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宮内、賑わいの記憶(4)頂点を極めた頃(昭和8年) [宮内の歴史]

繭糸価格の動向.jpg郷土に立脚して・・・.jpg
世界大恐慌(昭和4年)までが最高だった、昭和4年と6年を比べると、繭価格も生糸価格も半分になっている。その後持ち直すもののかつての勢いはない。そういう中で昭和8年、宮内の人口は11.000人を超え戦前のピークとなる。ちょうどこの年発刊されたのが、郷土に立脚して宮内町附近の製糸業概況を語る」形縣立宮内高等学校教諭 佐藤佐武郎編著)だった。私は以前鈴木孝一さんからいただいていた。この冊子があったから私はこのたびこのテーマを選んだ。B4判ガリ版刷で67ページ、おそらくご自分でガリを切られたのだろう。渾身の力作と思う。佐藤佐武郎という人がどういう人だったのか、それを知る手がかりは今のところこの冊子のみ。単なる学問的関心に発しているのではない。これからどうあるべきかの明確な問題意識をもって取組まれた研究であることに値打ちがある。勢いのある時にはこういう研究はあらわれない。製糸業が衰運のプロセスに入ったからこそ生まれた研究と言っていい。

漆山と宮内の違いに関して石黒龍一郎さんの発言を引っ張りだしてみた。石黒さんの頭の中には長野の諏訪市や坂城町があったのだと思う。それにしても宮内の工業についてのその指摘は言い得て妙、ドキッとしつつなるほどと頷いたものだった。しかしあの時代を経たからこそ吉野石膏株式会社NDソフトウェアの今がある。創業者ではないがアルパインの社長、会長を務めた石黒征三氏の実父は伊藤長太郎さん、宮内のあの時代の血を引いている。

   *   *   *   *   *

◎頂点を極めた頃

郷土に立脚して宮内町附近の製糸業概況を語る」形縣立宮内高等学校教諭 佐藤佐武郎編著 昭和8年)

一、宮内町附近の製糸業

 《赤湯駅をさる北西方三km小高い山塊の麓に一小黒郷ブラック・カントリー)を見る。小場面であるが林立せる煙突に工業地帯たるを思わせる。宮内漆山一帯で今述べんとする製糸業地である。宮内町の人口約一万一千中女は男より千四百余も多い。工場町として朝夕、あたかも学校町の学生を思わせる。定刻に鳴る汽笛も好景気時代を偲ばしめる一つである。何故にここに□なるのか又附近経済上の影響は如何にと考えつつ以下を編んで見た。/その昔上杉鷹山公の御奨励ありといえども多勢氏の尽力の偉大なるものがあった。今や県下の工場数の1/3を有し生産生糸は1/2の産額を見る。宮内町附近1㎢につき工場数は22、東置賜郡の76%、県下の27%、之を全国的に見るときは、やはり田舎の小郡であるが、工業地帯としての色彩は十分にある。養蚕県の名においてふさはしきものである。将来十分発達して大製糸地となるや否やは?であるが、附近産業上より見るときは一大宝庫である。/工業地一般に見る水の問題であるがいささか不足である。雨水は宮内町は主として菖蒲沢より供給され不足分は地下水を使用する。吉野川は石膏製造の当時鉱水を流す。それ故使用不可能である。硬水は製糸に最も悪い。菖蒲沢の水をタンクより導受、更に製糸地のタンクに集めて幾度も曝露している。/菖蒲沢上流は当地に稀に見る杉樹の繁茂せる地であり水質も良好であるが水源近く水量豊ならぬ欠点を有する。漆山方面は織機川の水を利用するの便もあり水質も頗(すこぶ)るよく好都合である。/次に考察すべきは当町銀行関係である。主として製糸家が重役にある関係上製糸資金の供給に刻々理解を有する事である。/こんな事を考えつつ将来に如何なる発展をなすか。最近の生糸の暴落に製糸家も之を支援の養蚕家も喘ぎ喘ぎ煙を眺めて居る。/純然たる工業地とはいへぬとしても製糸に期待を持つこと余りにも大なる附近一帯の産業上の好転を考へつつ筆を擱く。》


二、宮内町のデッサン

三、製糸業工場分布図

四、宮内町附近の製糸業の歴史を書くに当りて

五、俺が国の誇り

六、宮内町附近の製糸業の発達の歴史

宮内町の人口推移.jpg





勃興期の人口と戸数の推移

 明治421909)年から昭和71933)年 

七、宮内町の概況

八、釜数、職工一覧

九、工女数

十、工女教育概況

従来工女に教育は不要の如く思はれ尋六卒業若しくはそれ以下の状況なりしが、今日に於いては製糸の検査厳重にして良質のものを要求するに至りより高教育の有無は能率及び品質方面にも影響大となるや高二卒業を条件とする風がある。殊に最近不況は就職の困難甚だしく高二卒業生を試験により入場せしめ、更に見習工として本工に採用の状況である。殊に最近工場経営上体育、営養、修養の方面に対して深甚の注意払ひ以て健康と能力向上に資するに至る。体育方面に対しては各工場全員のラジオ体操を励行し更に各種運動、競技を採用し、宮内町にては年一度の県下工女の陸上競技会を開催するに至る。従ってここに注目すべきは体育向上と共に高齢者(比較的)を自然淘汰を見るに至る。/教育方面にも各工場は読、書、裁等の教授を用ひ又唱歌ダンス等を授けるの風漸次増加の傾向である。金上工場等は右の外作法及び生花等をも教授せりと以てし情操を陶冶し、従来兎角禮儀問題にいかがわしき批評を受けつつあるのを改善し得べく思はる。/工場員の娯楽は夕方六時過ぎ一日の任務を終へるものは活動写真館に入る。これ唯一の慰安、娯楽である。一般に読書の傾向少なく又一日の労苦を忘るるものとしては最もよきものならんと思はれる。故にこれを督するに経営者及工場主はよくその点指導して修養に趣味に十分注意すべきである。殊に朝は早く通勤の為世情に通ぜず、故にせめて新聞のみでも読ましむべき方法を講ずべきと思ふ。その点当所に町立図書館設置の急務を知る。ここに新聞閲覧所を設け工場帰り立読の出来ることを希望する。工女は自分各自の家より通勤する以外のものは寄宿舎あり、又一般民家に間借りして居る。この点等にも工場主は十分監督して行く必要を知る。宮内、漆山方面に従来私生児の多い事はこれ等の点の一考の必要もあるものと思はる。何れにしても高尚なる趣味を有せしむる為に一般の注意が必要である事を痛感する。尚、最近県、工場課にては営養講習を行いつつある事も頗る当を得た問題である。》

1.製糸工場学力調査(宮内町ー昭和66月) 

 尋常科卒業  85.17

 高等科卒業  9.07

 中学校卒業  0.1

 尋常科未修了者  5.66% (相当年齢の多い人)

2.製糸工女年齢調(昭和66月)

 1520歳 825名(46%) いちばん多いのが16160名。1520歳で727名(44%)。

 2130歳 522名(24%)

 3140歳 241名(22%)

 4050歳 65

 5060歳 5

 

一日の賃金推移.jpg

「製糸を行う上で最も大切なことは、いかにして与えられた繭から目標とする品質のよい生糸をより多く、より早く作るかということである。この品質の良いものを作るということ、無駄を少なくして与えられた原料から良い製品をより多く作るということ、決まった時間内にたくさん作るということの品質・歩留り・能率の3つの成績は、一般の製造業にも共通した努力目標であるが、製糸業においては製品の価格に対する原料価格(繭価)の割合が他の製造業に比べて比較にならないほど高く、製造する生糸が高級衣料素材の原糸であるために品質の悪い生糸を作ってしまうと価値が低<なってしまうこと、生産の能率が生糸の製造コストに大きく影響することなどのために、これら3つの成績の確保は極めて重要である。・・・製糸を行うに当たっては、まず、製糸技術の目標を品質・歩留り・能率のいずれに置くかを明らかにしたうえで、いかにして他の2つの成績の低下を防ぐかということに最大の関心が払われている。」

『製糸技術の基礎知識』http://www.nias.affrc.go.jp/silkwave/hiroba/Library/SeisiKiso/mokuji.htm

「労働のインテンシィブ(労働意欲)の内在化として、モラルが工場経営の決定的課題である」(森芳三『羽前エキストラ格製糸業の生成』1998  

『宮内教会と私』川島専助(昭和5388歳時の宮内教会宛て書簡より)1927年(昭和2年)春4月、東北学院神学部を卒業した私は迎えられて、置賜伝道教会二代目主任者として、宮内町旭町の宿舎に着任しました。家族は私と嫁たる妻きみ及び信者であるその老母の三人でした。初めての土地で、主にある兄弟姉妹方の親愛なるお迎へと御先導に預かって、駅前通りの長屋に間もなく安着出来た次第でした。/ 当時、宮内教会には教会用家屋(牧師館を含めて)に適当な貸家が無く、前任者笹原周先生はお困りの果て、旭町の石黒醤油醸造所所有の貸家(二階建て棟割長屋の二軒分の仕切り壁を披いた物)を借用していました。便所は裏に建てた共同用の物で、水道は共同井戸、風呂場は狭い勝手の隅に在りました。そして二階を全部礼拝用に、階下を全部私共の住居に使用しました。しかし、此の借用も一年たらずで翌年早く、田町山道の方に未完成乍ら新住居として借用出来る物を与えられて感謝でした。(所有主は別の石黒氏)/ その頃、旧制中学の女学生が数名礼拝に出席していましたが、学校ではこれを喜ばず、為に彼女等はその不如意に耐え忍んでいましたが、それもいつの間にか消えて無事に治まったことは幸いでした。町の内外には十件以上に亘る大小の製糸工場があり、相当活気があって、女工姉妹達が冬にも夫々隊をなして礼拝に出席して、集会を助けて呉れました。聖日礼拝は若い方々の仕事の都合で夜分これを行い(出席者は多い時には三〇名未満)、昼間は、S.S(日曜学校)中心の集会及び夜の礼拝のために訪問を行い万全を期しました。S.Sの教師陣は私ども夫妻と大中婦人伝道者(宮城女学校聖書科卒)の三人で生徒は女学生以下総数三〇名位でした。しかし、私の言葉が早口の為か、なかなか言葉の理解が困難のようでしたので、止む無く私は週日の夜分一、二回、私が国定教科書(高等科用国語)を携えて、漆山の「上(かねじょう)工場の寄宿舎に出張教授を試み,又、工場の休み時は若い姉妹方が数名礼拝堂(借家・教会の二階ハ畳二間を抜いた座敷)の階下の拙宅居間で、古流生花を家内から教えられていました。そのうち、「用地買入れ及び教会堂建設の議」が起こり、資金入用の際の一助として、姉妹方の生糸作業用に小箒(原料藁は農家出身者に寄付を順って)を作って、これを買って頂きました。》

十一、漆山村の製糸概況

《漆山村に多勢一統の四大製糸家がある。何れも基礎強固にして宮内町の群小製糸に対して大なるものである。漆山は織機川の花崗岩地より出る清流を用水とせる長所は宮内の比でない。先覚者を出したる地だけに総てに好都合に準備されている。

・・・・・漆山の工場主は何れも十分に製糸の理解者で直接技術、経営に対して十分の智識と経験とを有することと、直接の資本家たるとは、宮内製糸家と異なるところである。宮内町製糸家は単なる資本家か又は、嘗つては技術者であって製糸直接の経験者であるが資本家ならざる等の相異がある点である。これが一面宮内町製糸工場の経営者の頻繁な変化を示す一つである。》

森芳三「器械制製糸業の展開と『羽前エキストラ』」(『南陽市史』)

《漆山は多勢四工場におさえられ、ここにくい込むのは困難であった。このような防壁はどうしてできたのか。それは原料地盤を特約養蚕組合で結び、分割していたからではないかと思われる。繭の統一の出来ないところは海外輸出は困難であった。県内に原料を確保できない多勢丸一は、県内機業家にむけ生産していた。/ 他方宮内は町型で、市街にあって寄宿舎は準備しなかった。そして営業日数も少なく、女工の教育、教養に心意を用いなかったのではないか。他方、漆出多勢四工場や石黒工場は寄宿舎を設け、学歴を高めつつ、教育、教養に意を用い、信用と評判を高めたのであった。》

石黒龍一郎「南陽市工業の諸問題について」 (『いかにして”南陽衆”たりうるか?! 報告書』1980

《歴史を顧みますと、戦前この宮内地内は商工業の町といわれ、たしかに周囲10Km以上の範囲に商圏をもち、お得意様と町の商人の関係は親戚以上のものがありました。しかし、工業においては、製糸工場の経営者というのは、工業的感覚での経営というよりむしろ、商業的才覚での経営であったという事実があります。つまり、工場内の品質管理、品質の向上とか、生産工程の能率化という工業的なプロセスにそのエネルギーを使うよりは、何とか商売で当ててもうけてくれましょう、うまく相場の波にのりましょう、原料を安く買いましょうという方向へ精力を傾けてきました。その結果、純粋な工業的認識に乏しく、この地には工業技術の蓄積というものが、ごく一部を除いては無い、つまり技術的に成長しなかった。この風潮は今も尚、底流となって宮内の工業の中にあり、それが欠点のひとつではないかと考えられます。/ したがいまして、われわれ工業人は、戦前の商業主義的工業の範躊を脱し、より高度なものへの激しい挑戦の意欲をもった「工業する心」を確立してゆくことが第一の課題であります。商業主義的工業、準工業的姿勢ではどうしても装備は軽装になりがちであり、身軽でありがちです。われわれは「技術力」という有形の財産にも劣らない無形の財産を残すにはどうするか、深く考えるべきだと思われます。》 

(つづく)


 


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