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「生き心地の良い町」(岡 檀著 講談社 2013)を読んで [メモがわり]

生き心地の良い町.jpg
まっぴら!一億総活躍社会 の記事に《「『町をにぎやかに』なんて思わなくてもいい」・・・少子高齢化社会をすなおに受けとめれば、これがこれからの世の中のトレンドになりそうな気がする。「がんばらなくてもいいんだよ。」》と書いた。とすると、今「いい町」とはどんな町なのか。地区長会の研修旅行先を探しているうちに『生き心地の良い町』という本に行きあたった。徳島県海部(かいふ)町、まるっきり日帰り旅行の範囲を越えている。ふと、著者の岡檀(まゆみ)さん、「共育ネットワーク」主催の講演会講師におよびして話してもらえないかと思って事務局に連絡しました。明日8日の事務局会で方向が決まるはずです。

地区長会の研修視察の方は宮城県の岩出山(現大崎市)に行くことにしました。岩出山は伊達政宗が置賜から移封なった地です。飯山市の方々が尾崎氏の跡を追って宮内にお出でいただくのと同じなわけで、今後どんな展開が待ち受けているか。それはそれで楽しみです。

『生き心地の良い町』、アマゾンにレビューしてきました。もちろん五つ星にしました。

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メモしておきたい文章、二つ [メモがわり]

昨日、メモしておきたいいい文章を2つ読みました。

 

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   生きる意味 (山形新聞「気炎」 28.4.20)

 

 父が体の不調を訴えたのは17年前の2月の末。すでに手遅れの状態で、余命50日という診断が下った。父は日に日に体も心も弱っていった。それとは反対に陽光は日に日に輝きと華やかさを増し、季節の成長の中で命あるものはみずみずしさを加えていった。いろいろな花が順々に開き、桜も咲いた。山も笑い始めた。しかし父には堪能する力がもはやなかった。

 「花を見ても、山を見ても、何も感じなくなった。もう生きている意味がなくなった」—死の迫るベッドで父はそう嘆いた。とりどりに美しい花を見、趣の異なる山を眺め、変幻自在の光を観賞すること、つまりは自然と感応し感動することが父にとって生きる意味だったのである。裏を返せば何も感じなくなること、花や山や光と別れること―それが死であった。

 この記憶が蘇ったのは、イラストレーターの益田ミリさんのエッセーを読んだからである。益田さんは数年前海外旅行に出かけた。旅先のプラハで、地元の学生の演奏するモーツァルトを聴き、あまりの美しさに我を忘れた。そのとき唐突に〈死ぬ意味〉を悟った。

 「こんなにも美しいものに別れを告げることが死なのだ」と。そう思うと泣けて仕方なかった—。益田さんはこう語っている。

 父の末期と益田さんのエッセーが共振して、〈ああ、死ぬということはこういうことなのか〉と、深い思いにとらわれた。〈死ぬ意味〉を反転すれば〈生きる意味〉となる。生きているから美しいものに出会うことができ、感動できるのである。生きる第一義はここにあるのではなかろうかと。

 「楽しかったことだけを思い出しなさい。それは何ですか」。ホスピス段階の父に医者が言った。父は答えた。「すべて楽しかった。だから何を思い出してよいか分からない」。忘れられない言葉を残し父はあの世に旅立った。(天見玲)


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謹賀新年(今年の年賀状) 人口減の問題 [メモがわり]

2016年賀(絵柄面).jpg

あけましておめでとうございます。

年賀状、いつも今年こそは年内に出そうと思いながら年を越してしまいます。さっき(一日午後4時すぎ)出してきたところです。これでも例年より早い。今年もまた、「来年こそは」と思っているところです。こんどはできるかもしれません。

今年の年賀状は、11月15日の宮内、賑わいの記憶(2) 宮内の人口推移 明治5(1872)年〜平成27(2015)年」の記事がもとになっています。この先人口減はどこまで進むのか。山形新聞元旦号の一面トップ、新たな特集記事「挑む 山形創生」、人口減の問題がモチーフです。以下、リード文です。

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「心のふるえる時間こそ」( ジョージ・カーリン) [メモがわり]

暮れを迎えて日頃のご無沙汰を詫びる思いで何人かの親族に荷物を送りました。今年の2月に叔父を亡くした義叔母から電話をいただきました。奥さんにはつっけんどん、決してお愛想を言うことなどできず、いつもマイペース、自分の頭でだけ行動するような叔父でした。血がつながっているのでその叔父の気性はよくよくわかります。私の妻からすれば「そっくり」と言われかねませんが、私なりに、奥さんも大変だろうなあと思っていました。その叔母が夕べの電話でしみじみと、ほんとうにしみじみと、「ひとりになって寂しいわ」と、何度も何度も言ったのです。叔母が叔父に話しかけてもなごなごとした会話にはなっていなかったことと思います。兄である私の父もそうでしたし、私もその傾向は十分持ち合わせています。そうであっても、叔母にしてみれば、語りかける相手がいないということが、ほんとうに寂しいのです。そんな電話の声を聞いた翌朝の今、ジョージ・カーリンの言葉」に出合いました。政治や社会を痛烈に批判する笑いで人気を博したアメリカのコメディアンとのことですが、ジョージ・カーリンが
最愛の奥さんを亡くした際に友人に送ったとされるメールだそうです。夕べの今朝というシンクロニシティを感じたこともあり、メモしておきたくなりました。


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齊藤喜一氏重篤の中、ケネディ大使への手紙を発信しました [メモがわり]

獅子冠事務所頭取であり、「白鷹山に『伝国の辞』碑をつくる会」の会長の齊藤喜一さんが上大動脈解離(心タンポナーデ)で救急車で運ばれ、解離部分を人工血管に替える、5時間を超える大手術を経て、生か死かの危機的状態からはなんとか回帰して、以来今日で5日目、現在山形大学病院のICUで眠らされつづけている。


齊藤さんは米沢御堀端史跡保存会が年一回発行する『懐風』の第40号への寄稿を乞われて、「昨日の敵は今日の友 JFケネディ大統領日本への思い」の一文をまとめ、4月末の発刊を待って、なんとかキャロライン・ケネディ大使に読んで頂きたいと、大使の宛てた手紙の下書きをワープロで清書して欲しいと頼まれていた。なんやかやでグズグズしていたのだが、折しも521日の朝10時頃、私の思いも組み入れた依頼の文書がなんとか出来上がりかけた時の、齊藤家「百花園」と隣接する宮内公民館M館長からの電話だった。「頭取がいま救急車で運ばれた。」


公立置賜総合病院病院に着いて間もなく、これから本格的な検査前ということで面会することができた。顔色が悪いのでもなく、あたりまえに会話ができた。20日の午後、赤湯のMさんを訪ね、話し終えて玄関を出てからの記憶がない。車がいつまでも発進しないのを不審に思ったMさんが、齊藤さんが嘔吐して倒れているのを見て、家までなんとか送り届けてくれたらしい。その翌朝、起き上がることができないことから救急車ということになった。一方、Mさんが翌朝心配になってか、警察に連絡したということで、パトカーも出動し、近隣は大騒ぎになったようだ。


頭ではない、心臓か、それでもこのぐらい普通の会話ができるのだからすぐ帰れるんだろうと軽く考えて、私は家に戻った。その日、「頭取が救急車で運ばれた」の報は町中に広がった。10人近い人に「大丈夫と思う」と会ってきた状況を話した。夜8時頃、どうなったかと齊藤家に電話した。家族はまだ戻っていなかった。獅子冠事務所のS総取締役と連絡して、22日朝7時に齊藤家へ行き状況を知って驚いた。


前の晩戻ったのは11時過ぎだったという。昨日執刀医から聞いたことも併せて書くと、CTによる検査の結果、大動脈の解離が判り、ただちに救急車で山形大学病院へ。肝臓、腎臓に十分な血液が回らない状態の為、かなりひどい肝不全、腎不全の状態。35IU/l以下で正常なGPT3000を超えていたという。23日まで尿もほとんどでない状態で透析をしなければならなかったとのこと。23日に面会した時はまったく意識がなくて心配したのだが、昨日の説明で、人工呼吸器を取り付けているので、意識があると苦しいから麻酔で眠らせているとのこと、手術後、麻酔が薄れた状態の時に反応を調べたら正常だったので、頭の方は心配ないと思われるということを聞いて安心はした。今後の回復の如何は、本人の体力と運命次第、運ばれた時は、助かるかどうかは五分五分だったが、今は七三か八二とのことだった。


ケネディ大使への手紙は、23日発信した。今日届くことと思う。日本語なので大使にどこまで思いが伝わるか。


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大石田と茂吉 [メモがわり]

大石田に行ってきた。黒江さん(黒江太郎氏のお嫁さん)から「大石田の歴史民俗資料館で『茂吉の書』展があって梧竹の書も出ます」とお聞きしたからだ。黒江太郎氏が遺された茂吉の書はすべて大石田の資料館に寄託されたとのこと。太郎氏は「これらは個人で所蔵すべきものではない。」と常々言っておられたという。太郎氏が亡くなったのが昭和547月、資料館はその前年5月に開館している。


大石田ヘ行くのは初めて。朝から見事な青空で行楽日和だったが、早朝から「宮内よもやま歴史絵巻」取付補強を粡町商店街会員のみんなとやったり来客があったりで、出かけたのは午後1時半を過ぎていた。出かけると好天とはいえ、黄砂が降った時のような空。今朝の飯山ブログによると東京の方はもっとひどい。家内とこうして出かけることなど滅多にないことで、家内もちょっとした行楽気分。山形市内に所用があり、348号経由。小滝街道もいつになく車が多い。


大石田と言ってもピンと来なかったが、国道を山形−天童−東根—村山と北進、その次が国道13号線を挟んで東が尾花沢、西が大石田。1時間30分ぐらいか。13号から入って左手に広い最上川が見えてくると大石田。茂吉のイメージとも重なって「いい町」の雰囲気。


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アクセス累計100万になりました [メモがわり]

いま(26.10.31 5:27AM)気づいたら1,000,010でした。

自分勝手な備忘録的ブログですが、私にとってはいつのまにか「生きている証(あかし)」みたいな感じになってきて、この頃は何もかも書いてしまいます。まさに「移ろうままに」で、いつどうなるかわかりませんが、これからも書いていきたいと思っておりますので、どこでどんな方が読んで下さっているのかわかりませんが、これからもよろしくお願い申し上げます。

makimakiさん、いつもniceの評価ありがとうございます。励みになります。

岩戸開き [メモがわり]

毎年1回、伊達政宗公を祀る仙台青葉神社の片倉重信宮司からお話をお聞きする機会がある。以下は一昨日お聞きしてきた話。

「3.11の地震で不思議なことがあった。本殿の扉は全部で3つある。正面の扉は外に錠がついているが、両脇の扉は内側から錠前を下ろすようになっている。外から両脇の扉を開けることはできない。その扉が、3.11の地震で錠前が下りたまま内側から開いてしまったのだ。この日はさらに、境内の灯篭一対が倒れ、8メートルの大鳥居が倒れた。灯篭が南側に倒れたのに、鳥居はどういうわけか北に、つまり神社の内側に倒れた。これらのことをどう解するか。実は政宗公から『結界を外したよ』との御神示があった。結界が解かれたことで、神様が本殿の外に出てこられたようだ。天照大神が岩戸からお出ましになられた時も、まず内側から開かれた。つまり「岩戸開き」が行われたのだ。一方、鳥居の倒壊は人間の側の結界が解かれたことを意味する。民の力が鳥居を倒すほどの勢いで神社へとなだれ込んだのかもしれない。神は人に近づき、人は神に近づいた。そして、神と人とが胸襟を開き合う。いよいよ岩戸が開かれたのです。」

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講演録でたどる「週刊置賜」30年のあゆみ [メモがわり]

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「講演録でたどる『週刊置賜』30年のあゆみ」というDVDをつくって当日参会者への記念品とした。15分のダイジェスト版を開会に先立って会場で見てもらった。

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10周年のときはみんな若く燃えていた。その頃、衆議院議員になって一年、徳田虎雄理事長は政治的にも身体的にも苦しい時期だったと思う。講演活動などまったくない時期だった。そんな時期にたしか、高畠のNが理事長に会ったとき、「置賜に講演に行く」と言われて、われわれに伝えたのだった。「理事長が何か重大なことを言いたいらしい」という話だった。当時米沢で独自に理事長と交流のあったメンバーと合流することになったのがこの時だ。「南陽獅子の会」は「置賜獅子の会」になった。

講演は平成3年4月27日(土)午後6時から。会場はこの年、宮内高校と赤湯園芸高校が一緒になってできたばかりの南陽高校の体育館。体育館の柿(こけら)落としの触れ込みで、高校側も協力的だった。入場料1,000円。その時のパンフレットが残っている。「目醒めよ!置賜の地霊たち―21世紀は置賜から」と題してB5版27ページ。16ページは徳田語録などの理事長紹介。そのあとに「『世界の置賜』たらんとする根拠と徳田虎雄氏講演会の意味」と銘打つ文章を載せている。(このことについては、「徳友会新春交流会」で書いていた。)

その時の文章が元になって「美(うま)し国おいたま―21世紀、置賜は世界の中心になる」のテープができた。講演会で10万なにがしの収益金ができたので、5万円ぐらい払ってYBCかどこかのアナウンサーに吹き込みを頼んでできた、ほんとうに良くできたテープだった。それに写真を合わせて、10周年記念祝賀会でスライド上映しようという目論見だった。しかし、写真は手分けして取り集めた記憶はあるが、当日は間に合わず何か別のものでお茶を濁した。(今回、これを20年ぶりに完成させてDVDの中に入れることができた。何とか多くの人に見て欲しい。)

 という前史があって、今回の30周年。20周年の時は特に何の趣向の記憶もないのだが、私の中では20年前の思いがくすぶっていた。ただの飲んでペちゃペちゃしゃべるだけの祝賀会にはしたくない。何回目かの実行委員会で、「酔った勢いで言うけれど、『週刊置賜』の30年のあゆみのようなものをまとめてみたいと思っている」と口に出した。 

 199 24-F 3.11鳥居.jpgその時頭にあったのは、3月11日の夜、息子が停電で真っ暗な町にカメラを持って出て行って撮ってきた何枚かの写真を使って何かできるかもしれない、ということだけだった。それからどれだけたった頃か、ふと「週刊置賜」に掲載された講演録をたどることで一つの歴史の流れを見ることができるかもしれないことに思い至った。それからがたいへんだった。

創刊号から総てのページをめくることになった。しかしこれがほんとうに宝の山だった。それをまとめたのが、以下の文。

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大下一真師から山崎方代(ほうだい)について聴く [メモがわり]

このところ、「週刊置賜」創刊30周年を祝う会でいっぱいいっぱいだったが、一昨日無事終えた。

昨年の2月、加藤社長も気付かぬうちに1500号の節目を越えていた。「来年の30周年はなんとかすんべね」。そう言った以上、ずっと宿題になって頭の中を占めていた。

今年の1月、「宮内の歴史を語る会」の帰途、粟野収吉さんに持ちかけ、実行委員長は同じメンバーの長老格鈴木隆男さんにお願いすることにして、語る会のメンバーを中心に2月25日、実行委員会がスタート。それから間もなくの3月11日だったが、気持ちを立て直して進めてきた。実行委員会は5回を重ねた。話し合いは1時間くらいで終えて、そのあと1,000円会費で飲みながら何ということはなく語り合った和やかな会だった。(いつも料理を届けてくださったH.I.さん、ありがとうございました!)

200人の大目標だったが、ほぼ達成した。5、10、20周年の時よりもずっと多い。今回の実行委員の層の厚さによるところが大きい。それも30年蓄積の重みといえる。

記念講演を鎌倉瑞泉寺住職で歌人の大下一真さんにお願いした。

大下さんの亡くなった二人のお兄さんと加藤社長が学生時代の仲間同士で、その縁で大下さんは「週刊置賜」創刊当初から、原稿料なしで「短歌コラム」を一号も休むことなく書きつづけてくれている。10周年の時にもお出でいただいた。その時はスピーチだけだったので、今回はまともなお話を聴こうということだった。「この時代に思うこと」という演題でお願いしていた。

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