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『限界費用ゼロ社会』(1)「希望」が「確信」に変わる [置賜自給圏構想]

リフキンAccenture-Outlook-Interview-Jeremy-Rifkin-president-TIR-consulting-new-economic-paradigm-Sustainability-main-jp.jpg暮れからかかって読み進めてきたジェレミー・リフキン著『限界費用ゼロ社会―<モノのインターネット>と共有型経済の台頭 』(NHK出版 2015/10/27)を今朝読み終えた。実は最終章と特別章を読み終える前に、書いておきたい気持ちに抗しきれなくて、昨晩アマゾンにレビューしてきた。最後まで読み終えた今書けばまたちがった書き方であったはずだが、昨日書いたあれはあれでよかったと思う。書き終えて「『希望』を『確信』に変えてくれた本と題した。漠然と思いつづけてきたことを「その通り!」と言ってもらえた気がして読み終えた。この本についてはいっぱい書き置きたいこと、書かねばならないことがあるが、とりあえず昨日アマゾンレビューに書いたのを写しておきます。

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 池田信夫氏が「良書悪書」という書評サイトでこの本をとりあげ最低の評価を下している。いわく《限界費用がゼロに近づく第3次産業革命は、投資収益を上げる資本主義と矛盾する。それをどう解決するのかというのは文明的な問題だが、著者はそれに気づいてもいない。》池田氏のそもそもの関心は、《IoTも昔の「ユビキタス」と同じで、大事なのはバズワードではなく、具体的にどういうビジネスに使って利益を出すのかだ。》と言うごとく「利益」である。池田氏の立ち位置は「資本主義」パラダイムの中にあり、リフキン氏の提起しているはずの「文明的問題」は、池田氏の狭い視界には入らない。リフキン氏は言う、《社会的起業家の成功の度合いは、投資収益率よりもむしろ、彼らが貢献するコミュニティにおける福祉の改善によって測られる。社会的関係資本はきわめて重要な資産であり、同時に社会的企業とコミュニティの協働的な協力関係によって築かれた連帯と信頼の絆の反映でもある。この点において、例外はあるにせよ、非営利の社会起業家は一般に、利益追求型の社会的起業家よりも優位に立つ。というのも、前者の第一義的な動機は「良い業績を残す」ことよりも「善いことをなす」点にあるからだ。》(416p)「限界費用ゼロ社会」とは「善いことをなす」ことを第一義として成り立つ社会であるとしたら、まさに文明史的大転換ではないか。

 全体を貫く基調音の表現とも思える箇所があったので、長いが引かせていただく。 
 
《幸福に関する科学的研究はほぼ例外なく、幸福度は古典的なベルカーブ(釣り鐘形曲線)に沿って上下すると結論する。極度の貧困のなか、一日ニドル以下で暮らし、その週その週をどうにか凌いでいる人類の四割超の人々が、ひどく不幸であることは理解できる。彼らは生きるために最低限必要なものにさえ事欠き、我が子に食事や衣服、簡素な住まいすら与えられずに、その生活からは活力も希望も奪われ、失望の日々を送っている。貧しい人々が貧困から抜け出すと、幸せを実感し始める。収入や財産、安全が増すごとに、幸福感も高まる。だが、ここで驚くべきことが起こる。快適で安全な最低限の生活を営めるだけの所得水準に達すると、各人の幸せの度合いは横ばいになり始める。富とそれに伴う消費のさらなる増加は、幸福度全体の限界収益(1ユニット追加で生産したときの収益増加分、この文脈では、富と消費が増したときの幸福度の追加分)の減少を引き起こし、ある段階を境に、幸福度はなんと反転して、人々はしだいに幸せでなくなってゆくのだ。富の蓄積は心の重荷となり、浪費が常習化し、その精神的見返りがわずかで短命になる一方であることをこうした研究は示している。けっきょくは、所有物が持ち主を所有する始末になる。/快適な水準を超えた富の増大が不満や失望につながる理由を詳細に検証してみると、他者との関係がしだいに社会的地位の介在を受け、羨望や嫉妬によって動かされるものと化してゆくことがわかる。人間関係が皮相的になり、純粋に物質的な意味での損得勘定によってのみ評価されだすという回答が、調査では得られる。/それにもかかわらず、物欲に囚われた人々は、不満の高まりを実感していても、問題は富への執着にあるのではなく、むしろ富が不十分だからだと信じて、物質的利益の追求を加速することのほうがはるかに多い。あと少しだけ物質的な成功を収められれば、地位が向上して他者から揺るぎない称讃が得られ、さらなる消費行動に耽ることで望みどおり心が満たされるはずだという理屈で、これは心理学者が「快楽の踏み車」と称する現象だ。ところが実際には、彼らはこの快楽の幻想に足を踏み入れるたびに不満が増し、逃れようのない中毒の悪循環へと引きずり込まれてゆく。踏み車から降りて、幸せへと続く別の道を歩み始めないかぎりは。》(430p)
「踏み車から降り」たところで見えてくる「幸せへと続く別の道」は、何もないところにこれからつくる道ではない。もうすでに多くの人が歩いている道だ。そのひとつひとつの例が具体的に懇切丁寧に示され、著者の議論が決して夢物語でない、あくまでも現実に立脚した議論であることを納得させられる。いたるところから、次代に託す著者の思い、志が伝わる好著です。「希望」を「確信」に変えてくれた本でした。

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めい

株価16000円割れ、対ドル・円112円台へ(2/11午前)。いよいよです。相場達也氏「世相を斬る」の感覚はよくわかります。
http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/94453da52c87971615a47aca63cd6233
《リーマン・ショック以降の改善策を中途半端に終わらせたツケが、十倍のパワーとなって、金融機関を襲っている現実・・・・・モルヒネ多用のホスピス状態》
「しかし」とつづく、ここからが肝腎。
《しかし、庶民が、不幸になるわけではない。金融資本主義の次のプラットホームによっては、マネーに支配されていた世界から脱して、それぞれが、それぞれのプライベートな価値観に基づき、ゼロベースからやり直せると考えれば、大した問題ではない。足元の共同体や、共通資本の貴重さなど、再び見直すことが可能な喪失感を味わうだけである。つまり、人間らしい生き方と云う原点に戻るだけで、食い物がなくなる世界ではない。空気も水も大地も残っているのだから、怖れることはないだろう。 》
リフキンの言う《「踏み車から降り」たところで見えてくる「幸せへと続く別の道」》です。カネに追い立てられるのではない「安心社会」の到来です。

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●金融資本主義、滅びるべくして滅びる 慌てるな金融敗れて山河在り

今夜の予定は、佐伯啓思氏の欧米文化からの脱却に関する“異論”の話題に触れるつもりだったが、世界経済が紛うことなき不況に突入しようと云う状況が表れただけに、もう少し、執拗に問題を吟味してみようと思う。最終的には、アメリカ発の歪んだ資本主義(金融資本主義】のお蔭で、抜け出す道を見つけること自体が不可能というカオスな迷路に入っているのだから、おそらく、羅針盤などはない。滅多矢鱈な政策を繰り出してみて、イフの奇跡を待たなければならないのが、世界経済の現状だ。

個人的には、イフな僥倖など起きない方が人類の為には良い結果を生むと考えているが、一般論としては、そのような結果を是とはしないに違いない。世界の金融関係者の主論に反対姿勢の経済学者であっても、彼らには、金融資本主義に立脚した現状の立場があるので、その域外に足を踏み出せる奴は稀だ。中谷巌のように、器用な人間であれば、懺悔の上、偏向することも可能だが、滅多にいない。という事は、今後、メディア等に登場する専門家の考えの多くは、金融資本主義の領域内においての議論であり、どの方法論にも、宿痾がつきまとっているので、まっとうな解決の解を提示することは期待できない。これは、社会学的に、理の当然である。

それにしても、サブプライムローン及びリーマンショック以上の規模で、世界経済が崩壊寸前であるにも関わらず、米中露を中心とした代理戦争パワーゲームも止みそうにない。中露を外して、グローバル経済危機を乗り切ろうとしても土台無理だ。にも拘らず、米国やその周辺勢力は、彼らを外す基本理念で乗り切ろうとしている。世界のすべての国が協力しても、解決の道が見つかるかどうか危うい情勢において、無謀過ぎる地政学的事情が加わる。まして、悪いことに、米国は大統領選の真っ最中で、既存のプラットフォームを破壊しようと云う候補者に注目が集まっている情勢だ。まとめる、主役が不在なのだ。

以下の日経とフィナンシャル・タイムズの二つの記事だが、前者は、掌返しのような知った顔をしたコラムで、不快なだけだ。滝田洋一という男も、自分が書いてきた、過去のコラムを吟味する矜持が、必須の人間である。それこそ、何を今さら書き出すのだ。お前等日経の記事の所為で、どれだけの人間が、いま株式市場で塗炭の苦しみを味わっていると思うのか!そう云うコラムだが、怖ろしいのは、後者のフィナンシャル・タイムズのコラムの方だ。個人的には、≪≫内を支持する。≪1つは何もしないことだ。好況時に犯した誤りを是正する機会という理由で、世界経済には時に不況が必要だと主張する人も少なくない。だが不況が社会をむしばむ影響を考えれば、とてもまともな発想とは言えない。≫と云う経済紙らしからぬ発想を書き込んだ点だ。無論、選択肢ではないと断ってはいるが。

もっと凄いのは、破れかぶれで、FRBや他の中央銀行も、資産一杯マネーを刷り続けると云う案だし、預金引き出し制限や、口座凍結に繋がるような選択肢にまで言及している点だ。筆者が、今夜のコラムで言いたいことは、金融資本主義が、リーマン・ショック以降の改善策を中途半端に終わらせたツケが、十倍のパワーとなって、金融機関を襲っている現実だ。世界の金融機関は、明日以降も、応急処置をせざるを得ないので、赤チンや絆創膏レベルの措置を施すだろう。その都度、あらゆる金融関連の相場に迷いを起こさせるだろうが、ステージ4の膵臓がんと肝臓がんが同時進行している事態に至っているのだろう。モルヒネ多用のホスピス状態と云う事だけは認識すべきだ。

しかし、庶民が、不幸になるわけではない。金融資本主義の次のプラットホームによっては、マネーに支配されていた世界から脱して、それぞれが、それぞれのプライベートな価値観に基づき、ゼロベースからやり直せると考えれば、大した問題ではない。足元の共同体や、共通資本の貴重さなど、再び見直すことが可能な喪失感を味わうだけである。つまり、人間らしい生き方と云う原点に戻るだけで、食い物がなくなる世界ではない。空気も水も大地も残っているのだから、怖れることはないだろう。

by めい (2016-02-11 11:08) 

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