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安藤昌益、宮内にリンク!(3) 舟山寛←川村寿庵←・・・←安藤昌益 [安藤昌益]

4月6日の地区長会総会、懇親会の席、新町の新地区長高橋晃俊正徳寺住職と「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」の矢内事務局長のことを話題にしていたら、それをすぐそばで聞いていた果樹栽培の篤農家片平文男田町下新地区長、なんと20代からの安藤昌益マニアで安藤昌益全集(農文協)も全巻そろえているとのこと。明18日開催の「宮内歴史を語る会」に参加していただくことにした。どういう経緯で安藤昌益に入れ込むようになったか、そのあたりあらためて聞いてみたい。

前回正徳寺にある「舟山先生之墓」の舟山寛を紹介したが、この舟山先生の医統を遡ると安藤昌益につながる。

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安藤昌益、宮内にリンク!(2) 漢方医 舟山寛 [安藤昌益]

前回からだいぶ日が開いた。私の中で安藤昌益と宮内とが必ずしもがっちりかみ合ったわけではない。冷静になって整理してみる。「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」事務局長の矢内氏が宮内に注目することになったのは、その経緯については聞きそびれたが、昭和38年に書かれたガリ刷り「宮内文化史資料第4集」所収の山田二男「里人巷談」の発見による。その稿はその後「置賜文化」に活字化されている。ガリ刷りの方は判読に苦労するが、ありがたいことに「置賜文化」が鈴木孝一さんの「時代(とき)のわすれもの」に所蔵されていた。以下その項全文。

*   *   *   *   *

山田二男 里人巷談(下) (宮内文化史資料第4集/置賜文化第十八号)
▽第十三話 (舟山寛のこと)

 宮内では一寸風格の変った気骨のある、名利を超越した人物を語ろう。
 今の横町花屋のあたりに舟山寛という漢方医で、然もすぐれた漢学者があった。寛先生名は与市、字は公綽(しゃく)、隆庵と号した。
 細井平洲先生(1728-1801)上杉鷹山公に聘せられて、明和八年四月九日米沢到着、馬場御殿(松桜館)に寓して、学生定附二十人を命じて教養を受けさせた。一日
「宮内の舟山寛を呼べ」
との平洲先生の仰せ、藩命を受けたので、早速肝煎羽田平兵衛同道伺い出た。

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安藤昌益、宮内にリンク!(1) 昌益研究家矢内氏の来訪 [安藤昌益]

3月11日「宮内のことで聞きたいことがある」ということで、矢内信悟さんという方の来訪を受けた。いただいた名刺には「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」の事務局長とあった。すぐ本題について語りはじめられた。滔々とした語り口、次々初めて聞く名前が出るが、安藤昌益はもちろん狩野亨吉、森鴎外の名も。一通り来訪の意図が明らかになったところで、打ち合わせていた「時代(とき)のわすれもの」の鈴木孝一さんに同道、そこでの話が一段落したところで酒酌み交わしつつ談論、そこに舟山昇さん(81歳熊野大社楽長)も加わることになって、得がたい時を過した。いただいた「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会通信」掲載の矢内氏論考「川村寿庵の弟子舟山寛について報告する」等を参照しつつ整理してみる。

まず千住と安藤昌益のつながりについて。安藤昌益の『自然眞営道』稿本は「北千住の仙人」とも言われた橋本律蔵が所有するものだった。律蔵の死後、古本屋を通して狩野亨吉の手に入り(明治32年)、明治41年、雑誌『内外教育評論』1月号に「大思想家あり」として初めて紹介、昭和3年発表の論考「安藤昌益」(青空文庫で読める)によってさらに広く世に知られるようになった。千住は江戸から北へ向かう起点となる宿場町として北方との多くの交流がある土地であり、矢内氏らの調査研究によって、江戸末期千住の医師たちの間で安藤昌益の思想が学ばれていることがわかった。(京都帝大の史学の基礎をつくった内田銀蔵(千住の川魚問屋「鮒与」の出)が京都大に残した資料から、佐藤元萇という医者の日記に、江戸末期米問屋藁屋橋本家(橋本律蔵の4代前)に出入りし、その頃から安藤昌益の思想を学ぶ動きがあったことが書いてある。元萇は漢詩を能くし、鼻っ柱の強い森鴎外が「私には師と言える人はふたりしかいない」と言ったそのひとりという。20年間書き綴られた「佐藤元萇日記」を残す。)

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