝胆相照らすことがあったのではなかったか。そう思うとゾクゾクッとしてうれしくなる。


もうひとつ最後に付け加えると、『おみきばばちゃの夜噺』のおみきばばちゃこと佐々木みきは、元貞の3歳下の妹。この本の著者でおみきばばちゃの孫田島房子は田島賢亮先生の最初の教え子にして生涯を共にした奥さんです。実は南陽の語り部多勢久美子さん得意のお話に「むかさり」がありますが、その出典は『おみきばばちゃの夜噺』です。多勢さんが南陽を離れて島根の大根島に行ってしまう直前、青苧工房で南陽の人として最後に語っていただいた時、このことを知って驚きました。そのことを思い起こしながら、お姑さんを感心させた民話「むかさり」の嫁さんの和歌で最後を締めました。


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宮内、賑わいの記憶(5)「主要路に沿う職業、82年前と今」比較図 [宮内の歴史]

主要路に沿う職業 元図.jpg宮内漆山主要路に沿う職業.jpg
「郷土に立脚して宮内町付近の製糸業概況を語る」の中でいちばん貴重に思えたのが「宮内漆山 主要路に沿ふ職業」図だった。ほどなく『南陽文化懇話会会報」の第18号(平成10年4月発行)に二瓶精蔵さんがこの図を活版印刷にして紹介してあったのを知った。私はこのたび息子の手を借りて正確な宮内の道路図にカラーで表してみた。さらに今現在の職業図をつくって82年前と比較できるようにした。このたび作成した資料の中でいちばん値打ちがあると自負する。色の様子をみただけで、当時の賑わいぶりと今現在が比較できると思う。現在店を張っているとしてにした店にしても、開けているというだけの心もとない店が半数以上だ。かつての中心街新町通りも見渡して人っ子一人見えないというのも珍しくはなくなっているのだから。
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宮内、賑わいの記憶(4)頂点を極めた頃(昭和8年) [宮内の歴史]

繭糸価格の動向.jpg郷土に立脚して・・・.jpg
世界大恐慌(昭和4年)までが最高だった、昭和4年と6年を比べると、繭価格も生糸価格も半分になっている。その後持ち直すもののかつての勢いはない。そういう中で昭和8年、宮内の人口は11.000人を超え戦前のピークとなる。ちょうどこの年発刊されたのが、郷土に立脚して宮内町附近の製糸業概況を語る」形縣立宮内高等学校教諭 佐藤佐武郎編著)だった。私は以前鈴木孝一さんからいただいていた。この冊子があったから私はこのたびこのテーマを選んだ。B4判ガリ版刷で67ページ、おそらくご自分でガリを切られたのだろう。渾身の力作と思う。佐藤佐武郎という人がどういう人だったのか、それを知る手がかりは今のところこの冊子のみ。単なる学問的関心に発しているのではない。これからどうあるべきかの明確な問題意識をもって取組まれた研究であることに値打ちがある。勢いのある時にはこういう研究はあらわれない。製糸業が衰運のプロセスに入ったからこそ生まれた研究と言っていい。

漆山と宮内の違いに関して石黒龍一郎さんの発言を引っ張りだしてみた。石黒さんの頭の中には長野の諏訪市や坂城町があったのだと思う。それにしても宮内の工業についてのその指摘は言い得て妙、ドキッとしつつなるほどと頷いたものだった。しかしあの時代を経たからこそ吉野石膏株式会社NDソフトウェアの今がある。創業者ではないがアルパインの社長、会長を務めた石黒征三氏の実父は伊藤長太郎さん、宮内のあの時代の血を引いている。

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宮内、賑わいの記憶(3) 勃興期を迎えた宮内(大正8年) [宮内の歴史]

翠松の丘 須藤多蔵.jpg

手元に大正8年発行の『宮内町案内」がある。この年の11月に宮内小学校を会場に『山形縣蚕糸品評会』が開催されたが、それに合わせて発行されたものだ。須藤流蔭こと須藤多蔵の編集による。須藤多蔵は須藤克三の父。宮内女学校の書記官として学校の一切を仕切っていたという。その人となり、結城亮一氏による山形新聞連載『翠松の丘—宮内高校人脈物語』(2015)に拠って知った。結城氏の取材源はまだ健在でおられるはずの大正9年生れ遠藤きよ子さんと思われる。米沢に住む私の叔母が同級で親しく、最近まで年賀状のやり取りがあったと聞く。それにしても結城氏の取材力はすごい。『翠松の丘』は宮内の歴史に関心ある者には宝の山だ。結城氏はNHKの朝ドラ「いちばん星」1977)の原作者。


松風座入場料明細帳.jpg

今回のテーマが決まってまもなく、宮内なんでも資料館「時代(とき)のわすれもの」館長の鈴木孝一さんから松風座の昭和15年から17年の入場料明細帳を借りることができた。入場税の支払いのために刻銘に記されたものだ。1年分を表にしてみた。大人の入場料を記入してみたが、6月までは20銭、7月から30銭になっている。いちばん高いのが広沢虎造で1円。今の貨幣価値は当時のおよそ3000倍ぐらいと考えてよさそう。とすると30銭は900円。当時の女工さんの平均日給は約80銭だったという。

 

品評会の直前に宮内小学校に赴任したのが田島賢亮先生だった。『宮内小学校 百年のあゆみ』にほぼ50年前の当時を思い起こして書かれた貴重な文章があった。大張りきりだった様子がうかがえる。宮内全体大変な盛り上がりだったのだろう。菊まつりのはじまりが大正元年、菊まつりも年々盛大になりつつあった時にちがいない。こう書きつつ、私自身心が高揚してくる。


上野甚作の歌でまさに当時の宮内の情景が思い浮かばされる。「小黒郷」という言葉をこのたび初めて知ったが、まさに「スモールブラックカントリー」、産業革命後のイギリスの工業都市を彷彿させる風景だったのだ。ちなみにこの時、結城哀草果も同行し歌を遺した。

   日は照れど汽車の窓より入る風の流石(さすが)に寒き置賜に来つ


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宮内、賑わいの記憶(2) 宮内の人口推移 明治5(1872)年〜平成27(2015)年 [宮内の歴史]

宮内地区の人口推移 グラフ-1.jpg町の賑わいの歴史をたどるには人口の推移を見るのがいちばんです。昭和46年発行の『宮内小学校 百年のあゆみ』に明治5年からの宮内地区の戸数、人口表があった。戦後は5年ごとの国勢調査。昭和40年がわからない。南陽市になったのが昭和42年で合併直前、吉野、金山、漆山も含めた宮内町の人口はわかるが、宮内地区だけの数字は今のところ不明。そのためグラフの線が途切れている。

はからずもわが家の歴史に重なった。祖父は明治22(1889)年生れ。ちょうどこの頃から人口増加が始まっている。そして飛躍的に伸びだすのが、父が生まれた大正7(1818)年の頃。そして頂点が昭和23(1948)年で私が生まれたのが22年。宮内の歴史をふりかえるのに私には非常にわかりやすい。

今年の国勢調査の結果がまだ出ていなくて、宮内公民館にたずねたら、5月1日現在、2,635戸で7.635人。大正10(1821)年が7,455人で戸数が1.413戸、人口が94年前のレベルになっている。この頃人口激増期に入っており、一年間に人口が400人近く、戸数が100戸以上増えている。このままならいずれスタート時点の3,000人までゆくのだろうか。

『羽前エキストラ格製糸業の生成』『漆山の製糸業の歴史』『南陽市史』をたよりに当地の製糸業の歴史と重ねてみた。とりわけ『漆山製糸業の歴史』はありがたかった。松田貢先生が執筆されている。何かの席でご一緒したことがあったが、それから間もなく突然亡くなられた。平成6(1994)年この著が出て間もなくのことではなかったか。20年も前のことだが、あらためて感謝しつつ御冥福をお祈りしたい。

あわせて宮内小学校の在籍数も見た。疎開児童も含め2,000人を超した時代もあったのだが、今は343名。明治近代になって人口が増え始める直前、明治17(1884)年、130年前のレベルだ。わが粡町の戸数は、私が戻った40年前とくらべるとほぼ半減の40数戸。小学生は一人もいない。私の頃、粡町の私の同級生は6人だった。一級上は13人だった。あれほど活発だった子供会も消滅だ。10年後、このままなら40数戸はさらに半減するだろう。
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実は10日ほど前、わが家の向い道路の東側、かつては病院医師住宅があった建物が取り壊され、目の前にあった100年ぐらいの松の木も切り払われて600坪の更地になったばかり。秋葉山が大きく目の前に広がって見える。盛時は5.6軒あって若い先生ばかり、どの家にも子どもがいて賑やかだった。さらにそこから南一軒置いて、かつてわが家の同業だった染物屋さん、江戸末期から明治の初め、わが家とも婿に入ったり嫁に行ったりの間柄、吉野石膏株式会社を今日あらしめた須藤永次の奥さん、その次代須藤恒雄の奥さんは共にこの染物屋さんの出。永次夫人るいさんについては佐佐木信綱とのつながりで「宮内よもやま歴史絵巻」にとりあげた。その家も9月末に引き払われて360坪の更地になっている。このところ風景激変のこの辺りなのです。(写真は家の前から見た以前と現状です。あわせて1000坪近い空地となりました。)

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宮内、賑わいの記憶(1)  宮内人「矜持」の由来 [宮内の歴史]

今日、南陽市民大学講座の講師を務めて肩の荷を下ろしたところです。このところずっとその資料づくりにかかりっきりでした。1時半開始だったのですが、半分ぐらい進んだところでふと時計を見たら3時少し前でした。あわててぶっ飛ばしたのですが終わったら3時半を回っていました。こっちは夢中でしゃべっていたのですが、聴かれる方はどうだったのか。まあとにかくこれで自由になった気がしているところです。いずれ文章化して、今年は休んだ「置賜民俗」の来年号に載せていただけたらと思っていますが、とりあえず資料をアップしておきます。

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菊まつりの賑わいrgb.jpg

はじめに

宮内人の矜恃(矜は「ほこり」で、外に向けた思い。恃は「たのむ」で、内に向けた思い)は何に拠るか。


地域エゴ?

私が宮内に戻ったのは合併して10年近く経っていたが、何かというと「地域エゴ」が言われつづけた。その言葉はとりわけ宮内の人間に対して発せられた。それだけ宮内の人間に共同体意識が強かったのだ。「地域エゴでなぜ悪い」と気持ちの中では思っても、表立っては言うことがはばかられる空気だった。そうした中で開催したのが「いかにして”南陽衆”たりうるか!?」というシンポジウムだった。当日資料の冒頭にこう記されていた。/「新しい時代は,決してタテマエ論からは,はじまらない。/虚ろな中味の市民憲章,゛地域エゴをなくそう”のお題目,そんな耳ざわりのいいきれいごとがもっともらしく通用しているとしたら,その地域はごくひとにぎりの人だけで動かされているから。/わたしたちの南陽市を,南陽市民みんなのものに。/きれいごとはいらない。ホンネで思いっきりいいあおう。/まず混沌を生みだそう!/きょうの集いで生まれた小さな渦が,南陽市全体をまきこむ大きな渦に育っていくことを願って。/”講演と討論の集い”実行委員会」》


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「宮内の歴史と文化を子ども達にどう伝えるか」 [宮内の歴史]

宮内小学校の先生方に「宮内の歴史と文化を子ども達にどう伝えるか」のテーマで語る機会を与えられました。子ども達に宮内の歴史を伝えるためには願ってもない機会です。張り切って語ってきました。1時間という限られた時間なので、あとで参照していただけるように多くの資料を用意しました。以下です。()内 小文字は、その時語ったことと今思って書き加えたことです。画像はそれぞれクリックで大きくして読むことができます。


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「宮内の歴史と文化を子ども達にどう伝えるか」

〜ふるさと学習(地域学習)の授業づくりのために〜

平成27817日 於 南陽市立宮内小学校 会議室


宮内人の矜恃矜は「ほこり」で、外に向けた思い。恃は「たのむ」で、内に向けた思い。好きな言葉です)

 ○「北条」郷の由来

  ・背景にある「北条氏の仁政」《「社会が安定したため、農業生産が高まりました」という繁栄の基盤として、我が国の伝統精神に基づく、北条氏の見識ある政治があった》「国際派日本人養成講座」 末尾に資料掲載)

1「北条郷」の由来 rgb.jpg


 ○置賜の床の間「宮内」(平成になるちょっと前の転がったと思います。熊野大社を中心とする置賜に於ける神社と山岳配置の不思議の発見は、宮内の歴史に深入りする大きなきっかけでした。)

  ・「四神相応」の地

  ・宮内熊野大社を核にした5000年の歴史

置賜の床の間 宮内cs rgb.jpg

 ○菊まつりの源流

  ・製糸業の繁栄

宮内の菊まつりの源流cs rgb.jpg

 

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宮内の歴史(10)衰退から復興への道 [宮内の歴史]

合併して「南陽市」になることが宮内にとってよかったかどうかといえば、私は悪い選択だったとずっと思っている。合併したことによる弊害が今もいろんなところに感じられる。当時の記録を見ると、とにかく「市」になりたかったということのようだ。その意識はとりわけ町会議員の間に強かった。では何が悪かったかと言えば、「宮内」という共同体意識がずたずたにされたことだった。合併時にそのことへの配慮があったようには全く思えない。私が宮内に戻ったのは合併して10年近く経っていたが、何かというと「地域エゴ」が言われつづけた。その言葉はとりわけ宮内の人間に対して発せられた。それだけ宮内の人間に共同体意識が強かったのだ。「地域エゴでなぜ悪い」と気持ちの中では思っても、表立っては言うことがはばかられる空気だった。そうした中で開催したのが「いかにして”南陽衆”たりうるか!?」というシンポジウムだった。当日資料の冒頭にこう記されていた。


《新しい時代は,決してタテマエ論からは,はじまらない。/虚ろな中味の市民憲章,゛地域エゴをなくそう”のお題目,そんな耳ざわりのいいきれいごとがもっともらしく通用しているとしたら,その地域はごくひとにぎりの人だけで動かされているから。/わたしたちの南陽市を,南陽市民みんなのものに。/きれいごとはいらない。ホンネで思いっきりいいあおう。/まず混沌を生みだそう!/きょうの集いで生まれた小さな渦が,南陽市全体をまきこむ大きな渦に育っていくことを願って。/”講演と討論の集い”実行委員会》

 

その背景には、宮内地区からの市庁舎移転問題もあった。そんなこともありながら合併から現在までほぼ半世紀、おしなべて宮内は「衰退」の道を辿った。

 

数年前、ひょんなことから「宮内歴史を語る会」というのができた。要するに酒酌み交わしながら宮内の昔話をしようということで始まったのだが、粟野収吉会長のよきリーダーシップを得て会は重なるごとに盛り上がり、また良きスタッフにも恵まれて県レベルの補助金を使った歴史研修事業をいくつかやったりして実績をあげ、いつのまにか公的認知も得られるようになった。この会の度に、根底にある「宮内意識」を思わされる。

 

では、この「宮内意識」を今後どう考えてゆけばいいのか。宮内町時代を知るわれわれがいなくなればいずれ次第に薄れてゆくものとも思えない。そしておそらく、心おきなく『宮内意識」を発揮できるようになるには3市5町合併による「置賜市」実現しかない、と思ってきた。そんな中で目の前に突然浮上したのが「置賜自給圏構想」だった。数日前、コメント欄にこう書いたところだった。

 

1月20日に、松尾雅彦さん(元カルビー社長、「日本で最も美しい村」連合副会長)のお話を聞き、そしていま氏の著書『スマート・テロワール』を興奮しながら毎日1章ずつ読んでいます。20日に松尾さんから二つの宿題が出されました。そのひとつが、「30年先の未来の夢を具体的に思い描いてみること」です。》


このスマート・テロワール』の方向に宮内復興の道が確実にある。いずれそのことはしっかり書きますが、そのことがあって、10回にわたった「宮内の歴史」の最後を「復興への道」としたのでした。松尾さん言われる如く、食料自給率が下がったからこそ、これからの農業復興の可能性がある。宮内にも同じことが言えるのではないか。かつての繁栄の宮内と現状のギャップこそ可能性の宝庫である、と。


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1967(昭和42年)宮内町・赤湯町・和郷村が合して南陽市に

 1969年(昭和44年)双松バラ園完成

71 双松バラ園.jpg

 ○1982年(昭和57)南陽市役所、宮内から現在地に移転

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