やまがた再発見 芳武茂介(下) 山形新聞 [芳武茂介]

やまがた再発見 芳武茂介(中) 山形新聞 [芳武茂介]

芳武茂介 中
岡部信幸 山形美術館副館長
デザイン日本の「独立」模索
芳武は異国の地で、デザイナーと
生産者と流通の関係が築かれていない
日本の現実を痛感させられることとなった。
1947(昭和22)年7月、芳武茂介(南陽市出身、1909〜93年、クラフトデザイナー)は工芸指導所仙台支所金工部長となる。48年の工芸指導所の機構改革を経て、50年3月には工芸指導所東京本所の勤務となり、芳武は第二技術課長として金工を主とした成型・塗装の研究を担当することになった。
戦後の日本経済の再建を背景に、52年に工芸指導所は産業工芸試験所と改称され、所内では生産・流通・消費をシステムとして捉えようとする工業デザインに対する取り組みが明確になってくる。前後して地場産業との共同研究や受託研究などがおこなわれている。好例が天童木工との成形合板技術による家具製造である。成形合板(プライウッド)とは、高温で溶ける接着剤を塗った薄い板を何層にも積み重ね、型に挿入して圧力と熱を加えて成型することにより、曲面を持った形態の量産が可能になるものである。工芸指導所で成形合板の技術開発にあたっていた乾三郎と、デザイナー剣持勇、水之江忠臣、柳宗理らとの協働により、戦後の生活環境の変化に合致した家具が数多く生み出されていった。乾はのちに天童木工の社員となっている。
工業デザインヘの試験所の取り組みを明確に打ち出した展示が、54年に日本橋三越で開催された「デザインと技術」展である。展示は、試験所の研究成果の普及・指導と、工芸に対するデザインと技術の振興に寄与することを目的に、「デザイン」「技術」「包装」の3部門と、二つのモデルルームによる総合展示で構成され、工業デザインの産業への貢献や振興方策、さらにアメリカなど諸外国との比較が試みられた。さらに、北欧工芸のモダンデザインを踏まえ、地域性と伝統技術に根ざしながら現代に生きる独自のデザインとして「近代日本調」が掲げられた。これは「グッド・デザイン」をスローガンに、商品の良質化を大衆の中から盛り上げていこうとする動きでもあり、その方法の一つとして、各地に残っている固有技術の中から、新しいデザインによってすぐに商品化される可能性のあるものが試作品として展示された。
やまがた再発見 芳武茂介(上) 山形新聞 [芳武茂介]

産業工芸の指導機関の参加:芳武茂介と西川友武
実在工芸美術会では、展覧会の開催にあたって全国の工芸家に作品の出品を呼びかけ る一方で、「美術工藝と產業工藝との連絡を緊密」にするため、商工省工芸指導所をは じめとした産業工芸の指導機関に対しても、賛助出品という形で参加を呼びかけていた。鑑賞本位の工芸からの脱却という実在工芸美術会の方針は、こうした指導機 関 の 試 作 品 と 一 品 制 作 の 工 芸 品 を 同 列 に 展 示 す る こ と に よって 効 果 的 に 示 さ れ る こ と に な っ た の で あ る。
・・・・・産業工芸との関係で興味深いのは、工芸指導所をはじめとする指導機関からの賛助出 品に加え、同所で技師として働いていた松崎福三郎(無鑑査)、西川友武、芳武茂介、剣持 勇(1912-1971)ら、日本のプロダクトデザイナーの草分けともいうべき人たちによる作品 が出品されていたことである。こうした人たちの作品は、工芸美術の作品群とは明らかに 異質な一群を形成していた。高村豊周はそうした作品について、工芸本来の実用性という 機能についての実際的研究とそれに適応する材料の研究という点で異彩を放っており、用 途 へ の ひ た む き な 姿 勢 が 見 ら れ る と 述 べ て 評 価 し て い た。
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工芸指導所で技師として勤務していた芳武茂介は、第1回展に《打出し多口形花 挿》を出品しT夫人賞を受賞した。花を挿す口が登頂部の他に側面に三方空いてお り、広間の中央に設置するという趣向になっているもので、その斬新な形が評価された。 1935年(昭和10)7月に工芸指導所に就職したばかりの芳武は東京美術学校では鍛金を専攻したものの、在学中から、学校で学んだ金工の技術が将来職業としてはたして役に立 つのだろうか、という悩みにとりつかれていた。その芳武に工芸指導所への就職を勧め たのが高村豊周だった。芳武は第2回展(1937年)には《フラワー・ボール(》を 出 品 し て お り 、高 村 は 、芸 術 的 な 形 態 美 と 用 途 上 の 機 能 と が 渾 然 と 融 和 を 示 し て お り 、材 料 に は か な り 細 か い 注 意 が 払 わ れ て い る と 評 価 し て い る。 そ の 後 1 9 3 8 年 ( 昭 和 1 3 ) 3 月、芳武は、工芸指導所関西支所開設準備のため大阪に転勤となったが、大阪に移ってか らも実在工芸美術会展への出品を続けた。
実 在 工 芸 美 術 会 展 は 、工 芸 指 導 所 に お い て モ ダ ン デ ザ イ ン の 移 植 に 取 り 組 ん で い た 技 師による研究試作品や個人的な作品の発表の場としての役割をはたしていた。それは同 会が、「工芸美術」と「産業工芸」に共通の指標として「用即美」を掲げていたからなのだ が、現実には高村豊周による西川友武や芳武茂介の作品に対する評言からもうかがえるよ うに、「産業工芸」と「工芸美術」は別格のものとして、それぞれ異なる尺度のもとに眺めら れていたし、また高村が、産業工芸(生産工芸)の母体となるような工芸作品を示すことが 展覧会の役割であり、一品制作に携わる工芸家の使命と述べていることからもうかがえる ように、高村らはあくまでも「工芸美術」の領域に踏みとどまりつつ産業工芸と関わろ うとしていたのである。(太字引用者)
「日本の生活文化の在り方というものを改めて考えますと、その生活美、或いは生活用具といいますか、それが非常に上手でありまして、我々の先祖から、今日の我々の気持の中に伝わっている太い線というのは、芸術も生活のためにあるんだというものが、ちっとも変わっていない。・・・日本人の生活文化というのは、実に上手だ。日本人はですね、この、生活の中に芸術を取り入れていることでは、世界一上手ではないでしょうか。・・・それを別な言葉で申しますと、『日本人は用の美に敏感である』となりますが、用から出発して出来たものに美を与えることが、日本人の特性でありまして、日本人はもっと外国に比べて威張っていい点ではないか、そしてそれを我々はもっと大切にしていかなければならないのではないでしょうか。」
↓山形新聞記事、読み取っておきます。
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