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ようやく陽の目、福来友吉博士 [福来友吉]

中沢信午.jpg6月10日の山形新聞「やまがた再発見」に中沢信午山形大名誉教授がとりあげられた。《中沢は終戦直前に移り住んだ福来友吉のもとを毎日のように訪れ、話を聞き、念写実験にも携わり、また彼の供をして出歩いたという。》

福来友吉博士、昭和15年に高野山大学教授を退職して20年3月、大阪箕面から妻の郷里仙台(現 青葉区宮町1-1-59)に疎開して75歳。中沢信午、東北大理学部を卒業後兵役、中国浙江省での従軍から終戦3ヶ月前に戻って理学部副手となって27歳。土井晩翠の紹介で中沢が福来を訪ねたのが昭和21年。《昭和21年8月に、福来のまわりに集まった人たちが中心となって、「東北心霊科学研究会」(後に、福来心理学研究所と合体)が結成された。福来友吉と土井晩翠、志賀潔の三人が顧問となり、会長には物理学者の東北大学助教授・白川勇記(後に、東北大学金属材料研究所所長)が就任した。当時、仙台市内の路面電車(市電)は戦災で不通になっており、電話もまだ復旧しないところが多かったので、勝手連の若者たちが連絡役となって会合を知らせてまわったり、集会の会場の準備などに活躍した。この若い人たちに、福来はつぎのようなことを語っている。/「世界の平和は生命の価値を認識することによって生まれる。そのためには生命が何であるかを知らねばならない。これからは宗教と超心理学、それに自然科学、特に生物学、それから哲学が一緒になって生命を研究し、その本態を解明し、そこから生命の価値を知り、そのことを世界のすべての人々に教えねばならない」(中沢信午『超心理学岩楯来友吉の生涯」大陸書房)》(寺沢龍『透視も念写も事実である—福来友吉と千里眼事件』草思社 2004)この頃の仙台には、ユダヤ問題の奥津彦重東北大教授(愛宕北山渡部悌治先生の岳父)、その学統を継ぐ神道天行居小野浩二高教授(1907-1997)が居る。なんらかの交流があったかもと思ったが、気線の違いを感じないでもない。理系と文系の違いか。仙台という土地にはいろんなせめぎ合いが潜んでいるような気がする。奥深くおもしろい。

寺沢龍.jpg閑話休題、「やまがた再発見」で中沢の著書『超心理学者 福来友吉の生涯』(大陸書房1984)が紹介されていたのだが、高い(4600円)ので代わりに購入したのが透視も念写も事実である—福来友吉と千里眼事件』。当時の新聞記事に丹念にあたって書き上げられたきわめてまっとうな書。そこから浮かび上がる福来友吉先生の、それが理系学者の宿命なのだろうが、批判者にいちいち立ち向かわねばならないその御苦労にほとほと頭が下がる。その帯に「大学を追放された超心理学者・福来博士の悲劇を描いた興味津々のノンフィクション!」とあるが、誠実に自ら信ずる道を歩みつづけ、82歳の生涯を全うした福来博士が「悲劇の人」とは思えなかった。むしろ彼を理解し得なかった頑迷人たちこそ「悲劇の人」なのではないか。

大正2年9月27日、東京帝国文科大助教授としての休職命令(2年後に自動退職)を受ける経緯について福来博士本人が語った記事がある。繁雑だが、東大教授を追われる当時の雰囲気と共に博士の率直な思いがわかる貴重な記事に思えたので転載しておきます。(記事中のカツコ内は寺沢による補注)。
福来友吉像.jpg 《「去る(明治)四十三年十一月、私が千鶴子や長尾夫人の透視、念写を研究して帰って来たとき、坪井(九馬三、文科大学)学長の自宅に呼ばれて『君が大学の教員として透視や念写を研究すると迷信を喚起するから大いに困る』と言われ、その後、浜尾(新、前)総長に逢ったときには『君が学者として己れの信ずるところをあくまで主張するのもよいが、しかし事柄に依る』と言われた。ついで翌四十四年の五月(二年半前)、私の先生たる元良(勇次郎)博士に呼ばれ『千里眼問題に対する君の考えは大学諸教授とは非常に相違しているから、それを研究するには一時、学校から離れてやったほうが君のためにも学校のためにもよい。君の今の研究は心理学者に同情がない』と言われたが、そのときは長尾夫人(郁子)が死んだ後で、別に研究すべき人も現われなかったから、そのままになってしまった。以上の事実で見ても、大学ではよく思っていなかったことが判る。かくて今年にいたり、高橋夫人(貞子)が現われたので、これを研究して発表したが、九月二十六日午後、上田(万年、文科大学)学長に呼ばれ『君のためにも学校のためにも一時、君は学校を退いたほうがよろしい。念写研究がいよいよ事実となって現われたとき、君は大手を振って学校へ戻ることができる』とのことで、ついで十月一日午前、学長室へ行ったとき、『君が《透視と念写》の書物を出したが、あれは君のためによくなかった。一応相談してもらいたかった』と言われた。十月ハ日午後二時、学長から内命があり、『辞令を渡すまでは秘密にしておいてくれ。そして君はあくまで念写をやるがいい』と申し渡された。以上の事実により、歴史的にも現在学長の明言から観ても透視念写問題に無関係とは言われない。松本博士と心理学の学説の相違があってそれか背景になったか否かは知らないが、透視念写の問題は確かに関係がある。私は透視念写は実験により明らかにその事実を認めているから、今後何遍繰り返すも私の実験では同じことで、このうえは立会者とともに実験し、立会者がやってもできるか否かを確かめたい。これは私ばかりでなく能力者も望んでいるが、書物が出て以来、有力者に立会いを申し込んでも、どういうものか避ける傾向がある。私も能力者も希望するのは、山川先生に申し込まれることで、先生は長尾夫人の実験もされたし、『(千里眼)実験録』序文も書いておられるから、この開題を放任して置かれない関係がある。先生は思想公平、人格高潔であるから特にこれを望むのである。現在、私の頭の中に働いているのは、透視念写の説明問題でなく、事実か否かの問題で、事実の有無を定めればそれでいいのである。なにゆえにできるかはその後に研究すべき問題と思う」(『万朗報』大正二年十月三十日)》(253-4p)

福来博士は大正15年に高野山大学教授に迎えられ、自ら実験によって知り得た現象についての理論化に取り組む。その成果は『心霊と神秘世界』(人文書院 昭7)に結実する。博士の考えを寺沢はつぎのようにまとめている。

《彼は、明治四十三年以来の心霊的現象の研究実験によって、「神通力」の存在を実験的に証明できたと考える。この神通力とは、物理的法則を超絶してはたらく力であり、人間の心に感応して知的にはたらくものである。物理的法則に従って機械的にはたらく物質力の現象と区別するために、それを「霊」と名づけて「霊力」の存在を肯定するのである。さらにその考えを推し進めて、物質力そのものも「霊」の念力によってその姿をあらわしたものにすぎないという。宇宙は「霊」のはたらきによって成り立っており、すべての現象の根源は「霊」の力にあると考える。われわれが認識する物理的現象は「霊」の活動の一部にすぎず、「霊」の活動の大部分はわれわれの常識や認識を超えたものであり、近代科学が認める現象の範囲は霊力のはたらきのわずかな上皮の一部分にしかすぎない。精神を統一して瞑想三昧の境地に入ると、ふつうの理論や認識を超えた智恵の「神秘智」がはたらきだして、常識的な認識を超えた大きな認識が生まれる。すなわち、眼によらずして一切を見、耳によらずして一切を聞き、手をのばさずして万物に触れる、こうした「神通の力」のはたらきが起きるのである。理知主義の認識論では知ることのできない世界も、神秘智によれば見ることができ、神秘の世界は存在すると考える。》(271p)

このたび、仙台の福来心理学研究所のサイトをあらためてよく見たところですが、そもそも福来心理学研究所といえば私には飛騨福来心理学研究所が親しいものでした。その御縁は高橋宥明上人によって結ばれたものです。ちょうど、「よもやま歴史絵巻」のひとつとして「吉野生まれ 大神通力者宥明上人」を取り上げようと思っているところでの福来博士登場でした。

中沢信午 中.jpg

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