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松坂世紀記念財団奨励賞受賞(粡町商店街) [宮内よもやま歴史絵巻]

粡町商店街が「一般財団法人松坂世紀記念財団」の平成29年度奨励者に選ばれて奨励金5万円を受けてきました。受賞理由は次の通り。

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1-DSCF8745-001.JPG 「粡町商店街」は、衰退する商店街を再興するために、地元出身の著名人や地域の歴史を紹介する活動を平成21年度から始めた。当初は「天地人絵巻」の布幕を街角に掲示したことが始まりであり、今では「宮内よもやま絵巻」として32枚のアルミ製パネルを家の壁面や塀に設置し、歴史ミュージアムのような商店街に雰囲気を変えている。
 今後は、これまで作成したパネルを冊子にして多くの人に見ていただく計画であり、奨励金はその冊子作成費用として活用し、郷土の文化・歴史を後世に残していく意向である。

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松坂世紀記念財団.jpg10万円をあてにしての5万円で、これから冊子発行にこぎつけるまでの金策を考えると大変ですが、何より世紀工業の創業者堤菁氏の思いのこもった賞をいただいたことの感慨があります。置賜にあって堤氏は特別な存在のように思えていた方です。たまたま私の遠縁が堤氏と親しいことから、30年ぐらい前に一度お会いしたことがありました。ちょうど地図の線引きにはまっていた頃のことで、私とは全然レベルがちがうところで堤氏も同じようなことをやっておられ、そのお話をお聞きしたのでした。数学的に解明できたということで論文を書き、「ネイチャー」だったかに掲載してもらう段取りになっているとのお話だったような気がします。あの研究がその後どうなったのか。とにかく「プラスチック成型加工に革命をもたらした」という実業上の業績にとどまらず、文化的造詣の深さも別格でした。しかしその偉大さにもかかわらずネットで探しても堤氏についてわかるサイトが見つかりません。市の文化係が窓口だったのですが、応募に際していただいた資料の中に、亀岡博氏がまとめられた文章がありました。「松坂世紀記念財団」の松坂二郎氏についてもよくわかります。以下転載させていただきます。

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平成25年12月米沢市芸術文化協会会誌43号(米沢文化掲載)
一般財団法人 松坂世紀記念財団の創立について
   置賜の芸術文化活動を支援し28年、松坂世紀記念財団の活動について

 一般法人・松坂世紀記念財団は昭和59年12月に、世紀工業株式会社常務取締役・故松坂二郎氏の遺志を受けて、専務取締役社長堤菁氏ら有志によってつくられました。この財団は、1.山形大工学部学生への奨学金供与 2.研究開発支援の助成金供与 3.置賜地区3市5町の伝統芸能・芸術文化活動への助成の3分野への支援が目的でした。その結果、昭和60年から平成24年度までに191件の個人・団体に総額約3000万円の助成金を供与してきた実績があります。
 しかし、この財団の事業が一般に知られていないのは非常に残念なことであります。それに加えて、創設から平成20年度まで理事長を務められた堤菁氏の「汚れのない清らかな耳に生の美しい音楽を聞かせたい」というねがいで12年ほど継続した、「福田直樹ピアニストの学校訪問演奏会」を含めると約5000万円規模の芸術文化に対する支援活動を行って来ました。
 この基金は、松坂二郎氏の遺産を主とし、当時の世紀株式会社の社長堤菁氏、専務加藤邦紘氏など役員の寄付、それに運営費として発足当時は世紀株式会社より毎年支出された資金を基に運営されました。基金は現在、約4000万円あります。
 その奨学金・奨励金として給与された内訳は、山形大学工学部、当初は2部夜学生・後半は東南アジアからの留学生など40名、研究開発助成費として3件、置賜地区の伝統芸能・文化活動個人・団体への助成金は148件、合計191件であります。
 財団法人・松坂世紀記念財団は、今年平成25年4月1日から、新しい国の法律により、一般法人・松坂世紀記念財団として再出発しました。また、その目的をF置賜地区3市5町の伝統芸能・芸術文化活動に対する助成」ーつにしぼり事業を進めることになりました。何よりも、置賜地区全域に対する助成活動がこの財団の大きな特色であり、最近は基金の果実も少なく、したがって1団体個人に対しての助成はささやかな金額になりましたが、そのわずかな助成金を呼び水にして、各団体の活動が元気づけられているのを実感しております。
 ちなみに米沢地区で、助成金を受けた団体・個人を拾ってみると、米沢西部小親子活動,米沢吹奏楽愛好会、米沢児童文化協会、米沢市民オーケストラ、劇団空の烏、米沢自然博物館、米沢親子劇場、梓山師子踊り保存会、劇団ぬ一ぼ ?、浜田広介先生を偲ぶ会、日仏協会鶴女房フランス公演、劇団ひろはた座、アースネットワーク国際交流青年活動、米沢日仏協会、光機会・三味練皮絃会、日本宇宙少年団米沢分団、山上学和会、美術団俸禄光会、雪の美麗実行委員会、米沢ベルエンゼルス、回廊ようざんろ?どをつくる会、ふるさと置賜美術展、第1回愛の川柳全国公募、米沢藩古式砲術保存会、米沢前田慶次の会、新しい草木染を開発する会など、27団体でこの中には複数回助成を受けているのもあります。その外に個人13件が助成を受けていますが氏名は省略します。

 松坂世紀記念財団の由来について
 ところで、財団名の「松坂世紀」の由来をよく聞かれます。それは、米沢市万世地区にある世紀合成株式会社、その後世紀工業株式会社(当時堤菁社長)、現在の世紀株式会社の常務取締役であった松坂二郎氏の遺言によって氏の遺産を基金に、財団法人・松坂世紀記念財団が、昭和59年12月に設立されました。世紀工業株式会社の創設者であり取締役社長であった堤菁氏が財団の理事長に就任し、基金提供者を記念し松坂二郎の苗字松坂と、世紀工業の世紀を組み合わせ「松坂世紀記念財団」として米沢市万世町片子4364の会社に事務所を置き、事業が始まったのであります。

 松坂二郎氏について

 松坂二郎氏は新庄・戸沢藩の家老の孫として、明治41年12月19日盛岡市に生まれました。昭和2年に旧制山形高校に入学、学内で「山路短歌会」をつくり斎藤茂吉・結城哀草果を師とし短歌に取り組み、学生時代から短歌界で嘱望されます。そのころ歌誌「アララギ」に師斎藤茂吉が「昭和7年現在の選歌欄より百名を五十音の順序で挙げるとすれば次の諸氏が居る‥」と扇畑忠雄、佐藤佐太郎らとともに松坂二郎も選ばれるほど頭角を現していました。
 さて、彼は昭和12年東北帝国大学法学部と経済学部を卒業後、東北興業(株)に入社、昭和26年まで勤務します。私的には、山形中学時代からあこがれ、恋仲であった木村すま子が昭和12年に亡くなり、悲哀にくれますが、5年後に大平寛子と結婚、翌年長男の彬が生まれます。彼は仕事の上でも手腕を買われ、昭和27年には山形県東京事務所長、昭和30年には山形市助役に招請され就任し、師斎藤茂吉の死後は歌誌「赤光」の編集人にもなります。しかし、その後昭和44年長男の彬死亡、妻寛子と別居などがあり愧悴していた時に、以前短歌で交流のあった堤菁社長と再会し、昭和45年(62歳)世紀工業株式会社に常務取締役として迎えられました。昭和51年には歌誌「きたぐに」を主宰し創刊します。その後母しげ、妹小野愛が亡くなる不幸が続き高齢と共に体調を崩し、昭和59年には世紀工業(株)を退社しますが、この世紀株式会社での14年間は二郎氏にとって一番平穏な日々であったようです。このような身寄りのない二郎氏の遺志を受け、昭和59年12月14日、松坂世紀記念財団が発足しましたが、第1回の事業の成果も見ずに、翌年の昭和60年1月29日山形市和合町で、76歳の生涯を閉じました。
松坂二郎遺歌集.jpg 松坂二郎氏は生前から歌集発行が期待され、歌集の口絵「稲子」も岩波書店の冬青・小林勇氏に描いてもらいながら師結城真草果の序文がなかなかできず、歌集発行に至らない経緯がありました。しかし、堤曹理事長はじめ短歌の仲間達によって昭和61年2月25日に、松坂二郎道歌集(22歳から75歳までの2846首を掲載)が発行されました。この歌集は今でも松坂世紀記念財団奨励金の授与と合わせて授与者に贈られています。

 世紀合成株式会社と堤菁氏について

 松坂世紀記念財団の「世紀」については世紀合成株式会社を立ち上げた堤菁氏について少し説明を要します。
 堤菁氏は大正13年東京生まれ、母は米沢の丸山家、父は奈良県大和の造り酒屋の出で、織機の開発にもかかわり日本での無抒式機械の第1号の発明者ということです。菁氏は米沢市立南部小学校に入学、昭和17年に愛知県岡崎中学校を卒業後昭和20年に京都工業専門学校を卒業し終戦を迎えますが、その間に結核を患い約10年は療養生活を送ります。
 そのとき南部小学校の同級生の同じ病を患っていた加藤邦紘氏(東北大卒)、八幡伊八氏らに呼び掛け世紀合成株式会社(石油化学)をつくり、プラスチックの成型加工(射出成型)を始めました。設立当初は加藤邦紘氏が社長、八幡伊八氏を専務、堤普氏が常務、社是は「創造の連続」としスタートしました。
 やがて会社経営20年の中でスピアシステムと保圧室成型のニつの世界的な発明で特許をとります。堤菁氏の発明した機械は世界各国に輸出され、プラスチック成型加工に革命をもたらし、イギリスのロンドン大英博物館にも氏の発明によるプラスチック成型加工の機械が展示されております。
 終戦後、結核療養中に堤菁氏は短歌に出会い、結城真草果の門下生として堤菁氏や加藤邦広氏が松坂二郎氏や堤菁氏の奥様の和子さんとも出会うことになります。堤菁氏の奥様和子さんは、小野川温泉山川屋の娘さんで、県立米沢高等女学校出身(現在の米沢東高等学校)で長らく同窓会・修成会の会長をされた方です。堤菁氏とは短歌で結城真草果の門下生として出合い師の仲人で結ばれました。
 その後、松坂二郎氏は最愛の息子彬に死別し山形市の助役を退き、生きる望みも失いかけていた時に、世界的なプラスチック成型加工の機械を発明して躍進目覚ましい堤菁氏と再会します。すぐに松坂二郎氏は会社の常務取締役に迎えられ、妻寛子とも離婚し、その後14年間を短歌と仕事の平穏な生活を送ります。
 さて、平成13年に堤菁氏はフランスからフランス文化に貢献したことと、数学の研究、日仏協会の活動等に対し、国家功労賞のシュヴアリエの受賞が決まり、授賞式にはフランス大使が米沢で直接堤氏に勲章を授与したい、という慶事がありました。また、この日に合わせ祝賀会を開催するというので、私が実行委員長に指名されました。しかし、フランス大使の日程が2転3転し、ようやく9月6目に決定したが、本当に米沢に来られるか大変不安でした。当日はフランス大使が米沢市長を表敬訪問し、市議会で演説を行い、祝賀会も盛大に執り行われ無事終了しました。
 ところが、その7日後の9月13日に、アメリカのニューヨークで同時多発テロの大事件が発生しました。外国の大使が地方を訪問する場合、警備も神経を使います。この同時多発テロ以降であったら、フランス大使の米沢訪問は中止となっていたでしよう。
 財団は、平成21年度からご高齢で退任された堤理事長の後任として、私が2代目の理事長に指名され現在に至っております。この財団を語る時創設以来の理事長堤醤氏や運営に携わった松田春雄氏その他の協力者を忘れることができません。地域文化の伝承や芸術文化活動は、時代に流され消滅したり新しく誕生したりしますが、好きで熱意で頑張っている人たちには、わずかな資金援助もうれしく、元気も出てきます。松坂財団は課題もありますが、置賜地方の文化発展にこれからも貢献していきます。  (文責 亀岡 博) 

 資料 小説「総子」笹沢信、九里学園研究所「あづまね」第8号 堤菁さんに聞く、「山塊」松坂二郎追悼集外

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