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やまがた再発見 芳武茂介(下) 山形新聞  [芳武茂介]

芳武茂介(下).jpg今朝1月15日の山形新聞、「やまがた再発見 芳武茂介(下)」。芳武さんの業績について、これ以上ないと言えるほど突っ込んだ貴重な論述。人間国宝高橋敬典さんから取材した内容もある。岡部氏は芳武先生についての年期の入った研究者なのだろう。平成23年に結城記念館で「芳武茂介展」開催の折、記念館で講演されたことがある。平成17年に山形デザインハウスで開催された「芳武茂介展」パンフレットに山形美術館学芸課長として今回の原型をなす文章を寄せておられた。今回、宮内公民館にも足を運ばれての取材だった。

宮内公民館には「芳武茂介 絵画・デザイン展示室」があります。数日前、久しぶりに入ってみたらきれいに整理なって展示されていました。最近、建築関係という方が訪ねてこられて熱心に観ていかれたそうです。今回の記事がきっかけとなって多くの方に見ていただきたい展示室です。小さな一室ですが、芳武さんからいただいた貴重な書籍、図録等も数多く保存されており、観る人が観れば宝の山のはずです。
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↓山形新聞、読み取らせていただきました。

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やまがた再発見 芳武茂介(中) 山形新聞  [芳武茂介]

芳武茂介(中).jpg今朝1月8日の山形新聞、「やまがた再発見 芳武茂介(中)」。芳武さんが戦後日本の工芸振興に果した重大な役割について書かれている。モノマネから独自な製品開発への大転換、そのことによって「輸出大国日本」が実現した。その大転換のキーマンが芳武さんだったことがわかる。このことに焦点を据えて発表された岡部信幸氏に敬意と感謝を表したい。宮内人として、南陽市民としてうれしくまた誇らしい。

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やまがた再発見 

芳武茂介 中

岡部信幸 山形美術館副館長


デザイン日本の「独立」模索

芳武は異国の地で、デザイナーと

生産者と流通の関係が築かれていない

日本の現実を痛感させられることとなった。


 1947(昭和22)年7月、芳武茂介(南陽市出身、1909〜93年、クラフトデザイナー)は工芸指導所仙台支所金工部長となる。48年の工芸指導所の機構改革を経て、50年3月には工芸指導所東京本所の勤務となり、芳武は第二技術課長として金工を主とした成型・塗装の研究を担当することになった。

 戦後の日本経済の再建を背景に、52年に工芸指導所は産業工芸試験所と改称され、所内では生産・流通・消費をシステムとして捉えようとする工業デザインに対する取り組みが明確になってくる。前後して地場産業との共同研究や受託研究などがおこなわれている。好例が天童木工との成形合板技術による家具製造である。成形合板(プライウッド)とは、高温で溶ける接着剤を塗った薄い板を何層にも積み重ね、型に挿入して圧力と熱を加えて成型することにより、曲面を持った形態の量産が可能になるものである。工芸指導所で成形合板の技術開発にあたっていた乾三郎と、デザイナー剣持勇、水之江忠臣、柳宗理らとの協働により、戦後の生活環境の変化に合致した家具が数多く生み出されていった。乾はのちに天童木工の社員となっている。

 工業デザインヘの試験所の取り組みを明確に打ち出した展示が、54年に日本橋三越で開催された「デザインと技術」展である。展示は、試験所の研究成果の普及・指導と、工芸に対するデザインと技術の振興に寄与することを目的に、「デザイン」「技術」「包装」の3部門と、二つのモデルルームによる総合展示で構成され、工業デザインの産業への貢献や振興方策、さらにアメリカなど諸外国との比較が試みられた。さらに、北欧工芸のモダンデザインを踏まえ、地域性と伝統技術に根ざしながら現代に生きる独自のデザインとして「近代日本調」が掲げられた。これは「グッド・デザイン」をスローガンに、商品の良質化を大衆の中から盛り上げていこうとする動きでもあり、その方法の一つとして、各地に残っている固有技術の中から、新しいデザインによってすぐに商品化される可能性のあるものが試作品として展示された。


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やまがた再発見 芳武茂介(上) 山形新聞 [芳武茂介]

芳武茂介(上).jpg12月25日、山形新聞「やまがた再発見」に芳武茂介さんが登場した。宮内出身では小田仁二郎、酒井佐和子についで3人目(多分)。だれが登場するか楽しみな連載だが、その内容は筆者によってばらつきがある。物足りないときもあるが今回の書き手は山形美術館副館長の岡部信幸さん、しっかり読み応えがある。芳武らが中心になってつくったという美術団体「无型(むけい)」を知って、そこから実在工芸美術会 1935-1940:「用即美」の工芸」東京国立近代美術館研究紀要という論考にたどりついた。東京国立近代美術館の主任研究員木田拓也という方の論文だ。芳武さんの名前が何度か登場するが、一節を設けて次の言及がある。

産業工芸の指導機関の参加:芳武茂介と西川友武

 実在工芸美術会では、展覧会の開催にあたって全国の工芸家に作品の出品を呼びかけ る一方で、「美術工藝と產業工藝との連絡を緊密」にするため、商工省工芸指導所をは じめとした産業工芸の指導機関に対しても、賛助出品という形で参加を呼びかけていた。鑑賞本位の工芸からの脱却という実在工芸美術会の方針は、こうした指導機 関 の 試 作 品 と 一 品 制 作 の 工 芸 品 を 同 列 に 展 示 す る こ と に よって 効 果 的 に 示 さ れ る こ と に な っ た の で あ る。

・・・・・産業工芸との関係で興味深いのは、工芸指導所をはじめとする指導機関からの賛助出 品に加え、同所で技師として働いていた松崎福三郎(無鑑査)、西川友武、芳武茂介、剣持 勇(1912-1971)ら、日本のプロダクトデザイナーの草分けともいうべき人たちによる作品 が出品されていたことである。こうした人たちの作品は、工芸美術の作品群とは明らかに 異質な一群を形成していた。高村豊周はそうした作品について、工芸本来の実用性という 機能についての実際的研究とそれに適応する材料の研究という点で異彩を放っており、用 途 へ の ひ た む き な 姿 勢 が 見 ら れ る と 述 べ て 評 価 し て い た。

 ・・・・・

 工芸指導所で技師として勤務していた芳武茂介は、第1回展に《打出し多口形花 挿》を出品しT夫人賞を受賞した。花を挿す口が登頂部の他に側面に三方空いてお り、広間の中央に設置するという趣向になっているもので、その斬新な形が評価された。 1935年(昭和10)7月に工芸指導所に就職したばかりの芳武は東京美術学校では鍛金を専攻したものの、在学中から、学校で学んだ金工の技術が将来職業としてはたして役に立 つのだろうか、という悩みにとりつかれていた。その芳武に工芸指導所への就職を勧め たのが高村豊周だった。芳武は第2回展(1937年)には《フラワー・ボール(》を 出 品 し て お り 、高 村 は 、芸 術 的 な 形 態 美 と 用 途 上 の 機 能 と が 渾 然 と 融 和 を 示 し て お り 、材 料 に は か な り 細 か い 注 意 が 払 わ れ て い る と 評 価 し て い る。 そ の 後 1 9 3 8 年 ( 昭 和 1 3 ) 3 月、芳武は、工芸指導所関西支所開設準備のため大阪に転勤となったが、大阪に移ってか らも実在工芸美術会展への出品を続けた。

  実 在 工 芸 美 術 会 展 は 、工 芸 指 導 所 に お い て モ ダ ン デ ザ イ ン の 移 植 に 取 り 組 ん で い た 技 師による研究試作品や個人的な作品の発表の場としての役割をはたしていた。それは同 会が、「工芸美術」と「産業工芸」に共通の指標として「用即美」を掲げていたからなのだ が、現実には高村豊周による西川友武や芳武茂介の作品に対する評言からもうかがえるよ うに、「産業工芸」と「工芸美術」は別格のものとして、それぞれ異なる尺度のもとに眺めら れていたし、また高村が、産業工芸(生産工芸)の母体となるような工芸作品を示すことが 展覧会の役割であり、一品制作に携わる工芸家の使命と述べていることからもうかがえる ように、高村らはあくまでも「工芸美術」の領域に踏みとどまりつつ産業工芸と関わろ うとしていたのである。(太字引用者)

茂介の師高村豊周(1890-1972)は高村光雲の三男で高村光太郎の弟。茂介は亡くなる2ヶ月前の宮内での講演会で次の言葉を残しているが、高村豊周の主張をそっくり引き継いでいた。ちなみに茂介の代表的著作は『用のかたち・用の美』

用のかたち・用の美 .jpg

 「日本の生活文化の在り方というものを改めて考えますと、その生活美、或いは生活用具といいますか、それが非常に上手でありまして、我々の先祖から、今日の我々の気持の中に伝わっている太い線というのは、芸術も生活のためにあるんだというものが、ちっとも変わっていない。・・・日本人の生活文化というのは、実に上手だ。日本人はですね、この、生活の中に芸術を取り入れていることでは、世界一上手ではないでしょうか。・・・それを別な言葉で申しますと、『日本人は用の美に敏感である』となりますが、用から出発して出来たものに美を与えることが、日本人の特性でありまして、日本人はもっと外国に比べて威張っていい点ではないか、そしてそれを我々はもっと大切にしていかなければならないのではないでしょうか。」


私の祖父(明治22年生)と茂介さんの父親とは同年代で行き来があった。たしかにその時代、くらしに美学があった。今はどうだろう。毎日のバタバタの中で日々がすぎてゆく。床の間の掛け物を吟味するゆとりはない。昨夜たまたまNHKEテレで「100分DE名著」を見た。レヴィ=ストロースの『野生の思考』の最終回「『野生の思考』は日本に生きている」だった。レヴィ=ストロースは晩年日本を訪れ、伝統の技を守り続ける職人たちや豊かな恵みが集まる市場を訪ねるなど日本各地を巡って、その豊かな文化、世界観に驚き、「野生の思考は、日本にこそ生きている」と述べたという。茂介の見ていたものとレヴィ=ストロースが日本に見たものとが重なる。そういえば先日、鷹山公の講演会米沢農村文化研究所の遠藤宏三さんにお会いして、
レヴィ=ストロースの日本への紹介者である川田順造先生がまた米沢にお出でになるとお聞きした。川田先生の尋常ならざる置賜に寄せる思いもきっと同根である。いまのわれわれ、そうした思いにどれだけ応えることができるのだろうか。正直なところ、不安である。絶望と言ったら言い過ぎか。


↓山形新聞記事、読み取っておきます。


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